そのこころ未申告につき.
雨が続くと、どうにも眠たくなる。
ぼぅっとすることが増えて何も手に着かない時間が目立つ。めまいが、頭痛が、不意に身体の自由を奪っていく。そうしてそれは、例え分厚い雨雲に隠れていようと満月の頃に顕著だった。
ざぁざぁと雨音が室内に溶け込むほどの雨脚。室内灯を灯してもどこか薄暗く感じる昼日中。国広は敷布に懐くみたくぐたりと横たわっている。時折上掛けを引き寄せたり手繰ったりするほかは何もしていない。できない。眠気はあるのに、目を閉じると眠れない。めまいがするからだ。
ぷぁぷぁと浮いているような、はたまたひたすらに落下し続けているような。そんな心地を床で味わう羽目になっている。
「ノびてるねぇ」
障子戸の隙間から顔を覗かせた審神者はのんびりとそう宣った。起き上がろうとすると「いい、いい」と手のひらで制された。それに甘えて再び床に就く。拳ほどの高さ頭を上げ下げしただけなのに、ぐわん、と視界が揺れる。気持ち悪い。
「どうする、手入れ部屋行っとくかい。……どうせ気休めだろうけど」
表情にまで出ていたのか、額をそっと撫でながら審神者はそんな風に言った。視線だけで否やを告げる。国広は非番だけれど、いま、出陣している面々もいるのだ。『気休め』でそこを埋める気にはなれない。
「そ。……大倶利伽羅も直に帰ってくる」
そうだっけ。最近は生活のすれ違いが続いていて、非番の時間帯が重なるのを指折り数えていたはずなのに。やっぱり思考がハッキリしない。
「よくよくお話し」
審神者のつめたい指先が、スル、スル、変わらず額を撫でている。意識が低い温度に向けられると、不思議と言葉が頭の中でキチンとかたちを持ってくれる。だから国広は素直に「どうして」と問い返すことができた。
「そりゃあ君ひとりこうもフラフラなんだもの。『足りない』なり『違う』なりあるんじゃあないの」
――そんなことはない。
勢いこんで起き上がりそうになって、額にあった手に押し留められる。案の定、急な動きにめまいがひとつ。視界が回る中であっても、これだけは主張しなくてはと一生懸命に首を振る。そのさまに審神者は「わかった。わかったよ」と宥めにかかる。
「わかったけれど。でも、話をするのは大事だよ。気付いていないだけで言葉の足りていないこともある」
審神者はそうやって、あくまで優しく国広をあやした。
……でも。言葉にはせず反駁する。
足りていないと言うならばそれは多分、国広が欲しがりなだけだ。
大俱利伽羅はいつだって、言葉を、仕草を、態度を、国広から引き出しては、本音を、欲を、渇望を、暴いて満たしてくれる。満ち足りていて、それで尚こんな風になってしまうなんて、そんなのはただただ国広ばかり欲しがりで浅ましいからだろう。
そう思えば滅入ってしまってめまいに留まらず頭痛までしてくるようだった。黙り込んだ国広を見て審神者はこれ以上の問答は不要と思ったか、触れていた手でいま一度額をひと撫ですると立ち上がった。
「眠れそうなら寝てしまいなさいな。……おやすみ」
たとえ瞼を下ろしても眩むような意識の中、審神者の声が頭の中でくるくる回る。声はうまく言葉のかたちを取らず、耳の奥へと沈み込むばかりだった。
どこで途切れたのか、ふつりと刈り取られた意識はそれと同じように唐突に覚醒した。
室内は相変わらず灯りがあっても薄暗い。むしろ最後に意識した時よりも一層仄暗くなったようだった。そうなる程に太陽の位置が動いたということだろう。雨粒が屋根を叩く音が、室内には満ちている。
めまいはかなり治まっていた。ただ、側頭部をやんわりと押さえ付けられているような、にぶい違和感がある。
「水でも飲むか」
喉が乾いた。
そんな思考が、口からまろび出たのかと思った。だけど、声は国広のものでなく、発語は問いの形だった。首を巡らす。
「大倶利伽羅……」
部屋の片隅、壁に身を預けて座る姿があった。同じ部屋に居て、気配に気付かないなんて。そんなにもボンヤリしているのかと思うと、それもまた気を滅入らせた。
「水は?」
「要る」
名を呼んだきりの国広に大倶利伽羅は再度尋ねる。応えに立ち上がり、まだ臥せたままの国広の傍近くまで寄ってくる。手には水の入ったペットボトルがあった。
身体を起こして差し出されるそれを礼を言って受け取る。一度開栓されていたようで、軽く捻るだけで蓋は開いた。口を付ける。自分で思う以上に干からびていたらしい。ボトルの中身の殆どを空けてしまった。
近付いて来ても、大俱利伽羅からは血の匂いも硝煙の残り香もない。出陣は恙無かったのだろう。
「おかえり」
「ただいま。……審神者から臥せっていると」
随分大袈裟な。でも『よく話せ』と言っていたらから、わざとそう伝えたのかもしれない。
「ぼぅっとしているだけだ。大事ない。ホラ、満月も近いから」
苦笑して窓の外を見る。薄暗がりの空は相変わらず雨粒を落とし続けて、中空に浮かぶ月は見えない。ただ、なんとなくあの辺りにあるのだろうと見当は付いた。『呼ばれる』感覚というのが、どうにも自分たちには備わっているのだ。
「…………俺ではだめか」
え? 間の抜けた声色になったのは、聞こえた呟きがあんまりにも寂しげだったからだ。
空へ投げていた視線を室内に戻す。すぐ隣、大俱利伽羅はただまっすぐ国広を見ていた。まんまるの、虹彩のちいさい、満月色の瞳。雲には隠れない、けれど翳りを帯びた色。
「俺では、あんたの求めを満たすには不足か」
重ねて問われる。切実な響きだった。
――そんなことはない。
審神者にそう伝えた時より強くつよく思う。大俱利伽羅が離れていってしまうのではと思えば縋るように手を掴むしかなかった。触れた指はあたたかい。なのに、どこか強張っていた。
「ちがう」
絞り出した声は情けなく震えている。またクラリと視界が回る。それでも握った手は離さない。国広の涙声にか切羽詰まった振舞いにか、大俱利伽羅は国広を床に押し留めようとしてくるけれど、それを許さず取った手を胸元へ抱き込むようにする。ぎゅうときつく抱く。言い知れない不安にせっつかれる。力を込めれば込めるほど、比例してドクドクと血管が脈打ち頭痛が巡りゆく。呼吸が浅くなる。国広の頑ななのに、大俱利伽羅はそっと自分からも身を寄せることで応えた。
いつだってそうだ。大俱利伽羅は国広の求めをこんなにも尊重し満たしてくれる。
くらくらと重たい頭を大俱利伽羅の肩口に預ける。支えがあるというだけでなく、触れることの心地よさに痛みがゆるんだ。
「……俺がだめなんだ。あんたはいつも、俺を大事に扱ってくれるのに」
言葉が少し自由になる。
足りていないのは大倶利伽羅ではない。国広が、大俱利伽羅にとって不足なのだ。だから国広ばかりふらふらと危うくて、大俱利伽羅に置いてけぼりにされたようなことを言わせてしまう。
つきつきと眼裏が明滅するように痛む。捕まえた腕のあたたかいのが、頭を預けた先の揺るがないのが、安心を連れてくるから耐えられた。
首の付け根に熱い重みがかかる。俯きの狭い視界に映る大俱利伽羅の胸元から下、きっと空いた方の手で抱き寄せたのだと察する。肩口に触れるのが額から頬に移って、一層ふたりの距離が近付く。体温の溶け混じるのに、ほぅ、と安堵が呼吸を穏やかにしていった。とことこ走る心音、つむじに当たる吐息。力が抜ける。
「俺が、そうしたいだけだ」
身の内に言葉が深く入り込む。肺が空気を取り込むように。
「あんたはそれをゆるしてくれている。違うか」
取り込んだ空気が、酸素が、血液に乗って全身を巡りゆく。言葉も同じだった。頭のてっぺんから爪の先まで、巡ってめぐって、ポッポと熱を灯す。厭な熱の上がり方ではなかった。むしろ心地よい。ぬるま湯のようでいてそれよりもっと重たい液体――例えばはちみつだとか――に揺蕩うみたく。
「……くにひろ?」
「えぁ、?」
訝し気に名を呼ばわる。それなのにその響きさえなにやら甘さをともなって沁みていく。はちみつの濃度が増した。
「おい……」
寄り掛かっていたのを引っぺがされて顔を覗き込まれる。背骨に力が入っておらず仰け反ってしまう。のが、分かっているのにそのまま後ろに傾ぐのを、大俱利伽羅が引き留めた。抱きかかえられ、頬に手を添えつつ顎を持ち上げられる。されるがままに上向いた。
「顔が熱い」
ギュ、と眉根を寄せて言われる。心配のかお。
「具合がわるい、わけじゃない……」
「さっきだってそう言って、」
「ほんとに、だいじょーぶ、だから」
そのかおはいやだな。おもって、ぼんやり、でもちゃんと会話を試みる。
だって本当に大丈夫なのだ。ぼぅっとはしている。しているけれど、雨続きに沈むようなそれではなくて、もっとずっと穏やかでやさしく甘い。
「もっと話して」
ほろりと言葉がこぼれた。言葉にしてから気持ちが追いつく。
大俱利伽羅はいつも国広を満たしてくれる。では、大俱利伽羅の方は? 国広は大俱利伽羅を満たすことができているのか。その答えが言葉の形を取るのが、こんなにも甘く国広をゆらゆらはちみつに揺蕩わす。
「大俱利伽羅の気持ち、聞きたい。教えて。」
甘く強請る。こうまですると大俱利伽羅にも国広の求めるところが伝わったようだった。
わずかに息を呑む気配があって、眉間のシワが消える。眉尻が下がると鋭いはずの目元が穏やかになる。満月の瞳が蜜めいた艶を持つ。国広が強請ったのを褒める時の色。
「我慢強いあんたが甘えてくるようになって安心した」
そう言って、やらかく笑う。頬をそぅっと撫でられれば一気に顔が熱くなった。
「目が覚めた時にこちらに気付かないのも、用意した水を遠慮しないのも。気を許されているなと」
あれもこれも。普段の寡黙を引っ込めて大俱利伽羅に今までの些細なやりとりを語られて、面映ゆくも心は浮つく。静かな語り口にまどろむような気にさえなっていたところで言葉は途切れた。
「……、もっと」
わがまま。叶えてくれるという甘えたの期待が心の内をなみなみと暖かいものでいっぱいにしてくれる。
ふんわりとねむたくなるような視界の中で、大倶利伽羅を見つめて続きを待つ。グゥと喉奥で呻くのが僅か聞こえた。
「……国広がこういうことを言うのが、俺にだけならいいのに」
ぱちん。目の前で泡が弾けたみたいだった。眠気が霧散するように目に映るものがハッキリしてくる。それはつまり大俱利伽羅の顔がよくよく見えるということであって。
「――……あぁくそ。思った以上に堪える……」
また、眉間にシワ。さっき心配そうにしていたのとは意味合いの違う険しさ。目尻が赤い。頬も。耳まで。
照れてる。大倶利伽羅でもそんなことがあるのか――
まじまじ見つめていると、ギュ、と強く抱きしめられた。顔が見えなくなる。惜しいな。だけど、かっかと熱い身体全部で包まれるのは心地よかった。
「あんたに求められるのが、いっとう満たされる」
だからそうしてくれ、と。熱烈な告白。しゅわしゅわと炭酸が弾けるようなくすぐったさに口元がゆるんだのが自分でもわかった。
「うん」
くた、と身体の力が抜ける。酔ったようにくらくらとして、だけれどそれは不快でない。酩酊に身を任せ一層寄り掛かる形になっても、大俱利伽羅はそのまま全身で受け止めてくれた。
身を預けているうちにウトウトして、気付けば眠っていた。再び目覚めると頭痛もめまいも、そしてゆらゆらと酩酊する心地も消えて頭の中はスッキリとしていた。いま国広は大倶利伽羅に背中から抱えられる恰好でだらけている。
「自分ばかりかもしれない、と勝手に不安に思っていたんだ。多分」
「その点については俺が悪かった」
だらだらしつつ、会話はプチ反省会の様相を呈している。顔を合わせていないからか、あまり深刻にならずに済む。
自覚のなかった不安は心持ちをハッキリさせるより先に身体の方に不調をきたした、らしい。実体を得てまだ日の浅いこころとからだ。なかなかに扱いにくくて困る。
「なんというか、主が『よく話せ』と言ってたのはこういう意味だったのかなぁ、と」
大俱利伽羅が腹に回してくる腕を撫でつつ言う。行きつ戻りつする前に捕まって、甲側に大俱利伽羅の手が重ねられて止まった。
「あいつ、そんなことを言ってたのか」
「大俱利伽羅には言わなかったのか?」
「国広が臥せっているから見舞ってやれと。それだけだ」
ふぅん。気の抜けた返事になる。考えてみると、『話し合いましょう』となったら会話の主導権は恐らく大俱利伽羅が担うし、国広も任せるだろう。そうなれば今回のような事の納まりにはならなかったかもしれない。
「大俱利伽羅? なんだ、不満げだな」
重なった手が落ち着きなく国広の指を握っては離しを繰り返していた。顔は見えないが、どこか拗ねた気配がする。
「……審神者の手のひらの上で転がされてるようで据わりが悪い」
なるほどそのように思うのか。審神者は殊刀剣男士間のことについては気にはかけても放任主義に見えるから、結果は偶然のもののように感じるのだけど。
背中から、深々とした溜息がする。
「……まぁ、いい」
「いいのか?」
「今後は口出しの隙を見せないようにする」
そもそも気にかけられること自体を避けたいらしい。なるほど慣れ合わない。もしかしたら独占欲かも。だったらいいな。浮かれた気分が抜けきらず思う。
「だから今度からはもっと症状が軽いときから言ってくれ」
「……それは、命令?」
浮かれついでに仕掛ける。背中を振り仰ぐ。一瞬、虚をつかれたような顔をした大俱利伽羅は、瞳をつやりと輝かせた。
「どっちがいい」
「命令されたい」
期待が暴かれる。気持ちを口に出す。それを望まれている。受け入れられると知っている。
「ちゃんと話せよ、国広」
「わかった」
瞳を合わす。言葉を交わす。外は変わらず雨模様で、月の満ち欠けも元のまま。ただ、呼ばわる感覚は間遠になった。
それよりもっとずっと、求めるものがあるからだ。
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