わたしが言う前に抱きしめなきゃね.
好きだ。キスして。抱きしめて。
言葉にする必要はないはずだ。少なくとも薫には。
立場というものがある。昔は地元で札付きのワルだったとか権威ある協会に名を連ねているとか技術分野で講師として登壇するとか廃鉱山での夜な夜なのダウンヒルで騒がれるとか。
そういう、たくさん、まるで玉ねぎの鱗片みたく薫を包むいくつもの立場ではなくて――
「それ食ったら帰れよ」
湯気の立つ一皿。小ぶりではあるが丸のままひとつの玉ねぎが皿の中央にふてぶてしく居座る。黄金色のスープが、よく煮込まれて半透明の玉ねぎの、足先だけ浸すように注がれている。成程居酒屋でいうところの〆の出汁茶漬け。
今夜はもうおしまい、を示して虎次郎は、スープ皿とスプーンを残して机上の一切合切を片してしまった。
「なんで」
「ン? 帰りたくねぇの?」
そう言われると弱い。
立場というものがある。過去の悪業表の職業裏の顔。一切合切を片して残る、玉ねぎの真ん中、今ここに居るだけの薫の立場。
いま、ここ。
夜も更けた、腐れ縁の店でしこたま呑んで、でもまだ正気の、いま。
「別にしょっちゅう泊まっているだろう」
「酔い潰れたらな」
「今日だって酔っている」
「歩いて帰れるくらいにだろ」
しまった黙ってしまった。酔ってはいる。嘘は吐けない程度に。
「泊まっていきたいの、なんで」
じぃ、っと。まっすぐな熱っぽい瞳と声とでもって問うてくる。この男は言わせたいのだ。
好きだ。キスして。抱きしめて。
薫から。薫の方が先に。好意を態度でチラつかせながらも。
立場というものがある。ずっとこの男が好きで好きで仕方なくて、だからこそ、これに群がる有象無象と同じになりたくなかった。薫は今のところ、うまく虎次郎の傍に居る時の立場を築けているように思う。
だというのに、こいつは薫の苦労を慮りもせず言葉を欲しがる。
冗談じゃない。
今頃気持ちを向けてきたくせ、最後のひと押しまで薫に頼るなどふざけている。これまで寄ってくる女と気のある素振りの女にばかり声をかけ、それで恋してきたのなら、今回くらい自分で動いてみせろ。惚れた弱味はお前が持て。
薫の立場はそのようであったから、いくらこの伊達男がさぁどうぞという空気を醸し出そうとも、口を割ることはない。
好きだ。キスして。抱きしめて。
強引さが信条などと嘯くならば、俺が言葉にする前にどうにかしろ。さして酔いもしない杯だけ重ねて泊めろとせがむ、俺の真意をさっさと汲み取れ。
「なら、帰る」
玉ねぎにスプーンを差し伸べる。やわらかな鱗片はいともたやすく割れて水気と旨味がじゅわりとあふれ、口に運ぶととろけるような食感が舌でほどけて滋味が胃の奥にまで落ちていく。
ゆっくりと味わう間、薫はひとことも喋らない。
好きだ。キスして。抱きしめて。
いくらでも言われてきただろう。だから薫からは絶対に言ってやらない。それに。
…………そちらから迫ったという安心感と優越感を、欲しがるくらいいいはずだ。
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