兄のようなものその年の秋もようよう深まってきた頃の話である。
この日、炭治郎は昼から出掛けていた。一人麓へ下りて米や野菜を買い求めるためである。
留守を任された禰󠄀豆子の耳に、しょきしょきという音が聞こえてきた。これは何の音であったか。興味を引かれ、格子窓から外を見ようと禰󠄀豆子は背伸びした。しかし、生憎小さな禰󠄀豆子には、爪先で伸び上がってみても外の様子は見えぬのである。どうやら前の川のほとりに、何者かがいるらしい。むう、と唸って、彼女は外へ出ることにした。
一人で外へ出るのは危ないぞと兄に言い含められていたので、普段禰󠄀豆子は外へ出ない。けれども、この日はついつい気持ちが引かれた。そおっと戸口から外へ目を遣る。
しょき、しょき。
音は、まだ続いていた。禰󠄀豆子は音のするほうへ、ぺたぺたと駆け出した。
あずきあらおか、ひととってくおか
あずきあらおか、ひととってくおか
しょきしょきと鳴く音に交じって、何かが呟くような声がした。しかし、よく聴くと節がついている。さっきちらりと見えた何者かが歌っているのに違いない。禰󠄀豆子は足を止めて歌声に耳を澄ました。この声、何処かで聴いたことのあるような。しかし、なんとまあへんてこな歌だこと。
あずきあらおか、ひととってくおか
あずきあらおか、ひととってくおか
もう少しだけ近づいてみようかしら。禰󠄀豆子が不用意に一歩を踏み出したそのとき、パキ、と足下で音がした。小枝を踏んだらしい。
歌声が止んだ。気づかれてしまったらしい。悪者だったら、どうしましょう?
禰󠄀豆子は建物に沿うように小さく後じさった。
「禰󠄀豆子」
少し遠くから、――禰󠄀豆子からは見えない高さだ、何者かに呼ばれた。
「む?」
その声には覚えがある。たしか、先日、「兄のようなもの」と紹介されたひとだ。禰󠄀豆子はそう気づいて顔を上げた。
「やはり、禰󠄀豆子か」
そう言って微笑む人と目が合った。声の主は、果たして「兄のようなもの」その人であった。
禰󠄀豆子はほっとして両手を伸ばした。これに相手は少し戸惑った様子をしたが、「む!」と催促してやると、おずおずと禰󠄀豆子の手を取り、不器用に抱き上げてくれた。
「外に出てくるのは珍しいな、一人で出てきたのか」
「む!」
褒められた気がして胸を張って見せた。が、男は、
「炭治郎は知っているのか?」と怪訝な顔して問うてくる。痛いところを突かれた。禰󠄀豆子は頬を膨らませて「むー」と答える。それをどう受け取ったか、男は「そうか」と言った。そしてそのまま、家へと向かって歩き出した。さては、家の中へ戻らせようというのだな。そうはいかない。禰󠄀豆子は、まだあの「しょきしょき」という音の正体を突き止めていないのだ。
禰󠄀豆子は足をバタバタさせて抵抗した。
「どうした」
「むう!」
男は、――小豆洗いという、少し困ったような顔をした。禰󠄀豆子は川のほうを指差した。自分はあちらへ行きたいのだ。家へ連れ戻されては困る。
「川か?」
こくこく。禰豆子は頷いて見せる。小豆洗いは少し考えるような顔をしてから、
「落ちるなよ」
と言って、歩き出した。禰豆子はしめた、と頷いた。小豆洗いの足取りのままで、禰豆子は運ばれてゆく。いつもの兄より上背があるぶん、視界が広くて面白い。
川べりに着くと、禰󠄀豆子は自らするりと滑り降り、置かれたままになっていた桶を覗き込んだ。
「気になるか」
上から問われて、「むっ!」と答える。これは肯定と伝わったらしく、
「禰󠄀豆子は見たことがなかったか。これは、こうやって」
小豆洗いは跪くと桶に水を浸し、手を入れる。しゃらりと小豆が踊った。そのまま、しょきしょきと音を立てて研ぎ始める。禰󠄀豆子は興味津津に顔を輝かせ、これを眺めた。
「おもしろいか」こくん。
「小豆を研いでいるんだ」じい。
「やってみるか」こくこく。
禰󠄀豆子が頷くと、小豆洗いは少し横へずれて、禰󠄀豆子に桶を明け渡してくれた。禰󠄀豆子はそおっと手を浸した。冷たい。禰󠄀豆子がゆるゆると手を動かすと、水の中で小豆がしゃらしゃらと泳ぎ出した。少し力を入れて、先に小豆洗いがしていたように手を動かしてみる。やはり、小豆はしゃららと泳ぐばかりだ。どうやったら、しょきしょき鳴くのかしら?
「むう」
なかなかうまくいかない小豆研ぎと格闘する禰󠄀豆子を、小豆洗いは不思議そうに眺めている。しかし、禰󠄀豆子としては必死だ。米を研ぐのも、洗濯をするのも、禰󠄀豆子にはもうお手のものなのに、どうしてあの音が足せないのだろう?
懸命に小豆を研ぐ禰󠄀豆子である。すると、しゃらしゃらと小豆の泳ぐ音に合わせるように、小豆洗いが先ほどの歌を歌い始めた。
小豆洗おか、人取って食おか
しゃらしゃら、しゃらしゃら。
小豆洗おか、人取って食おか
しゃらしゃら、しゃらしゃら。
ふむ、と禰豆子は考えた。彼のようには様にならないが、これはこれできれいな音が出ているのではないか。だけどこの人、お歌はちょっとへたくそだわ、と思う。けれどもそれで禰󠄀豆子は却って楽しくなって、いっそう懸命に小豆を研いだ。
へたくそな小豆研ぎと、やはりへたくそな歌の競演は暫く続いた。
ややあってのちに、小豆洗いは言った。
「俺はこれをするだけの妖怪だ」きょとん。
「これだけなんだ」
「……む」
「簡単だろう?」ふるふる。
「難しかったか」こくこく。
「そうか」こくん。
この兄はすごい。兄の兄というだけのことはある。禰󠄀豆子は感心しているくらいだ。それに、「そうか」と言ったお顔が少し嬉しそうに見えたのもなんだか可愛らしい気がする。
そんなことを考えながら小豆洗いの顔をまじまじ見ていると、その視線の意味を測りかねて困ってしまったのか、手持ち無沙汰に困ってしまったのか、小豆洗いが禰󠄀豆子の頭を撫でた。
「む?」
「禰󠄀豆子、炭治郎は優しいか」
何を当たり前のことを。禰󠄀豆子は力いっぱい頷いた。
「そうか」
小豆洗いは頷く。わかればいいのだ。禰󠄀豆子もウンウンと返してやる。しかし、小豆洗いはそれで満足しなかったのか、さらに禰󠄀豆子へこう聞いた。
「炭治郎が好きか」
これもやはり当たり前だ。もちろん力いっぱい頷いてみせる。
「そうか」
小豆洗い物頷く。わかればいいのだ。禰󠄀豆子はポンと小豆洗いの肩を叩いてやる。しかし、さらに続いて小豆洗の口から出たのは、意外な言葉だった。
「俺も好いてる」
「む?」
「炭治郎を。お前の兄を好いているんだ」
兄の兄が、兄を好き?
「いいだろうか、禰󠄀豆子」
小豆洗いがはにかんだように、また同時に少し不安げに、弱い笑みを浮かべる。
「お前の兄は、お前をいちばんに思っている。それが損なわれることはないし、そんなのは、俺も望んでいない。ただ、……お前の兄の中に、俺の居場所ができても、いいだろうか」
「む……」
禰豆子は考えてみる。
この人が兄を好きになって、兄もこの人を好きになったら、どうなるのだろうか。むうう、と唸ってしまった。兄が自分を置いて他のものへ想いを向けるなんてこと、想像もしてみなかった。でも、遠くおぼろの記憶の彼方で、父は母を愛していたし、兄のことも自分のことも、同じだけ愛してくれていたような気がする。むう。
ふと見ると、小豆洗いは所在なさげに禰豆子の言葉を待っていた。それを見たら、なんだかおかしな気持ちになった。あれ、まあ、しかたのないこと。「いいだろうか」だなんて、本当に、どうしてそんな、当たり前のことばかり聞いてくるのかしら。この人は。
「むう!」
禰豆子は、小豆洗いへ向かって手を広げてやる。
「禰豆子」
「むう」
小豆洗いは禰豆子へしっかりと向き直って、もう一度問うた。
「禰豆子、俺が炭治郎を好きになって、炭治郎と一緒に禰󠄀豆子を大切に思っても、いいだろうか」
「むう!」
嬉しそうに小豆洗いは眉を下げ、口角を上げた。そうして禰豆子をしっかりと胸に抱き締めた。
「嬉しい。……ありがとう」
ちょっと、苦しい。ぎゅうぎゅう抱き締め過ぎなのだ、この兄は。力の加減というものを知らぬ。困ったこと。でも、そんなところも可愛いから許してあげましょう、これから覚えてもらえればよい。禰豆子は小豆洗いの背をぽんぽんと打ってやった。
と、そこへ戻ってきたのは、兄である。
「あれっ、禰豆子。どうして外に? あらら、義勇さん?」
まったく、この兄ときたら、どうしてこうも折良きところで戻ってくるのやら。
禰󠄀豆子は大きい兄を抱き締めたまま、一方の手を伸ばし、小さい兄を手招いた。どうしたどうしたと近寄って膝を折ったその兄を、禰󠄀豆子はぎゅうっと抱き寄せてやる。
「わ、禰󠄀豆子?」と驚いた小さい兄は、ぽんぽんと肩を叩かれると、何に納得したのか、うん、ただいま、と禰󠄀豆子を抱き返した。