せつなとお母さんの話 灰色の世界で、息をする。
生きているのではない、本当にただ、息をしているだけだった。誰も彼もが同じような表情で、決まった時間に決められたことだけをして。
そしてイースは、命じられるがままに人々から幸せを奪って――いや、違う。そこには確かに自分の意思もあったのだと認める。都合の良いように解釈してはいけない、過去は変えられない。背後に長く伸びた影に足を取られ、ずぶずぶと沈んで行く。水位が喉元まで迫り、溺れる感覚から逃れようと必死で手を伸ばした瞬間。
せつなはようやく、悪夢から解放された。
額にじっとりと嫌な汗をかいており、全力疾走したあとのように呼吸が荒い。
「せっちゃん大丈夫? うなされてたわよ」
心配そうに覗き込むあゆみの顔。リビングでうたた寝をしてしまっていたことに気が付いたせつなは、あたりを見回してから安堵の息を吐いた。
心臓がばくばくと五月蝿く鳴り続けている。定期的に見るこの類の夢は、恐らくいつまでも消えないせつなの自責の念から来ているのだろう。忘れるなと、無意識下で彼女は、自分自身に幾度となく言い聞かせているのだ。
瞳が翳ったまま動かないせつなを見て、しばし思考を巡らせたあゆみは、膝を叩いて立ち上がった。
「ちょっと待っててね」
キッチンに立った彼女は、冷蔵庫と戸棚を行き来してから電子レンジのボタンを押す。出来がありを知らせる電子音が響いたあと、せつな専用のマグカップを持ったあゆみは再びソファの前に歩み寄った。
「はいどうぞ」
湯気の立ったココアを匙でぐるりとかき混ぜ、両手で優しく手渡す。ありがとうと掠れた声で返したせつなは、ニ・三度息を吹き掛けてからカップに口をつけた。
「おいしい……」
練ったココアと牛乳の柔らかい口当たり。少しスパイシーな香りの正体を問えば、身体が温まるように入れたすりおろし生姜だとあゆみは答えた。
「甘くてあったかーいもの飲むと、ちょっぴり幸せな気持ちになるでしょ?」
にこ、と微笑むあゆみは、せつなに何も聞かなかった。そっと隣に腰掛けて、触れた肩越しに自らの体温を分け与える。
そのぬくもりに、安心しきったせつなは静かに瞳を閉じた。
「……あのね、お母さん」
やがて空になったカップを両手で握り締め、せつなは恥ずかしそうにあゆみを見上げる。
「おかわり貰っても、いい……?」
珍しく、きちんと「甘える」が出来ているせつなに、嬉しくなってしまった母はおどけた風に嗜める。
「ちゃんと歯磨きするのよ」
「はあい」
子供時代を取り戻すかのように。せつなはわざと、舌足らずな声で返した。