末っ子の記憶「ハンザくん!!ハンザくん、早く中に入ってください!!」
フマナ博士────ヌビア復活学の若手の博士────が、慌てた声で研究室に私を呼び入れる。
いかにも緊急事態、という声色。こうなることが分かっていたのに、何故、この実験をやめられないのか。思わず溜息が出そうになるが、それを堪えて、私は部屋の中に入った。
「エルベ」
部屋の中に入るなり、私は蹲る彼に声を掛ける。
彼はうわ言のようにぶつ、ぶつと呟くばかりで、私の声が届いているようには見えない。
「エルベ」
肩に触れて、顔を上げた彼と目を合わせる。幼い顔立ちの中、眼が不安定に揺れている。
「エル、ベ…?違……う、私、は、ヌビア……」
「違う。お前はエルベだ」
『記憶』であるエルベに課される実験は、殆どのものがヌビアであった頃の記憶を表層まで引きずり出し、エルベの人格を超えさせ、ヌビアの人格と研究者が対話をする、という形のものだ。
直接的にヌビアの人格を呼び出すことが出来ることから研究者たちはこぞってこの実験をしたがるが────この実験による、エルベへの負担は尋常のそれではない。
「エル、ベ……、違う、私は、そん、……な名前ではないよ……ヌビアと言うんだ」
「違う。お前はエルベだ。ヌビアではない。帰ってきてくれ」
「わた、私……は……」
2人分の記憶が混濁し、ヌビアの人格に支配される。息が荒くなり、顔色が悪くなる。これまで戻れなくなったことはないが────可能性は、否定できない。
「繰り返してみろ」
「あ、……」
両肩に触れて、呼吸のタイミングを合わせる。
私は、これまでにエルベが口にしてきた言葉を思い出しては再現する。
「『オレの名前はエルベ』」
「おれの、なまえ、は、えるべ…」
「『ヌビアの記憶を引き継いでいる、だけど、あんまり意味があるとは思ってねぇよ』」
「ヌビアのきおくをひきついでいる、だ、けど、あんまりいみがあとは、思っ……て、ねぇ、よ」
傍から見れば、なかなか滑稽だろう。
私が砕けた言葉遣いをしているという意味でも、同じ言葉をエルベが必死に繰り返しているという意味でも。しかし、間違いなく、この行動をしている間に、エルベは『エルベ』になっていく。
「『オレ、またフマナ博士に呼ばれちまったよ。あれ、好きじゃねぇんだよなぁ』」
「オレ、またフマナ博士に呼ばれちまったよ。あれ、好きじゃねぇんだよなぁ」
「実際、どうだった。今日の実験は」
「……たまったもんじゃねぇよ。オレはヌビアそのものじゃねぇっつうの」
エルベは、そう言って微笑んだ。どこか上の空な無表情だったところから、年齢よりも少し幼い笑顔に変わる。
私達のその様子を見て、フマナ博士は安堵したように息をついた。
「助かりました、ハンザくん。ありがとう」
「……エルベが苦しんでいるのは、私としても心苦しいですから」
普通なら、謝辞を述べられたことに何らかの応えを示すべきだろう。だが、本心がそれを拒んだ。
フマナ博士は、私達のその様子を見ながら、静かに続けた。
「……今日の実験で、ヌビアの行動とその感情についてのデータを取ることができました。できれば、近いうちにまたデータを取りたいのですが……」
伺うようなフマナ博士の声色。エルベの方をちら、と見やると、少し眉間に皺を寄せて、辛そうな息を吐いていた。胸の奥が痛む心地がするが、しかし、『記憶力』である私には手助けをすることはかなわない。
エルベは、しばらくの間の後、観念したように呟く。
「……分かりましたよ。でも、明日は嫌です。2日も立て続けにこんな目に遭ってんじゃ、いつか……」
そこでエルベは言葉を濁した。
────いつか、オレがオレでなくなりそうな気がする。
────いつか、壊れてしまいそうな気がする。
エルベなら、どんな言葉を続けるだろう。予想しても、エルベはそれ以上言葉を続けなかった。
フマナ博士も、エルベの苦悩そのものを分かっていないわけではないらしく、申し訳無さそうに声のトーンを下げた。
「……申し訳無いです。……よりにもよって、一番年若い君に、こんな苦痛を与えるなんて……」
「……いいです、別に」
どこか諦めたようにエルベは応えた。
「それに、年若い、って言ったって。実質、他のヌビアの子より、気持ちの上では35歳は上、でしょう」
ヌビアの享年を交えたその言葉は、シニカルな色を帯びている。
「……でも、次の実験のときは、ハンザを近くに居させてください」
「……今回みたいに部屋の外では駄目かな」
「……………」