犬と虎「モクマさん。そちらの毛玉殿は、一体どうされたのですか」
チェズレイの秀麗な顔が呆れたように歪み、その瞳は信じられないものを目撃したかのように幾度も瞬きを繰り返す。答えはわかりきっているものの、口にせずにはいられなかったのだろう。戸惑いの色を含んだ紫電の輝きはモクマの開いた胸……ではなく懐に注がれていた。
「いやね。道端をふらふらっとしてるのを見つけて、うっかり目が合っちまったもんだから、ほっとけなくてね」
たはは、と困ったように朗らかに笑いながら、脱いだ羽織に包まれた中身を大事そうに抱えている。その中身はもぞもぞと動き出すと、隙間から頭をぴょこんと覗かせた。
「……クゥン?」
可愛らしい鳴き声に、チェズレイの動きがピタリと止まる。
モクマが抱いているのは、一匹の子犬だった。生後半年ほどだろうか、きれいな青い首輪をつけた、垂れ耳の茶色と白のあどけない顔つきの子犬にぺろりと指を舐められて、モクマの表情が緩む。
「捨て犬って感じじゃないから、迷子だろうね」
慈愛に満ちた表情で短い毛並みを撫でているモクマをいつもより少し離れた距離からチェズレイが無表情で眺めていた。
「……ええ、見たところさほど汚れていないようです。毛づやも悪くない。飼い主とはぐれてからまだそれほど時間は経っていないようですね」
「キュン…ワン!」
「チェズレイ、すまないんだが……手伝ってくれるかい?」
何を、とは言われずともわかる。ねだるように、しかしすでに答えは出ているような上目遣いの眼差しで見つめられて、チェズレイは小さく溜息を吐いた。
チェズレイがモクマのこの表情に弱いことを、当人はおそらく気付いていない。
仕事で訪れた街ではあるが、今日は捜査ではなくあくまで買い出しにきただけだ、つまり時間はたっぷりある。積極的に触れたいとは思わないが、子犬の愛らしさは、どこか我らがボスの姿を思い出させ、チェズレイの瞳も柔らかなものになった。
それに……子犬が一匹増えたところで、二人の時間が減るわけではないのだ。
「わかりました。飼い主を捜しましょう。おそらくあなたと私ならば、すぐに見つけられるはずです」
「うん、ありがとね! そう言ってくれると思ったよ」
「白々しい。お分かりでしょうに」
「はは! んじゃ、さっそくおまえさんの大事な主を見つけないとね」
「ワン!」
「おっと、随分となつっこいねぇ。なんだかどこかの誰かを思い出すよね」
子犬も意味がわからないなりに喜んでいるのか、モクマの頬や顎をペロペロと舐めだす。それを見たチェズレイの整った眉がピクリと揺れたのを、モクマは気付かなった。
「……それではモクマさん、初歩的なことですが、まずは首輪の裏に何か書かれていないか調べて頂けますか?」
この世の裏社会を少しずつ掌握しつつある仮面の詐欺師と、その相棒である最強の忍者。二人の手にかかれば、迷子の子犬の飼い主を見つけることなど造作もないことで。半刻もしないうちに、二人は近くの公園で途方に暮れている飼い主の少年とその付き添いの父親に子犬を無事に渡すことが出来た。
首輪には鑑札こそないものの、裏には几帳面な字で電話番号が書かれていた。捜すまでもなく、一瞬で飼い主と連絡がついたのだ。
「いや~~飼い主が来てくれて良かったね」
モクマは犬を包んでいた羽織をパンパンと叩いてきれいにし、袖を通している。
「拍子抜けするほど簡単なことでしたね。それに……」
リードを持ったまま、子犬を見るなり嬉し涙を浮かべていた幼い少年のことを思い出す。そして、その隣にいた父親のことを。人良さそうな男性は何度も頭を下げて感謝してきた。
「まさか、あの男が次の標的の屋敷に勤めている運転手とは……」
「わんこのお家は見つかったし、屋敷の出入り口の情報も得られたし、まるでわらしべ長者みたいだねぇ」
「なんですかそれ?」
「あ、知らないか。マイカの御伽噺でさ。運良く自分が持ってる小さいものと、もっと価値があるものと交換してもらうって話だよ」
「なるほど……モクマさんの幸運に感謝ですね」
納得した様子だが、さっきからチェズレイの様子が少しばかりおかしいことに、モクマは気付いていた。
「ところでさ、さっきからな~んか距離を感じるんだけど? あ~もしかして犬の毛ついとる?」
その一言に、チェズレイはようやく自覚したのか、と軽く驚いたような顔をした。もちろん、子犬に一度も触れなかったチェズレイには何もついていないが。
「……おそらくは。目には見えませんが。あちこちにあの犬の体液も」
「言い方言い方。公園で手は洗ったけどねぇ。……お前に避けられるのは辛いから、買い出し終わったらすぐ風呂に入るよ」
「帰ったら洗濯もしましょう。いえ、いっそ私があなたを丸洗いして差し上げるというのはいかがです」
「ええ……俺は犬じゃないけど?」
僅かに後ずさり、トリミングされるのではないかと本気で引いているモクマを見て、チェズレイはクスリと笑う。
「ですが、私が納得するレベルまで念入りに全身を洗い上げれなければ……今夜は指一本触れさせませんよ」
「え、それって、つまりお誘い?」
「さぁて? それはモクマさんの努力次第です」
「……よし、わかった! 今夜は一緒に風呂に入ろう」
俄然やる気を出した様子のモクマに、チェズレイは何も言わずに微笑みながら歩き出した。
「あ、待ってよチェズレイ」
ご機嫌で自分の後に付いてくる姿は、まるでさっきの子犬のようだが、油断していると夜には猛々しい虎に姿を変える。チェズレイだけが知っているそんな姿もまた、愛おしいのだ。