ふゆの簓が盧笙の家に戻り、さむさむ、とリビングのドアを開ければ柑橘類の匂いが鼻孔をくすぐった。そのどこか懐かしい甘酸っぱい匂いに あ、せや、冬ってみかんを食べるもんやったな。と簓は思った。
簓はただ今絶賛『普通の一般家庭のくらし』リハビリ真っ最中。盧笙との暮らしはどこか懐かしくてそしてとても楽しい。
「手洗い、うがい」
部屋に入って来た簓に家主は振り向きもせずぴしゃり、と言い放った。
ので簓はそのままバック。台所に戻りきっちり手洗いとうがい。うがい用の安いプラスチック製コップを定位置戻して、どこかの店の名前がプリントされているいかにも粗品な白いタオルでしっかり手を拭く。流し台には小鍋とどんぶりが水道水に浸けられて、あー今日うどんやったんかな、とひょいとゴミ箱を覗けば当たり。急に寒なったもんなぁ、と思いながら簓はリビングに戻った。ついでに目に入ったテレビを見れば、今日はおそらくたぶん月曜日で21時半ぐらいとみた。
水道水で冷えた手で遠慮なく盧笙に触れれば殺されるのは目に見えているので、今日はやめることにして、それでも手は冷えてしまっているので、簓は盧笙の両脇に手をズボッと突っ込んで盧笙の身体をテーブルから少し離した。寒いからか、それとも甘酸っぱい匂いに触発されてか本日なんだか甘えたい気分。
「アア?」
非難する声を上げつつも盧笙はされるがまま。簓はそんな盧笙の隣に座り、そのまま倒れ、盧笙の膝に頭を乗せた。
盧笙は嫌そうな顔を浮かべ簓を見たが、簓はそんな盧笙の顔も大好きである。なのでニコニコ笑みを浮かべていたら、早々に盧笙は諦め視線をテレビに戻した。本日も盧笙の顔は美しいと簓は下から見上げて思った。どこから見ても絶景かな。好きや…と思いながら盧笙の腹に顔をくっつけると、盧笙が着用しているもこもこのいかにも温そうなトレーナーから防虫剤の匂いがした。
そおかぁ、もう冬かぁ、と簓はまた思った。
簓の季節はあの日止まり、そこから四季というものが簓の中から長らく抜け落ちていた。
が、また暦は動き出して、春が来て夏が来て秋もあって、冬が来た。あ、冬ってそーゆー意味ちゃうくて、あ、そういう意味なら春は来たんやけど。
簓がぼおっとしていると頭に骨ばった感触を感じ、簓は頭の向きを変えた。すると額と盧笙の両手がしっかりくっついた。そしてひときわ香る甘酸っぱい匂い、と、顔にぺとっと冷たいかけら。
「うそぉ」
「…。」
「なんちゅう豪華なぬるさらの使い方や…」
「…。」
簓の言葉には応えずに盧笙は真剣な眼差しで簓の頭上で、簓の顔をテーブル代わりにちまちまと小粒みかんを剥く。小さいからか一思いに剥けず皮の断片がぼろぼろと簓の顔に乗っていく。つめた。あまずっぱ。みかん。ろしょう、すき、と簓のIQと語彙力がぐんぐん減少していく。減少ついでによい頃合いで口をア、と開くとヒヤリとしたものを一つ突っ込まれた。あま。うま。
盧笙の腹に頭をくっつけているので、間近で盧笙の内臓が稼働しているのも簓は感じた。同じものを食べるってええな、なんか、ええ、うん、ええ。現時刻をもって売れっ子芸人・しゃべくりの天才白膠木簓、閉店のお知らせ。
「…そろそろこたつも出さなアカンなあ」
簓の顔に散らばるみかんの皮を一個一個つまみながら盧笙はぼやいた。
「え、盧笙こたつ持ってるん」
「数年前買うた。あれはええわ、あれなしの冬はもう考えられへん」
「あんなにカッコつけの兄ちゃ」
盧笙は簓の口に遠慮なくみかんを一房放り込んだ。
あま、えー、黒歴史なんかなぁ、まだところどころファッション名残あるんやけどな、と思いながら簓は昔を、そしてもっともっと遙か、昔の事を想う。
こたつに憧れてた時期が俺にもあったな、と。
ソレはクラスメイトの子らとじいちゃんの家にあったもの、あとはドラマの中に出てくるもの。
自分とは無縁のもん。団らんの象徴。
そぉか。それも手に入れたんか俺。
簓が思わず笑みを浮かべたら、盧笙は何を思ったのか、新たなみかんを丸ごと一個、簓の右目の上に置いた。
「つめたっ」
「や、なんかきしょかった。」
「はにかんだだけや」
「言葉にされるとさらにきしょい。…もう一個食うか?」
「くう」
そう甘え答えれば簓の右目にまた盧笙が映った。
柑橘類と防虫剤、これが冬のにおいか、と簓は知った。冬の甘酸っぱさと共に。