転生晏沈 7 温かい……
晏無師が目覚めた時、部屋の中はカーテンの隙間から差し込む光で薄らと明るかった。こんなに深く眠ったのはいつぶりのことだろう。そして腕の中にはまだ沈嶠がいる。沈嶠は安心しきったように寝息を立てていたが、晏無師が身体を起こそうとすると、背中に回した腕の力を強めてくる。しかし、起きたのかと顔を覗き込んでも沈嶠の様子は変わらない。呼吸で肩が静かに上下し、頬をすり寄せてくる。どうやらまだ夢の中にいるが、ぬくもりが離れていく感覚に怯え、無意識にしがみついているようだ。
「晏郎……」
夢と現実の狭間で沈嶠は晏無師の名前を呼ぶ。晏無師は沈嶠の様子をじっと見つめていた。
「晏郎……ごめんなさい」
沈嶠は夢を見ているのか、ぽつりぽつりと小さく呟く。その唇は震え、目尻には涙が浮かんでいる。
「最後に、もう一度……」
何の夢を見ているのかはわからないが、縋り付く力は強い。
「……あなたに……会いたかった……」
晏無師は何も言わず沈嶠の寝顔を見つめ続けた。頬に零れた涙を指でそっと拭ってやる。しばらくそのままの体勢でいると、沈嶠の睫毛が震えゆっくりと瞼が上がった。沈嶠は自分の状況を理解できず、何度か瞬きを繰り返していたが、自分が頬を押し付けているのが晏無師の胸元だということに気が付くと慌てて身体を離した。
「あの……おはようございます……」
「私の腕の中はよく眠れたようだな?」
晏無師がは恥ずかしさで布団を被ってしまった沈嶠を見下ろす。沈嶠は布団の中でもごもごと喋った。
「すみません、夢を見ていて……寝ぼけてしまったようです。私は何か言っていましたか?」
「ああ」
「……何と言っていましたか?」
「最後まで激しく抱いてくれ、と言っていた」
「えっ!?」
沈嶠はガバッと布団から顔を出した。まさか前世の記憶と混ざって本心を言ってしまったのだろうか、と赤くなったり青くなったりする沈嶠を置いて晏無師は立ち上がる。
「今日は私が食事を作ろう。シャワーを浴びてくるといい」
「でも、手の怪我は大丈夫なんですか?」
「まあな」
そう言うと、沈嶠の唇に触れるだけの口づけをして晏無師は寝室を後にする。残された沈嶠は一瞬固まった後、湯気が出る程赤くなった。今の口づけは何だろう? 自分が寝ている間に何かあったのだろうか? もしかして記憶が戻ったとか? 前世で心が通じ合っている時のように優しい晏無師に、沈嶠は心臓が騒いでしばらく動けなかった。
火照る心と身体を冷やそうとシャワーを浴びてからリビングに行くと、部屋にはいい香りが漂っている。テーブルの上では細切り牛肉の油炒めに、魚のすり身のスープが湯気を立てていて、沈嶠の腹がぐうと鳴った。
「温かいうちに食べるといい」
「いただきます」
沈嶠は椅子に座り、スープに口をつける。湯気で視界が霞む。口の中に広がる温かで優しい味わいにじんわりと目頭が熱くなった。
「美味しいです」
「お前は細すぎる。もっと食べろ」
「はい」
正面から優しく見つめられ、沈嶠は胸がいっぱいだった。前世では晏無師の方がよく料理を振る舞ってくれたが、こうしてまた自分のために作ってくれるなんて。まるで以前の晏無師と一緒にいるような気分だった。穏やかに会話をしながら食事をし、二人でゆっくりと過ごす。これこそ沈嶠が夢に描いていた時間だった。
あっという間に夕方近くなる。今日の晏無師は優しくて離れがたいが、そろそろ店に行く時間だ。沈嶠は名残惜しい気持ちを胸に準備を始める。
「晏宗主、私はそろそろ……」
「いや、今日は店に出なくていい。明日もだ。さっき店に連絡してお前の予約は全部キャンセルさせた」
「?」
思いがけない晏無師の言葉に戸惑う沈嶠に対して、晏無師は見惚れるほど美しい笑みを浮かべる。
「私と一緒に来い。いい所に連れて行ってやろう」
沈嶠は一度目を瞬きした後、満面の笑みを浮かべた。
「はい」
喜びを隠しきれなかった。店以外に二人で一緒にどこかへ行くのは三週間一緒に過ごしてこれが初めてだ。前世で旅行した時のことが頭を巡る。珍しい食べ物を食べ、人に出会い、美しい景色を見る。場所はどこでも構わないが、晏無師が自分を連れてどこかに行こうと考えてくれたことがうれしくてたまらない。
昨夜は晏無師に「信用していない」と言われてショックを受けたが、口ではそう言っていても、もしかしたら自分の気持ちはちゃんと伝わっていたのかもしれない。いや、抱きしめて寝てくれたり、料理を作ってくれたりしたことを考えると、もしかしたら晏無師の中で何かが変わっているのかもしれない。タクシーの中で沈嶠の胸はどんどん期待で膨らんでいった。
「前世でも二人で色んな所へ行きましたね。あなたは覚えていないかもしれませんが、海にも行ったんですよ」
「そうか」
「海辺で食べたあの魚料理の名前は何でしたかね……現代にもあるんでしょうか。海辺と言えば……」
タクシーの中で、興奮のせいかいつもより饒舌な沈嶠を揶揄うでもなく、晏無師は頷き、優しく微笑んだ。
「お前には家族がいるのか?」
ふいにそう尋ねられて、沈嶠の期待は更に膨らむ。
「いいえ、施設で育ったので両親の顔はわかりません。父のように慕っていた先生も亡くなり、家族と呼べる人はいません。兄弟のように育った友人は何人かいますが、皆もう独立して頻繁に連絡を取り合っているわけではないので」
「そうか」
晏無師が自分に興味を持ってくれている。そう思った沈嶠は聞かれるがままに自分のことを話した。晏無師が今まで沈嶠のことを聞くことはほとんどなかったが、知りたいと思ってくれているということだ。もっともっと自分のことを知ってもらいたかった。
「ここで止めろ」
晏無師がタクシーを止めたのは、『moonset』がある通りとは別の大通りだった。まだ夕方なので人はそれほど多くない。タクシーを降りて見上げた冬の夜空はどんよりと暗く、沈嶠は肌寒さに腕を擦った。そういえば天気予報で今夜は雪が降ると言っていたかもしれない。
「雪が降りそうですね」
「雪は嫌いだ」
晏無師の言葉に沈嶠は心の中で首を傾げた。前世の晏無師は雪が嫌いだとは言っていなかった。共に一面の銀世界を見た時には『美しい』と、『阿嶠のようだな』と言っていたのに。
「綺麗ではありませんか?」
「手に入れたと思ってもすぐに溶けてなくなるだろう」
「それはそうですが……」
「ついて来い」
「はい」
沈嶠はどこに行くのか、と聞くこともなくただ静かに晏無師の後について行った。それほど歩くこともなく、二人はいくつかの店が入っているビルの中に入る。迷いなく進んでいた晏無師が立ち止まったのは重厚な黒い扉の前。そして扉には『Albizia』と書かれている。
「ここは、もしかして……」
「そうだ、桑景行の店だ。お前の馴染み客が所属している店でもある」
「なるほど、敵情視察ということだったんですね。でも競合店の我々を入れてくれるでしょうか?」
「ふん、こんな店をライバルとは思っておらん。入るぞ」
晏無師はまだオープンしていない店の扉を躊躇いもなく開ける。中で準備をしていたホストの一人が音に気付いて顔を上げると、晏無師はホストが口を開く前に用件のみを伝える。
「桑景行はいるか? 前に白茸に『挨拶に行く』と伝えさせたはずだ。晏無師が来たと伝えろ」
若いホストは恭しくお辞儀をして「少々お待ちください」と言うと裏へと消えて行った。晏無師がここで何をするつもりなのかわからない沈嶠は、初めて入る店の中を見渡した。豪奢なシャンデリアに、内装、そして個性的なホスト達の服装。『moonset』とはまた雰囲気が違うようだ。数分もしないうちに背が高く、高級そうな白いスーツを身に纏った美しい男が現れた。
「晏オーナー、ご健勝のようで何より。昔とちっとも変わりませんね」
「お前もな、桑景行」
どうやらこの男が桑景行らしい。そして二人は以前からの知り合いのようだ。沈嶠は晏無師の隣で桑景行を静かに見つめる。女性が好みそうな整った顔立ちに均整のとれた身体。しっかりとした肩幅に厚みのある上半身を見ると、スーツの下は鍛えられているのだろうということがわかる。桑景行は二人をVIPルームに案内してゆったりと足を組んで座った。
「それで、ご用件は?」
「お前が好みそうな奴がいるから連れて来てやった。こいつは沈嶠という。お前は昔から男女構うことなく美しい者の貞操を無理矢理奪うのが趣味だろう?」
「え……?」
晏無師の予想外の言葉に、沈嶠は自分の耳を疑った。頭の中で今聞いた言葉をもう一度繰り返してから信じられない、という顔で晏無師の顔を見る。桑景行は声を上げて笑った。
「ああ、この方が『沈嶠』ですか。噂は聞いていますよ。突然現れてあなたの寵愛を受けていると聞いて、私もずっと気になっていたんです」
「ふん、白茸に調べさせていたくせに噂とは白々しい。私は最初こいつはお前の手の者だと疑っていたんだが、途中で違うと気づいてな。お前がこんなに見目のいい男に手も出さず私に送って来るわけがない。広陵散の手の者かとも思ったが、調べさせたらやはりそんな様子はなかったからな。他の心当たりも調べたが、結局こいつの正体と目的はわからんままだ。だが、これだけ顔が良ければ別に何者でも構わんだろう?」
桑景行は顎を擦りながら軽く首を傾ける。
「つまり? その正体不明の美しい男を私にくれると?」
「そうだ」
桑景行はフッと鼻を鳴らす。
「あいにくですが、私が好むのは処子です。晏オーナーに散々抱かれた元恋人に手を出したりしませんよ」
「恋人でもなければまだ抱いてもいない。こいつは元陽だ」
晏無師が表情も変えずにそう言うと、桑景行は美しく整えられた眉を上げる。その下にある瞳は残虐さと欲望を秘めてキラリと輝いた。
「これは驚いた。こんなに美しい男をまだ抱いていないと? 噂では一緒に住んで随分と可愛がっていると聞きましたが?」
「そうだ、抱いていない。多少味見はしたが、なかなかいい反応をするから慰みものとしては上々だろう。自分でじっくりと確かめてみたらどうだ?」
唖然としている沈嶠を、桑景行は舌なめずりをするように見つめた。
「私が頂いていいんですか? 壊してしまっても知りませんよ?」
「お前はいらない物を壊されても気にするのか?」
晏無師は冷たい表情で言い放つ。『いらない物』という言葉が剣のように沈嶠の胸に突き刺さった。じわじわと血が流れていくような気分に、思わず胸を押さえる。
「さっき聞いたらこいつは身寄りがないと言っていたからな。いなくなった所で探す奴もいない。壊されたところで誰も文句は言わないだろう」
氷のような言葉がまた胸に突き立てられる。沈嶠の頭の中にタクシー内での会話が蘇る。晏無師がタクシーの中で沈嶠のことを尋ねたのは、自分に興味があるからではなかったのだ。浮かれて一人で喋っていた自分の滑稽さを思い出し、さらに傷口が広がる。どくどくと血が流れ、沈嶠の心臓の温度が急激に下がっていく。晏無師は沈嶠の様子を気にすることなく話を続けた。
「しかも本当かどうか定かではないがこいつは私に惚れていると言う。私が前世の恋人だそうだ。お前は貞操を守ろうと抵抗する獲物を凌辱するのが特に好きだろう?」
「よくご存じで」
桑景行は悪びれることもなく笑顔を見せた。
「この前も婚約者がいる金持ちの女を散々手籠にしてこっぴどく捨てたと聞いたからな。随分とプライドが高い女だったのに、頭がおかしくなって死んだらしいと。どんな手を使った?」
「素直になるための、ちょっとした薬を使っただけですよ。私はね、すぐに怯えて従順になる人間より、自分の思い通りにならない人間の方が好きなんです。なかなか屈服せず抵抗する意思の強い人間の精神を踏み躙って、屈辱に満ちた顔を見ることに興奮と悦びを覚えます。でも男も女も結局最後は同じですよ。一度快楽に染まってしまったら、私の下でプライドもなく腰を振るようになる。全く簡単に壊れてしまうおもちゃばかりでつまらない」
「はっ、お前は相変わらず本当に趣味が悪いな!」
桑景行は嘲るような晏無師の口調にも気にすることなく沈嶠を見つめた。沈嶠は俯いたままだった。長いまつ毛が目元に影を落とし、蒼白な顔には表情がない。桑景行はその儚げな美しさにゾクリとする。この男を好きなだけいたぶることができると思うと高揚感が抑えられない。このきゅっと結んだ唇をこじ開け、無理矢理自分の欲望を咥えさせることを想像し、美しい顔に下卑た笑みを浮かべる。
桑景行は性経験のない者をいたぶることを何よりも好んでいた。自分に貫かれ、身体の下で泣き叫ぶ無力な姿を見ることで一層自分の強さと全能感を感じるのだ。この清廉な男が白い喉をのけぞらせて喘ぐ姿を見るのはさぞかし気分がいいだろう。そのすらりとした美しい首を締めながら最奥を突き上げたらどんな苦痛に満ちた表情を見せてくれるのだろうか。
丁度、最近お気に入りの玩具を一人抱き潰してしまい、退屈していた所だった。この美しい男を早く啼かせてみたくて堪らない。滑らかな白い肌を暴き、激しく蹂躙し、美麗な顔を歪ませる方法ですでに頭がいっぱいになる。桑景行は薄笑いのまま晏無師を見た。
「条件は何です?」
「その指輪をよこせ」
その指輪、と言われて桑景行は自分の中指に嵌めていた指輪に視線を移した。
「ああ、これですか。指輪としてはそんなに価値があるものではないとあなたも知っているでしょう? どうしてそんなに拘るんですか?」
晏無師はハッと笑う。
「価値がないと分かっているくせに、お前がこれみよがしにその指輪をはめ続けているのが気にくわないだけだ。それはもともと私の物だった。私の物は百年経っても私の物だ」
実は晏無師と桑景行は独立する以前は同じホストクラブで働き、売り上げを競う関係だった。毎月売上が一番良かった者が今桑景行の指にある指輪を嵌めることができることになっていたので、その指輪は言わばナンバーワンの証とでも言うべきものだった。店のナンバーワンは常に晏無師だったので晏無師の物と言っても過言ではなかったが、晏無師が先に店を出て独立したことで、指輪は桑景行の手に渡った。その後桑景行も独立して店を出したが、なぜか指輪を自分の物にし今も肌身離さず身に着けていたのだ。
「いいですよ。交渉成立ですね」
桑景行は指輪を外し晏無師の手に渡す。晏無師はその指輪をじっと見た後、無造作にポケットに入れ、俯いていた沈嶠の顎を掴み上向かせた。
「沈嶠、今どんな気分だ?」
「……辛いです。これが、あなたの本心ですか? 私を他の人に渡しても構わないと……」
「そうだ」
「……」
目を伏せる沈嶠に晏無師は優しく語りかける。
「全く、可哀想にな。なぜそんなに簡単に他人を信じる? 私が善人だとでも思っているのか? 純朴な人間は長く生きられないぞ」
「他人を信じているわけではありません。私とあなたは他人じゃない。私はあなたの中にある善意と愛を信じています」
晏無師は高らかに笑った。
「阿嶠、今でも私を愛しているのか?」
『阿嶠』と呼ばれ、沈嶠の心が震える。一瞬の間が空いたことで晏無師は口元に笑みを浮かべ、子供に諭すような口調で言った。
「ほらみろ、答えられないだろう? 愛なんて存在しない。人間は自分が一番可愛い生き物だ。裏切り、傷つけ、愛を返してくれもしない相手を愛し続けることなどできない。お前の言う愛は所詮まやかしの綺麗ごとだ。人は愛されるために人を愛す。愛した相手に愛されなければ、自分のかけた愛と時間を取り返そうと躍起になり、その感情はいずれ憎しみに変わる。お前もそうだ」
「そんなことはありません。誰の中にも善意はあります。あなただって、私の意思を尊重してくれていたじゃないですか。一度だって無理に抱こうとはしなかった」
晏無師は声を上げて笑う。
「自分に手を出さないのは大切に思われているからだとでも思ったのか? 違うな。私が性欲ぐらい抑えられないわけがないだろう。この世界には桑景行ように処子であることにのみ価値を見出す変態もいる。私はお前が高く売れそうだから様子を見ていただけだ。私は誰かのためを思って何かしたことは一度もない」
「……違います、それはあなたの本心じゃない」
沈嶠は首を振った。
「お前に何がわかる? 私は人を愛したことはないし、愛など必要ない。ここまで裏切られても、お前は私を憎まず、恨まずにまだ私に愛を捧げることができるのか? もう一度聞こう。阿嶠、今でも私を愛しているか?」
「愛しています!」
沈嶠は今度は間髪入れずに答えた。今度は晏無師が首を振る。
「人は強欲で利己的だ。無償の愛など存在しない」
沈嶠がそれにまた何か言い返そうと口を開くと、晏無師は沈嶠の腰を抱き寄せ瞬時にその唇を塞ぐ。それ以上言葉を出せないように舌を捻じ込み呼吸を奪う。
「ん……っ、ぐ」
桑景行の視線を感じ沈嶠が腕を突っ張って抵抗しようとするが、晏無師はなかなか離そうとしなかった。ようやく唇を離した晏無師が、息を切らした沈嶠の耳元で囁く。
「……それでも私を愛していると言うのなら、戻ってきてみろ」
晏無師は沈嶠の青ざめた頬をそっと撫で、立ち上がった。
「せいぜい頑張るのだな」
晏無師はそのまま振り返ることなく立ち去った。
沈嶠を置き去りにした晏無師は一人マンションの部屋に戻った。人のいない部屋は静かだ。もう今夜からは沈嶠の寝息も聞こえない。だが、別に寂しいとは思わなかった。人は一人で生まれ一人で死んでいくのだから、愛だの恋だの一時の感情で擦り寄って来る輩には虫唾が走る。そんなものはどうせすぐに変わる一時の気まぐれによる感情だ。いつまでも綺麗ごとばかり言うおとぎ話の王子のような沈嶠に現実を突きつけ、愛など存在しないのだと証明してやりたかった。
暖房が付いているのに寒い気がして窓の外を見れば、ふわふわとした雪が舞っていて晏無師は眉を顰めた。そういえば沈嶠が「雪が降りそうだ」と言っていたかもしれない。晏無師は物心ついた頃からずっと雪に執着とも呼べる特別な感情を抱いていた。真っ白で美しくて穢れがなくて儚くて。触れると冷たくて、すぐに溶けて消えてしまう。子供の頃はなんとかずっと側に置いておけないかと冷蔵庫の中に入れたりと必死だった。しかし自分の物にしたくとも思い通りにならない。
しばらく雪を見た後、カーテンを閉めて晏無師はそのままベッドの中に入った。一人のベッドは広くて寒い。晏無師はいつも沈嶠が眠っていた場所に背を向け、何も考えないよう目を閉じた。
その夜、晏無師は夢を見た。
切り立った崖の上に立つ自分の隣には、現代では見慣れない衣装を着た男がいた。その美しい顔と凛とした表情には見覚えがある。髪が長く剣を持っているが、沈嶠に違いない。沈嶠は自分を見上げ、優しく微笑みかけてくる。夢の中の自分は沈嶠の肩を抱き寄せ髪に口づけて囁いた。
『阿嶠、愛している』
沈嶠は恥ずかしそうに頬を染め辺りを見回した。
『誰か聞いていたらどうするんです』
『人がどう思おうと構わない。愛している』
『……私も、です』
その言葉を聞いて夢の中の自分は満足そうに笑う。
『阿嶠、私が愛するのは千秋過ぎようとお前だけだ。いずれ私が死んで生まれ変わっても絶対にまたお前を追いかける。来世もお前を愛し続けるから、覚悟しておけ』
『わかりました。覚悟しておきます』
(晏宗主)
(晏宗主)
(晏郎)
夢の中で、沈嶠の声が響く。場面が次々と切り替わる。しかしその全ては沈嶠の顔だった。笑った顔の沈嶠、怒った顔の沈嶠、涙を零す沈嶠、自分の下で恍惚とした表情を見せる沈嶠、そして最後には棺に入れられて動かなくなった沈嶠が________
ドクン
張り裂けそうな心臓の痛みに、晏無師はハッと目を覚まし起き上がった。呼吸が荒く、冬だと言うのに額には汗をかいていた。今の光景は一体何だというのか。なぜ沈嶠の顔ばかり夢に見るのか。この私がまさか沈嶠を置いて来たことを後悔しているとでも?
晏無師は額に手を当てる。妙な夢を見たせいで目が冴えてしまい、リビングへと向かう。
物音ひとつしない部屋では水槽のモーター音だけが響いている。晏無師は何気なく水槽を見た。黒い闘魚は相変わらずゆったりと尾びれを靡かせている。
しかし、その隣の水槽では白い闘魚が水面に浮かび、動かなくなっていた。