Unknown Legend(5) 熱心に質問をしていた年若い受講者が丁重に礼をのべ、興奮気味に去ってゆくのを見届けて、ゆっくりと席を立ち、歩み寄る。とっくに気づいていたはずのルカは、それでも大袈裟に眉を上げ、両腕を広げてみせた。
「これはこれは。しかし、なんだってこんな回りくどいことをするかねえ?」
「別に、回りくどかねェよ。正規の手続きだ」
「ひとつ屋根の下に暮らしてるんだから、訊きたいことがあるならいつだって訊きゃアいいのに」
「そういうのは、ひとつだけ質問があるときに使う手だろ。俺の場合、全部聴きたいんだ。だってものを知らなさすぎだから」
「ふーん?」
鼻を鳴らし、くちびるの片端を吊り上げるいつもの笑みを向けてくる。そして、
「まァ何にせよ、勤勉なのはいいことだ。オレは嫌いじゃねェよ、そういうの」
そう。すぐれた頭脳を持つこの男は、同じように賢く、なおかつ研鑽を積む人間が好きなのだ。ただ、自分がそんな域にはまだとうてい達していないことも、ビョルンには判っている。
プロジェクターに繋いでいたラップトップの電源を落とし、何冊も広げていた資料を片付けるのを手伝っていると、博物館の学芸員が挨拶にやってきた。一般向けのレクチャー・シリーズを手がける彼女はルカの許で修士号を取っており、今期は満を持して師匠に登壇を依頼したらしい。
「先生、ありがとうございました。来月もよろしくお願いします。このシリーズ、過去一番の人気なんですよ。次回もすでに満員札止め、キャンセル待ちが出てるくらいで」
「じゃあ、一人受け付けてやってくれ。彼の代わりに」
ぽん、とビョルンの腕を叩いて、ルカが言う。慌てるビョルンに、学芸員がようやく目を向けた。小柄な彼女が限界まで上向く様子が辛そうで申し訳なく、ビョルンはちぢこまった。するとしゃんとしろ、と言わんばかりに、またルカが腕を叩いてくる。
「彼はビョルン。新しく雇った私の秘書だ。今日の講義に興味を持って、わざわざ一般枠で申し込んで来てくれたんだが、次回からはアシスタントをしてもらうことにするよ。次回から彼の席は、私の机の脇に」
「助かります! じゃあ緊急連絡先ってことで、電話番号とメールアドレス、教えてくださいます? 名刺があれば、ぜひ一枚。先生、なかなかつかまらないから」
名刺など当然持っていない。あたふたしていると、すかさずルカが横からメモ用紙とペンを差し出してきた。不器用な文字を恥じながら、女性と連絡先を交換するなど何年ぶりだろう、と思う。しかし、これほど高揚も期待もないのは、はじめてだ。
博物館のエントランスに降りてくると、展示案内の液晶パネルに今日の公開講座の情報が映し出されていた。「『口承文芸のなかの英国』第一回、講師:ルキウス・A・ホプキンス(カーディフ大学)」。閉館のアナウンスを聞きながら、その文字列をうっとり眺めていると、肘で小突かれた。脇ではルカが、にやにや笑っている。
「よゥ、色男。あのガードの堅いニコールから、連絡先ゲットするとはね」
「そんなんじゃねェだろ、仕事なんだから。それより秘書ってどういうことだよ」
「スケジュール管理はオレが自分でできるから、こういう外仕事のときの付き添いと手伝いを、今後お前に任せたい。本来は、ゼミの学生や院生にやらせるもんだけどな。まさかカーディフから呼びつけるって訳にもいかねェし」
目を剥くと、いつもの煙に巻くウィンクとともに、もう一度腕を叩かれた。もちろん、給料は上乗せするよとルカは言う。
「肩書きがあるほうが、なにかと好都合だろ。これでオレの講演には、関係者ってことで出入り自由だ。わざわざ申し込む手間が省けるし、受講料を払う必要もねェ。今回のは戻ってこねェが、ま、初回の勉強料ってことで」
「……」
「お前さえ望めば、大学の講義だって受けられる」
「カーディフは、さすがに……」
「まァ、確かに遠いわな。オレと一緒に週二回通ってたら、仕事どころじゃなくなっちまう」
――それもあるけれど。
さすがにまだ早すぎる、ということばが出かかって、ビョルンは慌てて呑み込んだ。身の程知らずもいいところだ。
ロンドン博物館は、シティのど真ん中に位置している。ローマ時代の城壁の脇に建てられていて、今日ここに来るまで、ビョルンはそんなことすら知らなかった。「小学生のとき、歴史の授業で来なかったか」とルカに言われたが、まったく記憶がない。いじめを受けていて授業もろくに出ず、義務教育をなんとか終えられたのも、熱心な教師が見捨てず課題をくれたせいだ。学生時代を無為に過ごしてしまったことを、まさか三十五歳になる身で、ここまで痛烈に思い知らされるとは。
「……で? 今日の講義の感想は?」
博物館の外の城壁を眺めていると、待ちかねた様子でルカが問う。こんなときの彼は少年みたいで、口髭の傍に浮かんだえくぼがかわいらしい。
「さすがだよ。俺みたいな教養ないヤツにもわかりやすい。いきなり古代の話じゃなくて、ロックの歌詞とかギャング映画の話題から入って十九世紀から遡るから、親しみやすいし」
「そりゃどうも」
「それでさ、さっそく訊きたいことがあるんだけれど」
「じゃア、続きはあすこでゆっくりうかがおうか」
ルカが指さす先には、ちょうど灯を入れたばかりのパブの看板が輝いている。シティの金融マンたちとおぼしきスーツの男たちが吸い込まれてゆくその後に、ふたり肩を並べて続いた。
すこしでも、彼に近づきたい。その思いを募らせ、クリスマス休暇が明けるやいやなやビョルンがまず向かったのは、街の本屋だった。
――とにかく、知識をつけねェと。
もしかしたら、ルカの茶飲み話の十分の一も理解できていないのではないか。自分があまりに無知なので、彼の話題の幅を極端に狭めてしまっているかもしれない。そう思うと、いてもたってもいられなくなったのだ。
ところがいざ、膨大な背表紙を前にすると、途方に暮れてしまった。どれを選べばよいのかわからない。いやそれより先に、どこから手をつけるべきか、見当もつかない。なにしろ働きはじめてからというもの、本などまともに読んだことがないのだ。しばらくうろうろと本屋のフロアを歩き回り、英国史のコーナーに的を絞って迷った挙げ句、結局そこも離れる。ようやく読みたい、というよりも、読める本を見つけたのは、恥を忍んで向かった少年少女向けの本の棚でのことだった。
『図説・英国の歴史』と、『ローマ帝国以降の英国:五世紀から十一世紀まで』。直感で選んだのは、この二冊である。いかにも歴史に興味を持った小学生に親が買い与えそうな一冊めはともかく、二冊めをなぜ選んだのか、ビョルンにもよくわからない。ただなんとなく、十世紀から十一世紀という時代に興味がわいた。それがあの「アシェラッドのバラッド」で詠われるのと同じ時代だと気づいたのは、迂闊にも家に帰ってきてからのことだ。
――まァ、結果的にこの二冊を最初に読んだのは、正解だったかな。
夕食の下ごしらえを終えてひと息つき、マグカップの紅茶を啜りながら、ビョルンは二冊の本をキッチンのテーブルの上に並べる。今日は講義のある火曜日なので、ルカは朝から留守にしていた。
二冊の本には、すでに開き癖と手擦れができていた。それに加え、リビングに飾られているルカの『アシェラッドのバラッド』も取ってきて、好きな場面のページをおもむろに開く。このところ、十数年ぶりに読み返しているが、背景がすっかり頭に入ったせいか、物語がより立体的に立ち上がってくるようになった。アシェラッドが未来を託した王子が、イングランドとデンマーク、さらにはノルウェーに君臨し、大王と讃えられたクヌート一世だということ。クヌートの治世、イングランドの平和が保たれていたこと。そしてアシェラッドの、ルカの故郷ウェールズ。クヌートの死後三十一年を経て起こるノルマン人のイングランド侵攻以降、イングランドに服従を強いられながら、幾度も反旗を翻した人びとの中に、アシェラッドと同じ反骨の血が流れているのを感じる。
その血脈のはるか先に今、ルカがいるのだ。焦がれてやまぬ、気高く美しいひと。
――ビョルン、いい槍だったぜ。
ルカの姿をしたアシェラッドが一瞬、脳裏に鮮明にあらわれる。まるで見てきたようだ。心酔し、想いを募らせるあまり、このところはますます彼の姿でアシェラッドの物語を思い描くようになっていた。アシェラッドの腹心のビョルンは、もちろん自分だ。あまりに虫がよすぎるとは思うのだが、同じ名を持つよしみだと、ビョルンは物語のビョルンにひそかに赦しを乞う。乞いながら、敬愛してやまぬひとに必要とされ、労りを受ける甘美さに、酔いしれる。
――なあ、十一世紀のビョルン。あんたも、こんな気持ちだったんだろうか。
別の本を手に取って、昨日まで読んだ続きの章を開く。『古英語入門』、これはルカの書庫から借りてきたものだ。ひそかに歴史の自習をはじめたことは、ルカには一月のうちにばれていて、彼は喜んで書庫を開放してくれた。あれからもうすぐ半年、今では大人向けの一般書はもちろん、専門書だって気合いを入れれば読むことができるし、自分が何をすべきかも、はっきりと判っている。
当面は、歴史や文学の知識を深めたい。いずれは大学入学資格を取って、二部でも通信制でもいいから、秘書の名に恥じぬようせめて学士号を取りたい。大学のルカの講義も正式に受講したいし、なによりも一日も早く、原文で『アシェラッドのバラッド』を読めるようになりたいのだ。
「その髪は朝日のごとく輝き
そのまなこは高き空のごとく澄み渡りけり。……」
アシェラッドをたたえるあの文句を、声に出して吟じてみる。脳裏にまた、鮮烈に浮かぶ光景があった。つめたく冴えた、冬の湖のようなまなざし。フードのついたケープを羽織り、船の舳先に立つ彼はルカの顔をしているが、いつも洒脱で朗らかなルカにそんな眼を向けられたことはない。ただの想像にしてはやけに生々しく、ビョルンの胸を掻き乱す。
その後ろ姿を、じっと追う視線。この視線は誰のものなのか。自分なのか、それとも十一世紀のビョルンなのか。冷ややかなまなざしがこちらを振り向き、ほんの一瞬、心臓にじかに触れるような情を滲ませて、底知れぬ笑みをたたえる。そのとき胸の奥で熱く燃え立つこの高揚は、まぎれもなく今、自分が感じているものだった。
――そう、あんたはいつも待っていた。この瞬間を。
彼に必要とされている。彼に頼りにされている。誰にも心を許さぬ孤高の男が、自分ただひとりのものになる。その瞬間を待ち望んで剣を振るった男の心の高揚が、今やビョルンには手に取るように理解できる。あたかも、もうひとりの自分のように。
――でも、あんたはほんとうに、……それだけでよかったのか?
本を慌てて閉じ、ビョルンはおぼつかぬ足取りで、トイレに向かった。扉を閉めるのももどかしく、ズボンのジッパーを下げる。ぶざまに膨れ上がったものが、飛び出した。すでに芯を持ち、痺れたように熱いそれを、無我夢中でしごく。
――ほしい。
あのひとがほしい。珊瑚のくちびるの甘さを、鼓膜を撫でるあでやかな声を、はかない淡雪のような裸身を、どれほど夢想したことか。すこし辛そうに眉根を寄せるさまを思い浮かべ、もう幾度も自慰をしてしまっている。友達のハグだけでは、もう我慢できない。
けれども、狂おしい熱情がひいてゆくと、後悔と疑念が押し寄せる。彼の知の高みに憧れ、それを追いたいと願う気持ちは真実だ。しかし、こんな劣情に油を注がれて燃える焔は、果たして純粋と言えるのだろうか。
「……教えてくれ。千年前のビョルン」
自分でも呆れるほどの迸りに辟易としながら、ビョルンは途方に暮れて、暗い壁を見つめていた。
(6)に続く