カンラン石のカケラを食んで 遠くから飛行自動車の走行音と公園で遊ぶ少年少女の楽しげな声は届くものの、風が一つ吹けばかき消されるくらいにはここは人混みから離れている。ちょうどあたりに人がいなかったため、反重力装置から発せられる低く微かな電子音と、レオスの足音だけが確かな音を形作っていた。
全盛期に比べれば少しばかり背は縮んだだろうが、それでも元々190センチを少しばかり超えていた大男が使う車椅子は、本人の趣味もあり、落ち着いた深緑色に塗装されたオーダーメイドの特注品。長い足をゆったりと下ろして十二分に背を預けられるくらいには大型だった。レオスは握り心地の良い合皮のグリップを、何度目か分からないくらいに握り直して車椅子を押して歩を進める。
「それで、存在を一つ繰り上がる算段はもうたったのですか」
意を決して話しかけた友人の頭部は、もう何年も前にミルクティー色を失くして雪のような真っ白になっていた。その言葉に、レオスの友人は――オリバーは、緩慢な動作でレオスを見上げる。その顔は加齢のためにすっかり痩せてシワだらけになったが、大きな虹彩のヘイゼルアイは若葉のような瑞々しい輝きを絶やしていない。彼は眉尻を下げて、にへら、と微笑む。
「いやぁ。妖精や、神様の知り合いはいても、運命を曲げることはできなかったよ」
無念さをカケラも感じさせない声色に、レオスは唇を噛んだ。勿論、彼の天才的な脳が想定していた通りの返答で、想定していた通りの笑顔だ。せめて夢を惜しむような返答をして欲しかった、と歯痒さを覚えるのは、少なからず期待してしまっていたのだろうと自嘲すら漏れた。レオスは強張る口元を笑顔の形に変えて、オリバーの目を見つめ返した。語りかけようとする意図を察したオリバーは優しく目を細めて微笑みを深める。
「なあに?」
「…一つ、選択肢を差し上げます」
レオスは白衣の内ポケットから小指程度の小さな瓶を取り出して、オリバーに差し出した。それを受け取ったオリバーは老眼鏡を外して首元に引っ掛けると、中身を注視した。そして頭上へと運び中身を光に透かす。その表紙に老眼鏡がずり落ちて胸元へと落ち、支えた金色のメガネチェーンがシャラリと音を立てた。
小瓶の中に入っているのは、指の先ほどの大きさしかない小さな結晶だ。ガラスの破片よりは美しいが、ペリドットよりは洗練されてされていない、まるでカンラン石のようなそれは、オリバーの瞳によく似たグリーンに輝いていた。
「もし覚悟があるなら、食べなさい」
「これは?」
「……」
合皮のグリップが軋む音がするほどに、レオスは手元に力を込める。顔まで歪めてしまわないよう意識して表情を固めた。
「まめねこは、どこにでもいるんです」
直接的ではない解答にオリバーは首を傾げた。しかし、口は挟まない。オリバーは、レオスが言い淀むことはあれど自分に対して言葉を飲み込むことは無いことを理解している。そうだね、と相槌だけを返すだけだ。
レオスは喉の奥で引っかかる感情を、どこか後ろめたく感じながら言葉へと変換した。
「我々とは一線を画す存在の元にも」
レオスの言葉に、オリバーは察したようだ。ぽかんと開けていた口元を、真一文字に引き締める。真っ直ぐと見つめてくるヘーゼルを、レオスはしっかりと受け止めて言葉を続けた。声の覇気や筋力は衰えてもオリバーの目力は全く衰えていない。寧ろ若い頃よりも雑味が消えたというか、より研ぎ澄まされた鋭さと、より温かい慈悲を持ち合わせるようになった。
肉体年齢は変わらずとも精神年齢は彼と同じく時間と等速で重ねてきたレオスではあるが、己の認識ではこの深さを持てているとは思えなかった。
「君の死後を約束しましょう。でも、その存在が終わる時。ご家族と、友人と…君が愛した存在たちと、同じ場所に行けると思わないことだ」
また、喉の奥で引っかかりかけた言葉をゆっくりと吐き出した。
「君は、人ではなくなるのだから」
天国だとか地獄だとか。そう言った観測不可能な存在をレオスは信じてはいない。死はただの終わりであり続きなど存在しない。だからこそレオスは恐れ、不老長生という実質的な不死を得たのだ。これはただの脅しだ。オリバーはたっぷりと時間をかけて考え込んだ後、ゆっくりと口を開いた。
「そっかあ」
吐息を多く含ませた、小さな返答だった。オリバーは手元の小瓶に目を落とし短く息を吐く。口内でいくつかの言葉を転がすように、唇を震わせる。
「いざ、その切符を手にすると……うん……」
オリバーは眉尻を下げて、としわくちゃな顔で笑う。レオスが古くから見慣れた柔らかい笑顔だ。
「ひとりぼっちは、寂しいなあ」
残念だ、と言わんばかりな自嘲混じりの声色に応えるように、レオスは目を伏せて微笑んだ。そうだ。それでいい。この男は他者を愛しすぎる。
オリバーが死後の世界を信じているかは定かではないが、寂しがりであるというのに、独りを受け入れるほどの強さがある。だが、レオスの中での『オリバー・エバンス』は他者を愛すと同時に他者に愛される存在だった。独りなど、似つかわしくない。上位存在へと繰り上がることを諦めた言動に歯痒さはあれど、結局のところ彼には孤独であってほしくない、というレオスの我儘だった。
レオスが再び目を開けるまでしばし時間があったが、オリバーは未だレオスの顔を覗き込むように見上げていて、知らぬ間にイタズラに微笑んでいた。オリバーは指を何度か折り曲げて、レオスを手招きする。深く考えずに腰を折って顔を近づければ、オリバーは長い腕を伸ばしてレオスと肩を組んだ。昔に比べたらすっかり軽く頼りない腕になってしまったが、記憶の中にあるものと同じくじんわりと温かかった。
「そんな顔すんなよ」
ラフな口調で笑われたが、レオスは自身がどんな表情をしているのか見当もつかなかった。
この日が、レオスがオリバーと言葉を交わした最後の日になる。空気はキンと冷えていたが強い日差しが身体を温める、春が顔を覗かせ始める晩冬だった。
足元の砂利が踏まれて擦れる音が鮮明に聞こえるほどに、風もない静かな日。淡いグレーの墓石の前に座り込んで、レオスは大きく紫煙を吐き出した。澄み渡った青空の下、自然に囲まれ綺麗な空気の中で飲み込む紫煙は格別に美味しい。
レオスの座る場所のすぐ側には、黄緑がかった白百合と、生前友人が好んでいたウイスキーを並々と注いだグラスが供えられている。ウイスキーの銘柄に明るくはないが、高価でレビュー評価が高ければ間違いはないだろう、という判断でレオスが行き掛けに酒専門店で選んだものだ。自家用車で来ているレオスは自身の飲み物は酒ではなくペットボトルの炭酸飲料を持ち込んでいて、喉の奥から広がる爽快感と張り付くような甘ったるさを楽しんでいた。
例えば月命日であるとか、何周忌であるとか、そういった一つの区切りになる期間であればこの場所にはオリバーを慕う者が集まって花やら酒やらを供えに来ただろうが、敢えてその時期を外して一人静かに墓参りに来ることを選んだために近辺にはレオスの他に人はいなかった。故にある程度の自由が効いてしまう。
彼なら許してくれるでしょ、と友人の懐の広さに甘え、少し顔を見せに遊びに来る感覚で墓場に訪れたレオスには好ましい状況だった。
「ほんと。ずいぶん小さくなりましたね、君」
周りに誰もいないことをいい事に、墓石に語りかける。正確にはこの墓石ではなくその下に埋まっている存在が『本体』なのだが、象徴としてそこに墓石があるのだからこちらを『本体』と扱っても大差はないだろう。中央エデンの地下にある廃下水道でパソコンの前に座るレオス・ヴィンセントと、リアル地球側とのコネクトであるバーチャル世界に投影されたレオス・ヴィンセントが同じ存在であるのと同義だ。
何回か墓参りに訪れるうちにようやく見慣れてきた墓石を眺めていると、視界の隅でまめねこのスピアが激しく振られるのが目に入ったため、視線を肩口へと向けた。
「…まめねこ?」
まめねこは片腕で何かを指差しながら、反対の腕でレオスに手招きをする。長年連れ添ってきた経験則で、ある程度の意思を推察することができるようになった。片手をまめねこのそばに持っていく。まめねこはレオスの人差し指を小さな手で掴むと、レオスたちが先程通ってきた道とは真逆へと指差させた。指差す先へと視線と意識を向けようとしたところで――指先から手の甲にかけて感じる、生温かさ。
身長に比例するように比較的大きなレオスの手を覆うように存在する熱のようなものを、手袋越しだというのに確かに認識した。科学者であるレオスが認めるわけにはいかないというのに、頑固でせっかちな頭は衝動を抑えずにあり得ない考えを口から溢した。
「………まさ、か……君が…そんなはずは…」
反射的にレオスは視線を上げる。配信者として並び立っていた頃、共に控え室のソファにもたれてくだらない話を延々としていた遠い昔、そこにあったはずの頭の位置へと無意識に視線を向けていた。
当たり前だがそこには何もない。淡い青が一面に広がる雲ひとつない冬空がただあるだけだ。だが、レオスの焦点の外側、認識できないほど薄い壁の向こう側から、柔らかい慈悲を帯びたヘーゼルグリーンがレオスに向けられているような気がした。それはまるで、視線のようだった。
「……ハハ…なるほどね」
存在は、信じていない。だが俗説やレオス本人が持つイメージから、霊というものは冷気を帯びていると認識している。ならばレオスが確かに認識しているこの感覚は霊的存在以外の存在である。
そして、この感覚を知覚した以上、レオスは非科学的事象であるこの現状を認めなければならない。今目の前にあるはずの虚空には触れることも視認することもできない何かが確かに存在していることを。
じわ、と目が熱く滲む。レオスは慌てて顔を逸らし、強く目を瞑った。数度、ゆっくりと深呼吸を繰り返す。
「馬鹿な道を選びましたねぇ。自ら独りになるなんて、君は、本当に、お馬鹿さんだ」
ああ、この男は本当にズルい。
レオスにとって、『見えなくてもそばにいる』という励ましは、気休めにすらならない。ロマンチストを自称するレオスだが、その慰めを受け入れられるほど優しい幻想の中に生きていなかった。
触れることが、言葉を交わすことが、視認することができなけば…知覚することができなければ“いない“も同義。エデンが滅びるその日まで、永遠にも長い時間続いていく孤独の中で生きるのは結局レオス一人ということに変わりはない。寧ろ友人は自分のことを視認できるというのにレオス側からは向こうからの接触がなければ知覚することすら出来ないのだ。なんと脆くて危うい支えだろうか。見守ってもらおうがもらうまいがこの孤独は埋まらない…今のレオスには、その壁を越えられるほどの精神的な余裕はなかった。
不意に肩が重くなる。その重さに質量はない。しかしじんわりと染みるように温かい。まるで、自分より大きい存在に肩を組まれているような感覚がした。そして。
そんな顔をするなよ、と。
聞こえたような、そんな気がした。
葬式ですら出なかった涙が溢れるようにこぼれ落ちる。レオスは慌てて白衣の袖で顔を拭い、歯を食いしばって深く息を吐いた。本当に、ズルい男だ。散々レオスの記憶と感情に刻み込んでおいて、さっさと舞台を降りて、それなのに観客として干渉してくる。憎たらしいのに、レオスの頭に浮かぶのは八つ当たりのような罵倒ではなく、共に配信活動をしていた頃に散々繰り広げた、茶化すようなからかいの言葉だった。
唾を無理やり飲み込んで、震える吐息と漏れそうな嗚咽を全て腹の奥へと落とし込めば、今にも騒ごうとしていた感情はすっかり静かに収まった。口角を上げたレオスの口からは、意識した通り、からかいのこもった笑い声が出た。
「人恋しくなったら顔を出しにきなさい。私が君を知覚することができたら、茶の一杯くらいは出しますよ」
君は寂しがり屋ですからね、と言葉を続ける。『オリバー・エバンス』を知るすべての人間にこれから認識されることがなくなった、あのお喋り好きな友人はこれからレオスとは違う孤独の中に生きるのだろう。それとも人外へと成って、長命種として精神も成熟することはできたのだろうか。少なくとも今のレオスにはそれを確認する術はない。…ただ、いつか暇つぶしにでも確かめてやろう。あのカンラン石のような霊薬を食わずとも、彼の住む世界へのコンタクトを出来るようにして驚かせてやろうじゃないか。
レオスは鼻の奥をツンと痛める熱いものをゆっくり吐き出してから、五感ではない場所で感じ取っているヘーゼルアイに視線を向かけて、おもむろに口角を上げた。
「楽しみにしていてください。…オリバーくん」
髪を揺らす程度のそよ風が頬を撫でた。風に乗って、楽しげに揺れる笑い声と、互いの肉体年齢が同じだった頃に嗅ぎ慣れた薔薇の香水の匂いがした気がした。