□ 兄とのバンド練習を終え、タワーに戻ったジュニアがウエストセクターのリビングに入ると、フェイスが一人ソファで寛いでいた。
「おかえり、おチビちゃん」
「…ただいま」
時刻を見れば、もう間もなく日付けが変わろうとしている。この時間に自室ではなくリビングに居るということは映画でも観ていたのかと思ったが、そうではないらしい。
ただそこに座っているだけ。何となくそんな印象を受けた。
キースとディノは飲みに行くと言っていたので、今ここにいるのはジュニアとフェイスの二人きりだ。ジュニアが帰ってくるまではフェイスが一人で過ごしていたことになる。リビングはとても静かだった。
「珍しく、遅かったんじゃない?」
スマホの画面に視線を落としながら、フェイスが声を掛けてきた。
ジュニアは今日、久しぶりに兄と会うことになっていた。兄の家に向かう前からずっと胸を弾ませていた予定だった。実際に会ってみれば、バンドの練習だけでなく、次のライブの相談とか、普段の電話越しではない会話とかが楽しくて、気づけばすっかりいつもの解散時間を過ぎてしまっていたのだ。
そんなようなことをジュニアがぽつりぽつり話せば「そうなんだ、良かったね」と返事をするものの、フェイスはずっと視線を向けてはこなかった。
垂れた前髪に隠れた横顔を見て、ふと思い付いた言葉がそのままジュニアの口からこぼれた。
「クソDJ、もしかして怒ってんのか?」
「えっ?」
自分でもなぜそんなことを思ったのかと驚いていると、フェイスからもっと驚いたような声と視線が返ってきて、そこでようやく、ジュニアはフェイスの表情と向き合った。
「別に怒ってないけど」
何故そんなことを訊くのか、訝しむでも不快になるでもなく、全く想定外のことだったとその表情と声色が伝えてくる。それでジュニアも、今の問いかけが的外れだったと思い至る。
けれど、何となく、そんなことを言いたくなるような違和感が確かにあったのだ。それが何かわからないから、とりあえず思い付いたことを言ってみたのだけれど。
まだ納得しきれてないジュニアの表情を見て、フェイスが小さく喉を鳴らして「変なおチビちゃん」と笑った。ジュニアは目を瞬く。フェイスは機嫌が良さそうだ。
「お子様がこんな時間まではしゃいでたから、疲れちゃったんじゃない?」
「なっ…!」
「ほら、いつまでそこに立ってるつもり? 早くシャワー浴びてきなよ」
言い返す前に勢いを削がれて、ジュニアは口を噤んだ。フェイスはまだ目元に笑みを浮かべたままこちらを見ている。
「…言われなくても、そのつもりだっつーの!」
それがなぜだか悔しくて、ジュニアは大股で自室に戻ると、荷物を降ろしてすぐに、また大股でシャワー室へと向かった。
扉が閉まる間際、背中に掛けられたアハハ、という笑い声は聞こえないふりをして、やや乱雑にシャワーの水栓をひねるのだった。
シャワーを浴び終わる頃にはすっかり気持ちも落ち着いたジュニアだったが、リビングに戻るとそこにはまだフェイスが居座っていてほんの一瞬だけ「うげ」と内心で呻いた。
それでも、後はもう自室のベッドで寝るだけだし、一言おやすみとだけ声を掛ければ今日は終いだ。そんなことを思いながら寝る前に何か飲もうとキッチンへ向かい冷蔵庫を開けると、そのタイミングで後ろから声を掛けられた。
「俺にもちょうだい」
冷蔵庫と向き合ったまま肩越しに振り向くと、フェイスはソファの背もたれに肘をついてキッチンにいるジュニアを振り返っていた。
ほんの少しの距離なのだから自分で取りに来ればいいと、言いたくなった言葉をぐっと飲み込んだ。
フェイスが指摘した通りというのが不本意ではあるが、今のジュニアがベッドに横になればすぐにでも眠れる程度に疲れているのは確かだった。幸い、明日は一日オフなので多少の夜更しはまあいいかと思わなくはないけれど、日頃の規則正しい生活リズムに身体は抗えない。水分補給をしたらすぐに寝ようとジュニアは思っていた。
ここで言い返せば面倒くさいやりとりをすることになるのは容易に想像できたので、これまた不本意ながら冷蔵庫のドアポケットにストックしてあるボトルを二本、手に取った。
「…ミネラルウォーターしかねーぞ」
「うん、それでいいよ」
わざと不機嫌な声を出してみても、フェイスは全く気にしない。ソファの背もたれに顎を乗せて、ジュニアがボトルを渡しに来るのをゆったりとした微笑みで待っていた。
「ほらよ」
「アハ、ありがと」
相変わらずご機嫌なフェイスにジュニアは無性に悔しさを感じたが、それよりも眠気が勝った。これを渡したら自分は部屋に戻ってすぐに寝よう。そんなことを考えていた。
だから、フェイスが続けて紡いだ言葉の意味がすぐに頭に入ってこなかったのだ。
「俺、おチビちゃんのこと好きだな」
ボトルを手渡して、それで終わり。そのはずだったのに、ジュニアは動けなかった。
フェイスが、手渡したボトルではなく、ジュニアの手首を掴んでいたから。
「お、おい…」
「聞いてた? 好きって言ったの」
もう一度、言い聞かせるように、その二文字をくっきりと際立たせてフェイスが伝えてくる。
ジュニアは息を呑んだ。それが冗談でも、気軽に言っているのでもないとすぐにわかってしまったのだ。だって、そうと片付けてしまうには、フェイスの瞳があまりに一途だったから。
「ねえ、こっちにきてよ。隣、座って」
ジュニアを見つめるフェイスの瞳をがふと柔らかく細められた。掴んだ手首を微かに揺すって、ソファに座ることを促してくる。
フェイスの手は、振りほどこうとすれば簡単にそうできる程度の力しか込められていない。けれども、ジュニアが座るまで決して離さないという意思が間違いなくあった。
先程のフェイスの言葉に、全く思考がまとまらず、言葉も見つけられない。そのまま立ち尽くしていると、おチビちゃん、と念を押すように呼ばれた。
それでジュニアはようやく動き出すことができた。眠気なんて、もう何処かへ飛んでいってしまっていた。
──…水、取ってきてやったんだから、受け取れよ。
ソファに座ってまず二人がしたことといえば、揃って水を飲むことだった。冷えていたボトルはもうほとんど常温に戻っていたが、飲めば喉が潤う。
思いの外、渇きを感じていたようで一度口を付けただけのボトルの水はもうほとんど残っていない。シャワーを浴びた後だから、それだけが理由ではないことはジュニアもわかっていた。けれど、理由の張本人であるフェイスと隣り合って座っていても不思議と気不味さは感じなかった。
ソファに促して以降フェイスは黙ったままだったが、視線はずっとジュニアに向けられていた。水を一気飲みしたジュニアが小さく息を吐くと同時に、フェイスが小さく息を吸う音が聞こえる。
「何も聞かないの? 俺さっき、告白したんだけど」
フェイスの言う告白とは、「今日何食べたい? 教えてよ」なんて献立のリクエストを催促するような、そんな気軽に訊ねられることなんだろうか。これまで告白したことも、されたこともないジュニアにはよくわからない。わからないので、素直に聞き返した。
「きくって、何を」
「いつから好きとか、どこが好きとか」
「……別に、そこまで興味ねーし」
「ええ、冷たくない?」
そう言うなら、もっと非難がましい表情をすればいいのに。困ったように眉を下げて、小さく首を傾げながらジュニアの顔をのぞき込んでくるフェイスは不満げでも、不機嫌でもない。
その表情を何と表せば良いのか、思い至ったジュニアは、喉の奥を擽られてるような気持ちになって息が詰まった。
寂しげな顔をしたフェイスが、ジュニアを見つめている。
頭の中では様々な言葉が飛び交っているというのに、その中の一つも掴み取ることができない。何と答えれば、この状況で正しくいられるのか、ジュニアにはわからないのだ。
さっきは興味がないと言ったけれど、本当にそうかと問い返されたら、今度はきっと知りたくなってしまうと思った。しかしそれを知るためにはフェイスの心に触れなければならない。
彼の胸の内側に手を差し入れて、その奥の柔らかい部分に自分の指先が触れてしまうのはどうしてかひどく躊躇われた。
だから、どうかこれ以上は見つめてくるなと、ジュニアは思わず願った。止めてほしいと寂しい瞳に縋ってしまった。
「…まあ、おチビちゃんにそこまで期待はしてないけどね」
ふと小さく息を吐いて、フェイスの顔が離れていった。向けられる視線も、表情も、いつものジュニアをからかおうとするそれだ。
普段の態度に戻ったことにホッとしたくせに、勝手に期待を外されたことには苛立ちを覚える。見くびられたようで、何か言い返してやらないと気が済まない、そんな気持ちになっていた。
押しのけたのはジュニアの方だったのに。それでフェイスも、一歩後ろに引いたのに。
「じゃあ何で、好きだなんて言ったんだよ」
ジュニアの言葉にフェイスは微かに息を呑んだ。珍しく、目を丸くしてジュニアを見ている。ジュニアも自分のやっていることがどこか矛盾をはらんでいるとはわかっていたけれど、その考えをまとめる前に言葉が先に出てきてしまっていた。
もう後には引けない。ならば突き進むしかない。いっそ挑むような気持ちでフェイスを見返せば、ほんの少し優しげな視線とかち合った。
「…おチビちゃんて、ほんと、いつも煩いし騒がしいし喧しいって思うんだけど」
「──は!? なんだそれ全部悪口じゃねーか!」
「ちょっと。最後まで聞いてよ」
「むぐっ…!?」
口を塞がれてジュニアは驚いた。フェイスはジュニアの口を塞いだ手に自分の口元を寄せるように、また顔を近付ける。
「けど今日、ふとおチビちゃんがいなくて静かだなと思ったら」
──何だか、寂しいって思っちゃったんだよね。
お互いの鼻先が触れるほどの距離で、フェイスが囁くように告げる。だから、さっき好きって言ったのは。
「おチビちゃんがいなくて寂しがってる俺のこと、知ってほしかったのかもね」
言いながら、自分でも告白の理由を確かめているようだった。最後まで言い終えて納得したように一人頷くフェイスに、ジュニアは全然すっきりしない。フェイスの手を乱暴に剥して、自由になった口から素直に不満をぶつける。
「なんだよそれ」
「なにって、おチビちゃんの疑問に答えたんだけど?」
確かにそうではあるけれど。知ったところで結局、どう扱えばいいのあぐねてしまうのだ。
「そんなこと言われてもわかんねー。クソDJは、おれにどうしてほしいんだよ?」
「へえ? おチビちゃん、俺に何かしてくれるの?」
「は!? ちげーよ、そういう意味じゃ…!」
「それじゃあ俺と、デートして」
意図した方向と違う道筋に逸れてしまった話をジュニアが戻そうとするより先に、フェイスがそのままコマを進める。
「でーと!?」
「明日は俺もおチビちゃんも一日オフでしょ。一緒にどこかでかけよう」
「どこかって」
「ミュージックストアでもゲームセンターでも、おチビちゃんの行きたいところならどこでも。お昼は何が食べたい?」
「は、ハンバーグ…」
「それじゃあ、ダイナーも。ああ、ノースのレストランもあるか…」
空中に視線を遣りながら、フェイスが少し考える素振りを見せる。トントン、トンと手早く話を進めながら、同時にタイムスケジュールも組み立てているのかもしれない。
ジュニアはただ黙って見つめるしかなかった。遮ろうとか、口を挟もうとか、そんな気持ちは起こらなかったし、何より断るなんて考えがそもそも浮かんでこなかった。それがどういうことかも、ジュニアは気づいてないけれど。
ふと、ジュニアに視線を戻したフェイスが首を傾げてにっこり笑う。
「おチビちゃん。それで、返事は?」
この話がもう、イエス・ノーを選べるところから大分離れてしまっていることはジュニアにだってよくわかっていた。フェイスによってどんどん進められたコマが行き着く先も。
ゴールは目前。あとはもう進むだけ。
わかりきっている答えでもフェイスが返事を催促するのは、ジュニアからのイエスをちゃんと聞きたいからだ。
「……寝坊すんなよ」
「もちろん。おチビちゃんもね」
これで明日の予定は確定した。
寝坊するなと言ったはいいが自分の方こそもう寝なければとジュニアは思う。それなのに、やけに甘い色の瞳で微笑むフェイスから目を離せなかった。
夜はすっかり更けているけど、いよいよ今夜は眠気がやってこないかもしれない。そんな予感ばかりがジュニアの頭を埋め尽くしていた。
おわり