運命がよかった カップに半分残ったコーヒーにもう手を付ける気はない。
喫茶店のこじんまりとした座席の中でも、さらに二人掛けに作られたテーブルとソファーは悟と向かい合わせて座るには少し窮屈だったものの、なんだかんがこういう狭い空間に傑は居心地の良さを感じてしまう。
悟が飲んでいたミルクセーキのグラスはもう空だった。プリンアラモードの乗っていた皿はずいぶん前に片付けられてしまっている。
何かを話し始めるにはちょうどいい頃合いに違いなかった。
「髪は長い?」
「どうだっけ、でも首元とかすっきりしてる印象かも」
「何色?」
「黒かな」
「身長は?」
「小さい!」
悟はそう答えるが、悟自身190cmを超えた長身なので、この質問はあんまりあてにならなかったなと傑は思う。
「ほかに特徴は?」
「うーん、笑顔が可愛い?」
「あ、じゃあ顔とか覚えてないの?」
「それがはっきり思い出せねえのよ」
逆に思い出せたら苦労はしねえ。と悟が言うので、それには傑も確かにと静かに頷いた。
悟から聞き出した特徴をもとに、傑はそれらしい人物像を思い浮かべようとするが、明らかにこれだけの情報では特定の誰かを組み立てることはできなかった。
挙げられた要素は明確なようでぼんやりとしている。これだけの情報ならば大抵の人間が当てはまってしまうだろう。
「付き合ってたの?」
「いんや、付き合った覚えはないんだよな」
「へえ、じゃあ片思いの相手か。熱烈だね」
「馬鹿にしてる?」
「まさか、すてきだと思うよ」
傑はにこりと笑って手元のコーヒーカップを指先でなぞった。
やっぱりなぞるだけでそれを口元に持っていこうとはしなかったけれども。
「告白しなかったんだね」
「しなかったっぽい」
「なんで?」
「わかんね、なんでかな?」
うーん?と首をかしげながら悟はテーブルの端に置かれた角砂糖の壺を開けると、その中からいくつかの角砂糖をひょいひょいと手元の小皿に取り分けたと思えば一つぱくりと口に入れてしまう。
相変わらず引くほど甘い物を食べる悟のこの姿を見て引かないのも傑くらいなものだろう。
「告白したらいけてたんかな」
「それはわからないよ」
「だよなあ…」
「まあ、これからまたやり直せばいいさ」
せっかく思い出したんだから。と傑は言った。
悟は今、過去に恋した相手を突き止めようとしていたのである。
過去といっても五年前、十年前などの記憶ではない。
今世に生まれる前の、前世の記憶なのだ。
悟、そして傑には前世で呪術師、或いは呪詛師だった頃の記憶があり、今はその記憶と何となく付き合いながらこうしてまたつるむようになっていたのである。
呪術を扱う存在であった頃にもまさか前世なんてものが存在するとは思ってもみなかった。とはいえ、もって生まれてしまったからにはそれを享受していくしか仕方がない。
並の人間より少し、デジャビュを感じる頻度が高いだけとでも思っておこうと傑は考えるようにしていたのである。
だがやっぱり前世の頃に思い残していた事はやっぱりないわけではなくて、今日はその悟が思い残していたらしい前世での恋の相手について傑は相談を受けていたのである。
悟は傑よりも少し長く前世を過ごし、それに加えて常に人の何倍も頭を回転させていたものだから蓄積されていた情報が膨大だった。
そのため、傑よりもいささか前世に関する記憶の思い出され方が緩やかだったのである。
悟はやっぱり頭のいい男だったが、当時持っていた情報をそのまま思い出そうとすると負荷で脳が焼き切れてしまうのだろう。
あれが好きだった気がする、これをやってた気がする。と傑と過ごし始めた頃から前世の記憶はより鮮明に悟の脳裏に蘇ってきていたらしい。
そしてその事を見越してあの頃に遂げられなかった恋の相談を持ち掛けているようだった。
「会えさえすれば直感で分かる気がするんだよな」
「びびっとくるとか?」
「まじでそんな感じ。ほら、傑と会った時もこいつだ!て思ったし?」
「こいつだ!って思ったんだ」
ふふっと傑は笑い、数年前の高校の入学式の日のことを思い出した。
教室から講堂へと向かう廊下で偶然出会い、「オマエー!」と悟に真正面から突然叫ばれたのがすべての始まりだったのだ。
「まあ、私も悟と出会うまでは悟のことは忘れてたんだけどね」
「えー傑くんひどくない?」
「それは悟もだろ」
ブーメランだよ。といえば、ちぇーっと思ってもいない癖に悟はわざとらしく口を尖らせた。
そうは言ったものの傑は、本当のところ悟のことを忘れてはいなかったのだ。徐々に思い出される前世の記憶の中にはいつだって何よりもまぶしい存在があって、それが若い青年の姿をした美しい男だと分かるまでそう時間はかからなかったのである。
傑の頭の中にはいつだって悟がいた。同じ制服を着て過ごした時代と、最期に見た悟の顔を何度思い出し、何度夢に見たかわからない。
前世の頃から傑は悟のことがずっと好きだったが当然それは遂げられることはなくて、こうして同じ魂と記憶をもって生まれなおしたこの世界にそっくりそのまま持ち越してきてしまったのである。
だからこそ悟にまた会えて、悟も自分のことをわかってくれたことはうれしかった。二人の関係はあの頃と同じ親友で、たいていは二人で一緒に過ごしているし、時にはめちゃくちゃな喧嘩もする。周辺の人間からも二人はセットで扱われがちだ。
別にいつも一緒な訳はないよ。と言いつつもなんだかんだ休みの日も飽きずに二人で会っていたりするものだから、どこかこのままの関係がずっと続けばいいと傑は思っていたのだった。
そうするためには持ち越してしまった悟への気持ちはきっと邪魔になってしまうだろう。だから傑はこの気持ちは決して口にはせずに胸の中にしまい込んでおくことに決めていた。
それに今は悟の幸せを何よりも願っていたから、こうして傑は悟の前世での恋の相手を探す手伝いを快く引き受けていたのである。
「というかさ…前世からずっと好きなやつがいるって話、傑には引かれるかと思った」
「ええ、なんで?」
「だって重くない?」
「うーん、言われてみれば…?」
身に覚えしかない傑は苦笑いをする。
「こうやって生まれ変わってんのにさ、俺どんだけそいつ好きだったんだろ」
「相当なんじゃない?死んでも忘れられなかったんだからさ」
「確かにな…なあその、死んでも忘れられなかったってちょっといいな?」
「そうかい?」
悟は角砂糖をまたひとつ口に入れてがりがりと噛み砕く。また何かを思い出そうとしているのか、何かを考えているような素振りも見せていた。
「たぶん運命の相手ってこういうのを言うんだろうな」
そしてぽつりと呟かれた言葉に、傑はぽかんとする。
悟がそんなことを言うとは思いもよらなかった。けれどもなんだかそれは自分にもしっくりくる響きだったのである。
「なかなかロマンチックだね」
「だろ?」
「悟の運命の相手か、これは適当な仕事はできないな」
「いや最初から真剣に向き合えよ」
こっちは本気なんだぞ!と悟は言う。
はいはいと笑いながら傑は悟の手元の小皿から角砂糖をつまみ上げると、つんとそれを悟の唇に押し付けた。
そうすれば悟はぱくりとそれを食べる。餌付けのような絵面だ。
「ちゃんと探すさ、でも悟が覚えてる情報が煩雑過ぎて手掛かりにもならないよ」
「だよなあ、もっと何か思いだせりゃいいんだけど…」
「一発殴ってみようか?」
「ばーか俺の頭はお前の石頭と違って繊細なの」
「ふわっふわの鳥の巣みたいな頭してんのに?」
「お、今日はなんか吹っ掛けてくるな?」
表出るか?と聞かれる。出ないよ。と傑は返事をした。
一通り軽口を叩きあって満足したのか、悟はまたソファーに座り込んで考え事を始める。傑はテーブルに伏せたスマホを覗く振りをしながら、ちらりとその悟の顔を見ていた。
この世界には悟の運命の相手がいるらしい。
きっとそれは自分が死んでから出会った相手なのだろう。
少なくとも傑の記憶の中に、悟の運命の相手と成り得る人物はいない。
付き合っていないとは言ってたが、もしかして晩年の悟のことを支えてくれた存在なのかもしれない。
一目会っておけばもっと探す手伝いが捗ったかな。
いやでも自分が好きな男の運命の相手の顔なんて、果たして生まれ変わっても覚えていたいはずがない。
そんなものに記憶域を使うくらいならば、悟との思い出をより鮮明に覚えておいた方が有意義に決まっている。
だがそんなことを考えている場合ではないのだ。
悟の運命の相手を見つけてあげたい気持ちも本物で、悟の幸せを何よりも願っている思いに嘘はないのだから。
前世では自分という友達を殺すことになって、その先もきっと悟は辛い思いをたくさんしただろう。
悟を幸せにするために、自分にできることはなんだってやろうと傑は、自らの気持ちを胸の奥に押し込むと同時に決めていたのである。
運命の相手を探すにあたって、まずはどのような顔立ちをしているかを絞っていくことにした。
女優やアイドル、モデルなどの複数の女性の画像を用意し、悟に見せて近しいものを選別してもらう。
すぐにわからなくても、これがきっかけでまた記憶の断片を引っ張り出せればそれがまた次の手掛かりになるのである。
「うわ、すご」
「悟、乳じゃなくて顔見な」
「ばれた?」
タブレットにグラビアアイドルの自撮り写真を表示させていた悟が顔を上げた。
まったくこいつは…と傑は呆れたものの、暫くすれば悟は言われたとおりに当てはまりそうな顔立ちの系統を絞り込んでいった。
主に黒髪でどちらかといえば凛々しい顔立ちの美人。そしてもれなく巨乳だ。
「可愛い系じゃなくてきれい系か」
「俺の方が可愛いしね」
「はいはいそうだね」
「思ってんだろ」
「思ってるよ」
そう答えながらも傑は絞り込まれた数点の画像を見ながらまたぼやぼやと頭の中でイメージを構築していく。
こういう顔立ちで背の小さい笑顔の女の子…それから巨乳か。
「絞り込めたような…そうでないような?」
「ヒントは多けりゃいいってもんでもないな」
「そうだね…」
傑は眉間にしわを寄せて首をひねる。
余計にわからなくなってしまったというわけでもないが、思ったよりも出来上がったイメージがぼんやりとしている。
やっぱりもっと決定的な記憶を悟が思い出すまで待つしか…と傑は考えていると、ふっと悟の視線がじっとこちらに向いていたことに気が付いた。
「なに?」
「いや、傑まじで協力してくれてんなーと思って」
「え?」
「俺のためにさ」
その言葉に目をぱちくりとさせていると、悟は照れ臭そうに言う。
「なんか嬉しいっていうか、持つべきものは親友っていうか」
「なんだよ改まって、熱でもあるんじゃないか?」
「うっせ!ありがとうっつってんの!」
ばーか!と悟は子どものように言って、ふんと顔をそむけてしまった。
「あははごめんってば、悟のそういうの珍しいからさ?」
「俺だってそういう気持ちはあるわ」
「茶化して悪かったよ、こっち向けよイケメン」
「言われなくても知ってる」
まだ少し膨れっ面だったものの、悟は素直にまた傑の方を向いてくれた。もう何度も見た親友の顔である。口では言ったものの、怒ってもやっぱり美しい顔をしていた。
「友達だしね、力になりたいさ」
「えーお前俺のこと大好きじゃん?」
「そりゃあね」
ふざけたように返せば、それはちょっと照れるわ。と悟は笑った。
喜怒哀楽がはっきりしていて、ころころ表情が変わるのが面白い。
今までずっとそんな悟のことを一番近くで見てきた傑は、釣られるように微笑みながらも日に日に増していく胸の内のもやもやがまた大きくなったのを感じた。
悟の運命の相手を見つけ出してしまえば、きっと悟はもうその人に夢中になってしまうだろう。
現に自分がそうなのだ。
一回死んだのにまだ悟のことが好きで、悟の傍にずっと居たいという思いを閉じ込めているものだから、そうなってしまう気持ちは痛いほどにわかる。
見つからなければいいなという迷いも嘘じゃない。
でも悟の幸せをなによりも優先したい思いの方がはるかに強かった。
自分だって悟とこうして一緒にいるだけで幸せなのだ。悟が運命の相手と結ばれたなら、きっと傑が今感じている以上の幸せを手に入れるに違いない。
そうなった時、一番に喜んでやるのがきっと親友の役目なのだろう。
「あ、傑!春休みの旅行どっちにするか決めた?」
「北海道か沖縄だっけ、北海道かな」
「だよな!俺もそっちが良いって思ってた」
「じゃあ決まりだね」
悟の手元にあるタブレットにはまだ複数の女性の画像が表示されたままだったので、傑はひょいとその画面を覗き込むと差し込むように手を伸ばして、流れるように画像を閉じてしまう。そして代わりにブラウザを起動すると、「北海道」「観光」と打ち込んだのだった。
互いに話題が尽きないこともあって、どちらからともなく話題が脱線して何も決まらないなんてことはいつものこと。
旅行の話は先月からあまり進んでいなかったし、始まったばかりの悟のおぼろげな記憶だけが頼りになっている運命の人探しは前途多難だ。
だからこの話題についてもそうやってなあなあと続いていくものと思っていたのに、結局のところすんなりと決着がつく結果となったのだ。
大学の研究棟から出て、次の講義までの時間をどうしようかと思っていた傑のもとに、遠くからでもわかる悟がばたばたと走ってきたかと思えば「傑!」とこれまた大きな声で名前を呼んでくる。
なんだ突然…と傑は悟が傍に到着するまでその場に立ち尽くしていたものの、伸ばして飛びついてくる悟をびくともせずに受け止めた。
「見つかったかも!」
「え?」
悟の言葉にひゅっと傑の喉が小さく鳴る。
「それって、君の好きな人が?」
「そう!俺の運命の相手!」
興奮気味の悟が大きな目をきらきらとさせて傑を少し高い角度から見下ろしていた。身長差はそんなにないと思っていたものの、やっぱり悟の方が目線は高かったらしい。
「すごいじゃないか、直感でわかったのかい?」
「直感、というか特徴がかなり似てる!」
「なるほど、やっぱり勘より記憶だね」
どうどう、とはしゃぐ悟をいなしながら、傑は緩く笑って見せた。
正直だいぶ動揺している。だがそれを悟に知られてはいけない。
「どこで見つけたの?」
「近くにさ夜はバーになる喫茶店あんじゃん?そこでバイトしてるのを見た」
「そこって確か昼もコーヒーしか出さない店だろ?そもそも悟には縁遠かったわけだ」
「そゆこと、結構近くにいたもんだなー」
「本当にね、声かけた?」
「まだ!明日行ってみる」
「そう、頑張ってね」
そう言って傑はぽんと悟の背中を軽くたたいた。
悟からは明日一緒に来るかと尋ねられたが、そんな場所に行きたいわけもない。もちろんやんわりと断って、明日は忙しいと嘘をひとつついたのである。
普段から甘い物しか飲めない癖に、その子の前でかっこつけてコーヒーを飲もうとする悟と想像して少し笑い、それから途端に寂しさと虚しさでいっぱいになった。
悟の運命の相手がどんな女なのかは正直気になるところだが、別に目の前でひとカップルが成立する場面に出くわさなくてもいいだろう。
やっぱり運命として紐づけられた相手にはどうやっても出会ってしまうものなのかもしれない。
手掛かりも少なく、途方もないと思った悟の相手がこんなに近くで見つかったように、傑が高校の入学式で悟と出会えたように。
「悟は今日もう授業ないの?」
「いや、この後ゼミ」
「そうなんだ、私はもうないから先に帰るよ」
「帰んの?じゃあ俺もゼミ行かねー」
「なんでだよ、行きなって」
くしゃっと悟の髪を伸ばした手でかき混ぜた。
傑もこの後の授業を勝手にサボることにしたから悟のことは言えない。
だが傷心のままぼんやり授業を聞く気にもなれなかったし、明らかに浮かれた様子の悟と一緒にいるのもだんだんと辛くなってきていたから、早くこの場を解散したかったのだ。
もうあとどれだけ悟といられるかわからないのも事実。
もしこのまま夕方まで一緒に過ごしても傑の方からぼろを出すことはないだろう。
しかし前世から引きずった長い恋がやがて息を引き取ろうとしているのも確かなので、傑はそれを静かに看取りたい気持ちでいっぱいだったのである。
「前祝いしよ!俺明日彼女出来るから」
「強気だね?勝算があるとみた」
「いや勝算しかねえだろ!」
だって運命の相手じゃん!と悟は何の疑いも持たない顔でそう言った。
それに傑はやっぱり緩く笑って、そうだね。とだけ返事をするのだった。
悟に彼女が出来たという話を傑が聞いたのは人づてだった。
喫茶店でバイトをする運命の人に会いに行くと言ってから二週間くらい経っていたかもしれない。
この頃会ってもその話題を口にしないなと思っていたらなるほどそういうことだったのか。
相談してたんだから真っ先に言いに来ないか普通?
まあでも直接聞く前にこうして前もって知って心の準備をしておいた方が後々良かったと思えるのだろう。
その場で泣き崩れるなんてことは無いが、思ったように表情を作ることができないかもしれない。現に傑はその話を人を介して聞いただけなのに、頭を強く殴られたような衝撃を覚えて口元を気づかれない程度に引きつらせていたのだから。
とうとうこの時が来てしまったか。と傑は思う。
自分の運命の相手である悟が、その悟の運命の相手と結ばれてしまったのだ。
これでいい、これでよかったのだ。
悟は幸せになれる。
前世から好きだった相手のことを運命の相手だなんて、悟もよく言ったものだ。
だってそうすれば傑にとっての運命の相手は悟ということになるのだから。
こんな一方通行の運命の相手なんてあるか?
いやでもこうして実際に起きているのだから疑いようもない。
運命の相手なんて定義は少しロマンチックで、時に残酷で、驚くほどにぴったりだった。
仮に自分が悟の運命の相手ならばとっくに結ばれていただろう。いくら悟の記憶の蘇りが穏やかであるとはいえこんなにも近くにいたのだから。
思い返せば結ばれる機会なんていくらでもあったのかもしれない。
でも、そうでなかったということはやっぱり自分は悟の運命の相手なんかじゃなかったんだな。と改めて思うのである。
そんなのわかり切っていたはずなのに、今になってもどうしてまだこんなに悲しいのか?
悟の運命は自分じゃない、自分はなれなかった。
少しだけ、悟にとっての運命の相手も自分であればいいなと思っていた。いや少しどころかそう思わない日はなかったのである。
悟から前世から恋する相手の相談を受けた時の衝撃は生々しいくらい今でも鮮明だった。記憶の中から挙げられる特徴の中でどうにか自分に結びつくものはないかと必死に考えたけれどもやっぱり当てはまるはずもなくて。
強いて言えば髪が黒いという要素はクリアできたけれども、その条件を突破できる候補は数えきれないほどいるだろう。
悟の運命の人になんてなれるわけがない。そんなの前世から決まっているということもちゃんと理解しているはずなのに、どうしようもなく寂しかった。
一人でぼんやりと過ごしていると涙が滲んでくるし、心臓は息苦しいくらいに傑の胸を刺す。
こんなことならば言うだけ言っておけば良かっただろうか?
悟のことが前世からずっと好きで、だから自分の運命の人は悟で…と考えて傑はその妄想をやめた。
そんなことを言って何になる?悟はどんな顔をする?
きっと困るだろうし、気まずくなるかもしれない。
だからやっぱり言わなくてよかったのだ。
たぶんこれが正解なのだから。
自分はまだ悟の親友のまま、悟のことを祝福できる。
悟は晴れて前世から焦がれた人と一緒になれたんだから、これに勝るハッピーエンドはないだろう。
傑が今世で何よりも願った悟の幸せが無事実現したのだから喜ばなければならないのである。
それに悟がこんな思いをしなくてよかったに違いない。
傑は悟の運命の相手になりたかった、でもなれなかった。
自分の運命にとっての、たったひとりでしかない存在になれないなんてことを悟は経験しなくていい。
こんなに身が切れる程の辛い思いを悟はしなくて済んだのだ。
悟の恋が実を結んで、傑の恋も終わりを告げる。そこに残った残骸はまだ傑の胸の中でくすぶっていたけれども、もうどうしてやることもできない。
あと何回か生まれ変われば悟の運命の人になれるターンが回ってくるなんてこともあるだろうかと思ったけれども、傑は自分がこの先何度死んでもまだこの気持ちを持ち越す気でいることに気づいて、呆れて少し笑ってしまった。
だから傑はその拍子に、わざと自分から悟に電話をかけてやったのである。
深夜も一時を回ったところ。
きっとまだ寝てはいないだろうけれども、今悟が何をして、誰といるかなんて知ったことではなかったから。
「傑?どした?」
短いコール音の後、傑が話し出すより先に悟の声が聞こえてきた。
「ちょっとね、いま外?」
「おう、もう家着く」
「デートか」
「バイトだよ馬鹿。あーてか知ってんのか…」
電話の向こうで悟が口ごもったようだった。
知ってんのかって何言ってんだ。と傑は思う。
「悟がそんなに水臭いことをしてくるなんて思わなかったよ」
「いやさ、言おうと思ってたんだけどタイミングが合わなくて」
「ほぼ毎日会ってただろ」
「そうだけど…」
「別に、いいんだけどさ」
彼女出来たんだろ?と傑が尋ねる。
出来た。と悟は返事をした。
悟の声にがさごそと布ずれのような音がする。家に帰りついたので鍵を探しているのだろう。やがてがちゃがちゃと重たい金属音が聞こえた。
「喫茶店の子?」
「まあ、そう」
「今更照れてるのかい?おめでとう、前世越しの恋が叶ったね」
「うん、ありがと…なんかそれくっさくねえ?」
「だってそうだろ?」
傑はそう言って、また悟の声の向こうに聞こえる音に耳をそばだてる。テーブルに鍵を置く音、鞄を床に落とす音、上着をソファーに放る音。
悟の家には飽きるほど行っているから、音だけでどこで何をしているのか見ているかのようにイメージできる。
「ブラックコーヒー飲めないってまだ言ってなくて、どうすっかなーとか」
「うわ惚気かよ」
「うっせ!良いだろ!」
悟の口調は静かだったが、面白いくらいに舞い上がっていた。きっとこんな話を本当はすぐにでも傑にしたくてしょうがなかったのだろう。
傑はそんな悟の気持ちを察しながら、黙って次々に出てくる付き合い始めたばかりの彼女の話題に相槌を打つ。
幸せそうで何より。それは本心だった。
でもこの話を顔の見えない電話越しで聞いていてよかったとも思っている。
表情は気にせず声の調子だけをいつも通りにしておけばいいし、苦しくなれば寝たふりだってできるのだ。
傑はスマホを耳に当てたままベッドにどさっと寝転んで、天井と壁の境目をぼんやりと眺めながら悟の声をただ聞いていた。
なるべく何も考えたくなくて、反射的に相槌を打つ。
付き合ってからどこに行ったか、今度はどんな約束をしているか、まるでラジオドラマでも聞いているかのように傑はどこか別世界の話であるかのように悟の言葉に耳を傾けていた。
そしてふっと、春休みに約束していた北海道旅行のことを思い出す。
あれって結局行くんだっけ?
約束といっても結局口約束程度で、飛行機や宿など別に何の手配もしていない。
悟なら行くといいそうだけど、あの時とは状況が変わってしまっているからこのまま何も言わずに流れていってしまう可能性の方が高い。
どうしようか、駄目元で切り出してみようか?
北海道には行きたい。むしろ一人でこっそりと行くのも良いかもしれない。
いや、こっそり行く必要なんてあるんだっけ?
「傑、寝た?」
「…え?ああ、起きてる起きてる」
天井のシミ見てた。と傑は言った。つい考えこみすぎていつの間にか上の空になっていたらしい。
「お前ん家の天井にシミなんてあったか?」
「気のせいだったかも、飛蚊症かな?」
「適当言ってんな?やっぱ眠い?」
「いいや」
「じゃあさっきの話だけど、傑にはそういうやついねえの?」
「そういうやつ?」
ぼんやりとしているうちに聞き逃していた悟からの話題は何だったのか。
なんとなく想像はついていた。
「その、俺みたいに前から好きだったやつ」
「あー、私の運命の相手ってことか」
いないよ。と傑は言おうとした。けれどもうまくのどが震えなくて、数秒程度の沈黙が流れる。嘘をつけなかったのである。
「…うん、いるよ」
「いんの!?早く言えよ!」
突然悟の声が大きくなり、傑は思わず耳からスマホを離した。
「うっさ」
「いやだってさ!お前全然そんな話しねえし」
「聞かれてないんだからしないだろ」
「んだよそれ、罠じゃん」
「罠って…」
なんだよ、と傑はふっと笑う。
「じゃあ次は俺が傑の好きなやつ探す!どんな奴なのか教え…」
「あー、それはいいんだ」
「は?」
「もう見つけてるんだよね、だいぶ前に」
はー?とまた悟は大きく間延びした声で返事をした。
「まじで?それこそ言えよ!」
「だから声でかいって、何時だと思ってんだよ」
ベッドの上で傑は寝返りを打つ。部屋の隅に落ちた北海道のガイドブックの角がちらりと目に映った。悟と旅行の話が持ち上がった日に買ったものである。
「でも私は振られちゃったからさ、もういいんだよ」
「えっ、傑って振られんの?」
「どういう意味だよ」
「だって傑だろ?人たらしの」
「それけなしてるだろ」
「そもそも運命の相手に振られるってことあるわけ?」
「あるんだってば。現に私がそうだからね」
電話の向こうの悟が一気におとなしくなる。きっとぽかんとした顔をしてスマホを耳に当てているのだろう。なんとなくその顔も目に浮かんで不思議と笑えてきた。
「人間ってそもそも平等なわけがないだろう?数だって余りが出ちゃうもんなんだ。だから私にとっての運命の相手が、同じように私のことを運命だと思ってくれるとは限らないんだよ」
「…そういうもん?」
「そういうもんさ」
悟はラッキーだったね。と傑は言うが、それに対して悟の返事はなかった。
「そいつ、なんか勘違いしてねえ?そいつの運命も絶対傑だろ」
「うーん、ふふ。勘違いならよかったんだけどね?」
なぜか悟の方が消沈している様子が思い浮かぶ。
傑の失恋に同調してくれているのだろう。
しかしその原因は当の悟であり、勘違いだってむしろ「お前がそれ言う?」と返したいくらいなのだ。
けれども傑は吹っ切れた振りをしながら、黙ってしまった悟に「あれ、寝たの?」なんて冗談を飛ばす。
それくらいふざけていないと思いのほかこの告白は辛くて、一度泣いてしまえばもう朝まで涙が止まらない気がしていたのである。
「この話は終わりでいいかい?もう過ぎたことだけど、思い出すと割とへこむしね」
「あー、うん…すまねえ」
「いいや、悟が謝ることでもないよ」
言ってなかったのは本当だし。と言えば、悟はまた「うん」と静かに言った。
考えてみればいつか聞かれるはずのことだったのかもしれない。
自分に運命の相手がいるんだから、傑にもいるのかもしれない。
いたとすれば自分と同じように探すのを手伝いたい、だって友達だから。と悟は考えたのだろう。
ちょっと詰めが甘かったかなあと傑は思いながら反対に悟を慰め、そして眠い振りをして通話を切ったのである。
悟は良い友達だ。
好きだけど、友達なのだ。
自分で切ったスマホを胸の上に置き、傑は再び天井をただ見上げる。悟の言う通りシミなんてない、まっさらで無機質な天井が広がっている。
きっともう色々なことが今まで通りにはいかなくなるのだ。
こうして深夜に電話をすることも、今日が最後だったのかもしれない。
傑にとっての様々な幸せが、こうやって少しずつ取り上げられていくのはもう目に見えている。だとすれば奪われる前に自分から整理してしまえばいいのだ。こういうのも終活というのかもしれない。
自分から向き合ってしっかりと断捨離をして、結果的に何もなくなってしまっても耐えられるように。
そうやって傑は少しずつ悟と距離を置くことに決めたのである。
本当のところ、意識しなくても恋人のできた悟こそ傑にばかり構っている暇はないだろうから自然と二人でいる時間は減っていくことがわかりきっていたものの、あえて自分がそう選択していると傑は自分自身に思い込ませたかったのである。
他愛のない連絡は相変わらず毎日とっていたものの、悟からの返事は以前に比べると少しだけ時間が空くようになっていた。
試しに一日放置してみる。
それから何気なく返事をすると、それにも普通に返信が到着する。
そんな風に少しずつ放置の時間を長くしき、二人で会う約束を取り付けることもしなくなっていった。
こうやって悟の前から徐々にフェードアウトしていって、だんだんと自分の生活からも悟の存在を切り離していっているつもりだったのだが、どういうわけか傑は相変わらず四六時中悟のことばかりを考えてしまっているではないか。
悟は今何をしているのか。授業?バイト?家で寝てる?それとも彼女と一緒かな。
考えれば考えるほど気持ちはどんよりと曇っていき、何もしたくなくてぼうっとベッドに倒れこむことが多くなっていった。
だってずっと好きだったんだから、こればかりはしょうがないだろう。
悟とは今でも友達であるに違いなかったが、一番傍にいる存在は自分ではなくなってしまった。
これが自然なんだと、悟の幸せを望んだ結果だとすんなり納得できればよかったのに、燻ぶった傷心はいつまでも首を縦に振らない。
往生際が悪い。
だったら一体どうしろっていうんだろうか?
今更きれいさっぱり忘れることなんてできやしないのはわかっている。
それが出来たらこんなに深手を負うこともなかったのだから。
ベッドから見える位置に置かれたテーブルの上に広がる北海道のガイドブックに傑はじっと視線を向けると、数日前よりそれは少しだけ厚くなっているのが見て取れた。
北海道へはひとりで行くことにした。
航空券も宿の手配ももう済んでいるし、やりたいことも決めている。
もちろん悟には言っていない。
帰ってからしれっと土産を渡しに行くつもりだった。
ガイドブックのページの端は何か所折られており、開きすぎてよれた部分もちらほらとある。
幸いひとりで出かけても十分に楽しめそうだしなにより身軽だろう。
とはいえ、旅行中に完全に何もかもを清算してしまうことはできそうにはなかった。
悟と行きたかった場所、悟と食べたかったもの、悟と見たかった景色。
ガイドブックを買ったばかりの頃に考えていたそんな気持ちをいちいち思い起こしてしまうのはきっと避けられない。
寂しくないわけがない。
無意識のうちに、ここに君がいればよかったな。なんて思うのだろう。
イマジナリー悟と旅行なんて我ながら怖いな?と冗談ぽく考えるが、結局傑は悟のことを忘れらずに心の中に住まわせたままだったのだ。
東京と違って北海道も春先はまだまだ寒いし雪も降る。
ガイドブックに書いてあった通り、年末に着ていたコートを久しぶりに引っ張り出して着てきたのは正解だったなと傑は思った。
なんだかんだで傷心旅行になってしまったものの、北海道を訪れるのはこれが初めてだったから、まずは美味いものでも食べに行こうとスーツケースを引いて空港を出ようとした。
すると、ふと横目に白くてふわふわとしたものが見えたではないか。
思わず振り向いたそこには売店があり、その店先に青い目をしたオオカミのぬいぐるみがキーチェーンに繋がれてつり下がっていたのである。
手のひらサイズで、鞄につけるにはちょうどいい大きさのぬいぐるみはなんだか悟にも見えてしまって、飛行機を降りたばかりなのに思わずそのまま土産物屋の売店で買ってしまったのだった。
こちらをじっと見ていた気がする。まるで、なんで俺を連れて行かないんだ?とでも言いたげな表情にも見えたのだ。
「君が今回の私の旅のパートナーだよ」
傑はぬいぐるみにそう言い、そして「さとる」と名付けると鞄の中にそっとしまい込んだのである。
北海道は想像以上に広い土地で、本気で各名所を回ろうとすれば時間も体力もかなり使うことを傑は心得ていた。しかし今回はゆっくりとした旅を目的としていたので、ホテルをとった拠点の街からはそんなに離れない範囲で行動できる場所のみ訪れることにしていたのである。
とりあえず今日はホテル周辺で名物でも食べて、ベタに時計塔でも見に行こうか?と、思っていたよりも積もっている雪の上を歩きだす。
滑らないように慎重に歩くと、自分がこの土地の人間じゃない独りぼっちんの存在であることが浮き彫りになっていく気がする。
そんな思いの中で、鞄の中に「さとる」がいてくれることは案外心強かった。
覗き込むとその青い目でじっと自分を見つめてくれているような気がしたのである。
本物の悟とはもうしばらく会っていない。だからなのか、なんだか懐かしい気がしていつまでも鞄の中ばかりを見てしまいがちだった。
いやいやこれで満足してどうするんだ?
なんのために北海道まで来たというのだろうか。
傑はさっそく事前に調べていたスープカレーの店をまっすぐに目指し、青になった横断歩道を渡り始める。
滞在期間はざっくりとしか決めていない。
しかしそんなに早く帰るつもりもなかった。
とにかく北海道にいる間になるべくたくさんの美味い物を食べて、少しでも自分の機嫌を取ろうと考えていたのである。
はじめこそ、出来るだけ観光地を回れるコースを組んでいたのだけれども、どれもこれも以前悟が見たい、行きたいと言っていた場所ばかりだったのでその案はなかったことにした。
傷心旅行でさらに傷をえぐっても仕方がない。
だったら傑が北海道に行きたかった目的に一つである食欲を満たすしかないだろう。
幸いどれだけ滞在してもあれこれ食べても食べつくせないくらいに名物はあるようだったから、初日にスープカレーやラーメンを食べてしまっても問題はない。それにひとつの名物に対して食べに行く店は一つではないので、例えば候補になっているラーメン屋のどちらに入るかを迷って結局その時は行かなかった店に数日後に行くなんてこともできるのである。
そしてこの滞在期間だけ、傑はスマホからメッセージアプリをすっかり消してしまっていたのだった。
そうすれば不用意にアプリを開いてしまうこともないし、勢いで悟に深夜の電話してしまうこともない。
本当はスマホごと家に置いてきてしまおうかとも思ったが、さすがに北海道に行くのにそれをすることは憚られたので主な連絡手段を一時的になくしてしまうのみにとどまっていたのだった。
今の傑のスマホはナビと、観光地の検索と、天気予報のために機能している。
ここしばらくの天気は数日に渡って雪が降る予報が出ていた。
しかし電車が止まるほどでもないらしい。
ひとまずは帰りに乗るはずの飛行機が飛ぶかの心配だけをしていればいいかなと、傑はようやくたどり着いたスープカレーの店に入っていったのだった。
寒いな、と思いながら傑はテレビ塔の見える公園のベンチに座り、この後どうするかを考えていた。
北海道を訪れてしばらく経っていたものだから、この公園までの道のりも決まった散歩コースのようになっていたのである。
そして鞄の中には相変わらず真っ白なさとるが青い目で傑を見上げていた。
当初考えていたよりもかなりの時間を持て余してしまっていたから、たまには電車にでも乗って別の街に行ってみてもよかった。
しかしここ数日はよく食べてよく寝てと、ゆるやかな生活を送っていたので、今の時点で昼なんて当に過ぎた夕方だった。
まあもともと予定にはなかったし、そっちの街にはまた改めて行けばいいか。なんて思いながら傑は改めてこれからの予定を立てようとしたのである。
腹は減っているので何か食べには行くとして、いったい何を食べようか?
それこそ初日には選ばなかった方のラーメン屋に行ってみようか?
初日は昼にスープカレーを食べた日だったので、夜は比較的軽めのスープで仕上げられたラーメンにしてしまった。だから今日のところはこってり濃い目のラーメンを食べようじゃないか。
寒さで少しだけ指先がかじかんでいたが、がたがた震えるほどでもなかった。しかし春先なのにこの寒さなのだから、冬場なんて本当に想像もできない。
むしろ次に訪れる時はあえての冬でもいいかもしれない。また一人旅になるかもしれないけれども。
傑はそんなことをゆっくりと考えながら、まだベンチに座ったまま立ち上がる素振りを見せなかった。
寒いし出来れば早く温かい室内に入りたいのに、なんだかこの場をまだ離れてはいけない気がする。
それも十分や二十分とかではなくて、ほんの二、三分程度…と傑が冬用のブーツに包まれた自分の足先を見つめていると、そこが急に影ったことに気が付いたのである。
「傑!」
そして名前を呼ばれた。
えっ…と顔を上げればそこには、真冬に戻ったような恰好をして、頬も鼻先も赤くしながら息を切らす悟が立っていたのである。
「は、え…悟?なんで…」
「なんでじゃねえよ馬鹿!このくそ馬鹿!」
ずびっと鼻をすすって悟は叫ぶ。
その声はあまりに大きくて近くで犬を連れて散歩していた人が驚いて悟の方を一瞬見たが、すぐに目線をそらして向こうへと歩いて行ってしまった。
北海道に行くことはもちろん悟には言っていない。それなのに悟はどうしてこんなところにいて、自分の目の前で仁王立ちをしているのだろうか?
「電話でねえし何送っても返してこねえし、なに?なんなのオマエ!」
「あーごめん、ちょっとアプリ消してさ…」
「は?消した?それこそ意味わかんねえんだが!」
ざくざくと悟は雪を踏んでベンチに座り込む傑へ手が届く場所まで距離を詰める。傑は相変わらずそれをぽかんと見つめていたものだから、がしりと肩を両手で掴まれてすっかりと立ち上がれなくなってしまったのだった。
「俺めちゃくちゃ探したんだけど?!」
「うん…よくここってわかったね?」
「それ本気?それとも茶化してる?」
「茶化してはないよ…私も驚いてるからさ」
「俺もお前にはびっくりしかしねえよ…」
呆れたような口調だったが、悟は怒ったような泣いたような表情を浮かべて恨めしそうに傑を見つめていた。
「北海道も約束してたのに、なんで一人で行くわけ?」
「ごめんね…でも悟はもう彼女いるし、別に私と行かなくてもいいかなって思ってさ」
「俺そんなこと言ってねえよ」
「うん、ごめんね」
悟が怒るのはもっともだ。
ただの口約束だったとはいえ、結局それを破ってしまったのは傑の方だった。良かれと思ったのが半分、いじけていたのが半分というのが正直なところなのである。
「でも北海道に行くなんて誰にも言ってなかったんだけどな」
「まじかよ、本気で失踪でもするつもりだったのか?」
「まさか、満足したら帰るつもりだったよ」
「満足ねえ…」
そう言った傑の言葉にも、悟は訝しげな顔をする。まあしょうがないかと傑は困ったように僅かに眉を下げた。
「沖縄に行ったとは思わなかったのかい?」
「ちょっと考えた。でも北海道行ったことないって言ってただろ。ガイドブックまで買ってたし」
「なるほど、悟には結構ヒントを残しちゃってたわけか」
「もっとわかりやすくしろ」
「これでわかったんだから十分だろ?」
傑は、やっぱりまだ納得のいっていない顔をする悟を見上げた。
ヒントなんて言ったけれども、別にそんなものを置いていったつもりはなかったのだ。見つけてくれるかもしれないなんて期待する方が惨めだし、実際に見つけてもらえる確率だって限りなく低いだろう。
だからこそ悟がこうしてはるばる北海道まで本当にいるかもわからない自分を探しに来てくれたなんてことが、まだ信じ切れていなかったのだ。
もしかして自分は雪に滑って転んで気を失っている間に幻覚でも見せられているのだろうか。
起きたら病院のベッドの上かもしれない?
こうして初めて北海道に来ているのに、だとしたらそんなのもうギャグだろう。
だが、自分の肩を両手で掴む悟の力は強くて少し痛かったし、悟の吐く息もすべて本物に違いなかった。
なんだか一生分の運をここで使い果たしてしまった気すらするのである。
「傑の運命の相手をさ、探したんだよ」
悟はぽつりと言った。
「…見つかったかい?」
「いいや」
そして傑が思った通りの返事をした。
当たり前だろう。傑の運命の人は悟なのだから。
「探し出して問い詰めてやろうと思ったんだ。傑を振るとか絶対間違ってるだろって…でもなんかこう、モヤってる」
「モヤる?」
悟が?と傑は首を傾げた。
「そう、俺が。なあ傑、お前の運命の相手って誰かわかってんだろ?俺そいつに会いたいんだけど」
「会うって…会っても仕方ないよ」
悟の言葉に傑はどきりとする。少し語尾が震えてしまった。
「なんでだよ」
「私はその人の運命じゃなかったってことだから」
「違うかもしれねえじゃん」
「違わないよ、悟だっていま君の運命の相手と付き合ってるだろう?」
「別れた」
「…は?」
ぽかんと傑は口を開いて悟を凝視した。だがそれに対して悟はまっすぐに傑だけを見つめているのである。
「俺の運命の相手は別のやつだったから」
「そう、なんだ…だから間違いがあるかもって?」
「それもある」
それもあるんだけど…と今度は悟の方が口籠ってしまう。
そうなってしまうと今度は傑の方が、それに続く悟の言葉を聞きたくて仕方がなくなるのだ。
「それもって、なんだよ?」
「その、それだけじゃねえっていうか…だからモヤってんの」
「はっきり言えって」
「あー!もうお前うるせえ!」
再び悟が大きな声を上げたが、それに振り向いた通行人はもういないようだった。いつの間にか日が落ちていて、あたりを公園の街灯がぼんやりと照らし始めている。
「傑の運命の相手がどっかにいるって思うと、なんか嫌なんだよ…」
先ほどの勢いから悟は急に口ごもり、そして言った。
「俺が、傑の運命がよかったって思った…」
「え?」
「俺の運命の相手は傑だから」
幻覚にしては嫌に鮮明な悟の声が聞こえる。
その言葉はぶれずに傑にぶつけられたが、傑はそれをどう受け止めていいかわからない。
「何言ってんだよ…」
そして傑は何度も瞬きをながら、緊張で乾く口をはくはくと動かす。胸の内では心臓が破り出てこようとするくらいに強く鼓動していた。
「私、私は…悟の運命の相手なんかじゃないよ…特徴とか全然当てはまらないだろ?」
「髪黒いし、団子に縛ってるから首すっきりしてるじゃん」
「小さくもないし」
「俺より小さい」
「そりゃ悟はでかいからね?じゃなくて…笑顔が可愛いとも言ってただろ?」
「傑の笑顔はずっと可愛いって思ってる」
「はあ?」
「なんだよ」
「いやそっちこそなんなんだよ」
次々に繰り出される思いもよらない言葉に理解も感情も全くついていかない。
思わず俯いて自分の膝の上に視線を落としたが、そこはうわんうわんと揺れて見えた。
だってそんなはずはないだろう?
きっと悟にはちゃんと別に運命の人がいて、それは前世で先に死んだ自分ではなくて…
「なあ、傑の運命の相手って本当に傑のこと振ったやつなの?」
「…そうだよ」
「俺じゃなくて?」
「そう!悟じゃ…」
「こっち見て言えよ傑」
そう言って悟は、雑に外した皮の手袋を傑の膝の上に放る。
そして伏せた顔に差し伸べるように頬に手のひらを添えた。
「俺じゃ駄目か?」
思わず顔を上げると悟と視線がかち合った。
済んだ青い目と憂うような表情。向けられる感情はただただ切なかった。
「…駄目なわけがない」
絞り出すように漸くそう呟けば、つんと鼻の奥が詰まってくる。それからじわじわと目元が熱くなる心地がしたので、傑はそのまままた俯こうとしたが悟の手のひらがそれを許すわけがなかった。
「さ、とる…」
見つめあったまま滲んでくる涙はぼろぼろと頬を流れ落ちてやがて悟の手を濡らす。
「傑、本当のこと教えてくれよ」
縋るような声音だった。
しかし傑の方こそもう見つめあった悟の目から視線を外すことはできなかったし、何の誤魔化しも通じないことを自覚したのである。
本当に、どうしてここまで追いかけてきてくれたのだろうか?
前世からの仲とはいっても、自分たちはただの友達で親友で、時々ふざけたり喧嘩したりするようななんでもない仲であるはずなのに。
そしてその時と同じように、自分だけがずっと悟に片思いをしているだけのはずなのに。
「私の、運命の相手は悟だよ…悟しかいない。ずっと君を好きだった」
でも、と傑は言った。
「やっぱり悟の運命は私じゃない…」
「だからさ、お前まじで勝手に俺の気持ち決めつけんのやめろって」
そういうところなんだよ。と悟は眉間にしわを寄せる。
北海道にも一人で行ってしまうし、勝手に運命の人に振られたなんて言う。
いままでだってそうだった。悟は何度傑の思い込みに振り回されたかわからない。
だがそれでも悟は傑に問いかけることをやめなかったし、こうしていちかばちか北海道まで探しに来ているのである。
こんな人間関係を懲りずに続けているのはなにがなんでも傍にいたいからに決まっているだろう。
「俺だって傑しかいない、じゃないとここまでしねえんだわ」
そして悟は座ったままの傑に被さる様に屈み、両腕で背中を包み込むようにしながらゆっくりと傑を抱きしめた。
「俺はお前が好き、気づくの遅くてごめん」
くぐもったような悟の声がすぐ近くに聞こえる。抱きしめられているからか冷え切った身体はじんわりと温かかった。
もしかして本当にそうなのだろうか?
悟の運命の相手は本当に私なのか?
これはもう、信じてしまってもいいのだろうか?
傑は頭の中でひとつふたつそう考え、さとる、と小さく呼びかけた。
頭を伏せて傑の首元に額をくっつけていた悟がゆっくりと顔を上げると、こちらを見つめる悟の目の奥の光に釘付けになる。
悟の目には、傑の姿しか映っていない。
もはやこれが何よりの証拠だろう。
「…遅いんだよ、本当にさ」
あはは、とわざとらしく笑ったのに涙交じりの声が感情を隠してはくれない。傑も悟にそっと手を伸ばしながら覆いかぶさる背中を抱きしめた。
気づかぬ間にすっかりと日も落ちていて、悟の背中に見える街明かりが悟の白い髪の毛先をきらきらと光らせている。
きれいだな、と思っているといつのまにか悟がほとんど鼻先が触れるような距離にまで迫っていて、そこから一声上げる間もなく口づけられたのだった。
悟が着ているコートのポケットから覗く黄色いふさふさとしたものを引っこ抜くと、片手に収まるくらいに小さいキツネのぬいぐるみが現れた。
「なにこれ?」
「すぐる」
「は?」
「オマエと違って勝手にどっかいかないすぐる」
平然とそう答える悟に対して傑は何言ってんだ?という顔もしたものの、自分だって鞄の中に白いオオカミのぬいぐるみであるさとるを忍ばせているので人のことは言えない。
どうにか北海道にいる間だけでもこのさとるは悟に見つからないようにしよう、とごそごそと鞄の奥にさとるをしまい込んだ。
「ねえ悟、これからどうする?」
「これから?」
「腹減ってるだろ?ラーメンでも行く?」
「北海道に来てまでラーメンって…いや、北海道はラーメンか」
いく。と悟は頷いた。
「ラーメンじゃなくてもいいよ、ジンギスカンとかもあるしね」
「傑は北海道来て何食った?」
「うーん、ラーメンもだけどスープカレーと海鮮丼と、あと豚丼と…」
「食い過ぎだろ…」
「まあしばらくいたしね?でも有名なハンバーガーはまだ行ってないな」
「それは俺も食いたい」
「じゃあ明日にでもそこに行こうか。あとは北海道にしかないコンビニにも…」
悟に向かって夢中であれこれ話していると、目の前の横断歩道の信号機が青く点灯する。
凍った地面を歩くことにはだいぶ慣れていたが、油断したときに足を滑らせてひっくり返ってしまうなんてことは目に見えていたので傑は慎重に歩き出した。
悟もその傑と同じ歩幅で一歩踏み出したものの、突然傑の手をつかんだかと思えば、そのまま自分のコートのポケットにその手ごと突っ込んでしまったのである。
「なに?」
傑はきょとんとして悟を見る。
悟は相変わらず前を向いてもくもくと横断歩道を渡っていた。
「お前なんか滑りそうだし」
「滑らないように歩いてるんだよ」
そう返しながらもポケットの中で握られた手を振りほどくこともせず、まあいけどね。と言って悟と同じように横断歩道を渡り切った。
目指すラーメン屋がある繁華街が先に見える。
この時間だとちょっと混んでるだろうか?と悟のポケットに手を突っ込んだまま傑が考えていると、「なあ」とまた悟の声が降ってきた。
「これからどうするって話だけどさ」
「うん?」
「俺と付き合ってよ、傑」
「え…」
悟の顔を見上げながら傑はぽかんと口を開き、そしてみるみる顔が熱くなっていくのを感じた。
あまりに突然だったし、まさかそんなことを改めて言われるとは思っていなかったのである。
「あー、そっか、そうだよね?いやそうだよねっていうか、まあ、それは…」
ぼろぼろと口から出てくる意思表示の意味を持たない言葉はいくら放っても場を繋いではくれない。
何度も何度も瞬きをしながら傑は悟を見つめ、悟はじっと傑の言葉を待っていた。
「うん、私たちは運命の相手同士だからね」
「それ付き合うでいいんだよな?」
「そうだよ、これからもよろしく…」
「傑!」
今度はもう悟は傑の言葉を待てずにそのままがばりと傑を抱きしめた。
さっきも抱きしめあったしキスもした。
けれども悟はちゃんと始めたかったのだ。
傑との関係をはっきりとさせて、傑のことを必要としていることを自覚させたかったのである。
「おっも、でかい犬みたいだ」
「犬じゃねえ、お前の彼氏」
「ふふ、そう言われると照れるなあ」
繁華街からは少し外れているとはいえここは北海道の往来のど真ん中だ。
決して少なくはない人通りの中で、傑は驚いたし焦ったけれども、何より悟がいてくれることがうれしくて、笑いながら同じように悟を抱きしめ返したのだった。
<了>