昼過ぎの賑やかな街を目的地に向かってまっすぐ進む。人混みを歩くのには随分慣れたが、だからといってそれが好きなわけではない。できることならいつも犬の散歩をする時に通る静かで落ち着いた緑の多い場所でのんびりと時間を忘れて過ごしていたかった。
ポケットに入れていたスマホが震えたのを感じ、俺はそれを手に取り画面を確認した。新着メッセージが一件。パスコードを入力してロックを解除し、すぐに内容を確認する。
『買い忘れたものがあるからスーパーに行ってくる。すぐ戻るけど、もしすれ違いになっちゃったら勝手に入ってていいよ』
顔文字つきのメッセージに素早く返事を送り足を早めた。もう片手では数えられないくらい訪れているその場所への道のりは地図を見なくても頭に入っている。
角を曲がってようやく大通りから外れ、交通量が少しずつ減っていく。ここの地区のどこにスーパーがあるのかまでは把握していない。彼が帰る前に、彼の家に着いてしまいたかった。
駆けるように歩を進めたおかげで、彼の家に着いた時家の中に人はいないようだった。隠して置いてある合鍵を使って鍵を開け、それを元の場所に戻してから中に入る。玄関に駆けてきた彼の愛猫がおかえりと言うようにみゃおと鳴いた。
「久しぶりだな、元気にしてたか?」
しゃがみ込んで彼の頭を撫でてやる。うちで待っている大型犬とは比べ物にならない小ささだからつい手付きが慎重になってしまうが、彼はそんな俺の内心なんて気にせず上機嫌に俺の掌に自分の頭を擦り付けた。ずっと犬と暮らしているし自分は犬派だと公言していたが、最近猫も良いものだと思うようになった。目の前のこの子と、この子の飼い主の彼のおかげで。
ガチャッとドアノブが回る音に振り向けば、ひとりでに扉が開いて外から陽の光が差し込む。鍵が開いていたことに驚いたのか、それとも俺が玄関でしゃがみ込んでいることに驚いたのか、「びっくりした……」とドアノブを掴んだまま彼は目を丸くして呟いた。
「おかえり、浮奇」
「っ! ……ただいま、ふーふーちゃん。なにこれ、どっきり?」
「ふ、なんのだよ。悪い、いま退く」
「ああ、お話ししてたの? ただいま、ふーふーちゃんのこと出迎えてくれてありがと」
彼が持って帰ってきた小さな買い物袋をその手から受け取る。浮奇は空いた手で猫を抱き上げてぐりぐりと額を擦り合わせた。可愛らしいその光景に見惚れ、狭い玄関で突っ立ったまま永遠に続いてほしい数秒間を過ごす。
「ふーふーちゃん?」
「……ああ、いや、なんでもない。何を買ってきたんだ?」
「パセリ。切らしてるの忘れてて」
「ふぅん……?」
「盛り付けに必要なんだよ、全然違うんだから」
パセリなんて何に使うんだ?と考えた俺の心の声が聞こえたみたいに、浮奇はそう言ってフンと鼻を鳴らした。俺はそれ以上浮奇に料理についての話をさせないよう、なんでもない顔で腕を広げて見せた。目を見開いた浮奇の腕の中から猫がぴょんと音もなく飛び降りて、俺たちを振り返ることなくリビングのほうへ歩いて行く。
「……」
「……」
「……それで、浮奇はどうする?」
返事はわりと強めのハグだった。ぶつかった胸が浮奇の鼓動を伝えてくれる。思わず笑い声を上げると浮奇も俺の耳元でふわふわと笑った。面白いことがあってお腹を抱えて笑う浮奇だって好きだけれど、幸せで堪らないというようなこの笑い声は特別好きだ。顔中キスして甘やかしてやりたくなる。
「えへへ、ふーふーちゃん、今日はいつもより機嫌がいいんじゃない?」
「俺はいつでも機嫌がいいだろう?」
「そうかも。でも俺といる時はもっと機嫌がいいんでしょ?」
「……それは、もしかしたら」
「ん、ふふ。さっきね、ふーふーちゃんにおかえりって言われたの、すごく嬉しかった」
「ああ、そのために急いで来たんだよ」
「え?」
「浮奇におかえりって言って、ただいまって言ってもらうために、走ってきた」
「……なにそれ」
驚いて俺の顔を見た浮奇に触れるだけのキスを送り、力の抜けた腕の中から抜け出す。一歩離れてから「浮奇」と笑い声の混じった声で名前を呼んだ。瞬きで応える浮奇をもっと驚かせたくて、言う予定はなかった本音をこぼしてみる。
「次は、浮奇におかえりって言ってもらいたいかも」
「……明日! また明日、うちでもふーふーちゃんちでもいいから!」
「だめだ、明日は出かける予定がある」
「それって俺よりっ……もう! ふーふーちゃんのバカっ」
浮奇の嫉妬もワガママも心地いい。それを見るたびに俺はまだ浮奇に愛されているんだなと感じることができる。焦れた目で俺のことを見て口調を荒げる浮奇が、本人には悪いけれど、とても好きで。
「浮奇より大事な用事も予定も少しはあるけれど、俺は浮奇のことが一番好きだよ」
「……ずるい、そんなの、怒れないじゃん……。次会う時は俺がおかえりって言うから、ふーふーちゃんはちゃんとただいまって言って」
「ん、約束だ。ふ、ははっ、浮奇、またそんな可愛い顔して。オーケー、キス一回だ、おいで」
「一回じゃ足りない」
言いながら大股で近づいてきた浮奇に「ごはんを作ってくれてるんだろう?」と笑いながらキスを一回。離れてすぐに追いかけてきた唇ともう一回唇を重ねて、三度近づいてくる浮奇の顔を両手で頬を挟んで押し止めた。
「浮奇、また後で、だ」
「……きすしたい」
「うん、後でな」
「やだ今がいい……お願いふーふーちゃん」
「……はぁ、……あと一回だけ」
「ん」
可愛こぶった可愛い恋人と唇をくっつけて、伸びてくる舌を受け入れる。逃げられるのを阻止するためか浮奇の手が俺の後頭部を引き寄せるからいつもよりキスが深かった。一回だけなんて、俺も守るつもりはなかった言葉を浮奇は全く聞こえなかったみたいに呼吸を挟みつつ何度もキスをした。
俺たちの周りの空気だけ生クリームのようにもったりと重くて甘過ぎるものに変わってしまっている気がする。呼吸のために吸い込んだ酸素は浮奇の匂いを纏っていて、まるで媚薬を吸わされたようだった。
舌と唾液と嬌声を絡めているうちに、意識せず手が浮奇の服の中に入り込もうとしていた。自分では止めることのできない俺の欲に気がついたかのようなタイミングで浮奇がぷはっと唇を離し、ぜえぜえと荒い息を整える。動揺をカケラも見せずに「大丈夫か?」と言いながら浮奇の背中を撫でてやると、浮奇は目を細めて俺を見上げた。
「えへ、ふーふーちゃん、だいすき」
「……俺もだよ」
「えへへへへ」
「あー……ほら、早くごはんを食べないと、時間がなくなるぞ」
「分かってるけど今のふーふーちゃんをぎゅーってしておきたいの!」
「俺は早く浮奇の作ってくれたごはんを食べて、そのあとゆっくり二人の時間を楽しみたいんだけどな?」
「……あとでまたキスをしてもいい?」
「誰も見ていない時にもキスの許可が必要だったのか?」
「! いらない! ふーふーちゃん、んっ」
「……俺は今キスをしていいか聞いてもないけど?」
「なに? 俺とキスしたくないって?」
理不尽に睨みつけてくる浮奇につい笑ってしまう。なんでこの子はこんなに可愛いことばかりできるんだろうか。唇を尖らせてみせる浮奇の頬をぶにっと潰し、突き出た唇にキスをする。ほら、もう今はこれで終わり。
「むぅう……ふうふうちゃん」
「んっ、はっはっ、可愛いよ浮奇」
「んんん〜!」
声にならない笑い声を上げる俺に、浮奇は眉間に皺を寄せて駄々をこねる時の唸り声を上げた。二人きりの時のそれは俺に効果抜群だ。もう一度唇をくっつけて、微笑んだ浮奇の目元にもキスを落とす。こんなんじゃいつまで経ってもここから動けそうになかった。玄関からまだ数歩しか進めていないのに。
俺は仕方なく俺のことだけを見つめているワガママっ子の腰を軽く抱き上げた。「わっ」と驚いた声と共に腕が首に回ったから落とす心配もなくリビングへ行ける。対応できないことが起きると固まってしまう猫のような彼は俺がソファーに下ろすまで静かに俺の首に抱きついていた。
「……びっくりした。重いでしょ……」
「知らなかったかもしれないが俺はサイボーグなんだよ」
「わお、初めて知った。実は俺、サイキックなんだよね」
「なんてこった、俺の考えはお見通しか?」
「うーん? ふーふーちゃんが俺のこと大好きだってことは力を使わなくても分かってるよ」
「……愛されている自覚があるようでなにより」
「ふふっ」
ああもう分かった分かった。今日は全部、おまえのしたいように。俺はおまえの幸せそうに笑う顔を愛してる。
ソファーに下ろした後も離されない腕に引き寄せられるままその体の上に覆い被さった。影の中で得意げに笑う浮奇の唇は自分のと重ねてしまえばなかったことになるだろう。行儀よく目をつむって見せるくせに我慢のできない舌が伸びてくることすら、可愛くて仕方なかった。
もしサイキックの恋人に心の声が全て聞こえていたら、言葉に出していない俺の愛で溺れてしまっているかもしれない。