12/17新刊サンプル3※連続した日々の記録ではなく、ある一日を日付を特定せず抜き出したもの(という設定)です。
※二人の薄い設定としては、ルスはノースアイランドでトップガンの教官をし、マーヴは退役後乗り物の知識と趣味が高じて車やバイクの修理店でバイトしている(免許とか取りそうだし…)…みたいな感じです。
※上記の設定は完全に筆者の趣味であり、設定を無視しても問題なく読み進められる内容になっていますので、どうしても二人の設定が気になる!という方はご参考までにどうぞ…笑
↓以下本文↓
―マーヴとの生活は、言ってしまえばとりとめのないものだ。愛する人と生活しているからといって、毎日重大なことが起こるわけではない。ただ、何も起きない日にもマーヴはここにいて、何も始まらず何も終わらない日々にマーヴという唯一の奇跡が光るのだ。
―ブラッドリーとの生活は、シンプルだけれどかけがけのないものだ。彼は僕が目覚める前から隣にいて、眠りに落ちてもそこにいる。名前を呼べば振り返り、手を伸ばせば触れられる。大したことは起きないが、ブラッドリーがそばにいることより大切なことはないのだから、それも当然か。
20××年 ○月△日+曜日
外は気持ちの良い陽気。庭に出て伸びをすると、じんわりと身体の緊張が解れていく。
ブラッドリーは外出中。すぐ近くのどこかのお店に用事があるだとか言っていたが、詳しくは教えてくれなかった。すぐ帰るから、と機嫌良く出て行ったが、何も聞かされていないこちらの機嫌は正直言って良くはない。頭の中では色々な疑問が渦巻く。どこへ行った? 用事って何? すぐってどのくらいすぐ? うるさいぞマーヴェリック、ブラッドリーにも一人の時間は必要だろう?
己の落ち着かなさに溜息を吐き家の中に入ると、ポケットの中でスマホが震えた。見るとブラッドリーからのテキストメッセージ。
『散歩中のわんこに目が合った途端タックルされた』
すぐに二件目のメッセージが送られてきた。それは飼い主が撮影したであろう、ブラッドリーとブラッドリーにじゃれつく大型犬の写真だった。ボーダーコリーかな。写真の中でブラッドリーは尻もちをついた体勢で、わんちゃんに全身で乗っかられている。ブラッドリーは大きな動物に好かれやすい。彼に飛びかかるボーダーコリーも、溢れんばかりの興奮で自分の大きな体のことなど忘れていそうだ。ブラッドリーの大きくて丈夫な体躯に仲間意識を抱くのだろうか。
『可愛いわんこだね』
そう一言返信した途端、彼がメッセージを読んだサインがついた。そしてアプリを閉じる間もなく再び彼からのメッセージを受信し、その速さに驚きで小さく跳び上がってしまった。彼の返信はごく短く、たった一言。
『俺は?』
俺は可愛くないの?とでも言いたげな一文。音声も映像もないその一言から、彼の話し方、表情、こちらに顔を近づける仕草など、すべてを鮮明に映像化できる。〝君も可愛いよ〟以外の答えなど求めていないのは一目瞭然だ。だけど今日の僕は素直に直に答えてやれるほど甘くないぞ。
圧さえ感じるクエスチョンマークをそのまま放置しアプリを閉じた。写真の中で笑うブラッドリーは、その場で抱いた疑問を真っ直ぐにぶつけられる子だ。自分が期待した以外の答えが返ってくるとは想像もしていない。その素直さが羨ましい。
「まったくあの子は、どこを歩いているんだ」
直接投げられることのない疑問を口にして、彼の帰りを待つ。帰宅した彼は開口一番、なんて言うだろう。〝無視しないでよ〟? 〝俺も可愛いよね〟?
君が何も教えてくれなかったんだから、僕だって答えてやらないよ。
×月○日△曜日
家の近所には動物が多い。犬や猫はもちろん、鳥やうさぎなど、様々な動物が毎日どこかで愛情を注がれていて、その姿を頻繁に目撃することができる。散歩する犬にアイコンタクトをしたり、ハーネスをつけた猫とうさぎが人間とピクニックするのを横目にランニングしたり。
外出を済ませ家路につくと、数メートル先に何かが見えた。黒い塊が歩道の端で丸まっている。きっと黒猫だ。この辺りでは見かけない毛色の猫には興奮するが、驚かせてはいけない。迷い猫なら写真を撮って近所で聞き込みをするか、人馴れしているならそのまま保護すべきだろうか。慌ただしく思考を巡らせながら慎重に距離を詰める。しかしその猫の正体は、なんとただのビニール袋だった。
「嘘だ……」
これ以上ない勘違いに羞恥心を誤魔化せず、気づけば全身の力が抜けその場にしゃがみ込んでいた。なんだ、猫じゃないのかよ……。俺が不審者に見えるだろ。
どれほどの時間が経ったのか、傷心の自分にはわからない。周囲に人がいないことを確認し、袋を掴みよろよろと立ち上がった。もう、さっさと帰ろう。
近くの公園で袋を捨て再び家路を歩き始めたものの、いまだに恥ずかしさで熱くなった顔は冷めやらない。結局家まで待てずマーヴにメッセージを送った。先ほど羞恥心のあまりほとんど涙目になりながら撮影したビニール袋の写真を添え、自ら間抜けな行動を報告した。
『黒猫だと思ったらビニール袋だった』
すぐに返信がきた。落ち着く暇もない。
『ちゃんと袋は拾って捨てた?』
着眼点はそっちか。もちろん、と返すと、さっきより間を置いて返信が送られた。何か考えながら文字を打っていたような挙動だった。
『さすがブラッド、いい子だ』
そこでこちらからの返信をやめ、足早に帰宅した。
帰宅後一番、言いたいことはただ一つ。
「いい子だって思ってるなら、直接言って?」
そうすれば、俺のとんだ失敗も報われる。
○月△日×曜日
外は曇り。あまりパッとしない天気だが、マーヴは外へ出かけた。雲は重く、湿気を帯びた空気が肩にのしかかる。それでも家を出るマーヴの表情は晴れやかで、玄関先で手を振る俺の頬も彼の唇によって温かく色づいていた。
乾燥機が仕事を終えるのを待つ。その間にもお掃除ロボットが縦横無尽にダイニングを掃いて回っていて、俺はといえば、それを眺めて冷めたコーヒーを飲んでいる。家事の前にコーヒーは注ぐべきじゃないな。飲む時にポットから注がないと冷めるだろって、何度もマーヴに言われてるのに。
太陽の光も通さない厚い雲のおかげか、スマートフォンの画面が光った時にはすぐに気がついた。それはマーヴからのメッセージだった。
『君は外で色んな動物に会えるのに、僕は全然だよ……』
俺は文面だけでマーヴの表情を読み取れる。ほんの少し垂れた眉の下には意志の強さが消えた悲しげな目があって、口角は無意識に下がっている。答え合わせをさせてくれたら、この予想が当たっていることを証明できる。しかし今はマーヴが寂しそうだ、自分の予想を当てて満足している場合ではない。
「なんて返そうかな……」
さりげなく、それでいてマーヴの心の霞が取れるような返信を考えていると、再びマーヴからのメッセージを受信した。見るとテキストと共に写真が添えられている。
『この前君にタックルしたのってこの子』
画面に写るのは、先日の俺と同じように犬の勢いに負けて尻もちをついたマーヴ。見覚えのあるボーダーコリーが彼の顔を舐めている。写真のマーヴは眉を下げ、歯を見せて笑っている。そして片手で倒れた体を支えながら、もう一方の手は犬に添えられている。並んで写真を撮ろうとしたら揉みくちゃにされたのだろう。
『そう、その子だよ。マーヴに会えて嬉しそう』
喜びに溢れるマーヴの姿に内心穏やかではなかったが、ここは余裕ある大人として冷静に答えた。ボーダーコリーを可愛いと思う気持ちも嘘ではないけれど、限界まで拡大した写真の中心にいるのはマーヴだ。脱力して開かれた両脚、見逃しそうなほど細くめくれたTシャツ、その中に微かにのぞく肌の色と、反射的に閉じられた片目。なんて完璧な景色。
「マーヴ……もう少し手加減してくれない?」
独り言を呟き、ダイニングでスマホ画面を見つめながらコーヒーを注ぎ足した。乾燥機に呼び出されたことにも気づかぬまま。
×月△日○曜日
午前中を丸々費やした用事を終えると、雨が降ってきた。そういえば先ほどから空には重苦しい雲が立ち込めていた。ブラッドリーには傘を持って行くよう言われていたが、どうせ小雨だと見くびり傘は置いて出てしまった。家までまだ距離があるものの、すでに雨は本降りに変わった。これは無理して帰らず雨宿りした方がよさそうだ。
店が立ち並ぶ道を小走りしていると、同じく傘を持たない数人が一軒の店に吸い込まれていた。つられて入るとそこは雰囲気の良いカフェだった。僕を含め、雨宿りに来た客は皆快く席に案内された。
「ご注文は?」
店員が僕を窓際の席に案内し、にこやかに尋ねた。
「あー……ブラックコーヒーを一杯ください」
「すぐお持ちしますね。よかったらあそこの本や雑誌は自由に読んでください」
壁際にはジャンルも厚さも様々な本が並んでいる。
「お気遣いありがとう、後で読んでみます」
店の名前も確認せず駆け込んだが、店内は居心地が良く、本のおかげもあってか長居する客が多いようだ。
どうやら帰るのは少し遅くなりそうだと、コーヒーの写真を添えてブラッドリーに連絡した。しかしいくら待てども返信はなかった。だから傘を持って行けと言ったのに、と呆れて言葉も出ないのだろうか。僕だってそれくらいのことは許してほしいけれど……。
雨音に包まれながら小さくあくびをすると、店の窓ガラスがコンコンと小突かれる音がした。見るとロングスリーブのTシャツにアロハシャツを重ねた口髭の男が傘をさして立っている。
「ブラッドリー」
店中の注目が自分に集まるのを感じながら、店内に入ってくるブラッドリーを凝視していた。彼は傘を店頭に置き、悠々とした足取りでこちらに歩み寄った。
「ブラッドリー、どうしてここに……」
「どうしてって、マーヴとお茶するためだよ?」
ブラッドリーはさも当然とばかりに答えた。
「カフェの名前教えてくれたじゃん」
しばらく帰れないという言葉を誘いだと解釈したのか、それとも僕の心を読んだのか。まったくこの子は本当に…。
「……じゃあ今日はここでデートしようか? ブラッドリー」
ブラッドリーは満足げに頷き、カフェオレを注文した。
どれだけ時間が経っただろう。互いに本や雑誌を選び合い無言で読み耽ったり、雑誌の巻末にある誰かが解いている途中のクロスワードを二人がかりで考えたり、手を止めぼうっと窓に打ちつける雨を眺めたり、色々とやることはあった。
「もう夕方だけど、どうするブラッドリー」
「ん、もうこんな時間かぁ、そろそろ帰ろっか」
ブラッドリーが立ち上がる時、彼の休日仕様の髪がふわりと揺れた。彼は僕がコーヒーを飲み干したことを確認すると、ポケットを探り代金をテーブルに置いた。ごちそうさまと店内を振り返ると、他の客は皆帰った後だった。
「雨、止んでるね」
先に店を出て振り返った彼は、片腕を広げて僕を待っていた。彼の懐に入り込むと、たくましい腕が僕の身体を引きつけた。
「傘いらなかったね」
「一本しか持って来てないじゃないか」
「うん、だって相合傘したかったし」
彼は正直に答えた。
傘なんてなくても、僕たちはいつでもぴったりと寄り添えるのに。こちらに寄せた傘の外で君の肩が濡れるのは、僕の本意じゃないんだよ。
△月○日×曜日
散歩日和。ブラッドリーは隣で僕の歩幅に合わせのんびり歩きながら鼻歌を歌っている。時折気になるものを見つけると鼻歌が途切れ、しばらくすると途切れた部分からまた曲が始まる。空は高く風は優しく、ブラッドリーはご機嫌だ。
「マーヴ、あっちの方からピアノが聴こえる」
「ええ? 全然聴こえないよ」
「よぉ〜く聴いて」
「……たしかに微かには聴こえるけど、こんなのよく聴こえたね」
ブラッドリーはそうかなぁと小さく呟き、また耳をすませた。
「マーヴはおじさんだから、耳が遠いんじゃない?」
二十ほど歳の離れた恋人は平気な顔で言葉を継いだ。
「そうか、僕もそんな歳か」
「怒った?」
「怒ってないよ、事実を教えてくれてありがとう」
全くありがたがっていない言い方を指摘したブラッドリーは、少し考えた後素直に謝った。まあ若くないのは本当のことだが、アビエイターに必要な能力は若者にはいまだ負けていない。
「きっと風向きが悪かったんだよ、今はよく聴こえるし」
「ほんと? 俺は今あんま聴こえない」
「嘘だろ?」
謎の現象に二人して首を捻りつつ歩いていると、ある家の近くにさしかかった。今日もあの子はいるだろうか。
「そうそう、君も知り合いかもしれないけど、この辺りに通りかかると毎回挨拶してくれる猫ちゃんがいるんだよ」
隣を見上げると、ブラッドリーは眉を寄せてこちらを見ていた。
「な、なんだいブラッドリー」
「俺が知らない猫ちゃんがいるなんて……」
ショックで彼の声はいつもより掠れている。なんだかこちらが申し訳なくなるほど衝撃を受けた様子だ。この子は動物に愛されやすいから、この辺りの動物たちは大体知り合いなのだろう。
「ほら見て、ここにいるはず……」
ひとつの窓を指し示すと、いつも通り一匹の猫がちょこんと座って外を観察していた。外からの光を受け、オレンジタビーの被毛は蜂蜜色に輝いている。小さく手を振りつつ声をかけると、その子は目を細めて立ち上がったかと思えば、隣のブラッドリーを目にした途端、おろおろと足踏みをして窓枠から降りてしまった。
「あちゃ〜……びっくりさせちゃったね」
何気なく振り返ると、ブラッドリーは再びショックを受けた表情で立ち尽くしていた。
「あー、ブラッドリー? 大丈夫?」
「俺のせいだ……」
そう言って彼はその体格の良い身体を縮こませ、頼りない足取りでよろよろと歩き始めた。先ほどまでの自信が漲る大きな身体はどこへ行ってしまったのか。その変わりように思わず笑い出してしまうところだった。
「少しずつ仲良くなればいいんだよ」
小さくなった彼の背中を軽く叩くと、彼はちらりと僕を見た後空を見上げてため息をついた。
「俺、あの子に好かれると思う?」
「それは君次第じゃないかな」
大丈夫、君がどれほど優しくてあたたかい子か、必ずあの子にも伝わるよ。君に関わるすべての生き物が君を好きにならずにはいられないこと、君は知っているのかな。
+月○日×曜日
街は音楽に溢れている。雨音や靴音のような詩的なものではなく、最近のヒット曲や映画の主題歌など、そのままの意味での音楽のことだ。どこへ行っても同じヒット曲のプレイリストが流れる街で、陽気な両親のDNAと、その陽気さを愛するアンクルの優しさを与えられた人間はどうなるか。音楽を聴くと身体が勝手に踊り出すのだ。
「うーん、もう少し大きいお皿はないのかな……」
人で賑わうモールでも、店内BGMに合わせ身体が揺れる。隣ではマーヴがじっとサイズ違いの皿を見比べている。
「このサイズでも使えるよね?」
決めかねたマーヴがこちらを見上げながら、より大きい方の皿をこちらに差し出した。俺はどこかから聴こえるあの曲に乗りながら皿を受け取った。
「結構重くない? これ以上大きいと運びづらいかも」
マーヴは俺から皿を取り戻すと「そうか……」と呟き、重さを量るように皿を持つ手を上下させた。その真剣な視線は、もし皿にヒビを入れたとしても不思議ではない。
「ブラッドリーも、何か必要なものはある?」
「俺はあれ欲しいな、シリアル用のボウル」
「もう持ってるだろ?」
会話は平然と進んでいく。大きな男がリズムを刻む隣で、二回りほど小さな男は身じろぎひとつしないし、こちらを見ることもほとんどない。
「あれは食器が白いからミルクが見えない」
「僕がそれを言うならまだしも……君の目は若いだろう」
「いいじゃん、ダークブルーにしようよ」
「まあ、君がそう言うなら……」
マーヴは軽く笑って俺が手渡したボウルを二つ受け取った。店内のBGMが変わると小躍りは鼻歌に、行くあてを探していた右手はマーヴの腰へと落ち着いた。それでも彼の意識は家の食器棚と目の前の大皿を行き来するだけ。
「マーヴ」
「ん?」
「マーヴのそういう、俺に慣れてるとこが好きだよ」
ようやくマーヴはこちらを見上げて首を傾げた。それから周囲へきょろきょろと視線を飛ばし、まるで自分に向けられた言葉であるとたった今気がついたかのように、何か言いかけた口を閉じた。俺が何の話をしているのか彼には伝わっていない。やがて彼は黙って俺の目に映る悦びを読み取り、目を細めた。
「ありがとう」
彼の目にもまた、同じ悦びが光を受けて輝いている。頬に軽くキスをすれば、自分のものと同じシャワージェルの清々しい香りが鼻を抜けた。
×月○日△曜日
先日と同じ散歩日和。今日の目的は、あのオレンジタビーの猫・レオとお近づきになること。今日も彼は歩道に近い出窓で外を見ていた。自宅警備に精を出している。驚かせないよう身を縮こませて近づくと、彼は意外にも逃げなかった。草原を映すグリーンの目の中で瞳孔を細め、俺を観察している。
「元気? 今日は俺だけで来たよ」
彼に向かって持参の猫じゃらしを小さく振ると、まん丸の目は揺れてしなるおもちゃを目で追った。
「はは、気に入った?」
縦横無尽に動く猫じゃらしを捕えようと、レオは両手を使い夢中で遊び始め、時には立ち上がってハントした。
ところが猫という生き物はなんとも移り気で、大きな鳥の声が彼の注意を引き、その声はこの訪問の終了の合図となった。
「じゃあ、俺はそろそろ帰ろうかな」
レオの意識はすでにどこかの鳥に夢中になっていて、窓を離れる時も俺ことなど見ていなかった。
帰宅するやマーヴはジーンズのポケットから飛び出す猫じゃらしに気がつき、小さく笑った。
「おかえり、ブラッドリー」
「マーヴただいま」
「あの子に会ったんだね、どうだった?」
そう尋ねながらマーヴはポケットから猫じゃらしを抜き出し、遊ぶように左右に小さく振った。
「いい感じ。距離は縮まってると思うけど、次はオヤツ持って来いって言われちゃった」
猫じゃらしを追っていたマーヴの視線が俺に移る。
「誰に? 飼い主さんに?」
「いや、猫ちゃんに」
「えっ?」
マーヴの目がレオのように丸く見開かれた。一瞬の間の後、彼は再び口を開いた。
「……え?」
猫の声、マーヴにも聞こえない?
×月△日○曜日
「やあレオ。ふふ、また来たなって顔してるね?」
オレンジの被毛を輝かせた彼は僕のことを覚えている様子で、こちらに視線を固定しながら忙しなく動いている。彼が窓に頭をぶつけて擦り付けると、痛くないかと心配するほどの大きな音が鳴った。少なくとも僕を歓迎してくれているということだろう。
「この前、うちの子が来たみたいで」
指で窓をなぞると、彼は指先に鼻を近づけた。しかし残念ながら、窓に隔たれていて彼に匂いはわからない。
「あの子の名前、ブラッドリーっていうんだ。ほら、口髭のお兄さん、覚えてる?」
よく磨かれた窓には何人分かの指紋と、今付いたばかりの猫の小さな鼻の跡があった。
「君を怖がらせちゃったみたいだけど、本当はとても優しくていい子なんだよ。僕は一応五十年以上生きてきたけど、彼の優しさは本物だと言い切れるよ。意地悪は……たまにするけど、君にはしないと思う」
レオは話を聞いているのか、動きを止めて僕の前に座った。Mの文字のような額の模様がいつもより濃く見える。
「君は彼のことが気に入るはずだよ、僕が保証する。だから、仲良くしてやってくれる?」
返事はない。彼は僕をじっと見つめて目を細める。
「次あの子が来たらよろしくね。彼は今、良いおやつを探してるみたいだから」
窓越しでもおやつという単語の響きに反応し、彼は小さく鳴いて再び頭を窓に擦り付け始めた。今はおやつは持っていないのだけど……。勘違いさせちゃったかな。
「ごめん、僕は今はおやつを持ってないんだ。口髭のお兄さんから貰ってやってくれる? 君のお父さんかお母さんにお願いして、君にプレゼントできるようにするから」
するとレオはピタリと動きを止め、また腰を落ち着けた。
「そうかそうか、待っててくれるんだね」
猫はどんな時も口元が笑っているように見えるものだが、その時ばかりは本当に笑っていたと思う。
「じゃあ、僕はこれから用事があるんだ。また会おうね」
小さく手を振りつつ窓を離れると、レオの鮮やかなグリーンの目はじっと僕を追っていた。
なぜわざわざブラッドリーを売り込むようなことをしに来たのか、自分でもわからない。だけど誰かに彼の話をする時、胸は心地良く締め付けられ、不思議な浮遊感を抱く。たとえ猫を相手にしても、ブラッドリーの話を、いわば自慢話を聞いてほしくなる。
つまり僕はそれほどまでに、ブラッドリーに恋をしているのだ。
×月△日◯曜日
遠くで小鳥が鳴いている。その明るいさえずりに、ぼんやりと意識が形作られていく。
「やっば!」
飛び起きると周囲は真っ暗だった。身体は不快な汗をかき、鼓動が騒がしく打ちつける。ベッドサイドを振り返り、縋るように時計を探した。午前二時過ぎ。
「ああ、なんだ……よかった……」
寝坊の予感が外れて大いに安心していると、隣ではマーヴが枕の下に入れていた手を出し、目を擦っていた。
「ん……ブラッド……?」
眠気をまとった彼の声は溶けそうに掠れている。
「ごめんマーヴ」
「大きな声がしたけど、大丈夫?」
羽のようなまつ毛をゆっくりと瞬かせた後、マーヴは飛び起きた格好のまま深呼吸する俺に腕を伸ばした。まどろむ彼の腕はこちらにほんの少しのところで届かず、ぱたりとシーツに下ろされた。
「遅刻する夢見た……」
「ふふっ」
マーヴはそれは大変だね、と微かに息を漏らして笑った。
「んあ〜もう……ほんとごめん、寝てたのに」
マーヴと向かい合うように再びベッドに倒れ込むと、彼は朝露に濡れた目で真っ直ぐ俺を見つめた。
「朝起こしてあげようか?」
「いや起きれるから……大丈夫……」
「そう?」
「ん……」
鼓動が静まるにつれ、眠気に捕らわれマーヴの姿が霞んでいった。沈みゆく意識の中でも、自分の脚はしっかりとマーヴのそれに絡ませていた。
―また鳥の声が聞こえる。今度は近くで。朝から井戸端会議で盛り上がっている。……待てよ、これは……?
「うわっ」
覚えのある嫌な感覚に、俄に身体が跳ね上がった。隣にマーヴの姿はなく、枕はすでに整えられている。時計はまるで俺を置いて行くようにして一分進んだ。しまった。今度こそ寝過ごした。キッチンのある方角からは食器のぶつかる音や水を流す音が聞こえる。脚に絡まるシーツを蹴落としながら身支度を済ませ、なんとか寝室を飛び出した。
「マーヴ起こしてよ〜」
突然背後から投げられた言葉に肩をびくつかせたマーヴは振り返って叫んだ。
「大丈夫だって言ってたぞ」
「そんなの言ったっけ」
朝の調子の整わない喉を起き抜けから酷使したおかげで、声は間抜けに裏返る。
「ごめんマーヴ、コーヒーだけタンブラーに入れてくれない」
マーヴは頷くより先に手を動かし、勢いよくコーヒーを容器へ注いだ。跳ねる水滴の量でマーヴの焦り具合がよくわかる。甲高いベルの音に呼ばれ飛び出したトーストをキャッチし、ピーナッツバターを塗り―どんなに急いでいてもこれは忘れたくない―トーストの半分を覆う口で齧りついた。数回咀嚼したトーストをコーヒーで流し込むと、アースカラーのまん丸な目がこちらを見上げていた。
「なに、マーヴ」
「凄いな、君の口……」
「まだ見慣れない?」
思わずクスッと笑いかけると、彼はハッと目を逸らして俺を急かした。
「こんな話をしている場合じゃないよ、ほら急いで!」
マーヴはタンブラーをぐいと俺に押しつけ、キッチンからも追い出した。荷物を引っ掴み玄関へ向かうまで、二人分とは思えないほどの騒音でドタバタと走り回った。二人してこんなにも焦るなんて久々のことで、玄関ドアに手を掛ける頃には可笑しささえ感じていた。
「ブラッドリー、家の鍵は持った」
「持った!」
「車の鍵は」
「持っ……たけど、一つ忘れ物!」
「取ってくるよ!」
「ううんいい、マーヴこっち向いて」
俺は家の中へ戻りかけて振り向いたマーヴの頬に手を添えキスをした。
「うん、これでOK、いってきます」
忘れ物をしたまま家を出るわけにはいかない。どんなに時間がなくたって。もしマーヴにキスをせず家を出たら、きっと一日中後悔する。マーヴは一瞬呆けた後、眉を下げて微笑みながら腕を伸ばして俺を抱き寄せた。
「いってらっしゃい、もう忘れ物はない?」
「うん」
「それじゃあ、今日も頑張ってね」
マーヴはぽんと肩に手を置き、もう一方の手で俺の頬に手を添えた。
外では小鳥がまだまだ噂話を続けている。大好きな人にいってらっしゃいと見送られて、毎日よく家を離れられるものだなぁと、我ながら思う。本当は片時だって離れたくはないけれど、マーヴにいってらっしゃいと声をかけられる特権も、決して手放したくはないのだ。
○月△日+曜日
部屋に響く心地良い声。マーヴの鼻歌はどんな時もどんな場所でも、周囲の空気を柔らかくする。
彼は鼻歌をよく歌う。昔の彼は今より歌が下手だった。今もどちらかといえば俺の方が上手いけれど、時折調子を外す鼻歌こそがマーヴの奏でる音楽だ。そんな音楽で育った俺は、マーヴの鼻歌の曲名を頭の中で密かに当てるのが好きで、一つの趣味ともいえる。
「おはよ、マーヴ」
「おはよう、ブラッドリー」
マーヴは今朝も鼻歌を歌っている。にっこりと笑った彼はその緩んだ頬のまま、挨拶するために中断していた鼻歌を再開し、俺にコーヒーを手渡した。
「よく眠れた?」
彼はまた鼻歌を止める。
「うん、ぐっすり」
よかった、と更に口角を上げた彼はそこで突然曲を変えた。この曲はどこかで聴いたことがある……。
「……ブラッドリー?」
「えっ?」
曲名を思い出そうと必死で考えている間に、マーヴは何度か俺の名前を呼んでいたらしかった。
「ごめん、考えごとしてた」
「大丈夫? 話したいなら僕が聞くよ」
「いや大丈夫、大したことじゃないから……」
マーヴにヒントを乞わず頭の中だけで曲名を考えるのがこの趣味のルールだ。しかし結局家を出るまでどうしても思い出せず、午前中は全て自分の知っている曲を思い出すことに費やした。仕事は二の次だったが、ミスは犯さなかった。こんなことでアビエイターとしての優秀さを自覚するとは。
午後の中途半端な時間、飛行訓練もデブリーフィングも終え集中力も下降し始めた頃、その時は突然やって来た。
「あっ」
隣に座っていた同僚は驚きで肩を跳び上がらせ、俺の不意の叫び声に悪態をついた。わかった、あれだ。マーヴが歌っていたのはあの曲だ。あれしかない。
確信を得た途端、気づけばスマートフォンを掴みマーヴにテキストを送っていた。
『わかった! ××でしょ』
普段は自分だけで確認して納得するのだが、この時ばかりはようやく頭が冴えたことに興奮し、本人に答え合わせを求めてしまった。当然マーヴは何のことかわからず、返信するにも言葉が思いつかないようで、タイピング中の表示がなかなか消えなかった。
『この曲がどうかしたの?』
マーヴの返信は読むだけで伝わるほど困惑に満ちていた。
『俺その曲好きだよ』
彼がこの曲を歌っていた時の機嫌の良い声を思い出した。声は少し高く音域は俺よりも広く、どんな曲調にも合うその声は、春の日に吹く風のように控えめに耳を撫でていく。
『僕もこの曲は好きだよ』
帰宅時間まであと少し。それまではマーヴの鼻歌を思い出して過ごすことにする。
「お前、鼻歌なんか歌ってずいぶんとご機嫌だな」
隣では同僚がまじまじと俺を見つめている。実際、機嫌はすこぶる良い。正解がわかって清々しい気分だ。帰りの車中ではこの曲を流して思い切り歌おう。そして家に着いたら、マーヴと一緒にもう一度歌おう。調子外れの優しい声と、一オクターブ下がった掠れ声が重なるとどうなるか、この耳で楽しもう。
○月×日+曜日
マーヴと服屋に行くのは、何百とある楽しみの一つだ。試着室に並ぶ服の趣味からは親の遺伝を感じざるを得ないが、手に取った服にはすべてマーヴからの褒め言葉が付いていて、商品棚に戻すなんて出来るわけがなかった。
「マーヴ、どう?」
マーヴは試着室の前に置かれたスツールにちょこんと座っていた。その小さな頭を上げると、目を細めて答えた。
「似合ってるよ」
「ありがと、俺もそう思った」
ココナッツやカクテルが描かれたアロハシャツは、太陽の下で着てみたい一着だ。サングラスをかければもう、この夏のコーディネートは決まったようなものだろう。
次に試したのはブルーのポロシャツ。遠洋のような色は綺麗だけど……。
「それも良いね」
「ほんと? ゴルフ場の人みたいじゃない?」
「まあ……そう言われると……」
「やっぱり」
「〝ハンサムな〟ゴルフ場の人、だけどね」
マーヴは苦笑しつつフォローした。しかしゴルフ場の人のようだという俺の言葉を否定はしなかった。
その後もTシャツはクルーネックやVネック、シャツは単色から柄物まで、あらゆるトップスを試着したが、マーヴはすべてを惜しみなく賞賛した。褒められるのはくすぐったくて嬉しいけれど、全て良いと言われてしまうと決め手が無い。
「じゃあこっちは?」
「かっこいいよ、でもボタンはもう一つ閉めなさい」
そう言ってマーヴは立ち上がり、最後に試着した白いリネンシャツのボタンを閉めた。
「これでよし、素敵だよ」
マーヴはそのままポンと俺の胸に手を置き微笑んだ。じわりと彼の体温が胸に伝わる。俺は思わず彼の熱い手のひらにキスをした。……さて、ここから二着ほどに絞り込まなければ。
「マーヴはどれが好き?」
「ん〜……どれも好きだよ」
「いくつか選んでよ」
「うーん、全部好きだからなぁ」
マーヴは掴まれた手を引っ込め、腕を組んだ。
「ほんとに全部好き? 似合ってた?」
「簡単には決められないくらいね」
マーヴの眉が下がった。お手上げだと言わんばかりに組んでいた腕を解き、頭を掻いた。
「やった、じゃあ全部買ってもいい?」
途端に彼の表情が変わった。真剣で、咎めるような顔。全部はダメなの?
「そんなに買ったって、クローゼットに入らないだろう?先に今持っている服を処分しないと」
記憶の中でクローゼットを開くと、確かに俺の服はやたらと多い。二人で共有しているため、少しでも服が増えるとマーヴのスペースを圧迫してしまう。きっとマーヴも同じ光景を想像しているのだろう、徐々にその表情が渋くなっていく。
「要は、もっと大きいクローゼットがある新居を探そうってわけね」
「そんなことは言ってないぞ」
マーヴは呆れ笑いで首を振った。
「君の服の整理が先だ」
「マーヴとの新居、探したいけどなぁ」
「服のために家を探すなんて……」
今度はため息をついている。
「そういう人もいるでしょ」
「君はスーパーモデルか」
まあ、近からず遠からず? 俺はいつでもモデルの仕事できるけどね。そんな表情を読み取ったマーヴは俺の身体を方向転換させ、試着室へとぐいぐい押し込んだ。
「とにかく、手持ちを処分するかこの服を諦めるか、着替えながら考えておきなさい」
今までの人生でクローゼットのスペースを使い切ったことなど一度もなかった。入りきらず飛び出した服は、マーヴと暮らすことでしか得られない幸せな現象だ。それをどうにかしろと注意されることだって、嬉しいに決まっている。
+月○日△曜日
昼食を摂って早々、ブラッドリーは寝室に篭りきりだ。一体何をしているのかはわからないが、集中しているに違いない。珍しく僕を呼ばないから。
「マァヴ」
……うん、こういうところがブラッドリーだ。グラスに残った水を飲み干し、寝室へと向かった。
「どうしたの? 呼んだ?」
開け放たれたドアから中を覗くと、ブラッドリーはクローゼットを開き、色とりどりの服をベッドへ広げ床へ積み上げ、立ったままそれらを見下ろし唸っていた。こちらに気がつき顔を向けた彼は眉を寄せたまま答えた。
「マーヴ、助けて」
「何してるんだ?」
「何って、服の整理をしろって言ったのはマーヴでしょ」
「そうか、そうだったね」
先日僕を連れ立って服屋に行き、大量の服を試着し今と同じくらい唸った結果、彼は僕の反応が特に良かったらしい数着を購入した。新たに服を買うなら手持ちを処分しろと言ったのは僕だったが、彼がなかなか手をつけないのですっかり忘れていた。
ブラッドリーはベッドに置かれたTシャツを持ち上げて広げた。
「こんなの持ってたっけ?」
「さあ……僕にも見覚えはないな」
「よし、まだ新しいし、寄付だね」
そう言って彼は床にTシャツを置いた。今の彼の趣味ではないらしい。
その後もブラッドリーは気になるものは次々と試着し、僕に感想を求めた。ファッションショーのようで見ているこちらは楽しいのだが、整理しろと言い出した手前、むやみやたらと好意的な反応を見せることは控えるつもりだった。しかし彼が手に取るものはどれも惜しくなるほど似合っていて、いくつかは思わず手を伸ばして引き留めてしまった。ブラッドリー、ネイビーブルーのボタンシャツなんて絶対に捨てちゃダメだ。
「これ、まだ着られると思う?」
次はどうやら細身に作られているらしいシャツを、ブラッドリーは自分の身体にあてて見せた。
「どうだろう……着てみたら?」
返事をする代わりにブラッドリーは試着していた古いスウェットを脱いだ。するとシャツに袖を通したところで彼が笑い出した。
「ダメだ、絶対破く!」
彼の逞しい身体に、伸縮性のない生地がピンと張り悲鳴を上げている。縫い目の糸がかろうじて布同士を繋ぎ止め、服の形を留めている。
「そんなにきついの?」
「なんでこんな小さいの持ってたんだろ……。マーヴのじゃないよね?」
彼は着てみてよ、と脱いだシャツを広げた。絶対に僕のじゃない。オウム柄のシャツなんて持っていない。
「わ、サイズいいじゃん」
ブラッドリーの表情は晴れやかに変わったが、僕の身体は着慣れた白いTシャツとは異なる色鮮やかな鳥に触れて驚いている。
「サイズはよくても……」
「似合ってる、それはキープだよ」
「本当に?」
いくらなんでも信じ難いが、ブラッドリーがあまりにも必死に引き留めるので僕がしばらく持っておくことになってしまった。ここまで派手な服を、一体どこへ着て行けばいいのだろう。
「今度それ着てデートしようよ」
僕の思考を読んだのか、彼は微笑み僕の手を取った。近い将来のデートを想像して彼の目は輝いている。
「俺も派手な格好してさ、街で注目浴びちゃわない?」
「君は何でも似合うけど、僕はどうかな……」
鏡の方へ振り返ると、雷に打たれたような衝撃的な表情のブラッドリーと目が合った。なんだ、どうしたんだ。
「マーヴ、俺の彼氏になんてこと言うの」
「え?」
「俺の彼氏はね、どんな服も着こなせるんだよ。それはもう、シンプルな白Tとジーンズから原色の柄シャツまで、なんなら何も着てなくても超イケてるんだけどさ」
彼は熱心に〝俺の彼氏〟について語りながら、後ろから僕に腕を回した。
「俺はその人と色んな格好をして色んな場所へ出かけたいんだよね。まだ試したことない服とか行ったことないとこ、たくさんあるから」
まあでも、と彼は続ける。
「マーヴはそのままで華やかだから、実際のところはその服だって霞むと思うよ」
もう、君は褒めすぎだよ。そう言いたかったはずなのに、口を出る頃には全く違う言葉に変わっていた。
「君より魅力的になってしまったらごめんね」
ブラッドリーはハハッと声をあげて笑い、回した腕に力を込めて僕のつむじにキスを落とした。
結局大した数の服は処分出来ず、代わりに二人で着たい服、行きたい場所ばかりが増え続けた。君と暮らすと、目的を果たせず寄り道ばかりしてしまうね。
○月×日△曜日
髪を切った。とは言っても軍の規定があるので伸びた分を切って揃えてもらっただけ。セットもしやすいし、今のスタイルは気に入っている。しかしなんの代わり映えもしないため、つまらないといえばつまらない。
「マーヴ、帰ったよ」
「ああブラッドリー、おかえり」
ちゅ、と可愛い音を立ててマーヴが頬にキスをした。
「キスのお返しにマーヴの匂い嗅いじゃお」
「こら。お返しになってないし、まだシャワー浴びてないから……」
そんなことを言いつつも、マーヴは俺の鼻を避けようとしない。むしろマーヴも鼻を俺に近づけ、すんと短く息を吸った。
「ブラッド、髪切った?」
基地のシャワー室備え付けの安物とは違い、ヘアサロンのシャンプーは深みのある高級な香りがする。マーヴは鼻を通るその香りに気がつき、真横にある俺の顔に呟いた。
「切った、けどいつもと同じだよ」
「どれ、見せて」
マーヴは俺を自身の正面に向かせ、少し屈んだ俺の顔を数秒じっと見つめた。
「うん、かっこいいよ」
そう言って俺の肩にポンと手を置き、俺を解放した。
「かっこいいって……。別に長さとか何も変えてないよ」
「ああ、わかってるよ。規則があるもんな」
「なんなら行く前とあんま変わってないのに、かっこよくなる?」
「なってるさ」
自分でもわからないほどの長さしか切っていないし、言われたら少しさっぱりしたように見える程度の変化。なんなら髪を切ったことを言うつもりさえなかった。なのにマーヴはやたらと褒める。過去にヘアスタイルを変えたことに気づかず怒られた相手でもいたのだろうか。なんでもかんでも褒めればブラッドリーは喜ぶと、そう思っているなら大間違いだよ。ちゃんと俺自身を見て言ってくれないと。例えば髪を緑色に染めたとして、それでも褒められるようでは納得がいかない。
「やってみるか……? 緑色……」
「み、緑色?」
マーヴは玄関の鏡の中で髪をいじる俺を見て後ずさった。
「緑はどうかな……」
まだ具体的なことは何も言っていないのに、マーヴはすでに俺の身体を張った企みを警戒している。
「え? だめ?」
「そうだね……すすめはしないかな」
さすがに緑髪は何とも言い難いようだ。ということはこの時点で〝なんでも褒めるわけではない〟ということが証明されたわけだが、せっかくなので食い下がってみようと思う。
「でも色は変えたいよ」
「規則違反になるよ?」
「やむなし……」
「やむなしではないだろ」
あは、とマーヴは軽く笑った。それから彼は細めた目を俺の顔より少し上に向けた。
「まあでも、真っ黒な髪はかっこいいかもね」
ダメ押しのように「ね?」とマーヴは更に目を細め、視線を俺と交わらせた。ああもう、ほんとこの人は。がくりと身体の力が抜ける。
「別に本当に髪染めたいわけじゃないよ」
「そうなのか?」
「マーヴがあんまり褒めてばかりだから、何か突飛なことでもしてやろうかって、魔が差しただけ」
「僕が褒めてばかり? そうかなぁ」
案の定本人に自覚はなかった。
マーヴは褒めてばかりなのではなく、何にでも良いところを見つけて教えてくれる人だと、ようやく思い出した。たしか母が言っていた。都合の良いことを言うのは上手いけれど、その言葉が決して嘘ではないから困るのよ、と。
変な髪色にしようとした俺を止めようとはするが、「この方がいいんじゃないか」と差し出してくれた案はその場しのぎなんかではない。そういうことだよね?
「黒髪かぁ……ちょっとハンサムすぎるかもなぁ」
彼の案をすんなりと受け止めた俺を見て、マーヴは吹き出した。
「いつかやってみてくれ、ハンサムすぎるのは大歓迎だよ」
そして腕を伸ばし俺のブラウンヘアを撫でた。これは退役後の楽しみが一つ増えたということか。
×月△日○曜日
寝室に差し込む優しい光。時計はいつもと同じ時間を示し、一日の始まりを告げている。隣で眠るブラッドリーにとっての朝は、まだもう少し先だ。ベッドを出るため静かに彼に背を向けた。
「んん……」
背後でブラッドリーがもぞもぞと動き始めた。
「マァヴ……」
彼は夢うつつで僕を呼んだ。かちんと小さく歯の鳴る音がして、彼があくびをしたのだとわかる。
「先に起きるね」
そう声をかけると、ブラッドリーが背後から腕を伸ばし僕をベッドへ沈ませた。寝ぼけているとは思えないほどの力を込めて。
「ブラッド?」
「ダメ、マーヴ」
その声は掠れて聞き取りづらいが、胸の辺りに回された腕の力で彼の言わんとしていることを理解した。
「朝だよ、ブラッドリー」
「知ってる……まだここにいたらいいじゃん……」
するとブラッドリーはさらに脚を僕に絡ませ、しっかりと自らの身体に繋ぎとめた。隙間なく身体を寄せた彼は僕の背に顔を埋め、一度大きく呼吸した。彼の熱い鼻息が背に広がる。
「はあ……」
仕方のない子だな。振り返って彼の寝顔を見ようにも身動きがとれない。なんとか頭を持ち上げてみるが朝一番の固まった身体では限界がある。背後ではブラッドリーが何やらぶつぶつ言いながら、胸元に回した手で時折僕のTシャツを握りしめたり、その生地の向こうにある僕の胸を掴もうとしている。Tシャツを握るのは彼が幼い頃からの癖だが、胸を掴まれたことはなかった。どこで得た癖なのかは知る由もないしわざわざ教えてほしいとも思わないが、どうしてかこれは妙に眠気を誘う。
「ブラッド、もう……」
起きなきゃ。その言葉が声に出ることはなかった。
―どれほど時間が経ったのか。何かが不規則に頬に触れる。しかしそれが今の時間を教えてくれることはない。先ほどよりも格段に重い瞼をようやく開くと、たくましい腕がこちらに向かって伸びていた。
「マーヴ、寝過ごした?」
微かに見えるブラッドリーの口元は綻んでいる。彼の視線は頬を撫でていた自らの手を追い肩へ移動した後、僕の半分閉じた目に留まった。
「君が引きずり込んだんだろ……」
眠気に抗いながらようやくブラッドリーを責めた。彼は目を擦ったばかりの僕の手を取りキスを落とした。
「たまにはいいでしょ?」
「二度寝は疲れるんだ」
「悪いことじゃないよ」
確かに、軽妙な彼の掠れた笑い声に朝を告げられるのも悪くはないのかもしれない。
「今日はワークアウトは無し。ルーティンは無視して俺と気まぐれにダラッとする。うん、決まり」
そこまでだらけるつもりではなかったけれど……。
「マーヴ、何その目は」
答える代わりに彼に背を向けた。彼は懲りずに僕の胸元に腕を回し、今度は背中にキスを繰り返す。
「こっち向いてよ、マーヴ?」
ここで簡単に振り向いてはいけない。
ああ、君の生きる速度に呑まれそうだ。
△月○日×曜日
家中に流れる音楽。二人が好きな曲をジャンルもアーティストもごちゃ混ぜにした、二人だけのプレイリスト。今はマーヴの好きな曲が流れている。八十年代のロックミュージック。曲に合わせて揺れていると、遠くからマーヴの声が聞こえる。
「ブラッドリー、踊るのは後にして掃除しなさい」
こちらの姿など見えていないはずのマーヴが俺に注意した。なんで踊ってるってわかったの?
今日は大掃除をしている。特に予定もなく、なんとなく思いつきで物を減らそうかと言い出したが最後、マーヴは家中をひっくり返すつもりだ。
「マーヴも踊ればいいのに」
ギターの音に掻き消える独り言。きっとマーヴも独り言をぶつぶつと唱えながら、しかしテキパキと物を片付けているはずだ。
「そっちは進んでるのか?」
「うん、順調!」
嘘、全然進んでいない。ロックの次はバラードが始まり、静かな曲調の中マーヴの声が近くに聞こえる。
「これは……あ、こっちも……」
やっぱり、マーヴは独り言を呟きながら作業をしていた。聞いていると、もう一人の自分と対話しているのかと思うほど、ごく自然に何か話している。
しばらくすると、微かに聞こえていたマーヴの声が一切聞こえなくなっていた。マーヴのことだから作業の手を止めてはいないだろうが、取捨選択に悩む声は完全に途切れ、物を動かす音すら消えている。
「マーヴ、進んでる?」
そっと声の聞こえていた方へ近づくと、マーヴはリビングにいた。ソファの裏側にもたれて床に座り込んでいる。彼の傍には堆く積まれた本の山。それらは家中に散らばっていた彼の専門書や趣味の雑誌など、ほとんどが乗り物にまつわるもので、彼はその中の一冊を読み耽っていた。
「マーヴ、掃除は?」
マーヴの隣に腰を下ろして紙面を見ると、それはバイクの整備マニュアルだった。周囲を見渡すと、少し遠くに置かれた本がいくつかある。きっと処分する物だろう。しかし目を通していない雑誌や本はまだまだたくさんマーヴを待っている。
「マーヴ」
「んー……」
呼びかけてもマーヴの返事は上の空。視線は真っ直ぐにバイクのどこかのパーツに注がれている。
「マーヴ、休憩する?」
「ん」
また同じ返事。マーヴはページをめくり、車体のよくわからない箇所の拡大図を見ている。
「……マーヴ、俺のこと好き?」
「ん〜……」
「俺も好きだよ」
「ん……」
「……ねえマーヴ、俺と結婚してくれる?」
「んー……」
伏せられたまつ毛は頬に影を落とし、唇は文字を読むのに合わせて微かに動いている。
「やった、ありがと」
可愛いつむじにキスを落とすと、ようやくマーヴがこちらに顔を向けた。
「んん?」
しばらくぶりに文字から離れた彼の目は、瞬くたびに疑問をたたえた光がこぼれ落ちる。
「なんでもないよ、どうぞ進めて」
「? う、うん」
明るい昼下がり、その約束が果たされる日を心待ちにしつつ、積まれた本に手を伸ばした。