其の望みの歪さを(生存IFハドアバ) 静かなカール王城を、ハドラーはゆっくりと歩いていた。夜も更けた頃合いだ。出歩く者はいない。魔族の性かあまり睡眠を必要としないハドラーは、暇を持て余した深夜にこうして城内を歩くことがあった。
ハドラーが女王フローラの相談役などという珍妙な役職でカール王国に身を寄せてから、しばらくが経っていた。フローラはアバンを王配として迎え、恙なく復興が行われている。そこに元魔王が加わる異質さに、人々も随分と慣れて来ていた。
なので、こうやって深夜にハドラーが王城を歩いていても誰も咎めない。不寝番の兵士達など、最近では「ハドラー殿が巡回をしてくださっているので安心できます」などと言う始末。元魔王も随分と馴染んだものである。
そんな風にほぼ日課のような深夜の散歩をしている途中、ハドラーは月明かりの差し込む廊下に妙なものを見つけた。
青白い月の光に照らされて立っているのは、室内着姿のアバンだった。いつもは綺麗に巻かれている髪がほどけており、眼鏡もしていない。アバンの眼鏡は伊達眼鏡なので、それは別に問題ではない。寝る前だと思えば、おかしくもない恰好だろう。
だから、ハドラーに不信感を抱かせたのはその足下だ。
アバンの足下には、何人もの男達が転がっていた。いずれも闇に潜む隠密のような恰好をしている。暗部を司る者というよりは、人を殺めることに特化した者達とでも言うべきだろうか。
「殺したのか?」
「物騒なことを言わないでください。気絶してもらっただけですよ」
「こんなものを送りつけられている段階で、随分と物騒だと思うがな」
ハドラーの言葉に、アバンは少しばかり疲れたように「そうですね」と呟いた。自らの足下を見つめるその表情に、感情はほとんど浮かんでいない。端正な顔立ちを強調するような、静かな表情だった。
晴れてカール女王フローラの王配となったアバンであるが、その立場は盤石とは言いがたかった。奇妙な話だ。かつて魔王ハドラーを討った勇者であり、大魔王バーン討伐を成しえた使徒達の師匠でもあるアバンは、その功績だけを見れば人類の守護者と呼んでも過言ではない。だというのに、その立場は、盤石ではないのだ。
アバン自身はそれを己の不徳だと思っているのか、国の復興に尽くし、フローラを支えることで徐々に認められるだろうと考えている。しかしそれは、ハドラーに言わせれば見当違いの考えだった。
誰一人、アバンに親しい者達はその事実に気づかない。何故ならば、彼らにとって勇者アバンとは親しむべき大切な存在だからだ。その存在の大きさ故に他者に畏怖される勇者の本質を、アバンの周囲の人々は正しく理解出来ていない。
或いはそれは、彼らが人間としては高潔であったからかもしれない。他者を妬み、恐れ、忌む人間の感情に、彼らはどこか鈍かった。
「まだまだ精進が足りませんね。やはり、国を離れていたことも影響しているのでしょうか」
「……アバン」
「何ですか、ハドラー」
「貴様、実はどうしようもなく阿呆だろう」
「……はい?」
大真面目な顔でアバンが告げる言葉を、ハドラーは面倒くさそうに切り捨てた。人間にしては色々とすっ飛んでいると思っていたが、ここまで阿呆だとは思わなかったと元魔王はぼやく。宿敵の自分への態度に意味が分からなかったのか、アバンは首を傾げた。
一瞬の半分だけ、剣呑な瞳がハドラーを見る。ハドラーを前にしたとき、それも二人きりのときに、アバンはかつての勇者アバンの眼差しを取り戻す。今となっては、ハドラー以外の誰にも向けられることのない、その、刃のような眼差しがハドラーには心地好かった。
「いきなり現れて人を侮辱して楽しいですか、ハドラー」
「別に侮辱はしとらん。呆れているだけだ」
「何で貴方に呆れられないといけないんですか」
「貴様が人間のくせに、人間をまったく理解していないからだ」
「……どういう意味だ」
ハドラーの言葉の内容に引っかかるものを覚えたのだろう。アバンは、低く落とした剣呑な声で問いかける。語尾が少々荒っぽいその口調は、ハドラーには聞き馴染んだものだ。勇者として魔王ハドラーと相対したとき、死闘を繰り広げたとき、アバンはいつもこういった口調であった。
けれどそれが、珍しいことであるのをハドラーは知っている。年下を相手でも丁寧な口調を崩さないこの男が、取り繕うことをせずに本音をストレートにぶつけてくるのが自分相手だからだと知っていた。その程度には気を許されているのだと、それは確かな優越感としてハドラーの内側にある。
だが、ハドラーは告げた言葉を撤回するつもりはなかった。コレに関しては、アバンよりも己が正しいとわかっていたからだ。
「貴様に刺客が送られるのは、何も貴様が嫌われているからでも、信頼されていないからでもない」
「…………」
「単純に、貴様は、恐れられているだけだ」
「……恐れられている、ですか」
アバンはハドラーが告げた言葉に、息を吐き出すようにして言葉を零した。その横顔を見て、やはり彼に意味が通じていないとハドラーは理解した。人々がアバンを恐れるのは何も、その並外れた戦闘力ではない。
人間が何かを恐れるのは、その何かを理解出来ないときだ。
強さも、考え方も、在り方も、理解出来るならば添うことが出来る。しかし、理解が及ばなければそれは異質なもの、恐ろしいもの、不気味なものにしかならない。
今のアバンは、そういう意味で、不気味な存在でしかないのだ。
「人々が恐れているのは貴様の強さではないぞ」
「……え?」
「強さだけで言うならば、貴様よりも弟子達の方が顕著に表れているだろうが。だが、奴らは誰一人恐れられてはいない。ヒュンケルは多少昔の名残があるが、それでもそこまで嫌われ恐れられてはいないだろうが」
「……そう、ですね。あの子達は、多くの人々に受け入れられ、愛されて……」
そこまで呟いて、そして、アバンは道標を失った子供のようにハドラーを見た。それならば何故、己は絶えず刺客を送られるほどに疎まれるのか、と。優れた頭脳を持ちながらその答えを導き出せないアバンに、ハドラーは嘆息を繰り返した。
元魔王が、元勇者に人間について説く。実に珍妙な光景だが、二人とも大真面目だった。
「貴様はな、奴らに比べて人間味が薄いのだ」
「……え?あの、私、生まれてこの方ずーっと人間なんですけども」
「そんなことは知っている。ただ、貴様の精神のありようが、人間とは異なる何かに見えるのだ」
「今、物凄く失礼なことを言っていないか、お前?」
「客観的に見た事実だ。……貴様はその能力と成した成果に反して、あまりにも欲が薄い」
眼前の元宿敵の言葉に、アバンはぽかんとした。何を言われているのか分からない様子だった。実際、分かっていないのだろう。アバンにも彼なりに欲求はある。求めるものも、願うものもある。決して無欲な聖人君子ではない。
だが、ハドラーに言わせればそれは、あまりにも、他者が異質に感じるほどに釣り合いが取れていないのだ。世界を救っておきながら、願うのは「田舎でひっそりと研究をすることです」とでも答えそうなこの男の、壊れた天秤をハドラーはよく知っている。
かつて、自分の命と引き換えにハドラーを倒そうとしたように。求めるものに対して彼が差し出す対価が、あまりにも大きすぎるのだ。そして、そのアンバランスさゆえに人々は彼を理解出来ず、異質な何かだと思うのだ。
「私にだって人並みに欲求ぐらいありますよ?こう、平和になった世界で、穏やかに、大切な人々と静かに過ごしていたいなぁという、盛大な野望が」
「世間一般の価値観で考えて、貴様のような立場にある男がその程度のことしか望まぬのは、感心を通り越して不気味にしかならん」
「お前本当に私のことを侮辱していないんだよな?」
「俺が貴様を侮辱する意味がどこにある。……アバンよ、貴様に近しい者達ならばそれが貴様の心底からの願いであり、何より得がたいものであり、……同時に掴むのがとても難しいことを理解しているだろう。だが、そうでないものにとって今の貴様は、ただの理解不能な異物だ」
語るハドラーの口調は穏やかだった。仕方の無い奴だなと言いたげな顔だった。アバンはその表情で何かを悟ったように目を見開き、そして、多くを諦めたように小さな笑みを浮かべた。
ただの人間でいたいと、人間らしい平凡な幸せを願っただけだというのに、それすら異質だと言われる己のありようが、分かってしまったからだ。ごく普通の、当たり前の、人間として当然の未来を願うだけで恐れられる己の歪さが、アバンの胸を刺す。
だが、それと同時に彼は納得もしてしまった。自分が自分であろうとすると、ただそれだけで多くを引き離してしまうという現実を彼は知っている。ただ自然体のままに生きようとするだけで、人々を畏怖させる己の存在を、彼は理解してしまったのだ。
いや、眼前の元魔王によって教えられたというべきだろうか。力を振りかざさなければ、道化のように振る舞っていればいずれ理解されると思っていた。それが浅はかな考えであり、叶わぬ願いであるのだと突きつけられただけだ。
「平穏が欲しいだけなんですよ、私」
「知っている」
「……ハドラー」
「いやというほどに、知っているとも」
夜に溶け込むようなアバンの静かな声に、ハドラーは万感込めて応える。他の誰よりも己がそれを知っていると言いかねない元魔王に、対の存在とでも言うべき宿敵に、アバンは泣き笑いのような顔を見せた。
何故お前が、と唇が動く。けれどその先を、アバンは口にしなかった。何故お前だけが、誰よりも私を理解するのだろうか、と。勇者であるアバンが決して口にすることは許されない言葉だ。けれどそれは、確かに彼の、本心でもあった。
かつて、勇者として魔王ハドラーの前に立ったときから、アバンの願いはそれ一つだった。人々の永遠の安寧。穏やかで優しい世界で、好きなことをしてのんびりと生きていく。そんな庶民的な願いを、あの絶望の世界で抱き続けた愚かな勇者。それが、アバンなのだから。
憎しみでも、恨みでも、呪いでも、恐れでもなく、ただ怒りによってのみハドラーの前に立った勇者アバン。その心が、既にそのときから世間一般の人間達とは乖離していたことを、魔王ハドラーだけが知っていた。そして今、それを、アバンも理解したのだ。
「ままならないものですねぇ……」
「本心でなくとも構わんから、もう少し個人的な欲求を口にしろ」
「してますし、十分欲深いんですけど、私」
「他者に分かる範囲の欲求を口にしろと言っているのだ」
諭すハドラーの言葉に、アバンは面倒くさそうに息を吐いた。自分を欲深いと告げるアバンの言いたいことを、ハドラーは理解している。世界全ての平穏を願うなど、強欲以外の何でもない。だが、その壮大な願いはあまりにも壮大過ぎて、他者には欲が無いと思われてしまうのだ。
言葉を重ねようとしたハドラーは、困ったような顔で自分を見上げるアバンに眼を細めた。何だと視線で問いかける宿敵に、元勇者は自嘲めいた声音で呟いた。
「最も欲深い願いを既に叶えて貰っているのに、今さら何を願えというのか、分からないんだ」
その言葉に、ハドラーは口元に笑みを浮かべた。そうかと呟いた声は、静寂に溶ける。アバンはそれ以上何も言わなかった。ハドラーも何も言わなかった。
アバンが願った最も欲深い望み。
それは、本来ならば相容れるわけがない宿敵が、今彼の傍らにいることに他ならない。ハドラーと女王フローラの利害の一致も合わさったからの状況だが、今のこの生活は確かに、アバンにとっての幸福だった。
その魂に刻んだ願いこそ、彼が人を逸脱した証だと、彼らは確かに知っていた。
FIN