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    るるる

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    るるる

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    流川と三井が出てくるホラーです。

    ▷注意事項
    ・ふわっと読んでください
    ・恋愛要素は特にありません
    ・何でも大丈夫な方向けです
    ・ふわっと読んでください

    名称未設定1
     盆が明けて間もない日のことである。
     開け放した戸口から侵入した一匹の蝉が、わんわんと鳴いている。この数日、今夏の最高気温を更新し続けているというのは、今朝のニュースで知った。紅白試合を終え、熱した鉄板のような床に寝転び、人間の融点について考える。みな溶けるように項垂れ、ときおり息継ぎするように、呻きながら空を仰いでいる。
    「寝不足すか」
     無言の中、そう切り出したのは宮城である。そちらを見ると、宮城の横には三井が座っていた。三井は欠伸を噛み殺すように眉を歪めている。それから目頭を中指で軽く拭い、「少しな」と返した。
    「夜更かしとか体力もたねーっすよ」
    「いろいろあんだよ。ガキにゃあ分からねーだろうけどよ」
    「はー、ウザッ」
     三井がけらけらと笑って、ひとり立ち上がる。ボールを拾い、スリーポイントラインまで緩いドリブルで近付くと、シュートを一本打ってみせた。普段の弾道よりも少し低く、しかしボールは迷いなくリングをくぐり抜けた。床に伸びたままの流川は、ボールが落下する音と僅かな振動で、一瞬地面がたわむような感覚に陥った。
     
     そんな会話があってから数日後。流川が三井の異変に気付いたのは、1on1の最中だった。
     夏季休暇が明け、バスケ部の練習は通常通り放課後の時間に固定された。しかしそれだけでは時間も量も到底足りなく、流川は朝練の他に部活後も時間が許す限りは体育館を使っていく。以前は夏季の大会へ向けて、他の運動部も遅くまで残っていたものだが、今やこの時間帯になると校内はがらんと静かになる。
     練習を終え、みなが片付けを始めるタイミングで、三井へ1on1の相手を頼んだ。これは初めてのことではなく、IH前から何度か手合わせを重ねている。案外にも面倒見のいい男で、この手の誘いは断られたことがない。それが今日に限っては珍しく、承諾の返事を寄越す前にほんの少しだけ迷う表情を見せた。流川はそれに対して何か思うことはなかったが、いざ1on1が始まるにつけ、何かあるのではと勘繰った。三井には二年のブランクがあり、体力のなさは大きな懸念材料として本人も十分に自覚しているところである。それを前提としても、目の前にいる三井はひどく疲れているように見えた。動きは以前ふたりでやったときよりも悪く思えたし、視線は悪い意味で落ち着きがない。ボールを持った流川が動きをぴたりと止めると、三井は肩で息をしながら流川を見遣った。
    「ちょっと、休憩しねーすか」
     流川が言うと、三井はずるずるとその場に座り込んだ。流川もしゃがみ込んでその顔を覗き込むと、三井の目は開いているのか瞑っているのかすら曖昧だった。まだ大して時間は経っていないし、今日の練習が特段ハードだったとも思わない。いつもはうるさいくらい喋るくせ、今日はほとんど口を開かないのも妙だった。
    「体調悪いっすよね」
    「はッ……はッ……」
     流川の問いかけに、三井は黙って首を横に振った。ただぜいぜいと荒い呼吸を繰り返している。その様子を淡々と見ていると、やがて落ち着いたのか、三井がゆっくりと顔を上げた。照明のせいか、顔色もあまりよくないように見える。三井が僅かに口を開いた瞬間、何かに反応してハッと後ろを振り返った。少し驚いて流川もそちらへ視線を向ける。そこには外へ繋がるシャトルドアがあるだけで、今は隙間なく閉じられている。夕方までは通気のために開放していたものの、「虫が入る」と言って三井が早々に閉めて錠をかけたのだ。
    「……どうしたんすか」
    「今、何か聞こえたか?」
     三井は顔を強張らせながら、シャトルドアの方を指した。流川はもう一度そちらに目を向ける。ただ、無機質なアルミ製の扉があるだけだ。
    「別に、何も」
     広い体育館では微かな音でも案外響くものだし、まだ見回りの教師がやって来るような時間でもない。流川には、何の物音も聞こえなかった。
    「……そうだよな、悪い。忘れてくれ」
    「調子悪いなら無理して付き合わなくていいすよ」
     三井は、居心地の悪そうな顔をしながらも軽く首を横に振った。何か言いたげに口をまごつかせている。
    「……最近、あんま寝てなくてよ。気ぃ遣わせて悪いな」
     言いながら、溜め息を吐いた。ふだんよりも白っぽい顔色に、目もとの隈は不健康な陰影をつくっている。その顔を見て、以前宮城にも寝不足を指摘されていたことを思い出した。
    「キャプテンも言ってたすけど、寝ないと体力もたねーっすよ」
    「寝ないっつうか、眠れないっつうか……まあ、大丈夫だ。そのうち戻るからさ」
     流川はほんの少しだけ眉を顰めた。要領を得ない答えだったが、己が考えるよりも複雑な状況にあるらしい上級生へかけるべき気の利いた言葉など、流川には思いつかなかったのだ。
     

    2
     四限の授業が終わるのと同時に、部室へ向かうべく流川は席を立った。午後の体育で着る体操着を忘れたことを思い出し、部活の練習着を代わりに使おうと思ったのである。廊下に出ると南からの陽差しが厳しく、購買へ向かう生徒たちが小走りに流川を追い越していく。
     部室棟は閑散としていて、窓に張りついた蝉がこちらに何かを訴えるように騒がしく鳴いている。部室の引き戸を開けると、中でガタッと物音がした。
    「……」
     中にいたのは三井だった。部室にしつらえてあるソファから半身を起こして、視線は真っ直ぐ流川を捉えている。その目には不安と動揺の色が見てとれた。ソファに横になっていたところを慌てて飛び起きた、というような様相である。
    「……どうしたんすか」
    「いや……何だ、流川か」
     別に、と誤魔化すように目を逸らして、ソファに背を倒した。瞼がゆっくり下り、流川はその顔を横目に窺った。首と額にひどく汗を掻いている。
     先日の言葉とは裏腹に、三井の顔には日増しに疲労の色が濃くなっている。シュートの精度は目に見えて落ちているし、何か考え事をするように一点を見つめているかと思えば、突然あたりをキョロキョロと見回したりする。
     それから、ちょっとした隙間の時間に眠っていることが増えた。早めに部室に来ると、先に来たらしい三井がソファを占拠して横になっていたり、休憩時間にはひとり目を瞑ってじっとしていたりする。
     他の部員や周囲の人間もその様子には気付いていて、何かあったのかと訊けば「大丈夫だ」の一点張りだという。誰もが不審に思いつつ、三井は学校や練習を休むことはなかった。そんな状況が、もう何日も続いている。
     ロッカーから今朝持ってきた練習着を取り出して、ソファのそばに立った。その気配を察したのか、三井が薄く目を開いた。それは「何だ」と訊ねるようにも見えたし、「何も言うな」と牽制するようでもあった。しかし、こんな蒸し暑い部室で眠ることが健康的な行いだとは到底思えない。
    「んなとこで寝たら熱中症になる」
     三井は薄目を開けたまま、気怠そうに頷いた。その様子を見て、流川は溜め息を吐きたくなった。
    「まだ、夜は寝れねーんすか」
     訊ねると、三井はソファから体を起こして、今度は背もたれに寄りかかった。少し痩せたようだし、その様子を見れば不要な問いかけだったと悟る。
    「……悪い、気ぃ遣わせてるよな」
    「気っつうか……」
     流川が言葉に詰まり、三井はじっと流川を見据えた。その視線に居心地の悪さを感じたのは、人は誰しも踏み込まれたくない領域や事情がある、というしごく当然のことを思い出したためである。先に続く言葉は、どれも不躾に思えた。手に持った練習着が、手汗でじっとりと湿り気を帯びていく。立っているだけなのに、背中を汗が伝っていった。
     やがて三井が、躊躇いがちに口を開いた。
    「お前、今日時間ある?」

     その日の練習終わり、二人は駅ビルの中にあるハンバーガーショップにいた。
     学生や仕事終わりらしい大人たちで店内は混雑していて、二人は運よく空いていた窓際のテーブルを確保した。奢るから好きなものを頼め、という三井の言葉に従って、流川はハンバーガー、ポテト、ドリンクのセットを頼んだ。流川がトレーを抱えて席に戻ると、三井の目の前にはホットコーヒーが一杯あるだけだった。ポテトが入ったスナックケースを差し出すと、三井は無言で一本手に取った。それを口に押し込み、紙ナプキンで指先を拭く。さらに口の中の油も流すようにコーヒーを啜るのを眺めつつ、ハンバーガーの包みを剥ぐ。流川が目の前の食事を片付けるのに、五分もかからなかった。
    「なあ、夢って見る?」
     そう口火を切った三井は、流川の方を見ていなかった。その視線は、じっと窓の外へ向けられている。ここは三階で、周辺のビルや商業施設、あとは下のデッキを絶えず人が歩いているのが見えるばかりである。
    「見るっすけど」
    「どんな夢だ?」
    「……起きたら忘れるんで」
     分からん、と答える。三井は無表情に頷いた。
    「内容は覚えてなくても、夢の中の独特な感覚ってあるだろ。例えば走りたいのに体が重いとか、熱があるときは悪夢を見る……とかさ」
    「それは分かる」
    「だよな。じゃあさ、同じ夢を繰り返し見ることってあるか?」
     問われ、流川は記憶を探った。起きて時間が経てば夢の内容など忘れてしまうし、見た夢に対して何か思いを馳せるようなロマンチシズムを持ち合わせているわけでもない。しかし、同じ夢を何度も繰り返し見る、というのであれば嫌でも記憶に残りそうなものだ。それでも流川の中に思い当たる記憶はなく、首を横に振った。
     その反応を見て、三井は肘をついて口もとに手を当てる。一旦話を区切るような仕草だった。
    「オレさ、最近毎日同じ夢を見るんだ」
     そう言ってすぐ「いや、正確には同じじゃないんだけど」ともごもご訂正を始める。
    「どんな夢すか」
     煮え切らず、先を促す。
    「学校から家まで帰るっていう……ただ、それだけの夢なんだけどさ。最寄り駅から家まで歩いてる途中に、いつも誰か同じやつが立ってんの」
    「同じやつ?」
     三井が頷く。
    「男か女かも分かんねえけど……とにかく誰かが立ってるんだよ。人っつうか、人の形した黒いものっつうのがしっくりくるかな」
     はあ、と相槌を打つ。
    「……夢の話は分かったんすけど、寝れねーっつうのは?」
    「まあ聞けよ。最初は、最近よく同じ夢見るなーなんて、呑気に思ってたんだけどさ。その夢を見始めて何日目かに、ふと気付いたんだよ。……その立ってるやつってのがさ、移動、してるんじゃないかって」
    「移動?」
     三井が頷く。
    「最初に立ってた位置はもっと駅に近いはずだったんだ。細かく言うなら、駅から少し歩いたところにある三叉路のあたり……でも、そこから少しずつ移動してるんだよ。毎日、見るたび前に進んでるんだ」
     それで、と一度区切ってから三井はまた息を吐き、口もとを覆った。
    「……前っつうのはよ、つまりオレが向かう方向ってこと……オレが家に帰るために曲がる道を同じように曲がって、同じ方向に進んでるんだよ。それで、しばらく経ってさ、気付いたんだよ。こいつも、オレと同じ場所に行こうとしてるんじゃないかって——つまり家とか……いや、オレの部屋、とか」
     いやに真剣な顔で言う三井を前に、流川はやや呆れるような心地になった。三井が真剣な顔で始めた話は、流川がまったく予想していなかった方向へ舵を切っている。
    「……何でそう思う?」
    「夢の中じゃあ、オレが家に着いて自分の部屋に入った瞬間に目が覚めるんだよ。だから、あいつもここまでやって来るんじゃないかって……勘とか直感みたいなもんだけど」
     言い切ってから、柄悪く流川を睨みつけた。
    「……たかが夢で、って思ってるだろ。んなの、オレだって思ってるっつうの……。いつも、午前三時ぴったりに目が覚めるんだよ。毎日、毎日、一分のズレもなくだぜ? 起きて、ああまた同じ夢だって気付いた瞬間に動悸がして、ばかみたいに汗も掻いてる。最悪の目覚めだろ。それでもう、眠れないんだよ。目を瞑っても、朝まで動悸がひどくて眠れたもんじゃないぜ」
     捲し立てるように喋る三井の額には薄らと汗が滲んでいる。
    「でもな、夢を見てるあいだは、何ひとつ疑問に思わないんだ。夕陽が気味悪いくらい赤いのも、毎日同じやつが立ってることも、それが少しずつ移動してることも、何とも思わないんだ。毎日同じ夢を見てたらさ、ああこれは夢だなって、夢の中で気付くこともあるだろ。それが一度もなく、眠ってるあいだ、オレは夢の中が現実だって思い込んでる。起きてやっと、夢だったって気付くんだ。それが毎日、毎日だぜ」
     そこまで言い切って、三井はホットコーヒーの入ったドリンクカップをぐーっと煽った。三井がいま言ったような状況が数週間続いているのであれば、疲労は相当蓄積されているはずだ。スポーツをしている人間でなくとも、社会生活を送っていれば睡眠の重要性は身に刻まれている。しかし、打ち明けられた内容は流川の想像を超えて霞のような胡乱さに満ちている。正直、何と言っていいのか分からなかった。不良時代の遺恨による刀傷沙汰について相談をされる方が、まだ手の打ちようがあるように思える。流川はしばらく考え込んでから、口を開いた。
    「……夢って、精神的なもんが表れるんすよね。悩みとか焦りとか、そーいうの」
    「まあ、そう聞いたことはあるけど」
    「じゃあそれって、先輩の中にある不安みたいなもんじゃないんすか」
     三井は腕を組んで小さく唸った。
    「そりゃ……オレはこういう状況だし、悩みとか不安がまったくないなんて言わねーけどよ……毎日毎日夢に見るようなストレスがあったとしたらさ、昼間もそのことで頭一杯になるんじゃねえのかな」
     つまり身に覚えのある不安ごとはなく——精神的なものが影響しているわけではない、ということらしい。流川には、悩みがあって夢見が悪い——なんて経験はほとんどないが、三井が言うことは理解ができた。
    「そういや、部室ではフツーに寝てるすよね」
    「ああ……何か、学校で寝てるときは見ないんだよな。つっても、オレ単位とか内申とかいろいろ危ういからよ、授業中は寝てらんねーから」
     三井が長い溜め息を吐く。
    「夢見んのは、家で寝てるときだな。時間も、丑三つ時っつうのが気味悪いだろ。いっそ時間ずらして寝るってのも考えたけどよ、部活の後は疲れてるし、朝練もあるだろ」
     ストレスが夢に反映されるのではなく、夢によってストレスを受けている、というのであれば、じゃあ寝なければいい——なんて極端な発想に行き着くが、むろんそれは現実的な解決策ではない。であれば、そもそもそんな夢など気にするべきではない。人間が夢を見る仕組みについて流川はこれっぽっちの関心もないが、夢を見る、見ない、またその内容について、自在に操作できるものではないということは感覚的に分かる。
     隣のテーブルにいた若者のグループが談笑しながら席を去っていく。三井はそちらを一瞥してから、僅かに声をひくめて話し出した。
    「なあ、例えば……例えばだぜ? オレが何かに取り憑かれててさ、気付かねーうちになんかやべー祠を蹴っ飛ばしたとか、誰かをひでー目に合わせて恨みを買ったとか、そういうことってあると思うか?」
    「は?」
     思わず、少し上擦った声が出た。あまりに荒唐無稽な仮説に、三井自身も少し焦ったように顔の前で手を振り、早口で捲し立てた。
    「いや、何つーか、流石に飛躍したわ。でもさ、映画であったろ、悪魔に取り憑かれるやつ。人間の体は器だとか昔から言うしさ」
    「……考え過ぎ」
    「冗談だっつうの。でもさ、お前そういうの信じる?」
    「そういうのって何すか」
    「だから、霊とかそういうやつ」
    「興味ねえすけど、今生きてる人間より死んだ人間の方が遥かに多いって考えたら、まあいるんじゃないすか」
    「意外とまともなこと言う……」
    「幽霊とか言うなら、盆に帰ってきたやつに気に入られたって方がリアリティあるすよね」
    「やめろっつうのッ」
     三井は流川へ向けた睨めつけるような視線を、一度伏せてから窓の方へと向けた。窓の外の景色は先ほどと変わらない。デッキの雑踏へ向けて、三井がおもむろに指をさした。つられて流川もそちらへ視線を向ける。
    「でもよ、考えちまうんだよ……あそこに立ってる人がいるだろ。三十代くらいの……黒っぽい服着てる人。たぶん、ただ人を待ってるだけなんだろうけどさ。もしかしてこっちを——オレを見てるんじゃないか、とか」
     三井が深い溜め息を吐いた。
    「たかが夢だっつうのは、分かってんだけどよ……」
     口先だけの憐憫を向けるつもりはないし、あいにく気休めの心理療法の一つも知らない。流川は三井が打ち明けた話を頭の中に留めつつ、「気にしない方がいい」と一言告げた。


    3
     ハンバーガーショップで三井の話を聞いてから、しばらくその姿を見ることはなかった。テスト直前で、各部活動が休止期間に入ったのだ。教室のある棟が違えば、校内ですれ違うこともほとんどなく、淡々と数日が過ぎていった。
    「流川くん、これもお願いできる?」
     担任に声をかけられ、顔を上げる。今日は日直に充てられていて、教室で出たごみをまとめている最中だった。担任は手に空の段ボールを二つ抱えて流川に差し出し、頷いてそれを受け取る。その日出たごみの処理は日直の仕事であり、それぞれの素材で処理の仕方も細かく決められている。段ボールに関しては、潰して集積所へ、というのがルールである。自席の引き出しからカッターを取り出して、段ボールの蓋の隙間に刃を差し込もうとすると、僅かに抵抗があった。見れば、久しく使っていないせいか、カッターの刃の先が錆びていた。その部分を折って、捨てるために適当なプリントに包む。それから、手早く段ボールの接着面を切り開いて小脇に抱え、ごみ箱を持って教室を出た。
     蝉が鳴いている。今日は土曜日で、授業は午前中で切り上げられた。放課後である今が、おそらくは一番暑い時間帯である。昇降口に向かう生徒の流れに逆らって、裏庭にある集積所へ向かう。部活動がないせいか、校内のはずれの方はいやにがらんとしている。開いた戸口から内履きのまま外へ出れば、コンクリートに流川の影が落ちた。集積所には、他に人影はない。スチールの戸を開けると、中は熱気と埃っぽい臭いに満ちている。ごみの入った袋や段ボールを放ると、汗がこめかみのあたりを流れていった。
    「流川」
     足元に、もう一つ影が落ちた。反射的に振り返る。そこに立っているのは三井だった。数日ぶりに見るその男はまったくの手ぶらで、流川と同様にごみを捨てに来た、という様子ではなかった。裏庭には集積所があるくらいで、何故ここに三井がいるのか、流川は一瞬奇妙に思った。
    「……どうしたんすか」
     後ろ手に集積所の戸を閉めながら訊ねる。三井は口を噤んだまま——自分から話しかけたくせ、逆に窺うような目をしながら流川の方に一歩、二歩と近付いてくる。その顔を表現するのに、憔悴という言葉は恐ろしいほどしっくりきた。そこで流川は、先日三井から聞いた夢の話を思い出した。疲れ切った顔は、状況が好転していないことを示すには十分で、流川は何も言えなくなった。
    「もう、家の中にいる」
     三井が呟いた。
     目の前にいるのに、三井と目が合っているのか合っていないのか、よく分からない。
    「……夢の?」
     三井が頷く。生ぬるい風が額のあたりを撫でるが、心地よさは感じられなかった。脚が自然と校舎の陰の方へ動く。
    「あれから——何も変わらず? 毎日同じ夢、見るんすか」
    「……そうだよ」
    「家の中って、具体的には」
     訊けば、三井は口に出したくない、というふうに嫌悪の色を浮かべた。
    「……二階に上がったところ」
    「二階って、何があるんすか」
    「物置と……オレの部屋」
     今度ははっきりとした声色だった。
     流川は、以前三井とした会話を思い出していた。毎日夢の中で同じ人影を見るという——三井の話である。少しずつ移動するその人影は、自分の部屋に向かっているのではないか、という三井の仮説を、流川はばかばかしいような気持ちで聞いていたのだ。
    「……夢だろ」
     悩んだすえに出た言葉に、三井は僅かに眉を顰めた。
    「そうだよ……ただの夢で、現実には起こってないことだ。なに怖がってんだって……んなのオレが一番思ってるっつうの」
     三井は呻き混じりの長い溜め息を吐きながら、その場にしゃがみ込んだ。
    「でもさ、少しずつ近付いて、もうオレの部屋の前にいるんだぜ。今日起きたとき、本当に最悪の気分だったんだ。今日だけじゃない、昨日も一昨日も、その前からずっと……」
     その先の言葉はなく、三井はしばし黙り込んだ後、ゆっくりと立ち上がった。
    「……お前に、頼みがあるんだけど」

     流川が自宅に着いたのは、十四時近くだった。
     荷物を置いて、スポーツバッグの中身を全て取り出すと、空っぽになったバッグに着替えなんかを詰め込んでいく。準備に大した時間はかからず、おおかた済ませた後に母親が作り置きした昼食を摂る。それから少しだけ仮眠をして、まだ空が明るいうちに再び家を出た。
     ロードバイクで三十分ほど走ると、待ち合わせのコンビニ前に三井が立っているのが見えた。三井も流川に気付くと軽く手を挙げ、流川は加減を承知したブレーキングで愛車を三井の前にぴたりと止めてみせた。
     三井の頼みというのは、「自宅に一泊してほしい」というものだった。
    「たぶん、今日で最後だと思うんだよ。気味悪い夢だけど、だからって何かが起こるはずねえっつうのは分かってる。明日の朝、普通に起きて、ああ何もなかった、ばからしいって、そう思うはずなんだ。けどよ……万が一ってこともあるだろ。お前、何かあっても動じなさそうだし」
     畳みかけるようにそう話す三井に、流川は不承不承に頷いたのだった。
    「親、どっちも夜勤でいないからさ」
     コンビニに入って、弁当や飲み物を見繕っていく。店内は冷房が過剰に効いているわりに、何となく薄暗く見えた。
    「お前、親に何か言われなかった?」
    「別に、何も」
     明日は日曜で、部活の先輩に勉強を教えてもらうのだと言えば母親の説得は簡単だった。
     三井が悩んでいるのは夢の世界のことであって、流川に何かできることがあるとは思えなかった。しかし流川が三井からの頼みを承諾したのは、一晩この上級生に付き合い、気が済むのならそれでいい、と思ったからである。何せ、ふだん太平楽な男が夢見の悪さに鬱々とした顔をして、1on1の相手にもならないというのは、流川とておもしろい状況ではない。
     買い物を済ませてコンビニを後にし、三井の自宅に着いたのは十七時を回った頃だった。住宅街の中にある洋風の一軒家で、庭先は丹念に手入れがされているのが窺えた。玄関に置かれた水槽の中ではネオンテトラが静かに泳いでいる。リビングまで通され、買ってきたもので食事を済ませて、あとは黙々と夜を待った。

     二人が風呂を済ませる頃には二十時を回っていた。客用の布団を敷いた三井の部屋に場所を移し、部屋にしつらえてあるテレビでは録画したNBAの試合が流れている。家に居るのはふたりだけで、蝉ももう鳴いていない。
    「いつも何時に寝るんすか」
     ベッドに寄りかかって軽く振り返ると、三井はベッドの上に眠たげに横たわっていた。
    「部活終わって、帰ってきたらもう眠くなるからさ……気付いたら二十二時過ぎには寝ちまってるな。お前はもっと早いだろ?」
    「そっすね」
    「堪えようと思ってもさ、無理だよな。……練習の手ぇ抜くのも嫌だしよ」
    「シュートの精度は落ちてるすよね」
    「分かってるっつうの」
     三井は横になったまま流川の背中を軽く蹴って、拗ねたように寝返りを打ち、流川に背中を向けた。流川はそれに構うでもなく、あることを思い出して自分の荷物を引き寄せた。スポーツバッグの内ポケットに入れたそれを取り出して、三井の肩を叩く。
    「……何?」
     三井は軽く体を起こして、流川から差し出されたものをじっと見つめた。大きな手のひらに載っているのは、臙脂色の布でできた小さな人形である。大きめの頭に小さな胴体と、そこに四肢が縫い付けられている簡易的なものだ。
    「身代わり人形」
    「みがッ……」
     三井の顔が引き攣り、視線は人形へ釘付けになる。
    「昔、バスケ始めた頃にじいちゃんに貰ったんす。怪我とか、何かあったときにこの人形が身代わりになってくれるようにって。お守りみたいなもんなんで、気休めにはなるかと思って」
    「ああ、そういう……」
     三井は人形を受け取って、まじまじと見つめた後に、そっと枕元に置いた。僅かにためらうそぶりを見せたのは、「身代わり」なんて言葉を持ち出したせいだと悟ったが、こういう精神的なものにおいて気休めというのは案外効力を発揮するものだ。
    「じゃあ早いけど……そろそろ寝るか」
     三井が立ち上がって、電気の紐を引く。パチンと音がして部屋が暗くなったが、テレビは点いたままだった。
    「テレビは?」
    「あー……点けたままでいいや」
     少しだけ音量を落として、三井はリモコンを床に置いた。シーツが擦れる音がして、三井がベッドに横になったのだと分かった。流川も横になって、夏用の薄い布団を引き寄せた。見知らぬ天井に、豆球の灯りが浮いている。昼間に仮眠をとったおかげで、すぐには眠気はやってこなかった。少し経って、三井の方もまだ寝ている気配はない。
    「きっと、何も起こらないすよ」
     暗闇に投げかけると、身動ぎする音があって、また静かになった。やがて寝息がひとつ聞こえてきた。
     流川はぼうっと天井を見つめたり、横向きになってテレビの方を向いてみたり、眠気を遠ざけるようにつとめた。何も起こらないとは言いつつ、横で眠る男がうなされるようなときには、すぐに叩き起こしてやろうと思ったのである。しかしそんなささやかな気概に反して、しばらく三井は静かに眠っていた。
     時計の文字盤へ目を凝らすと二十二時を少し過ぎたところだった。心臓の拍動に合わせて、体が舟になったように揺らいでいる。やがて体の実在感が遠のき、眠気はいつの間にか瞼の裏にいて、流川も眠りに落ちていった。


    5
     耳元で騒がしく鳴る音に目を覚ましたとき、部屋はまだ暗かった。瞼を持ち上げ、部屋の様子を窺い、また瞼を閉じる。そんなことを繰り返すうち、耳元で鳴っていたのはテレビの音声らしいということに気付いた。寝返りをうって、およそ二十四インチほどの画面に目を凝らす。映像は、寝る前まで観ていた試合の続きを映している。つまり、眠っていたのはほんの数分から数十分だったということになるが、流川は己の体の調子からいささか違和感を覚えた。しかし時計を見るべく体を捻ろうとしたとき、その違和感の正体に気付いた。
     テレビの中では、同じ映像が流れ続けていた。ポイントガードがパスを出し、受け取った選手がペイントエリアからシュートを打つ、という三秒ほどの場面が、延々と流れ続けているのだ。コート上で動き続ける他の選手や会場の歓声、実況が、きわめて無機質にループを繰り返している。
     三井のベッドそばに置いてある目覚まし時計を見ると、一時を少し過ぎたところだった。三井は、まだ静かに眠っている。つまりふたりが眠りについてからしばらく——二時間やそこら、この映像が流れ続けていたらしい。以前、ビデオ屋で映画を借りた際にもこのような不具合が起こったことを思い出した。決して珍しくないビデオテープの不具合だが、しばらく観ているとやはり奇妙な感覚に陥り、リモコンでテレビの電源を落とした。
     しかし何も映らなくなったテレビを前にしても、流川はその四角い画面から目が離せなかった。豆球の仄かな灯りのもとに、テレビの画面は不鮮明な鏡のように部屋の輪郭を示している。画面を見つめる流川自身のシルエットと、その横には三井が眠っているベッドがある。そしてその足もとに、誰かが立っているように見えたのだ。そう認識すると、僅かに心臓の動きが早まるのが分かった。ゆっくりと体を捻って、背後を振り返る。壁を向いて眠っている三井が視界に入り、規則正しく上下する上半身から下半身へ視線が移り、やがて足もとへ到達する。
     そこに立っているのは、人の形をした何かだった。背が異様に高く、ただの黒い影のようにも見えたし、白い壁に人型の焼け跡がついたようにも見えた。その異様さに、現実に恐れるようなもの——泥棒や強盗の類について考えを巡らせるまでもなく、流川は三井の言葉を思い出していた。
     男か女かも分からないような——人の形をした黒いもの——今日、三井の部屋に。
     頭の中で、断片的な記憶が繋がっていく。これは現実かと、流川は思わず拳を握り込み、指の爪を手のひらに食い込ませた。三井の話は夢に違いなく——しかし、いま流川の手のひらに走る痛みは現実のものに違いなかった。流川は現実で——三井が言う「それ」を認識したのだ。
     「それ」は、何か音を発することもなくじっと三井の足もとに立っている。三井が言っていたように男か女かも、相好の判別もつかない。しかし漠然と、視線は流川に向いているのではないかと思った。得体の知れないものと目が合っているという気味悪さよりも、目を逸らしたら何が起こるかと考える方が恐ろしいように思え、流川はそれから目が離せなかった。
    「……この人、あんたに何かしたのか」
     ひくめた声で言葉を投げかけてみても、反応はない。この状況でどうするべきなのか、流川には検討もつかなかった。そもそもこれは悪いものなのか、と考えを巡らせる。これが以前に三井が冗談めかして言っていたような——いわゆる幽霊だとして、そういった類のものをすべて悪い方向へ捉えるのは早計と言える。しかし日に日に沈んでいく三井を見ていれば、これが良いものだとは到底思えなかった。
     「それ」はただ佇んでいるだけで動く気配はなく、三井にも変わった様子はない。一体なにをするつもりなのか、なにもせず佇んでいるのは、流川がいるからではないかと考えた。
     仮に、この空間に流川がいることが抑止力になっているとして、今日ここへ来るのを断っていたらどうなっていたのかと——例えば本当にこの黒いものに、あるいはもっと悪いものに取り憑かれてしまうとか。嫌な方向へ想像が膨らんでいく。ただ直接危害を加えられるようなことはないだろう、と悟った。実体がないのだから、物理的に傷を付けたりするのは不可能だろうと思ったのである。
     三井を起こしてみようか、とも考えた。しかし三井が起きたことでこの黒いものが霧散するならばいいものの、そうでないなら気を乱してしまうだろうということは容易に想像ができた。
     ときおり家鳴りが聞こえるほか室内は無音だったが、時計の秒針が動く音が僅かに聞こえることに気付いた。一瞬だけそちらに視線を走らせる。先ほど時間を確認してから、ほんの数分しか経っていない。
     消えろ、消えろと念じてみる。流川がいる限り何も起きないとして、夜が明ければこれは消えるのだろうか、と考える。しかし三井の夢の中では夕方にあらわれるそうだから、明るさは関係がないらしい。明るさが関係ないのなら、三井が寝ているあいだ——もしくは、時間? 流川は必死に記憶を探って、「午前三時ぴったりに目が覚める」という三井の言葉を思い出した。
     ——三時を過ぎれば消えるのではないか。
     そんな仮説を立ててみた。だとすれば、今できるのは時間までただ待つ——それだけだった。それは何もしないということにも等しいが、目を離すのは避けたかったし、何せこの時間帯に起きていることなどほとんどなく、この状況にも拘らず眠気を感じ始めている。三時まで、あと一時間半ほど。
     流川は腹を括り、居住まいを変えて胡座をかき、「それ」を睨みつけた。


    6
    「流川」
     は、と目を覚ますと同時に、息を呑んだ。瞼を開くと、明るすぎる陽射しが燦々と部屋に注がれている。流川を呼んだのは三井だった。慌てて起き上がると、三井は少し驚いたような顔をして仰け反った。
    「……何ともないすか」
     流川が訊ねると、三井は一旦落ち込むような顔をしてみせ、流川の反応を窺ったあとに悪戯ぽく口角を上げた。
    「何ともないぜ」
     それどころかよく寝た、というふうに伸びをしてみせる。
    「夢は?」
    「夢は見たよ。でもさ、部屋を開けたら誰がいたと思う?……お前だよ。流川がいてさ、ああそうだ、オレ、今日流川を呼んだんだって思い出して、それだけ。やっぱり、何も悪いことなんか起きなかったぜ」
     三井は心底安心したように、勢いをつけてベッドに横になった。ああばからしい、何を怖がってたんだろう、とそんな具合で。流川はそんな様子を眺めながら、昨晩のことを思い出していた。
     待つ、と決めた三時まで、流川はきっちり待った。何もしない時間というのは恐ろしく長く感じるものらしいと齢十五にして悟り、眠気の山を何度も超え、流川の予想通り三時ちょうどに「それ」が揺らめき薄くなっていくのを見ながら、倒れるように眠りに落ちたのだ。
    「よかったすね」
    「もしかしたらお前が魔除けになったのかもな」
     少し迷ったが、昨晩のことは三井には言わないでおくことにした。何も起こらなかったのならばそれでいい、と思ったのだ。流川も安堵して、欠伸をして目を擦る。普段より睡眠時間が短くなったために、まだ眠気が残っている。
    「なあ、目もと汚れてる」
     三井が、流川が今しがた擦った目もとを指して言った。再度拭おうとすると、その手を三井が掴んで制止する。
    「待てって、手の汚れがついたんじゃねえの」
     掴まれた手を見ると、三井が言うように指先に黒っぽい汚れがついていた。何か触ったかと記憶を探るあいだに、三井に洗面所に行くよう促されて部屋を出た。
     一階の洗面所で鏡を見ると、確かに目じりのあたりに汚れがついている。指先についた汚れはざりざりと細かく固い汚れに、僅かに粘着感があった。反射的に鼻を近付けると、鉄っぽい臭いがする。寝ているあいだに鼻血でも出したのかと、蛇口から出した水で手と顔を洗い流した。
     少し目も覚めて二階へ戻ると、三井は上機嫌に着替えているところだった。それを横目に、流川は使った布団を畳んだ。着替えるのは家に帰ってからでいいだろうと、荷物を詰めたスポーツバッグを肩にかける。
    「オレ、帰ります」
    「そうか。悪かったな、付き合わせて」
     別に、と返事をして部屋を後にする。一階まで降りて玄関の扉を開けると、夏は終わりかけだというのにひどく暑かった。
     玄関先で三井と別れ、庭に置いたロードバイクのサドルにスポーツバッグを置く。鍵を探すためである。決まった場所に仕舞う癖のない無精ではあるが、確か昨日は外側にあるポケットに仕舞ったはずだと、ファスナーを開けて手を差し込み、流川は思わず動きを止めた。
     指先には、鍵の硬い感触と、何か繊維のようなもの。それを掴んで取り出すと、ポケットからはぽろぽろと何か細かいものが落ちてきた。流川が掴んだのは、白っぽい繊維の塊のようなものだった。何だ、と思いつつ、再度ポケットの中に手を入れる。また繊維を掴んで取り出すと、今度は別のものが混じっていた。それは、小さな赤い布の切れ端だった。一瞬、バッグの破損を疑ったが、おそらくそうではない。その布は、切れない刃物で無理矢理切り刻んだというような様相だった。
     流川はひどく嫌な予感がして、ポケットの中身をすべて掻き出した。鍵が芝生に落ちるのも気に留めず、すべて掻き出して、確信した。白い繊維と、赤い布。布をざっくりと繋ぎ合わせてみれば、手のひらほどのサイズになる。それは昨晩、三井へ渡した人形——流川が祖父から貰った身代わり人形だった。
     手のひらに載ったものを呆然と見ていると、また別のものが混じっていることに気付いた。空いている手でそれを摘み上げる。ただの黒い糸のようにも見えたが、触ってみればそれが何かはすぐに分かった。それは、布と同様に短く刻まれた人毛だった。一本や二本ではなく、たまたま混じったというものではない。ゆっくり陽に透かすと、茶色ぽく見える。流川のものではない。額に、汗の玉が浮かぶのを感じた。
     何ごともなく夜が明けたはずだった。では、これは何なのか、流川は自身の体の内側で心臓が暴れているのを感じた。顎先から流れた汗が庭の芝生に落ちる。
     視線を足もとに下げると、先ほど掻き出した繊維や布、鍵が散乱していることに気付いた。それらを拾おうと、よろよろとしゃがみ込む。そのとき、脚の付け根のあたりに違和感を感じた。恐る恐るジャージのポケットに手を入れると、指先に何か硬く鋭いものが触れた。その感触でポケットに入っているものが何か分かったとき、頭を殴られたような心地になった。ポケットから出てきたのは、錆びついたカッターの刃だった。それは記憶を探るまでもなく、流川が昨日学校で捨てようとしたものに違いなかった。刃を触った指には錆がついて黒く汚れ、鉄の臭いが鋭く鼻をついた。これは、さっき洗面所で落とした汚れとまったく同じものだった。
     ひどい眩暈を感じながら、回らない頭で仮説を立てた。例えば、昨晩見たあの黒いものが三時までしか形を保てないとして——別の形で存在を保てたとしたら? 何か危害を加えるには実体が必要だったとしたら? 三時を過ぎて、あの部屋で無防備に眠っていた自分は、本当に眠っていたのだろうか。流川がこの人形を持ってこなかったら、カッターの刃はどこまで及んでいたのだろう。想像は悪い方へ進んでいく。
     頭上で、窓の開く音がした。流川がゆっくり上を見上げると、二階から三井が流川の方を見下ろしていた。
    「運転しながら寝るなよッ」
     久々に聞く、明るい声色だった。陽射しが眩しく、目を細める。額や背中に恐ろしく汗を掻いているのを感じながら、人間は器だという、三井の言葉を思い出していた。






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