さよなら、ロマンスブルー 満月の夜、夢を見た。
ガラス、あるいは氷一枚を隔てて海の上に立っている。海には桜が散っていて、世の中の常識全部を無視してゆらゆらと舞い踊っていた。仰ぎ見た空はチューリップの畑を逆さまにしたように、一面の花で先が見えない。
少し離れたところに猫がいる。大きさはチャンプくらいで毛並みもチャンプそっくりなのに、瞳の深さが夜の闇よりも深い。色は紺碧に金色が混ざっていて、宇宙に蜂蜜を垂らしたような目をしていた。
猫が口を開く。幼い子供の声がする。
「世界が消えるか、牙崎漣が消えるか」
選んで、と猫は言った。俺はアイツを思い出す前に、妹弟のことを思い出していた。
アイツのことは嫌いじゃないけれど、世界かアイツかなら絶対に世界を選ぶ。大切な人がどこかにいる世界だ。その目的に届くために努力ができて、それが認められる世界。そうして認めあえる仲間がたくさんいる世界。そんなの、何よりも大切に決まってる。
答えなんて返していないのに「わかった」と猫は言う。瞬間、猫は真っ赤になってパン、と水風船のようにはじけてしまった。途端にグロテスクな血の匂いが夢を覆って、血に触れた足元は一瞬でヒビ割れて砕けてしまう。
海に沈む。いつの間にか桜ではなくて、クラゲが水中を漂っていた。
目覚めた世界にアイツはいなかった。
ランニングにアイツが合流しないのは珍しいと思ったんだ。それでも今日はレッスンがあるんだし、あんな夢を見た後だけど俺は当たり前にアイツと過ごすつもりでいた。それなのにアイツがいない。レッスンにこない。たまにあることだけど不安になって、円城寺さんにアイツの話をする。
「アイツって誰だ?」円城寺さんが言う。「アイツはアイツだ」と俺は返す。
名前は呼びたくない。円城寺さんは「タケルがそんなことを言うのは初めてだ」と、困ったように笑う。
「牙崎漣」
俺はアイツの名前を呼ぶ。なんだか無性に苛立った。それなのに円城寺さんは困ったように周囲を見渡す。「ドッキリなんかじゃない」と言った俺の声は乱暴だった。
プロデューサーが合流しても、いつもの先生がたったふたりの俺たちを見ても、誰もがアイツの存在を忘れている。夢を思い出す。そんなわけない。きっとこれは夢の続きだ。
事務所に戻る。事務所の誰もがアイツを知らない。
届いていた雑誌のサンプルをめくる。アイツがいない。
先日のライブの録画映像を見る。アイツがいない。
公式SNSのオフショットを見る。アイツが消えている。
「なんなんだよ」
ハム食って、パンも食って、風呂も勝手に使って。挙げ句の果てに勝手にいなくなるなんて。ああ、これは子供じみた八つ当たりだ。アイツが消えたとしたら、きっとそれは俺の選択の結果なのに。
ハムを2パック買って冷蔵庫に入れた。いつ来たっていいから。なんでも食べていいから。そう願って、鍵を開けっぱなしにして眠りについた。月はまだ見えない、茜色の空が俺を咎めていた。
朝になってもハムは無くなっていなかった。スマホに表示される日付はアイツが消えた昨日の続きだ。
勝手にいなくなりやがって、と口にした。どうにかして怒ってないと、どうしようもなく悲しくなると気がついていた。
「……いるし」
「アァ?」
事務所の扉を開けたら、当たり前みたいに見慣れた銀髪がそこにいた。なんだか力が抜けて、へろへろと事務所の床に座り込んでしまう。
「……おい、どうしたんだよ」
アイツはこういうとき、いつものようにダセェとかそういうことを言ったりしない。俺が本当にどうしようもないときは猫のように黙ってそばにいる。
優しいとは思う。嫌いじゃない。でも世界かコイツのどちらかを選べと言われたら、大切なのはどう考えても世界だからあの質問の答えは何があったって変わらない。俺の世界にコイツはしっかりと組み込まれてるけど、コイツは俺の世界そのものじゃない。
困ってしまった。悪いことなんてしてないんだから「悪かった、」は言えない。そもそも俺が勝手に変な夢を見ただけかもしれないし。いや、日付は変わらずに進んでいるんだけど。
困ったままで一日が終わってしまった。でも悲しさは消えていた。そこからはまた、いつも通りの日々だった。
だから、あんな不思議な出来事は忘れていた。それこそ、満月を見ても思い出したりなんてしなかった。それをいま思い出した。真っ白な世界に俺はいた。満月の夜、眠りについた日のことだった。
「……は?」
真っ白な世界だった。前も後ろも右も左もわからない。かろうじて上を下はわかる、と思った瞬間にからだがぐるんと回転した。どうやら上下もあやふやらしい。
これはまた夢なんだろうか。また、俺の選択次第でアイツは消え失せるのか。そんなことを考えていたら、突然空からアイツが降ってきた。
「っわ!」
「ってて……んだよ、チビかよ」
コイツは立ち上がったと同時にふよふよと浮いて、俺から見たら右側の空中に座ってつまらなさそうな顔をした。そうして「変なの」と一言呟いて寝ようとする。
言いたいことは色々あったけれど、大きな疑問がひとつあった。俺はオマエなんて選んでない。悲しいけど、切ないけど、つらいけど、消えるのは世界じゃなくてオマエのはずなんだ。
「なんで……」
なんでオマエなんだ。俺がそんな残酷な言葉を吐く前に、コイツの肩にいくつかの桜の花びらがくっついているのが見えた。ふと、思う。
コイツが、あの世界にいたとしたら。
コイツが、俺と同じ夢を見ていたとしたら。
コイツが、世界じゃなくて俺を選んだのだとしたら。
「……変な猫にあったか? チャンプそっくりの」
「ァ? それがどうしたってんだよ」
「マジかよ……」
バカみたいに大きなため息が出た。本当に、本当に、コイツはバカだ。だってこんなのバカだろ。俺はオマエを選べないのに、なんでオマエは俺を選ぶんだよ。
なんにも言えなかった。答えもわからなかった。コイツは寝た。銀髪が、いつか見た桜みたいにぶら下がっている。
「……オマエ、本当にバカだな」
泣けたらいいのに目元は熱くすらならない。俺には泣く権利も、泣いてやる義理もないからどうしようもないんだけど。
「本当に……バカなやつ……」
別に俺の選択は間違っていない。こんなコイツを見たって俺は必ず世界を選ぶ。世界のためにコイツを殺せと言われれば、泣きながら刃物をコイツの心臓に振り下ろすことだって出来るに決まってる。俺は間違ってない。きっと俺は正しくなんかないんだろうけど、それでも間違ってるわけがない。
でも、コイツの選択だって、きっと間違っていないんだ。
「明日までオマエとふたりっきりか」
前と同じなら、こんな不思議な日は一日で終わる。コイツが目を覚ましたらきっと退屈する暇なんてない。それでも俺はコイツがずっと穏やかに眠っていることを望んでいた。