⁑type-8⁑
窓から見える空は日が暮れとっぷりと闇が覆っている、定時はとうに過ぎたが日付は変わるにはまだ数時間あるから遅い時間でも無い。そういう仕事だしやり甲斐があるから苦では無い。
「先輩?」
「っ⁉︎」
喫煙ルームの無機質なパイプ椅子に座り煙草を燻らせながら天井を眺めていたらいつの間に入ってきたのか、天井へ向ける視線を遮るように身を屈めた比良坂が上から怪訝そうに顔を覗き込んでくる。
ただ覗き込んできただけでもそれはそれで驚くが、10cmも離れていない近さに咄嗟に身体を引こうとしたがらしくもなく脚を投げ出しだらしなくゆるく座っていたせいでこれ以上下へとずれたら椅子から滑り落ちるので仕方なく視線だけを逸らす。
「近い」
「え? あ、失礼しました」
吐息すら触れる距離に目眩がするし、何故か心臓がうるさい。しかし距離の近さに目が眩むとか老眼か? まだ27なんだが……。
「大丈夫ですか? どこかお加減が悪いとか?」
体勢を整え座り直していると心配そうに眉を顰めて聞かれ、正直に言うべきかそれとも隠すべきかを考えながら落ちそうになっている灰ごと水が張ってある灰皿に放りこみ、新しく1本出すと火をつける。
「大したことじゃない、先日の一件で疲れが溜まっただけだ。お前は大丈夫か?」
「私は大丈夫です、有難うございます。それより大したことでは無いということは、何か不調があるんですよね? どうあるんですか⁉︎ 無理をされているのではありませんか⁉︎」
だから近い! 何故こいつはこんなに距離感がおかしいんだ⁉︎ これまでもこんなだったか? 喫煙ルームにきたくせに吸うわけでもなくその両手で己の肩を掴み揺さぶってくるのに、近さに目眩を、そして揺らされるのに具合が悪くなり横頭をはたく。
「荒いっ!」
「はうっ⁉︎」
大した力は入れていなかったが動きを止めさせることはできた、離れろと手を振って促すとおとなしく一歩離れたのを確認し揺らされたせいで床へ散って落ちた灰を一瞥。比良坂はそれに気付いて備え付けられているウェットティッシュで床を拭きだす。
「別に大したことじゃない。ただの目眩と動悸だ」
あと胸がつまったような感じがするのは胸焼けだろうからこれは言う必要は無いと判断し、フィルターに口をつけようとした矢先その煙草を比良坂の手が奪い取り灰皿へと捨てられる。
「比良坂っ!」
火をつけたばかりだというのに何をするんだこいつは、しかも握り込むようにして取ったから手を火傷している可能性もある。だがそんな素振りも見せず手についた灰を払いながら
「大したことあるじゃないですか! 煙草なんて吸っていい状態ではありません、先輩の報告書は私が書きますから帰ってください」
珍しく険しい顔で有無を言わせない物言いをしてくる。
「はぁ、本当に大したことじゃ」
ダンッ
「私が、無理やり先輩を連れて帰って家に閉じ込めてもいいんですよ?」
椅子は壁に沿って並べてあるので背中の後ろはすぐ壁、そんな壁へと音を立てて手をつき顔を寄せ低い声で凄む比良坂に一瞬怯んでしまう。こんな顔を己に見せたことは今まで一度も無い。
「……お願いですから、今日は帰って休んでください。病院に行く必要があるならご一緒しますから」
犯人を追い詰めるかのような迫力から一転、泣きそうな顔で懇願してくる。
感情の振り幅が大きすぎて言われている己が置いていかれている気がする、こいつは己に対して過保護なところがあるしこれまでに己が病気らしいことをしたのを見たことがないせいで取り乱しているのだと思うとこれ以上意固地になるのも大人気ない。
「わかった、今日は帰る」
顔の横にある腕をぽんっと叩くと慌てて腕を引き、申し訳ありませんっと何度も頭を下げてくるのに苦笑い。
「さっきの迫力はどこにいったんだ」
「はうっ! それはっ、本当に申し訳ありませんっ!」
もはや同一人物とは思えない豹変ぶりにつかえたような胸の苦しさが解けて声に出して笑うと比良坂は困ったように眉を下げる、からかっているつもりは無いんだがそう捉えたらしい。
「今のは暴行罪になるから他の奴にはするなよ」
「ぼっ⁉︎ 先輩にしかしませんっ!」
「お前は己が刑事だとわかっているのか?」
面食らった顔で宣言するのが犯罪予告でどうするんだこいつは、たまに訳のわからんことを言ったりする奴だが今度は腑に落ちないという顔でもごもごと何か口籠もっている、ころころと変わる表情は見ていて飽きない。
「そういえば、手を見せろ」
「?」
何故両手首を揃えて出すんだ、手錠を嵌められる犯人かお前は? 先程己の煙草を掴んだ手は右手だったから掴んで手を開かせると手のひらが赤くなっていた、水ぶくれ等の皮膚の変化は無い軽度の火傷。軽度とは言え痛みはあるだろうに、この手で壁を叩いて顔色一つ変えなかったのに呆れるべきか自分を大事にしろと言うべきか。
「先輩?」
「お前は己に言う前に自分の体も大事にしろ、ほら冷やしに行くぞ」
間をとって呆れた声で忠告をする。
己のことになると無理や無茶を当たり前にするのをいい加減なんとかさせないとだな、いつか大切な誰かと出逢った時にこいつがこれだとそいつが悲しむ。
「……」
「先輩?」
「あ、ああ。なんでもない。お前は冷やしに行け、己は帰る」
らしくもない仮定形な心配をしたせいか全身を逆撫でされたような、そして胃に鉛を流し込まれたような重苦しさと悪寒にも似たざわつく感覚に不快感を露わにしてしまい心配気な声で比良坂が触れている己の指を包む。
「大丈夫ですか?」
指先から伝わる比良坂の体温に何故か不快感が薄れていくのを感じながら立ち上がる、
「問題無い。先に帰る、あとは頼んだぞ」
目眩に悪寒、動悸に胸や胃の不快感、熱は無い気がするが風邪か? それなら比良坂と同じ部屋に長居して移しでもしたら厄介だからいくらか早口に言って足早に喫煙ルームを出る。
「お気をつけて、そしてお大事に!」
継いで出てきた比良坂は冷やしに行けと言ったのを守るべく声だけ投げて己とは逆方向へと歩いていく、それを背中で感じながら部署へと戻っているとばたばたと走ってくる足音。
「言い忘れましたが何かあったらすぐに連絡ください、すぐに駆けつけますので!」
では! と一方的に言うと頭を下げて来た時と同じように走って行く、走るなと己が言うより先に別の部署の奴に言われぺこぺこと頭を下げている。
忙しない奴だと戻るのを忘れ眺めていると顔を上げたところでこちらの視線に気がついたのか、心底嬉しそうに破顔して声には出さず伝えてくる。
『またあした!』
「……」
ストンと腑に落ちた、この不調は病気などでは無かったのだと。
何かに──落ちる、音がした
何年前に出会ったのか、それが何月の何日で何曜日だったか。
そんなことこれまでに意識したこともなかったというのに何故かそれを明確に思い出し、更にその時その場所の風景や空気さえもまるで今のことのように鮮明に目の前に広がる。
今となれば些細なきっかけと時間でしかなかったがあれがなければ今は無い、これまでの9年という連綿と続く時間の始まりを何故当たり前のように流してそんなものという程度の気持ちでいられたのか分からない。
そもそも、何がきっかけで感情が変わったのか分からない。
元々そういう感情があったのかというと否、まるで犬のように慕ってくる様は嫌ではなかったがただの友人とか腐れ縁とかの類でしかなかった。
それなのにある日突然、普段と同じ光景なはずなのに色や空気が変わり優しさに満ちた世界で見るあいつに何故か鼓動が跳ねた。
近くにいると嬉しい、だけど鼓動がうるさくて落ち着かない。
他の奴といると心がザワザワして胃が重くなって落ち着かない。
一挙一動に訳もわからず胸が苦しくなったり、笑顔や優し声にくらくらして目眩がした。
ああ、気付いてしまえばなんてことは無い。
(ガキの初恋かっ!!)
病気ではなかったのだから熱なんか無いはずなのに顔が熱い、こんな体たらくを署内の人間に見られるわけにはいかない、平静を装うべく背筋を伸ばして廊下の角を曲がり横の壁に右手をつき深くゆっくりと深呼吸。
二度三度と繰り返せば平常心に戻り、ポーカーフェイスも繕えた。職場で色ボケている場合じゃない、己はそんな性分でも無い。
「ん?」
スマホの通知。
『明日お迎えにあがります、着替えて待っていてくださいね先輩』
ポケットからスマホを出してアプリの画面を開くと比良坂からのメッセージ。
「廊下に霙木が落ちてるぞっ⁉︎」
「比良坂を呼んで回収させろ!」
「鬼の霍乱は本当だったのか!」
「落としたスマホを拾っているだけだ‼︎」
頭上から降ってくる課長と同僚たちの声に思わず怒鳴り返す、おそらく比良坂から体調不良だと聞かされた矢先廊下の角を曲がるなり床にうずくまった己がいたせいで驚いたのだろうがいちいち引っ掛かる言い方をしやがって。
「なんだ、元気そうじゃないか」
「比良坂呼ばなくて大丈夫か?」
「いらん。己は帰る」
病気でもなんでも無いが今の自分が使い物にならないことだけは分かった、迎えに行くというただの業務連絡に動揺してスマホを落とすなどこれまでの己ならあり得なかった。
「そういえばこれ、間に合ってよかった」
ペットボトルのスポーツドリンクを差し出してくる同僚。
「比良坂からだ。熱があるかもしれないから渡しておいてほしいってさ」
「熱?」
気付いた今ならわかるが熱は無い、どれもこれも病気ではなかったんだからな。それにいつそんなことを思ったんだあいつは?
「手が熱かったとか言ってたな」
受け取ったペットボトルを落とすかと思った、あの火傷を確認した時にそんなことを考えていたとは思いもしなかった、別に熱くはなかったと思うし寧ろあいつの手の方が熱かった。
「確かに熱がありそうだ。霙木、はやく帰れ」
引き留めたのはお前達だろうと言いたいのを飲み込む、
「そんな赤い顔してんのに自覚無かったのか」
「怒鳴る元気のある風邪は厄介そうだな」
再び好き放題言うと労いなのかそれぞれが肩をたたいて通り過ぎていく。同じ部署なのだから己もそこに戻るのだが、荷物やコート類を取りに。
彼らの後ろをついて部署へ戻りデスクで荷物をまとめコートを羽織る、マフラーをかけハットをかぶりながらふと先程言われた言葉を思い出す。
(……赤い顔?)
あの時にはもうポーカーフェイスを繕えていた……はずだ、揃いも揃って熱があるという先入観で見ていたのかあいつらは──あいつらの観察眼は己も認めるところだが、ポーカーフェイスを繕えていなかったかもしれないというのを認め無いためにもそう判断する。
まとめた荷物を持ってさっさと部署を出る、比良坂に今会うわけにはいかない。この案件は持ち帰り明日の朝あいつが迎えにくるまでにまとめておきたい、そう案件だこれは。
色ボケしていたら仕事にならない、些細なことが命取りになる職業だ、バディであり先輩として足を引っ張るわけにはいかない。決して。
″付き合いたいわけじゃない″
強がりではなく学生の頃から築き上げてきた今の先輩と後輩という心地のよい関係を対価にしてまでこの浅ましい恋愛感情を成就させ付き合いたいとは思わない、仕事が同じで職場も配属も同じ。そして仕事終わりには呑みにも行くし、何かの折には共に出かけることもある。互いの家に行くことだってある。
これ以上を望むとしたら、それは性愛の範疇のコトと、自分だけを見ろ自分だけのものでいろという醜い独占欲。
尊敬の眼差しで慕ってくるあいつにそんな生々しさと醜い欲求があることを知られたくない、感情では望まないと否定するが本能は希ってしまう知られたくない相反する欲求。
そんな当たり前の日々が過ごせていれば満足、そしてこの幸せな日々は共に年齢を重ねて老いて命数を全うするまで続くものだと信じて疑わなかった。
もしあいつが誰かと結婚したとしてもそれを祝福する用意はある、共にいられなくなるわけではないし幸せな姿が見られるならそれも悪くない。
そう思って、そう自分に言い聞かせて、自覚から3年という年月を当たり障りなく過ごしたーー。
しかし当たり前の日常はその日突然、何の前触れも無く終わった。
-END-