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    tuduriki_dai

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    tuduriki_dai

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    サチは華鬼ではないけれど、華鬼達と友人の一般人です。宮様は華鬼達を通じて知り合いました。華鬼達たちが「宮様」と呼ぶのでサチもそう呼んでいます。
    サチは夫を早くに亡くし、女手一つで息子を育てました。息子は無事に成長して結婚し、孫も生まれましたが、ある夜息子一家は妖異に襲われ亡くなってしまいました。
    サチが李夭を拾ったのは、孫が生きていたら李夭と同じくらいだと思ったからです。

    たらちねの母の腕は知らねども 祀蛇李夭は、自分の人生をろくでもないものだと思っている。
     どこかの路地で腹を鳴らしながらうずくまっているのが一番古い記憶という時点で、語らずともわかるだろう。
     親の顔も、声も、生まれた家も記憶にない。辛うじて覚えていたのは「りおう」という名と、自分の歳が四つだということ。
     初めの頃は、それほどひどい状況ではなかったように思う。顔の整った幼子が、哀れにも腹を空かせて座り込んでいれば、一定数の人間は何か施してやろうとするものらしい。どこかの軒を借りて道行く人間を見上げていれば、簡単に食べる物が手に入った。あまり長居すると、さすがに迷惑そうに追い払われるため、一所にはいられなかったが、それでも日々どうにか生きていた。
     だが、世の中はそう甘いものではない。善い人間もいれば、悪意に満ちた人間もいる。
     七つの頃のことだ。顔はもうよく覚えていないが、そこそこ身なりの良い男だった。満面の笑顔で話しかけてきて、美味しい物を食べさせてやろうと薄い茶色の菓子を寄越してきた。
     今考えれば胡散臭いことこの上ない。だが、当時は何も知らない子どもだったのだ。騙されるのも道理だった。
     菓子は確かに美味しかった。不思議な香りと味だったが、とろけるように甘く柔らかかった。夢中で頬張ったその菓子に酒が入っていたと気づいたのは、随分と後になってからだ。子どもの体に酒は大いに毒になる。食べ終わりしばらくして、ぐるぐると天地が回るような心地で動けなくなったことをよく覚えている。
     その後のことは思い出したくもないが、記憶に強くこびりついている。ひどい苦痛と屈辱だった。泣いて叫んで助けを乞うても、男は行為をやめようとしなかった。時間が経ち酒の抜けた体で必死に抗い、めちゃくちゃに振り回した足が、運よく男の急所に当たらなければ、きっと「最後」までされていただろう。
     他人を一切信用できなくなったのは、それがきっかけだった。親切な顔をして近づいてくるのは、自分を害するためかもしれない。施された食べ物も、何か妙なものが入っているかもしれない。世の全てが疑わしかった。
     施される物を信じられなくなったため物乞いをやめ、残飯を漁り虫や雑草を食べるようになった。腹を壊しもしたし、そもそも大した量は得られない。みるみるうちに頬はこけ、肋が浮き、みすぼらしくなっていった。そうなれば、以前にも増して邪険にされるようになる。
     軒先にいれば野良犬のように水をかけて追い立てられ、食べられる物を探してうろつけば怒鳴られ時には殴られもした。浴びせられる罵詈雑言に侮蔑のまなざしのせいで、ただでさえ不信感に凝り固まった性格が随分と荒んだように思う。
     そんな生き方をしていれば、いずれ限界はやってくる。李夭はしぶとく生きたが、それでもついに力尽き、倒れ伏して動けなくなった。
     十四の頃のことだ。雲一つない青空が美しい、昼下がりだった。
     ねぐらである、天井の半分落ちた廃屋の中で、ひゅうひゅうと細い息を吐きながら、李夭は空を見つめていた。とはいえ、栄養失調で霞む目では、何も見えないに等しかったが。
     ただ彼岸を渡るのを待つばかりだったその時、あばら家をおとなう者がいた。
    「あら、まあ。なんていたわしい」
     悲しみの滲む声だった。久しく聞いていない優しい響きに、落ちかけていた意識が引き上げられる。
     無い力をかき集めて首をわずかに動かし、視線を向ければ、ぼやけた視界に小柄な人物が映った。
    「あら、あら! まだ助けられそうだわ! ちょっとお待ちなさいね。すぐに人を呼んでくるから」
     垢と泥でべったりと汚れた頭を躊躇なく撫で、彼女は声を張った。
    「陽葵ちゃん、陽葵ちゃん! ちょっと手を貸してちょうだい!」
     そこで李夭の記憶は一度途切れている。
     次に目を覚ましたのは、知らない家の中だった。柔らかい布団に横たえられ、髪や体は清められている。着ている服だって、清潔で、穴が空いているどころか肌触りが良いくらいだ。状況が掴めず、木目の美しい天井をぼんやりと見上げて目を瞬いていれば、からりと襖の開く音がした。
     反射的に音のした方へ視線を向ければ、見知らぬ小柄な老婆が立っている。
    「あら、目が覚めたのね」
     瞬間、李夭は布団をはねのけて飛び退った。なるべく距離を取ろうとするも、栄養の足りない体は簡単にふらつき、その場で膝をついてしまう。
     老婆は李夭の反応に眉尻を下げたが、何も言わなかった。
     李夭に睨みつけられているのをものともせず歩みを進め、手にしていた盥を枕元へ置き、李夭と視線を合わせずに口を開いた。
    「わたしは祀蛇サチといいます。ここはわたしの家。あなたを連れてきたのはわたしよ。……まあ、わたしには膂力が足りませんからね、友人の手を頼りましたけれど」
     盥に入っていた手拭いを取り、慣れた手つきで絞る。
    「寝ている間に汗をかいて、良い気分ではないでしょう。体を拭いたいから、そちらへ行ってもいいかしら?」
    「近寄んな!」
     李夭は吠えた。この老婆――サチが何を考えているのか理解できず、恐ろしかった。
     一体何を企んでいるのか、連れ込んだ李夭に何をする気なのか。
     毛を逆立てた猫のように唸る李夭に、サチは怯みも怒りもしなかった。
    「他人に触られるのは嫌かしら? じゃあ、ここに置いておきますから、自分でやるのよ」
     わたしはお粥を作ってきますからね、と言いおいて、サチが部屋から出ていく。
     静かな足音が聞こえなくなってから、李夭はそろそろと盥に近づいた。
     確かに汗で体がべたつくが、目が覚める前まではこれよりはるかに汚れていたのだ。この程度なら気になりもしない。しかし、得体の知れない老婆が何を残したのか気にはなった。
     盥に顔を近づけ、すん、と鼻をうごめかせるが、異臭は一切しない。液体の色も透き通っている。手拭いもどうやら清潔なようだ。指先だけでそっと液体に触れてみれば、刺激も何もなく、ただ肌になじむ温度の湯だということがわかる。
     差し出された無償の親切に、李夭は戸惑った。これを、受け取って大丈夫なのだろうか。信じてもよいのだろうか。
     逡巡し、迷いに迷って、冷めてしまった手拭いに李夭がようやく手をかけた時、再び襖が開いた。
     悩みすぎて足音に全く気付かなかった李夭は、音に反応して顔を上げてしまい、部屋へ入って来たサチと目が合って硬直した。
     この時、李夭は初めてサチの顔を正面から見た。年齢が顔に刻まれた、どこにでもいそうな白髪の老婆だったが、たいそう優しい顔の人だった。
     李夭と目が合ったサチは驚いたように目を見開いたが、ややあって相好を崩した。
    「いい子ねえ、きちんと体は拭けたかしら」
     注がれる温かな視線がいたたまれず、身じろぎ、ぎこちなく視線を外す。
    「し、らねえ、やって、ねえ」
    「うんうん」
     笑いを含んだ声が妙に腹立たしい。
     ぎっ、と睨むが、サチはくすくす笑いながら、置いていた土鍋と茶碗の乗った盆を持ち直し、立ち上がって近寄って来た。
     サチが近づいた分だけ李夭が後ずされば、それ以上は距離を詰めず、盆を置いて土鍋の蓋を取る。
     ふわりと湯気の上がる小さな土鍋の中は、薄い黄色をしていた。
    「玉子粥ですよ。嫌いだったりするかしら?」
     卵は、食べたことがある。もう少し元気だった頃は、木に登って鳥の巣からよく拝借したものだ。ムカデなんかよりははるかにましな味だが、生臭いし殻が口に当たるのも不快で美味いと思ったことはない。
     眉間に皺を寄せれば、サチは苦笑いして玉子粥を茶碗に少しだけ盛りつけた。
    「栄養がたっぷりなのよ。少しでいいから食べてちょうだい」
     ここに置きますからね、と土鍋の隣に茶碗が置かれ、サチが襖までゆっくると下がる。
     距離を取られたとて、簡単に信用できるわけもない。動けずにいる李夭の腹がその時、ぐう、と大きく鳴った。
     音のせいで、今まで忘れていた空腹が猛烈に襲い掛かる。粥から漂ってくる匂いも手伝い、もう我慢ができなかった。
     ふらふらと近寄り、茶碗と匙を掴む。流し込むようにして粥を口にすれば、覚悟したような生臭さも固い殻もなく、米の優しい甘みと出汁のうまみが口いっぱいに広がった。
     美味しかった。今まで食べた物の中で一番と言えるほど。茶碗の半分よりも少なく盛られた粥は、あっという間に胃に消えて行った。
     足りない。もっと食べたい。
     土鍋から茶碗へ盛り付けるのもまどろっこしく、直接匙を突っ込んで掬う。
     頬張った粥は口の中が痺れるほど熱かったが、気にもならない。咀嚼するのも惜しんでかきこんでいると、飲み込みきれなかった米粒が喉につまった。
     ゴホゴホとむせこみ、背中を丸める。変なところに入ったようで、咳が止まらない。
    「ああ、そんなに急がなくていいのよ。誰もとらないし、おかわりだって作ってあげるから」
     背中を撫でてくる手は、柔く優しい。下心など一切ない、温かい掌。
     本当はわかっていた。体をきれいにし、服を与え、怪我の手当をしてくれたこの老婆が、裏表なく親切な人間だということは。
     だが、信じきるのが怖かった。信頼し、心を許したところで裏切られると、最初から手酷く扱われるより心を深く抉られるから。
     でも、もういいか。疑わなくて。信じたい。信じよう。一度は死をも覚悟したのだ。おまけのような生ならば、裏切られたって惜しくない。
     咳はいつの間にかおさまっていた。代わりのようにこみ上げてきた嗚咽と涙にぼんやりする頭で、李夭は思った。
     きっと、裏切りはしないだろう、この人は。信じるとは、そういうことだ。

     サチとの生活は、ひたすらに穏やかで、柔く、温かいものだった。概ね静かでもあったが、時折友人が訪ねてきた時は賑やかになった。
     サチの友人は様々だった。若い女もいれば、歳の見えない男もいる。酒臭い男にヤニ臭い男、怪しい雰囲気の女まで多岐にわたり、この老婆は何者なのだろうと不思議に思ったものだ。
     およそ知り合った経緯が伺えないが、彼らにも共通点はあった。誰もかれもが善人だ。いきなりサチの家に現れた、素性の知れない李夭に対しても、嫌な顔をしたりはしない。優しい人の周りには優しい人が集まるのだろうか。
     そんなことを考えて、李夭は小っ恥ずかしくなり頭を振った。切り替えるように芋を持ち直し、再び皮を剥き始める。
     サチと暮らすうちに、見よう見まねで家事を覚えた。洗濯も掃除も嫌いではないが、特に気に入ったのは料理だった。
     料理は楽しい。そのまま食べたら腹を壊すようなものでも、手間暇かけてやれば頬が落ちるような一品に変わる。
     ただ、サチに教わるのは気恥ずかしく、あまり上達はしていない。言えば喜んで教えてくれるのだろうが、心の中を見透かされたような笑みが少々腹立たしくもあり、この時に至るまで言い出せずにいる。
     今日は、偶然サチより早く起きられたので、朝食を一人で作っている。飯を炊き、菜を茹で、今は芋の味噌汁を作っているところだ。これを煮て火が通ったら味噌を入れ、あとは干物でも焼けば完成だ。その前にサチが起きてくるだろうから、干物は任せることになるかもしれない。
     だが、干物を焼き終わってもサチは起きてこなかった。
     どうかしたのだろうか。昨日は元気だったと思うが。
     首を傾げつつ、サチの部屋まで行く。
    「ばあさん」
     襖の前から呼びかけるが、応えはない。しんと静まり返った朝の廊下は、なんだかいやによそよそしい気がした。
    「……? おい、どうした?」
     襖を開け、部屋へと足を踏み入れる。
     サチは布団に静かに横たわっていた。
     静かすぎた。だって、呼吸の音が聞こえない。
     ぐらりと目の前が揺れる。現状を理解することを頭が拒否している。ほぼ無意識に、ふらふらと布団まで歩み寄り、膝をついた。
     肩を揺する。起きて、目を開けてほしい。だが願いは虚しく、冷たいその体は、李夭にただ揺すられるままだった。
    「サチばあさん」
     出た声は、笑えるほど掠れていた。
     頭が痛い。頭の中で誰かが鐘を打ち鳴らしているかのようだ。手足が痺れているように力が入らず、動くこともできない。何も、できない。
     どれほどそこに座り込んでいただろうか。
    「李夭? サチ?」
     呼ばれてのろのろと振り向けば、そこにはサチの友人の一人が立っていた。
     白い長髪に、烏帽子をかぶった風流な男だ。宮様、とサチやサチの他の友人には呼ばれていた。
    「……サチばあさんが」
     それ以上は、息が詰まって何も言えなかったが、宮は察したようだった。
     李夭の隣に膝をつきサチの顔を覗き込む。
    「……穏やかだね。まるで眠っているようだ」
     目を伏せ、手を合わせる宮の腕を、李夭は掴んだ。溺れる人間が、藁を掴むように。
    「どう、にか、ならないのか。あんたは、すごい人なんだろ。ばあさんや、天雨が言ってた」
     震える声で問う李夭に視線を向けた宮は、しかし、悲し気に目を伏せ、首を横に振った。
    「残念だけれど、どうにもならない。彼岸へ赴いた魂を呼び戻すことは、わたしにはできない」
     視界が明滅する。宮の言葉を受け入れられず、頭を振る。自分の浅い呼吸の音がうるさい。
    「李夭」
     伸びてきた宮の腕が、李夭の頭を抱き込んだ。
    「辛いな、親しい人を失うのは。わかるよ、わかるとも」
     お前に何が、とは言えなかった。李夭にさえわかるほど、宮の言葉は深い悲しみに満ちている。
    「辛かったら泣いていいんだ、李夭。想う涙は、あの世へ渡った人への餞になるから」
     ぐう、と胸の奥から熱い塊がせりあがってくる。目頭が焼かれたように熱くなり、じきにそれは涙となって零れ落ちた。
     歯を食いしばりながら李夭は泣いた。大きな穴が空いたように、胸が痛かった。
    「寂しいな。辛いな」
     そう言う宮の声にも涙が混じっている。
     初めて知った大きな喪失感を持て余し、李夭は涙を流し続けた。

     華鬼にならないかと打診を受けたのは、宮が手配してくれたサチの葬式が終わってからだった。
    「京の都を守るのに手を貸してくれないか。君ならば、きっと共に戦える」
     失う辛さを知った君ならば、と宮は悲しげに微笑んだ。
     その提案に頷いたのは、人助けをしようとか、そんな高尚な心からではなかった。サチを失って何をしたらよいかわからなかったから、差し出された手を掴んだだけだ。
     だが、戦うのは存外に楽しかった。目の前の「悪」を切れば、サチのような「善い人」になれる気がしたし、がむしゃらに動いていれば、心が沈む暇もなかったから。
     華鬼の仲間とは、徐々に交流が深くなっていった。李夭はそれを望まなかったが、向こうが勝手にかまってくるのだから仕方ない。突っぱね続けるには、彼らは「善い人」すぎた。
     いつの間にか、彼らは李夭にとって大切な存在になっていた。こんなはずではなかったのに。大事な人を作りたくないと思っていたのに。
     李夭は恐れている。失うことを。親しくなった彼らを亡くすことを。あの喪失感を再び味わうことを。
     だから妖異を切る。仲間を失う前に。俺が、俺が全て切る。
     ろくでもない人生だ。命を懸けなければ、守ることもできやしない。いっそ名前通りに、早くに死んだ方が楽なのかもしれない。
     それでも生にしがみつき、血にまみれて戦いながら希う。誰も逝ってくれるなと。明日も共にいられることを。

    たらちねの 母の腕(かいな)は 知らねども 憶え偲ぶる 幸いの手
    (産みの母の腕に抱かれた記憶はないけれど、サチや宮や華鬼達が差し伸べてくれた掌は記憶に強く残っているし、この先ずっと思い出すだろう)
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