新しい世界に乾杯 1
そろそろ世界が終わるらしい。
いつの世もまことしやかに囁かれ続けてきた終末論。予言だの何だのと、よくある与太話と笑い飛ばせていたのは数十年前までの話で、近頃は本当に終わるのではないかと水木は肌で感じていた。
世の中はすっかり変わってしまった。人間はどんどん数を減らし妖怪や化け物が蔓延る夢のような、いいや悪夢のような日常が現実のものとなっているからだ。
狂骨という妖怪が増えている。それも恐ろしい速さで。倒しても祓ってもあっという間に元通り。そして無限に湧いていく。
独り立ちすると打ち明けて家を出た水木の義息子は、人間を助けて妖怪と仲を取り持とうとする稀有な存在だった。悪さをする妖怪たちを懲らしめる話を耳にして、元気でやっているのだなと安心していたのだが、ある時期からまったく活躍を聞かなくなった。
噂によれば、あまりにも酷い人間の所業に疲れてしまったそうだ。あの子が庇いきれないほど人間の欲望は深く、そして醜い。受けた恩を仇で返すなんてことを平気でする、呆れるほど愚かな生き物である。終わりのない日々に嫌気が差して諦めてしまった義息子を水木は責めることができなかった。
あの子は一生懸命やってくれた。原爆が落ちたって争いは止まらないのだから、いっそ人間はいっそ滅びるべきなのかもしれないと、水木は義息子の決断を黙って見守って過ごした。
「それにしても凄まじい荒廃っぷりだよなあ。この国も終わりかな。あーあ、これまでのご愛顧ありがとうございました、ってか」
慣れ親しんだ元職場、帝国血液銀行の屋上で残り少なくなった煙草に火を点ける。吐き出した煙がオレンジ色の空を飾ってほんの少しだけ名残惜しいような気持ちにさせられた。
妖怪優位の世界になってからというもの、空から青色が消えた。太陽が昇っても空はずっとオレンジ色をしていて、その色の濃さでしか時間の移りを把握できない。ちなみに今は昼の一時を過ぎたあたりだ。
日が落ちてやっと色が暗く変わるので辛うじて夜だと認識できるが、一日中夕方みたいで水木は未だに落ち着かない。以前と比べて空気もどんよりしているというか、さっぱりしない感じが続いている。
独特の青い光が眼下の街を蠢いている。ああ、また新しく狂骨が生まれた。
肉眼で確認できるほど狂骨がそこら中をうろついている。人間社会はめちゃくちゃだ。妖怪が見える者はビビって家からでなくなったし、そうでない者も不吉な気配を感じるのか無駄な外出を控えるようになった。一部の怖いもの知らずは妖怪にちょっかいをかけて返り討ちに遭い、被害が大きなものになれば事件だの怪異だのと報じられた。
一口に妖怪といってもいろいろある。話の通じる者とそうではない者だ。狂骨は後者であった。よって悪さをしているところを見かけたら、物理的に懲らしめてやるしかない。今は野放しになっているから、増える一方なのだ。
狂骨が怖がる相手は格上の妖怪か使役する術を持っていた裏鬼道という外法使いくらいなものだ。しかしかの集団は遠い昔に壊滅したと聞かされている。
なぜ水木がそんなことを知っているかといえば、自分自身が「格上の妖怪」だからである。さっきも曲がり角でぶつかってきた無礼者の狂骨をぶん殴って倒したところだ。飛び出してきたのはあっちだっていうのに、詫びの一つも入れずに襲おうなんざ百年早い。
鬼太郎は人間ではない。幽霊族という妖怪のようなもので、その体液は、特に血液は人体に有害であると目玉のおやじが言っていた。吸血鬼でもあるまいし好き好んで血なんか吸うわけがない。水木は目玉のおやじにそう答えたのだが、幼子の世話をしているうちに水木は唾液やら涙やらその他もろもろを知らないうちに取り込んでしまっていた。
切り傷や擦り傷から、時には食事の世話を介して幽霊族の体液を摂取していたようで、水木はいつの間にか老いる速度が遅くなり、狂骨を一撃で粉砕できる剛力を手に入れていた。体はかなり丈夫になって、試してはいないがこのビルから飛び降りたとして恐らくかすり傷一つ負わずに済むだろう。
水木の見た目は三十代そこそこであるが、実際はそれに五十年ほど足した年齢が正しい。それでも髪が白いことを除けば十分に若いと言えるだろう。つまりすでに水木は人間ではなくなっている。ただし純粋な幽霊族ではない。強いて言えば幽霊族もどき。それでもまあ、並の妖怪よりは強い力を秘めている。
妖怪化が進んだせいで力がかなり強くなった。妖力以外にも握力等、身体能力が飛躍的に上昇し、なかなか加減が難しくて、初期はドアノブや家具など家中の物を散々破壊してしまった。
体力の有り余っている水木が鬼太郎の代わりに正義の味方とやらになってやっても良かったが、あの子が悩んで決めたことに手を出すのは憚られた。だからこうやって降りかかる火の粉を払うだけに留まっている。
そして世界は狂骨を筆頭に妖怪の手に落ちようとしていた。
そんなこともあるだろうと、水木は傍観者だった。鬼太郎は人間に愛想を尽かして活動を辞めたのだ。あんな優しい子を諦めさせてしまったのだから、人間なんか滅びても文句を言う資格はない。
火傷しそうなほど短くなった煙草をポイ捨てし、最後の一本となってしまった煙草に火を点けた。狂骨が蔓延っているせいで物流は途絶えがちになっている。じきに完全に止まるだろう。そうなるとお気に入りのピースも次はどこで入手できるかわからない。水木にとってこれだけが人間社会での心残りだった。
巨大な龍のような妖怪が悠々と泳ぐように空を飛んでいた。「あれも新種かねえ」なんて呑気にふかしてへらへらと笑った。
ふと、カランコロンと小気味のいい音がして「鬼太郎か」と振り返る。水木の中でそういう音を鳴らすのは義息子だけだったから。
そこにいたのは義息子と非常によく似た顔立ちの大男。
「失敬、人違いを」
「いいや、間違ってはおらぬ」
下駄を鳴らして「わしは鬼太郎の父じゃ」とゆっくり近付いて来る。
「それはおかしい。あの子の父親はこんなかわいらしい背丈の目玉だったはずだが?」
指で「これくらいの」と大きさを表現して見せれば、大男が白い髪で覆われていた顔の左側を、赤い赤い大きな目玉を覗かせた。
「これでどうじゃ? 証明にならぬか?」
「ほう……。なるほど、親父殿にそっくりだ」
説得力のある目玉に水木は頷き、「それが本当の姿なのか?」と尋ねた。深く頷いた親父殿が、妖怪が闊歩する世になったおかげか妖力の戻りがとてもよく、驚くほど速く溜まったのでこの大きさに復活できたと微笑んでいる。
人類が滅びかけているにもかかわらず、水木は「よかったじゃねえか。これで鬼太郎を抱き締めてやれるな」と親父殿の背中をバシバシ叩いた。怪力である水木の打撃をもろに食らっても彼は平然としていた。さすが幽霊族の大人だ、強度が違う。
「良い物を持っておるな。一本くれぬか?」
「悪い、祝ってやりたいところだがこれが最後なんだ。隣町まで足を伸ばせば在庫があるかもしれんが、このあたりの煙草屋はみんな略奪されちまってる」
「構わぬよ、それで」
親父殿が水木の吸いさしを指差した。普段なら「自分で探しやがれ」と中指を突き立てるところだが、今日は親父殿との再会を果たした日である。
「しょうがねえな、特別だぜ?」
苦笑しながら水木は少し短い煙草を咥えさせてやった。親父殿が「久しぶりじゃなあ」と呟き、じっくり煙草を楽しんでいる。
「和装だからかもしれないが、お前にはキセルの方が似合いそうだな」
「そうかのう」
「ああ、想像するだけでもなかなか様になっている」
親父殿はふふふ、と楽しげに「わしはのう、お主からの貰い煙草が一等好きなのじゃよ」とどこか懐かし気に灰を落とす。
水木は言葉のおかしさに気付いて「目玉のお前に煙草をやった覚えはないぞ」と指摘した。
あのサイズ感での一服は少々厳しいのではないか。そんな考えが過った直後、たまに数本が消えていたことを思い出した。実はこいつ、隠れて吸っていたのかもしれない。急に長年の答え合わせをされてしまった。
「いつか、ちゃんと返せよ」
お互いに妖怪であれば世界が荒廃していったとしても、ある程度の期間は生き延びることができるだろう。その時に手土産としてくれたら嬉しい。水木はそんな未来の話をした。
「そうじゃな、また出会う日があれば――」
尻窄みになっていく声。親父殿は少し寂しそうな表情になった。水木はなぜか放っておけず「そんな顔するなよ」と励ましてまた会う約束を取り付けようとした。しかし彼は頭を振り、水木の上着の裾を子供がするみたいに掴んで離さなくなった。
「おいおい、どうした」
「ちと寂しく思うてなあ」
「ガキかよ」
「そうかもしれぬ」
「俺の十倍以上は生きてるくせに」
「幽霊族はとんでもなく寿命が長いんじゃ。よってわしなどはまだまだひよっこじゃな」
「ふーん、そうか。だったらこいつは取り上げねえとな。お子ちゃまにくれてやる煙草はねえ」
かすめ取った煙草は、もう小指の先ほどしか残っていない。それでも貴重な逸品だ。水木はこれが最後かもしれないと惜しみ、短い宝物を口元まで持って行った。
煙草が唇に触れた瞬間、水木は咳き込んでしまった。はりきって吸おうとして唾が変なところに入ったのだろうか。ゲホゲホと出るそれは重い風邪を引いた時のように胸の苦しさを伴う。
「平気か?」
「いや、ゲホッ……。ちょっと、失敗して喉が――」
なかなか呼吸が落ち着かず、俯いていると背中を擦られる。しばらくそうしてもらってやっと静まったころ、顔を上げた水木は息を飲んだ。
「何じゃ? わしの顔に何か付いておるのか?」
頭一つ分は違う背丈。老人と見紛う白髪。怪しく光る赤い目が、忘れていた声が水木の記憶を呼び起こす。
「お、お前、無事だったんだな……!」
指先から短い煙草がぽとりと落ちた。堰を切ったみたいに過去が溢れてくる。混乱しつつも水木は親父殿にしがみついた。ほとんど襲い掛かるような勢いだったがびくともしない。
――こいつはすごく頑丈なのだった。三階以上の高さから叩き落されても無傷。錫杖で袋田抱きに遭っても呻き声一つ上げない。あれ? いったい俺はそれをどこで知ったんだ?
懐かしいはずなのにどうして覚えているのかがわからない。記憶、記憶……。水木にはまだ忘れていることがある。
「まだ、他に何かが……?」
水木の人生で記憶が欠けた期間といえばごくわずかだ。昭和三十一年の七月十九日から数日間、「M」の秘密を追って哭倉村へ赴いたあの夏の――。
「そうだ、哭倉村だ。あの村で俺は……――!」
哭倉村へ向かう夜行列車の中で誰かに会った。龍賀時貞の訃報を受けてのことなので葬儀には当然、克典社長も同席していたはず。手帳にまとめた新聞記事で一方的に見知っていた龍賀一族の顔も浮かんできた。村で出会った沢山の罪深い人々。初めて見た妖怪たち。違う、探しているのは彼らじゃない。何かが、とても大切な誰かがそばにいたはずなのに。
警察の事情聴取でさえろくな受け答えができなかった。水木はどうして、いったい何が原因であれほどの喪失感を味わったのだろう。
「ううっ……。だめだ、肝心のところで……」
頭を抱えて蹲っていたら「試してみたいことがある」と提案される。
「随分と前に、テレビの画像が乱れたことがあったじゃろう?」
「テレビ? いつの話だ?」
思いがけない単語に水木は訝しんだ。すると親父殿が「白黒だった時にほれ、電波の都合か調子が悪いと画面にいくつも線が入っておった」なんて続けた。
そこまで言われて水木はやっと合点がいった。年季の入ったテレビは発作を起こしたみたいに時折、画像が乱れてしまうことがある。買い替え時なのは理解していたがカラーテレビは高価だったから随分と我慢して粘ったのだ。
「確かにあのテレビは酷使したな。でもおんぼろだったわりに長く持ったんじゃないか?」
街頭で眺めているばかりだった憧れのテレビが自宅に設置できた時の嬉しさを水木は今でも覚えている。賞与をつぎ込んだ経緯からか愛着があり、壊れかけて不便なのになかなか手放せなかった。
そういう思い出話がしたいのかと思いきや、親父殿は妙なことを言い出した。
「じゃから、試してみようと思うてな」
「何をやるって?」
「お主の得意技だったやつじゃよ」
「唐突にどうした?」
話の脈絡からしてテレビネタだろうが、水木に自慢できる技なんてあっただろうか。チャンネルがダイヤル式だったころは野球中継に一発で合わせるのが得意ではあった。しかし元帝国血液銀行の屋上にそんな骨董品があるわけがない。
首を傾げている水木をよそに、親父殿が腕まくりを始めた。青白い、しかし太い腕が元気に素振りされる様を目の当たりにしてあることに察した。実行された場合の末路を想像してどっと汗が出てきた。
「ちょっと待ってくれ!」
「では行くぞ。覚悟は良いか?」
「良くない! 良くない! ぜんっぜん良くねえ!」
「こら、動くでない」
がしりと上から抑え込まれた両肩。立ち上がろうにも文字通り化け物染みた怪力で身動きが取れない。このまま行けばコンクリートの床にめり込んでしまうのではないかと危惧するほど親父殿のパワーと目力は本気だった。
「落ち着け。待て、待つんだ! やめろ……!」
「無駄にお喋りしておると舌を噛むぞ。歯を食いしばっておけ」
「先に話をしようじゃないか! それからでも遅くはない!」
両手を合わせて拝んだ。拝み倒した。幽霊族もどきが本家と力比べをして勝てるわけがない。人間を辞めてしばらく怖いもの知らずだった水木は久しぶりに怯えていた。
「話したところで何になる? だってお主、待てども待てども思い出さぬじゃろう? 時間の無駄ではないか」
「それでも暴力はいかんだろう! 日本は法治国家だぞ‼」
水木の主張を受けた親父殿は意表を突かれたように大きな目を瞬かせ、それから「そんなもの、とうに機能しなくなっておるわ」と冷たく言い放った。
「あ……」
法というものは国と社会があるから存在する。妖怪が跋扈しているこの世界ではあってないようなものだ。日本は鬼太郎が見捨てたせいで終わるのだった。ちなみに水木も何もしないから同罪。それなのにピンチだからと国に頼ろうとするのは虫が良すぎる。ちょっとばかり反省した。
「わしはのう、待つのは飽いた。お主には悪いがここは力ずくでいかせてもらう」
「死ぬ! 死ぬから! お前の全力を叩き込まれたら死んじまうッ!」
どうかそれだけは、と懇願しても親父殿は朗らかに笑みをたたえるだけだった。両肩に置かれたままのゲゲ郎の手から発せられる圧が高まっていく。軽く押されただけで首が地面とくっつきそう。重力が壊れる。生命の危機をバシバシ感じた水木は必死に足掻いた。足掻いたが無意味に終わった。水木が脱出するよりも早く、親父殿が腕を振り上げたからだ。
――あっ、死ぬ。殺される。
忘れもしないこの角度は、水木が壊れかけのテレビにお見舞いしていた得意技だ。衝撃を与えるとなぜか画像の乱れが治まるのでよく角をビシバシ叩いていたのだが、まさか同じようにぶん殴られることになるとは。
親父殿の手刀が水木の頭部、斜め四十五度を直撃した。
「ぎゃッッッ‼」
頭の中でドゴンと鈍い音が響いた直後、綺麗に星が飛んだ。キラキラ光って目の前で踊っている。少し前に流行していた空前絶後のインド映画に引けを取らない圧倒的な舞いっぷりだ。
誰だよ、叩けば直るなんて豪語して野蛮な行為を繰り返していた脳筋ゴリラは。ごめんなテレビ、来世では優しくすると誓う。
「どうじゃ? 何か思い出したかのう? 水木や、早うわしの名前を呼んでおくれ」
「………………う、あ」
「お主が名付けたのじゃぞ? 責任を取れ。目玉や親父殿ではなく、わしを名前で呼ぶのじゃ」
まるで脳が二つ裂かれたみたいだ。頭の芯が揺さぶられて視界がぐらぐらする。一部には抉られるような痛みがあり、患部を突かれたら亀裂が端ってパカっと割れそうなほど酷い。
殴られた箇所が最も痛むのだが、同時に眩暈もなかなか強烈だ。こうやって意識を保っているのが奇跡である。「どうじゃ?」じゃないんだよまったく。
やる気を出した幽霊族にぶっ叩かれて平気な奴なんていない。そう毒を吐こうとしたら急激に胃酸がこみ上げてくる。あーやばい、ゲロ吐きそう。
「ぐ……っ、おぇっ……!」
「むむっ、ちと弱かったか?」
倒れて嘔吐いている水木を覗き込んだ親父殿が次に口にした言葉は、「上手くいっておらぬようじゃから、もう一回やってみるか」だった。ふざけんな、嬲り殺すつもりか。
「良い子じゃから大人しくしておるのじゃぞ? 手元が狂えば頭を吹き飛ばしかねぬゆえ」
親父殿はいつもそう。怒っている時よりも真面目にとんでもないことを言い出した時の方が厄介なのだ。忠告うんぬん以前に、しくじったら頭がミンチになる威力で手を出すな。
ゲロっている場合じゃない。逃げなければ。水木は起き上がろうとして目を回した。
平衡感覚がご臨終だ。そもそも食らったダメージが全然回復できていない。もう走るのは諦め、可能な範囲で行動を起こす方向へシフトした。
足腰が立たないので這うようにして移動する。逃げ惑う水木をそれはもうとびきりの笑顔で追いかける親父殿。なんだこのホラー映画みたいな状況。クソ映画め、夢なら醒めてくれ。趣味が悪すぎる。
「何じゃ何じゃ、鬼ごっこか? 楽しいのう、かわゆいのう。お主とは一度、こうやって童のように遊んでみたかったのじゃ」
「イカレてんのか?」
「よくわかったのう。偉いぞ」
「ごめん嘘、褒めないで。早く正気に戻れ。戻ってください」
「いやじゃ♡」
長い間ゲゲ郎たちと暮らしてきた。一生懸命こちら側の常識を教えて人間らしくなったと思っていたのは水木の勘違いだったらしい。ふとした瞬間にこういった人外っぽい言動が飛び出してくるから油断ならない。
遊びたいという言葉通り、水木が力尽きるまで親父殿はわざとゆっくり歩いて距離を詰めてきた。全力の匍匐前進なんて兵隊をやっていた時以来だから、すぐへばってしまってもう捕まりそうだ。
「ほれほれ、頑張らぬと追いついてしまうぞ?」
「クソッ、ふざけやがって!」
――マジで何なんだよこいつ。なんか恨まれるようなことやったか? やったんだろうな、きっと。でなきゃこんな狂ったことをするわけないんだ。さっさと帰って来い、俺の記憶!
急に気が変わったとかで諦めてくれないだろうか。甘い展開を夢見たがそんな都合のいいことは起こらず、とうとう建物の端である鉄柵まで追い詰められてしまった。
運命は水木に味方をしてくれないようだ。以前は柵なんてなかったのに、いつだったか転落した間抜けがいたせいで、安全確保とかいう名目でこんなものが設置されたことを思い出す。下に転がり落ちようにも柵の間隔が狭く、隙間には頭どころか肩も入らない。強引にひん曲げる力も戻っておらず、もはやこれまでと抵抗を止めた。
また殴られるのだと思うとげんなりする。途端にどっと疲れが出てきた。行き倒れたところに親父殿がひょいと顔を覗かせ、こともあろうに元気よく背中へ飛び乗った。
「つっかまえたっ! のじゃ!」
「ぐえっ!」
「おっ、良い声で鳴いたのう。わしそれ好き」
「……カエルみたいで?」
ぐったりしながら水木は胸を擦り、ゲロ吐きマーライオンにならなかったことに安堵する。
「そうそう」
なるほど、さしずめ水木は潰されたカエルだ。そういえば幽霊族の大好物だった。喉仏をベタベタ触ってくるので真顔で「ゲコゲコ」と鳴き真似をしてやった。すると親父殿は水木の上で「腹が減った」なんて口走る。
「うーん、参ったのう。食べたくなってきたのじゃ」
「重い……。そろそろ退けよ。お前、自分の体重を考えろ。俺じゃなきゃ肋骨が折れてたぞ!」
「失礼なやつじゃのう。まるでわしが肥えたみたいではないか」
「お前が目玉の時みたいに行動するからだ。そんな図体でいきなり乗りかかられたら困る。ああ、あの頃は小さくてかわいかったのに、どうしてこんなのになっちまったんだろうな」
水木の嘆きに親父殿はふんと鼻を鳴らした。
「今も昔も変わりなくわしはぷりちーできゅーとじゃろうが。それともあれか、かわいらしさの次元が違い過ぎて水木には理解できないかのう?」
「そこまでは褒めてねえよ、勝手に設定を盛るな」
でかい重い強いの三拍子が揃った幽霊族に対して水木は手も足も出ない。口で応戦するのも限界かと、力なく両手を上げた。
「はー、降参だ、降参。いっそ一思いにやってくれ」
「その心意気や良し。強めにやるぞ」
「早い早い早い! まだ心の準備が――」
「そぉれっ!」
全てを言い終わらないうちに再び頭部を強打された。容赦がなさすぎる。少しは人の話を聞け。
「いッッッッでッ‼」
威力を上げるという親父殿の宣言どおり、さっきよりも激しい衝撃が水木を襲った。言葉では表現し難い凄烈な痛みが上から下へと走る。
――大丈夫? まだ頭の原型ある? ひょっとして真夏のビーチでスイカ割りした後みたいになってない? それとも熟した柘榴よろしく頭部が弾け飛んでいる?
不安に駆られたが実際の水木の頭は潰れたスイカでも弾けた柘榴にもなっていない。ただいきなりコンセントを抜いた電化製品みたいにブツンと意識を途切れさせた