新しい世界に乾杯 2 水木が目を覚ますと腰の上に誰かが乗っていた。漬物石のように重くずっしりとしていて退かせそうにない。息苦しくてどうにかならないものかと身じろぎをしたら、「ん?」と彼は声を上げてこちらを見た。
空の色は最後に見た時と比べても大して濃度に変化がなく、目をやった腕時計で気絶してからさほど時間が経っていないことがわかった。
体を動かすと殴られたところがズキズキした。二日酔いとは異なる物理的な原因から発生した頭痛にのろのろと額を押さえる。幸い頭部の血管はどこも破裂していないし、潰れずにちゃんと存在してくれていたが、そこには大きな瘤ができていた。これはひどい。
「……無茶しやがって。死んだらどうする」
「安心せい、その場合は地獄まで迎えに行く」
「笑えねえぞ……。冗談でもやめろ」
「ううむ、まるきり冗談ではないのじゃがなあ」
ぶつぶつ言っているのを無視して退くように命じた。だが「逃げるといけない」なんてまるで水木が咎人であるかのように接してくる。
「もう逃げねえよ。そうする意味もない」
「本当か?」
「降伏するって言っているんだから少しは信用してくれ」
「お主は嘘つきじゃからのう。世間知らずなわしを騙して一方的に情報を引き出す悪党だった」
じろりと睨まれた水木は「しょうがないだろう、あの時はお前が敵か味方かわからなかったんだから」と弁明した。
「お主……、今なんと……?」
先ほどまで軽口を叩いていたとは思えぬほど真剣な表情になった。痛快だ。
水木はにやりと笑って置物のように固まっている幽霊族をひょいと横に動かし、固まっていた首や肩をバキボキ鳴らして唸る。
「座敷牢に放り込むのは、報復としてはなかなかよかった。寝起きの俺はすっかり動揺して、しかもお前は呑気に野湯へ行っていたものだから、見張りに気付かれないように連れ戻さなけりゃいかんと大いに焦った。でも振り返ってみるとお前もまあまあ悪いやつじゃないか? なあ、ゲゲ郎?」
「わしの、名前を……!」
可能性はゼロではないが、二度と呼ばれることはないと諦めていたのだろう、ゲゲ郎は十数年ぶりにその名を耳にして感極まっていた。
「聞いているのか? ゲゲ郎、返事くらいしろよ」
「み、みじゅき~~~~~~ッ!」
「うおっ!」
やっと引き剥がしたのに速攻で胸に飛び込まれ、受け止めきれず再び床に倒れることになった。しかもまた頭を強打した。三回目ともなると多少は慣れたが痛いものは痛い。やっと記憶を取り戻したのに衝撃で飛んだらどうしてくれる。
後頭部を押さえているとそれに気付いたゲゲ郎が半泣きで「すまぬ、すまぬ」と撫でてきた。心配してくれるのはありがたいが擦られ過ぎて火が出そうである。人型マッチになるのは御免だ。
「ちょ、ゲゲ郎。はしゃぎ過ぎだぞ、少しは落ち着けって」
「わしはいつだって冷静じゃ」
「これで⁉」
「ようやくお主の記憶が蘇ったのじゃ、興奮するなという方が難しいぞ」
しがみついて来るゲゲ郎を諫めようとするも逆効果で、気が大きくなっているのか手が付けられなくなってきた。
「ああ、水木。わしの友。あのように過酷な状況でよくぞわしらを助けてくれた。お主の勇気と優しさは未来永劫わしら幽霊族の歴史に刻まれるであろう」
「そんな、歴史って……。まったく、大仰すぎるぜ」
「お主がいたからわしは妻と再会し、倅を得ることができたのじゃ。……それに人間を憎み切らずに済んだ。わしの心を救ってくれたのじゃよ、水木は。本当にありがとう」
もはや泣いているのか喜んでいるのか判別不可能だ。ゲゲ郎は顔面をべしょべしょにしつつひたすら感謝の言葉を述べて水木を放そうとしない。
離れようにもがっちり拘束されていては抗うことなどできず、飽きるまでやりたいようにさせてやるべきかと考え直す。ゲゲ郎は寂しさを胸に秘め、記憶喪失の相棒を何十年もそばで見守って過ごしたのだ、少しくらい嬉しさを爆発させて騒いでも大目に見てやろうではないか。
「ずっと忘れていてすまなかった。これでもう心配ないからな」
気分はもうお父さんだ。よしよしと自分より図体のでかいゲゲ郎を幼児だったころの鬼太郎みたいに可愛がる。するとゲゲ郎も頬を寄せてきた。すりすりと甘える仕草に懐かしいものを感じ、いささかくっつきすぎではないかと過ったものの、目立って抵抗しなかった。
頭を撫でられてうっとりとしていたゲゲ郎がぽつりと零した。
「お主が過去を取り戻す日を心待ちにしておった。水木、水木よ。……愛している」
その声色は恋人や妻に愛を囁くような恐ろしく艶のある、そして切実なものだった。ゲゲ郎自身があまりにも自然に発したものだから、水木はうっかり「俺も俺も!」とノリで同意してしまいそうになって危なかった。
「ゲ、ゲゲ郎……?」
先ほどゲゲ郎は水木を友と呼んだ。なので、この「愛している」の意味はあくまでも「お友達として好きですよ」ということだと水木は解釈していた。二人の間にあるのは、深い絆で結ばれた美しい友情だと信じていたのだ。だから反応が遅れた。
「さあ、約束を果たそうぞ」
「えっ?」
ゆるゆると顔の輪郭をなぞっていたゲゲ郎の指が牙を向いた。
強く掴まれた顎。ぐいっと上向かされて何事かと目を瞬かせている間に水木の唇は奪われた。
それは一瞬のことだった。想定外のことに水木は頭が真っ白になり、唇を強く吸われてやっと正気に返ったが拒むには手遅れで、さらにぎゅっと体をかき抱くようにされる。
「ゲゲ、んんん…………っ」
喋ろうとしたのだがわずかな隙間から舌が滑り込んできて口内を探られる。頬に触れるだけの軽いキスしかしたことのない初心な水木はそれだけで参ってしまう。荒々しくなっていくゲゲ郎の吐息を受け、だんだんと熱を上げていった。
密着しているせいでゲゲ郎の下半身が反応しているのがわかった。気まずさに水木は慌てて身を引こうとしたが、ゲゲ郎はその存在を知らしめるかのように腰を押し付ける。布越しでも伝わる生暖かくも立派なそれは、同じ男としても羨むほどのサイズ感だった。
「一つ聞いていいか? なんでお前、おっ勃ててんだ?」
「愛しい水木がここにおるからじゃ」
「ど、どうし……ええっ? ゲゲ郎はそういう意味で俺が好きなのか?」
「わしはどのような意味でもお主に格別の好意を持っておるよ」
「いや、まあそりゃあ好かれているのは嬉しいが、お前が俺を……? 夢? 幻? あ~、本当にちょっと待ってくれ」
「いいだろう」
待機させられているゲゲ郎は、「意識してくれて嬉しい」なんて色ボケをかましてくるが水木はいたってノーマルだ。最近は妖怪化してすっかりご無沙汰でも、これまで男を抱きたいと考えたことも抱かれたいと願ったこともない。性欲がないわけではないが、たまにささっと自分で抜いて発散する程度だ。
そもそも水木はそういった類の話が苦手、というか嫌いだった。
まだきちんと会社勤めをしていた頃、童顔のせいで悔しい思いをした経験がある。成績が上位だった月は、顔や体を使い取引先や上司に媚びを売っているなどと、同部署のライバルたちにあることないこと吹聴された。
嫉まれた理由はさまざまだ。しかし共通点があり、それは接待をすると必ず担当を水木にしてくれと相手先から頼まれることだった。だから周囲は水木が接待の前後で枕営業、もしくはそれに等しいことをしたのだとなじった。
評判は成績に、成績は給与と出世に繋がっている。よって営業職同士の足の引っ張り合いは日常茶飯事だ。ただ誰にでも股を開く阿婆擦れという嘲りにはさすがに黙っていられなかった。
馬鹿にされた水木はその場で手を出し、殴り合いの喧嘩に発展した。血の気の多い輩が多い職場のため、こういったことはしばしばあった。
水木にしてみれば取引先の相手に合わせて性格を作っただけである。それを取り入っただのごますり野郎などと蔑まれる謂れはない。少しでも好印象を持たれるべく、営業が営業らしく仕事をしているだけではないか。
こっちの仕事ぶりが良いだけなのに、枕営業しているなんてバカバカしい話だ。それに男同士で体を使って取り入るなんて、賄賂や女を使う接待をやるより難易度が高い。やるだけ無駄というか、ただただ気色悪いだけだろうに。素直に実力で負けたと認めればいいものを、いちいち難癖を付けて評価を下げようとするなんてみっともないやつらだ。思い出すのもムカついてくる。
前置きが長くなってしまったが、とにかく水木は男に靡くような性格ではないのだ。男を抱くのも抱かれるのも趣味じゃない。そんなことを知らないゲゲ郎ではないだろうに、自分を性的に見ているというのが信じられなかった。
幽霊族は長生きしすぎて性欲がバグっているのではないだろうか、なんて疑いたくなってくる。よりにもよってこんなおじさん相手に興奮するなんて、変わり者もいいところだ。
暇に耐えられなかったようで、ゲゲ郎は長考していた水木にちょっかいをかけてきた。
ゲゲ郎のキスしつこかった。やっと唇を離したかと思えば、小鳥が啄むみたいにちゅっちゅと小さく何度もしてきて終わらない。
やめさせようとすれば舌を差し入れ、窒息寸前まで口を塞いて悶えさせてくる。ぜんぜん解放してくれないため、ぐったりしてきた。甘い雰囲気に慣れていない枯れたおじさんを弄ばないでもらいたい。
どうしてやろうか。殴る? 蹴る? しかしながら力では到底かなわない。それでも生物としてある以上、弱点は存在するはずだ。
「ふ……っ、んんっ……」
口づけで喘がされているというのに水木は冷静だった。人間だったらこうはいかなかっただろうな、なんて呑気にしていたら胸を揉まれて現実に引き戻される。
正確にはワイシャツの上から乳首をいじられていた。ゲゲ郎は先端を緩く摘まんだり引っ張ったりしている。むず痒くて笑い出しそうになるのを堪えていたが、別に我慢しなくてはいけない理由もないと気付いて遠慮なく吹き出した。
あまりにも長くゲラゲラ笑っていたせいで、雰囲気を壊さないよう我慢していたらしいゲゲ郎もたまらず手を止めた。不満そうにぺちぺちと頬を叩いてくる。
「情緒がないのう。これからじゃというのに」
「女じゃあるまいし、そこを弄られて感じる男がいるかよ。どうやったってくすぐったいだけだ」
「ほう、お主がそれを言うのか?」
含みのある発言に不穏な気配を覚え、水木は「というかこれでおしまいだ。これから先なんてねえから」と話を強制的に終わらせようとした。するとゲゲ郎は「ひょっとしてまた忘れておるのか?」などと不思議なことを言っている。
斜め四十五度の打撃の威力は絶大だ。単なる物忘れや老化で思い出せないことはあっても、哭倉村関連で水木が取り戻せていない記憶はない。……ないはずなのに改めて本当にそうかと問われると自信がなくなってくる。
哭倉村へ向かう夜行列車でゲゲ郎と初めて対面した。ほとんどすれ違いざまに物騒な言葉を投げかけられただけでろくに会話をしていない。ここじゃないなと意識を飛ばし、次に顔を合わせたシーンを思い返す。時麿が殺されたと知ってみんなでお社に行った際、長田率いる鬼道衆に捕まったゲゲ郎が石段を登って――。先が長いな、これ。
「おい、ゲゲ郎。俺だけじゃ間違うかもしれねえから答え合わせに付き合え。お前が座敷牢に閉じ込められてからだ」
「やれやれ仕方がない。手伝ってやるとするか。よっこらしょ」
年寄り臭い掛け声と共にゲゲ郎がやっと離れ、うーんと背伸びをして向き直った。
ゲゲ郎に協力を仰ぎ、窖で奥さんと鬼太郎を託される瞬間まで記憶を遡ってみたが抜け落ちている部分はみられない。もやもやする。こうなってくると意地でも真実を明らかにしたくなってきた。
「あークソ、イライラする。煙草が吸いたい!」
ぐしゃぐしゃに丸めたピースの空き箱を床に叩きつける。すぐさまビルを飛び降りてコンビニ強盗もとい煙草を捜索したい衝動に駆られ、ガシガシと髪を掻き毟った。
「じきに日が暮れる。お開きにしよう」
「どうした、妖怪のくせにもう帰るのか?」
「ちと障りがあってのう。そうゆっくりしておれぬ」
背を向けたゲゲ郎が寂し気に下駄を鳴らして遠ざかって行く。
夜は陰の気が巡り、妖怪が活発に活動する時間帯である。人間時代で表現するとしたら花金の仕事終わりに相当するフィーバータイムだ。それを蹴って真っ直ぐ帰宅するなんてもったいない。
慌てて立ち上がった水木は「待てよ!」と後を追った。
「どこか具合でも悪いのか? せっかく会えたのに」
「まあ、わしにも色々あるのじゃよ」
「元の姿に戻れたのに大変だな。俺に手伝えることがあったら言ってくれ、力になる」
「深く聞きもせずに安請け合いするとろくなことにならんぞ」
「水臭いぞ、お前と俺の仲じゃないか。だいたいのことは付き合ってやる。さあ、言ってみろ」
「……誘っておるのか?」
「ん? 何だって?」
振り返ったゲゲ郎に水木は聞き返すことしかできなかった。だって言っている意味がさっぱりわからない。
ポカンとしている水木をゲゲ郎は「その顔!」と指を差す。
この顔が何だっていうのだ。水木はむっとして「言いたいことがあるならはっきり言え」と怒鳴った。
「わしの気も知らないで好き勝手言いおって」
カンカンカン、と速足で距離を詰めたゲゲ郎が手刀を繰り出した。予告なしの動作だったが頭を狙われるのは初めてではない。むしろ狙いがわかりきっているため行動しやすかった。
ひゅっと勢いよく風を切る音。水木は腰を落としつつ腕を上げ、真剣白刃取りさながらにゲゲ郎の手を寸でのところで受け止めた。
「むぅ……。不発に終わったか」
ゲゲ郎は悪戯が失敗した程度の熱量で残念がっているがこっちは命がけだ。ひとまずセーフ。スナック感覚で人に手を上げるなよ、まったくあぶねえな。
「テレビは叩いて直ったが、あれはあれ。俺を一緒にするな。バカスカ叩いてたら壊れちまうだろう! いくら俺が妖怪化して頑丈になったからってもたないぞ!」
「じゃが一度は上手くいったではないか。ならばもっと試せば完全に記憶が戻るに違いない」
「対話をサボって暴力に頼るな‼」
「聞こえぬのう~」
おっかないことを提案したゲゲ郎は、野球の四番打者のようなポージングでびゅんびゅん素振りをしていた。あんなのを何発も食らったら怪我をする。むしろ負傷しただけで済めば御の字だ。うっかり手元が狂ったら、なんちゃって人外をやっている水木など容易く死ぬというのがなぜわからない。
「さっきのはたまたま! 運がよかっただけだ! テレビだって最後はお前が力加減を誤って真っ二つにしちまったじゃねえか。俺はあんな風になりたくねえ!」
「……水木がいじめる」
「いじめてねえだろ! お前が物騒なことをやるからだ」
「わしはお主にあの夜のことを思い出してもらいたいだけじゃったのに。うっうっ……!」
「ハァ……⁉ また訳のわからんことを……!」
さんざん人に手を上げておいて被害者ぶるとは何事だ。記憶が蘇ったのには一応、感謝している。しかし必要以上に暴力を振るうのは許せない。
悲劇のヒロインのようにその場で崩れ落ち、あてつけがましくさめざめと泣いているゲゲ郎。力で解決するのは良くないと平和を解いたばかりのくせに、今すぐ引っ叩きたくなっているから水木も大概、堪え性がなかった。
「ゲゲ郎さんよぉ……。俺からちょーっと提案があるんだが」
ヤンキー座りでゲゲ郎と視線を合わせた水木は、どんな返答をされてもブチ切れないよう「平常心、平常心」と心の中で繰り返しながら対話を試みた。
「俺はまだあの村でのことを全て思い出していない。そうだな?」
ぶすくれた顔でゲゲ郎が頷く。
「一晩だけ起こったことを忘れている。ここまであってるか?」
「相違ない」
「そしてお前はその場にいたな?」
「当事者じゃからな」
「だったら話は早い。お前が知っていることを話してくれ」
水木が一人でいたならば思い出すしかないが、ゲゲ郎が同席していたというのならあったことを洗いざらい喋ってもらえば解決する。聞いているだけでも呼び水になるかもしれないし、殴られ続けるよりよほど安全で平和的である。むしろ「こっちを先に試せよ」と水木は悪態をついた。
「できればわしの口から知るのではなく、自力で思い出して欲しいのじゃ」
「だーかーらー、それが無理だから頼んでるんだろうが」
「ならば何を聴いても疑うでないぞ?」
「それは内容による」
「保険を掛ける気か? 狡いやつじゃのう」
「用心深いと言ってくれ。ほら、不満なんだったら条件を詰めようぜ」
その後お互いに譲歩し合い、どうにか話がまとまった。水木は何を聞いても怒らないこと、ゲゲ郎は正直に話すことを約束した。
立ち話で済む長さではないので、とゲゲ郎に言われ水木はひとまず鉄柵にもたれ掛かる。自然とゲゲ郎も隣に並んだ。
「では語ろうかのう。あれは夜の墓場で酒盛りをした時のことじゃった」
「おお、それはちゃんと覚えてるぞ。お前、すごい泣き上戸だったよなあ」
「む、わしのことはいいんじゃよ」
「わかった、わかった。はい、続き」
「山向こうの烏天狗が仕込んだ酒を水木は美味い美味いとしこたま飲んだ。いい飲みっぷりに村中の妖怪たちが集まり、お主が宴会芸を披露してからは大盛り上がりで、みなとっておきの芸をやり始めて……。あれは楽しかったのう」
「俺が宴会芸を? 知らん……、何それ……。怖……」
「人間と酒を酌み交わすなど初めてのことじゃったから、みんなタガが外れてしもうてな、日を跨いでのどんちゃん騒ぎじゃ。今思うと村人に通報されなくてよかった。やはり墓場は良いところじゃな」
水木は動揺を隠せなかった。釣瓶火だけは記憶にある。だが他の妖怪なんて微塵も知らない。
近場の妖怪が大集合したと聞かされ、ひょっとして化かされたか? なんて考えが過る。もしくは気付かぬうちに一服盛られたか。
怪しむ水木にゲゲ郎は「わしがおるのにそのような真似をするものはおらぬ」と否定した。数が少ないとはいえ妖怪の上位に相当する幽霊族の連れを陥れよう、ちょっかいをかけようなどという命知らずはいないそうだ。
「ええ……、じゃあ何でお前は覚えていて、俺だけ忘れているんだ?」
「多方面から持ち込まれた酒を見境なく飲んでおったからのう。酔いのまわりが早く、しかも悪酔いした結果、記憶が飛んだというのはありえるかもしれぬ」
「あー、それかもな。次の日は二日酔いが酷かった。ちくしょう、なんで俺ばっかりこんな目に……!」
「わしは妖怪の酒に慣れておるからなぁ」
飲み過ぎと酒をちゃんぽんしたせいで記憶を飛ばすなど、高度経済成長期を駆け抜けたモーレツサラリーマンとしてあるまじき失態だ。
とうに会社を退職していても根っからの企業戦士である水木は一人反省会を始めた。その横でゲゲ郎が河童の皿回し芸が見事だったと口にするものだから、気になりすぎてすぐ終了した。あの皿って取り外し可なのかよ、見たすぎる。
「終盤の水木はべろべろに酔っぱらっておってのう、顔を耳まで真っ赤に染めてむにゃむにゃと意味不明な言語を喋っておった。人間嫌いであったわしが戸惑うほどかわいかったのじゃ」
知っていることを話せと言った手前、途中で止めさせるのは良くないと思う。しかし黒歴史のような、しかも覚えのない己の言動を聞かされ続けるのは実に苦痛だ。あとかわいいって何だ。おっさんに十代までしか似合わない形容詞を使うな。
「それで、わしがいかに妻を愛しく想っておるか熱く語っておった時じゃった。『俺も愛を知りたい』、と潤んだ目で見つめてきたんじゃ。子猫がじゃれるように膝の上に乗り、接吻をせがんできてのう。妖怪たちに早くしてやれと囃し立てられ、わしが拒むとむくれて胸に縋って――」
「ウワーーーーーーーーーーッ‼」
とても正気ではいられなかった。こんなものを聞かされ続けたら頭がおかしくなる。
絶叫している水木をゲゲ郎は迷惑そうに見ていた。
「やかましいのう。ここからがいいところじゃぞ?」
「ゲゲ郎、一回黙ろうか」
酔っ払いのしたこととはいえ、しな垂れかかってキスを強要するって何なんだこれ。いい恥晒しだ。
信じたくない。断じて信じたくないのに水木は確認せずにはいられなかった。
「だ、誰がそんな恐ろしいことをお前に強要したんだ?」
「お主に決まっておる。話の流れでわからぬか?」
「……ありえん。まず俺は妖怪が増えたあたりはぜんぜん覚えてなくて……。ハッ⁉ 忘れているのをいいことに嘘を吹き込もうとしてないか?」
「誓って事実じゃ。それにのう水木、嘘をついてわしの何の得が?」
「そんなの俺が知るか!」
「む、怒ったのか?」
「怒ってねえ!」
「わしには腹を立てているようにしか見えぬ。先ほど交わした約束はどうした?」
「これは……。そうだ、自分に対して怒っているのであって、お前には怒ってないからセーフだ!」
苦し紛れの言い訳だ。なぜ安易に怒らないなんてすぐ反故にしそうな条件を受け入れてしまったのか。こんなの声を荒げたくなる内容が盛り沢山だとあらかじめ宣言されていたようなものだったのに。
ゲゲ郎は冷たい表情で水木を凝視し続けている。きちんと謝らねば許してくれなさそうだ。
「そんな目で見るな」
「わしはいつもと変わらぬ」
「……悪い、これからは絶対に怒らないようにする。話の腰を折ることもしない」
「怪しいものじゃな。ならば水木、次に約束を破ったら一生禁煙せよ」
「煙草をやめろだと? しかも一生⁉」
「どうせあれこれ難癖を付けて怒るのじゃから、これくらいきつい縛りで丁度良い」
えげつない条件に一瞬、諦めてしまいそうになった。もう知らなくていいかな、ゲゲ郎が拗ねているだけだし、なんて思ってしまう。いやいや、欠けているものがすぐさま完全修復できるとわかっているのだ、頑張らなくては。
それにしてもこんな些細なことで死ぬまで禁煙は辛い。まだ人間だったころ義息子から健康に悪いと指摘され、何度も禁煙を試みて失敗したヘビースモーカーがそう簡単に煙草を手放せるのかなどと、別の不安もある。
「俺の数少ない楽しみを奪おうとするなんて、お前は酷いやつだな。…………鬼か?」
「鬼? はて、わしは幽霊族じゃが?」
「知ってる。言葉の綾だ、いちいち反応するな」
諦めるな、ようは怒鳴ったり不機嫌な態度を取らなければ済む話だ。水木はふう、と一息ついて気持ちを切り替える。
「よし、わかった。お前の条件に従おう」
「思い切ったのう、わしはてっきり拒むものとばかり」
「ここまできたら最後まで聞くのが筋だ。半分は中途半端に話したお前のせいだぞ、この野郎」
「責任を押し付けるつもりか?」
「はいはい、短気な俺がいけないですよっと」
「雑な返事じゃのう。とても詫びを入れている者とは思えぬわ」
「誠に申し訳ございません。私の言動で気分を害されておりましたらこのとおり、お詫び申し上げます。深く反省しておりますゆえ、どうか真実をお聞かせくださいませんでしょうか」
水木は流れるような無駄のない動きで見事な土下座を披露した。モーレツサラリーマン時代に身に着けた黄金比率のパーフェクト謝罪スタイルである。これで許さなかった取引先は過去に一社もない。
口頭で人間社会における謝罪方法について話に出したことはあっても、リアルでは初出しの必殺技にたじろぐゲゲ郎。いいぞ、もうひと押しだ。
水木は頭を下げたまま微動だにしなかった。
「お、お主がここまでするとは……。すまぬ、わしもつまらぬ意地を張った」
「いいえ、滅相もございません。すべて私の不徳の致すところです。なんとお詫びすればよいか……!」
ここでダメ押しの額を地面にめり込ませる究極形態土下座に移行した。
「もうよい、許すからその口調は止めてくれ。気味が悪い」
「じゃあやめる」
ちょろい駆け引きだった。最終詫び兵器とらやの羊羹を出すまでもなかった。あっさり手のひらを返す水木にゲゲ郎はなんとも言えない表情をしていた。
「ついでじゃから言うが……。お主、わし以外の妖怪にも口吸いを強請って止めるの大変だったんじゃぞ」
「ああ? 聞いてねえぞ、どういうことだ⁉」
「お主はわしが妻一筋じゃと断ったら、『いいもん、ゲゲ郎がしてくれないならみんなにしてもらうもん‼』と不貞腐れてのう。それでどいつもこいつも調子に乗り始めたんじゃ。危うく夜の墓場が真夏の大接吻祭りになるところで……」
「うう、死にてえ……。何やらかしてんだよ俺! ああっ、できれば夢であってくれ……!」
「まごうことなき現実じゃよ」
「嫌すぎる」
天を仰いでいるとゲゲ郎が「まだ夢だの何だのと疑うのならば、これから哭倉村まで行くか?」と尋ねてきた。なるほど、アポなしで突撃して複数の妖怪から聞き込みをすれば、ゲゲ郎が真実を話しているという証明になる。
しかしながらもし事実だった場合、痛すぎる過去を複数回に渡って聞かされ認め続ける羽目になる。新手の拷問か? それは精神的に辛い。現地へ赴くのはもう少し探ってからでもいいだろう。
「入村するのはまだやめておこう。話、再開してくれ」
「よかろう。ええと、どこまで話したかのう」
「……俺がキスしてもらえなくて不機嫌になったあたり」
何が悲しくてこんな申告しなきゃならないのか。「とぼけやって」と苛立つ水木とは反対にゲゲ郎は「ん、そうじゃったな!」なんて明るく振る舞っている。殴りてえ、この笑顔。
結論から言うと、水木のファーストキスはゲゲ郎に奪われていた。なんてこった。「わしが折れてやったんじゃ」とのこと。
本人の預かりの知らぬ間に喪失とかわけがわからない。もちろん苦情を言ったが「雰囲気的に避けようがなかった」なんて言い訳をされた。そりゃあ場を壊さないために宴会で空気を読むのは間違ってはいないが、それでも勝手にキスするな。時代が時代ならセクハラで裁かれるぞ。
「うんと昔のことではないか。あまり気にすると禿げるぞ」
「もしもの時はお前も毟り散らかして道連れにしてやるからな、覚えてろ」
「口吸いひとつで執念深い男よ」
「何か嫌なんだよ。知らないうちにされているのがさ」
「考えが若いのう~。生娘でもあるまいし、そう深く考えることもなかろう?」
「お前なあ……、草臥れたおっさんにだって人権はあるぞ」
「おや、水木はいくつになってもかわいいが?」
思いがけない褒め言葉に水木は面食らった。幼少期ならまだしも、大人になってからかわいいなんて言われたことがない。
「照れておるのう。かわいゆいなあ」
かわいいかわいい連呼するな。こっちは筋金入りの中年男性だぞ。
長寿の幽霊族であるゲゲ郎にしてみれば、水木がどれだけ長く生きていようが年下のくくりなのだろう。だからかわいいだのなんだのと外見にそぐわない、ずれた賛辞がポンポン出てくるのだ。
「……もう黙れ。次!」
いちいちゲゲ郎の言うことにツッコミを入れていたらきりがない。さっさと話題を移せと叱れば、しぶしぶだが二人がキスをしたことで妖怪たちのテンションはぶち上がり、みんなでお祝いからの乾杯でさらに大騒ぎをしたそうな。
夜も深まり、寝落ちする者や帰って寝ると宣言して離脱する者が現れた。最後まで居てくれた釣瓶火を見送り、やがて墓場の酒盛りはお開きになった。気が付いたら水木は墓石を枕に爆睡しており、揺すっても起きなかったためゲゲ郎が背負って帰った。
道中の水木は死んだように静かだった。ほどなくして寝床に到着し、ぽいと布団に転がしたがこのままでは寝にくいだろうと、上着を脱がせたところで水木の意識が浮上した。起きたのなら後は自分でやってもらおう。ゲゲ郎はそう考えて手を離したらしい。
着た切りのゲゲ郎は寝巻がないのでそのまま部屋の奥で横になった。すると水木が胡坐をかいたまま舟を漕いでいるのが見えた。呼びかけにも応じず、こっくりこっくりと揺れていた。
「世話の焼ける男じゃったよ、お主は」
「そいつぁどうもすみませんね!」
この頃になると二人はずいぶんと打ち解けていた。ゲゲ郎は人間に、というよりは水木に対して歩み寄るようになっており、寝巻に着替えるくらいは手伝ってやるかという優しさが芽生えていた。
悲しいことに優しさと器用さは比例しなかった。和装で過ごしてきたゲゲ郎には洋装の、しかも他人の服を脱がすという行為は難易度が非常に高く、かなり苦戦したという。
ゲゲ郎は小さいボタンを捻り潰さぬよう細心の注意を払った。まだるっこしくてシャツを引き裂きたくなる衝動に駆られるほど神経を尖らせたと振り返っている。浴衣を羽織らせた時点で疲労困憊だったと聞かされ、申し訳ない気持ちにさせられた。
「着替えがひと段落したころ、再びお主が目を覚ました。もう少し早ければと悔やんだがそれも詮無き事。わしがそのまま寝ろと言って立ち上がろうとした時、強く袖を引かれたんじゃ。疲れておったから振り解けなくてのう……」
「お前が捕まっただって? か弱いふりはよせ、力で人間に負けるはずあるか」
「そう思うか? じゃが余裕がないとわしは手加減ができぬ。雑に扱っておったら水木は今ごろここにはおらぬな」
「へ、へえ……?」
うっかりで体を粉砕されるところだった。好感度を上げておいて本当によかった。そんなことを思う水木である。
とにかく初手を誤り逃亡に失敗したゲゲ郎は、あれよあれよという間に布団に引きずり込まれた。
水木は完全に酔っている状態で、しかも墓場のテンションのままだった。そう、キス魔のターンでゲゲ郎と二人きりになってしまった。
ベタベタとくっつき「飲み過ぎじゃ」と諫める声には耳を貸さず、唇を尖らせて「どうして? 全然飲んでない」なんて上目遣いでころんと首を傾げた。さらに「ここなら人の目を気にしなくて済む。だから俺に愛を教えて」と手を握って酒で火照った体を娼婦さながらに擦り寄せた。
寒気がする。誰だ、このあざとい男は。極めつけにやっとゲゲ郎が着せた浴衣をはだけさせながら、「胸の傷以外は良い体をしてるって褒められるんだ」と絡めた手を腕ごと腹筋に導き、じっとりと撫でさせてからさらに下へ導いて行く。ゆるゆると局部に触れさせつつ「ここが疼いてしょうがないんだ。なあ、抱いてくれないか?」と懇願したというから、水木は脱力を通り越して魂が抜けた。虚無になりすぎて柵の向こう側へ滑り落ちそうになった。
ゲゲ郎に「わしを誰かと勘違いしておったのか?」なんてニヤニヤ顔で追撃されたが、そんなやつはいない。いてたまるか。
それにしてもとんでもない酔っ払いぶりだ。性にだらしがないにもほどがある。しばし放心した後、水木はどこかへ行きそうだった魂をなんとか捕まえて取り込んだ。そう、問題はこの後だ。
「――で、俺を結局どうしたんだ? 適当なことを言って寝かしつけてくれたんだよな?」
「うん? 普通に抱いたが?」
「ぎゃあああああああああッ!」
もしかしたらと淡い期待を抱いていたのに、さらっと最低最悪の回答を得て崩れ落ちた。相棒とキスどころか懇ろになってしまったという事実が受け止めきれない。
「どうして? 俺を! 抱く⁉ あんだけ好き好き愛しいって言ってた奥さんのことはいいのかよ⁉ あ~ちくしょう、何の申し開きもできねえぞ……。死んだら地獄で全力土下座して詫びねえと! というかゲゲ郎もちゃんと拒め、バカ!」
「なんて言い様じゃ! わしは何度も断ったぞ! 一夜の情けで構わぬからとしつこく迫ったのは水木の方じゃ‼」
「はあああ? 覚えてねえんだからわかるかそんなもん! 俺だって被害者だ! 無罪だ無罪! だいたい酔っ払いのやることなんか真に受けるな! どう見たって奇行に走ってんだから殴ってでも止めてくれ!」
「無罪? 被害者? 呆れて物も言えぬわ。お主こそ酒癖の悪さを認めよ! あのような醜態を晒してよくこれまでやってこれたな!」
かつてない剣幕でゲゲ郎に叱られ「そこまでやらかしていたのか?」と水木は我が身を振り返った。