「主、梅の花が咲いたようですよ」
暗い部屋の中に、障子が開き光が差し込む。
年度終わりに差し掛かって、書類の作業に追われていた俺に声をかけたのは、近侍であるへし切長谷部だった。
うちの長谷部は思慮深く、顕現したときから俺に対して敬意を示してくれている。かと言って単に距離が遠いという訳でもなく、今のように頭がパンク状態に近いような俺を察して息抜きさせてくれる。そんな信頼から、彼はこの本丸の中で群を抜いて近侍の任命期間が長いはずだ。
「長谷部か、ありがとな」
「いえ、ただ掃き掃除していた時に見つけたことを知らせようとしたまでですので」
「そういう君の気持ちがありがたいよ」
区切りが良かったところで筆を置き、腕を伸ばし、膝をついて立ち上がる。
時計を見ると、朝食からもう3時間ほど立っていることに気づく。
薄暗い部屋で、俺の事をやさしい視線で見続けている近侍とふと目を合わせた。俺の目線では彼の肩ほどから見上げる必要があった。
「…長谷部背伸びた？」
「ふふ、私たちは主のように背が伸びることはありませんよ」
「俺がちっちゃくなったのかな…」

厳しかった冬が暖かい日差しに追いやられるようにして去っていき、この本丸にも鳥や花がやってきた。久しぶりの外干しのシーツを横切ると、爽やかなせっけんの香りがする。今年も春が来たのだと改めて思う。

ここの梅の木は俺が産まれる前、聞いてみると先代からあったらしい。溌剌とした咲きっぷりとは言えないが、長い年月を生きてきた、何かを伝えてくるような優しい咲き方をしていて、俺は毎年この梅の花を見るのが好きだ。
「いかがですか？今年の梅は」
「ああ、最高だな」
「私の所感ですが、この本丸が活気づいていく度にこの木もたくさんの梅をつけてくれるようになっているような気がしますね」
「俺もそんな気がするよ」
恥ずかしながら俺は、この仕事に就くまで梅の木を眺めるということをしたことが無かった。社会人になってしまえば梅の咲く時期なんて部署異動が起きたり、新入社員が入ってくる準備をしたりする時期でそんな風流なことをしている暇なんてなかった。桜を見ることでさえ、残業帰りに小規模のライトアップを横切って小さな感嘆をこぼす程度であった。そう過去のことを思うと今の環境はまるで夢のようだった。
「梅は昔から香りを楽しむものらしいな」
「確かに、優しい匂いをしていますね」

「この木とは違うが、長谷部からも優しい香りがすることがあるよ」
と、梅の木にあてられて変なことを言ってしまった。言ってしまったとはいっても事実ではあり、彼が執務室を去った後は少し甘い、素直さのある香りがしばしば漂う。ある程度歳を重ねた成人の男がこんな事を体躯のある男士に言ってしまっていいのか分からないが、俺の好きな香りだなと、素直に思っていた。そうだ。今のは素直に彼のことを褒めていたんだ。
そんな言い訳を心の中でいくつも重ねて、自分で恥ずかしがって下を向いてしまう。

「…さい」
「…え？」
「来てください」

横にいる彼を見やると、両手を広げてこちらに向けている。少し、動揺して、足を踏み出す。腕を彼の背に回すと、彼も俺に呼応するように俺の背に腕を回す。
視界が暗くなる。嗅覚に意識が集中して、ずっと好きだった香りが、何倍も濃くなって自分の中に入ってくる。俺はこの職務に就任してから審神者として、彼らの使役者として、過度なスキンシップをしないように意識していた。こんな近距離のハグなんて、もってのほかだった。耳を彼の胸に合わせると、鼓動が強くなっているのが聞こえる。彼も俺の事を、大切に思っていてくれているんだと、今更ながら改めて感じる。太陽の緩んだ光が2人を照らして、静かな時が流れていく。

「忘れないようにしねえとな」
「…主、戻りますよ！」
少し強引に腕を引かれるようにして自室へ戻されていく。いつもの彼にあるまじき行動で、少し笑いをこぼして歩き出す。
後ろから見た首筋がほのかに赤くなっていて、これからも彼への言葉を伝えていこうと、決意した。