ぱいがいっぱい それにしても、キツいフライトだった。
降り注ぐシャワーの湯を浴びながら、風信はため息をついた。
数時間のフライトなのに、予想外の天候変化に乱気流に捕まること二回。ご丁寧に着陸間際にバードストライクまで。
だが、それほど機体も揺らさず、事故にもならず、安全にフライトをこなした自分を褒めたい。安全牌を適切に選んで無難に平穏なフライトをこなすのがどんなに難しいことか。だが、何事もなければ、何も起きなかったことを感謝されたりはしないのだ。事故を切り抜ければ英雄扱いされるのに、なんていう考えが頭をよぎることがあるなんて絶対に言えないが。
降りる乗客達は感謝こそしないが、忌々しげにちらりと見ていく乗客はいる。乱気流は俺のせいじゃない、と言いたい心をぐっと堪えるほかない。
わかっている。これは自分の仕事だ。見事なフライトでした、なんて言ってもらおうなど──
「見事なフライトでした」
シャワー室を出たところでかけられた声に、風信は顔をあげた。タオルで髪を拭いていた手が止まる。パイロットの休憩室には、もう誰もいないと思っていた。
「南風」年若い副操縦士が、目の前に立っていた。「残っていたのか」
その時風信は、誰もいない部屋に漂う甘い香りに気づいた。くんくんと嗅ぐ風信に、南風がにっこりと笑う。
「機長も一緒にどうですか」
南風の目線の先を追ってテーブルの上を見た風信の顔がぱっと明るくなる。
「これはもしや、例の…か?」
この町の有名店のアップルパイ。ここの空港に店があることは知っていたが、開店している時間には行けないだろうと諦めていた。
「どうやって……?」風信の言葉に、ふふ、と南風が得意げに笑う。
「パイロット仲間にちょっと貸しがある奴がいて。あいつもこっちに来るフライトがあるって言うので、あれやこれやちょっとばかり……」ニヤっと笑う。
「うちの南陽航空の奴か?」「いえ」
そうか、と言いながらもすでに上の空の風信に南風が椅子をすすめた。
二人で向かい合って座る。机の上に置かれた箱の上には、こんがりと綺麗な狐色に、艶やかなコーティングのアップルパイ。二人同時に手を伸ばす。この二人の時には、皿とフォークなんてものは出てこない。
手に取った一切れを眺め、風信はがぶりと噛り付く。温かいリンゴの汁気と香ばしいパイが奏でるハーモニーが疲れた体に染みわたっていく。
「うまい……」もぐもぐと口を動かす風信を見ながら、南風も大きく口を開ける。
「温めておいたのか?」
「ええ、さっきシャワーを浴びておられる間に」
このよく出来た部下は、自分と食べようというつもりで用意したのだろうか――そんな風信の心の声が聞こえたかのように南風が言った。
「機長、甘いものお好きでしょう?」
「え」
「だって台湾のフライトだと絶対パイナップルケーキ何箱も買っておられるし」
「な……」まさか見られていたとは思わず、風信が口をパクパクさせる。「あれは、土産に……」
「それに、機内食で最後のデザート食べておられる時、すごく嬉しそうだし」
「は……⁈ お、お前いったい何を見……」
微笑む南風に、思わず風信の顔が赤らむ。
「俺の食事中はしっかり操縦桿を握ってろ……!」
「握ってますよ。いいじゃないですか。こんなに男らしい見た目で甘いものに目がないなんてギャップ、美味しすぎて」
目をキラキラさせる若者に食べられそうな気分になり、風信は思わずぎゅっと身を縮こめた。 南風の手のアップルパイからリンゴのかけらが落ちる。
「ほんとに絶景……いや絶品です」
「は?」
その時風信は、南風の目線がじっと自分に釘付けになっていることに気づいた。自分の顔ではない。それよりもう少し下──
「あ……」
風信は自分がまだ上半身裸だったことに気づいた。かろうじて肩にタオルがかかっているが、着ようとしていたシャツは椅子の背でおあずけをくらっている。
「いつも横から見ていても思うんですが」
南風の視線は、思わずぐっと抱え込んだ逞しい腕によって真ん中に引き寄せられた風信の胸筋に注がれている。
「どうやったらそんなに……立派になるんですか」
静寂が流れる。サクサクと風信がパイの淵のところを噛む音だけが響く。
「ふむ。まあそうだな――」
真剣な眼差しで発せられた質問に、不思議と風信の頭からも動揺が薄れていった。
「いっぱい運動をして、いっぱい食べること、は基本だな。運動のあとは、酸っぱいものもいいぞ。パイナップルとかな。そうだ、パイナップルパイなんてのも――」
「機長……!」
「なんだ?」
「私に、想像させようとしてません? その……言葉を……」
「言葉? なんだ、はっきり言え」
「その、お……お……」
南風の顔がみるみる赤くなっていくのを、風信は素知らぬ顔で見つめた。南風の唇がぴくぴくと揺れる。
「……胸」
ぽろりと落ちた言葉を追うように南風が俯く。風信が思わずクスリと笑うと、南風がぐっと顔を上げた。
「き、機長! からかわないでくださいよ!」
いつもは年に似合わず冷静沈着な若者が、頬を赤く染めて見つめる目を見つめ返しながら、風信は指を舐った。
「このくらいの乱気流で取り乱してどうする」
「起こしたのは機長じゃないですか!」
いやいや、もとはと言えばお前が、と言いたいのを風信は飲み込んだ。この有望な部下には、不測の事態にも慣れてもらわなければ――そんな言い訳をしながら、口元が緩むのはどうしようもなかった。