神がいるなら「だめだな、こりゃ」
風信の声に、南風はごくりと小さく喉を上下させた。
目的地の上空まで来て、すでに数十分がたっている。本来ならもう着陸しているはずだった。だが、二人の視線の先では、着陸のための前輪の異常を示す赤いランプが点滅している。風信が何度も操作をやり直してみたが同じだった。おそらく表示の異常ではない。
車輪に異常があれば、着陸の衝撃で破壊され胴体着陸になる可能性も低くはない。南風は胸が冷たくなるのを感じた。
「だが、異常は前だけだ。後ろの二つは異常ないからこのまま着陸する」
まあ何とかなるだろう、と言う風信の声はカラリと楽観的で、だが南風には、それが自分に不安を与えないためのものだとわかっていた。おそらくその頭の中では、あらゆる情報を正確に分析して、素早く計算をしているはずだ。南風も、それを正しくなぞっていることを祈りながら自分も頭を回転させる。
「ここまでは順調すぎるほど順調だったのにな」
苦笑しながら風信がちらりと南風の方をみる。南風はどんな顔をしていいかわからず、「では、管制に連絡しますね」と言って、操作盤に手を伸ばした。マイクに添えた手が震えそうで、急いで下ろす。
「やはりフロントギア異常サイン出ていますが、そのまま着陸します」
返ってきた管制からの淡々とした了解の返答に、南風の心が少し落ち着く。だが、消防を待機させますという言葉にまた胸がどきりと打つ。
「大丈夫だ」南風の胸の内を覗いたかのような風信の声に南風は横を見た。
「ギアトラブルでの着陸なんて、シュミレーターで飽きるほどやっているだろう?」
「ええ……はい」南風も頷く。
でも機長も実際にやるのは初めてですか、そう聞きそうになって南風はやめた。
それを聞いたところでどうなるというのだ。
機長とておそらく初めてだろうし、もしも経験があったとしても、それで気楽になるわけではない。
こうなったら余計なことなど考えず、やるしかないのだ。離陸した飛行機は着陸させねばならない。乗客とクルーを無事に地上に戻さなくてはいけない。
それになんといっても、操縦桿を握るのは機長だ。誰よりも信頼している風信機長だ。これほど安心できることがあるだろうか。
「もう少し上空で旋回して燃料へらすぞ」
メーターを見ながら風信が言う。それが重量負担だけでなく、着陸後の炎上に備えての策であることを意識せずにはいられず、南風は固い声でラジャーと答える。
できる準備をすべて終えれば、コックピットの中に沈黙が流れる。重い空気とは裏腹に、目の前には美しい雲海が広がっている。
「こういう時だけは、神に祈りたくなるな」
風信がぽつりと呟いた。
「ここなら届くかもしれないが」
まぶしい光に目を細めて言うその表情からは、重苦しい空気を払うために言っているのか、それとも包み隠すことのない本心なのか、わからない。
「だが、神がいるんだったら、もっとちゃんとお参りして功徳をつんでないといけなかったかもな」
頭の中で、教本とシュミレーターでの経験をさらっていた南風は、思わず横を見た。風信は目の前の空を見つめたまま、唇の下に指をあてている。弱気になった時の機長の癖だ。
「機長……大丈夫ですか?」
思わず南風が遠慮がちに声をかけると、風信ははっと我に返ったように南風を見た。
「すまん。大丈夫だ」
そう答える顔には、もう迷いの影はなかった。その目が南風の目を見据える。
「こういう時には、いつも以上に二人の連携が大切だ。お前を信頼していいな」
風信の声に、「はい」と南風もしっかりと頷く。
「機首をあげてギリギリまで前輪の接地を遅らせる。俺は目視と手元に集中するから、お前はメータと――」風信がいつも通りのテキパキとした声で南風の役割を指示する。南風も短く返答を返す。
「よし、いくか」
少しずつ高度を下げていく。
風信がグローブの両手首をぐっと直して操縦桿を握りなおす。その頬は固く、眉間に皺が刻まれている。
風信機長でも緊張するのだ。当たり前のその事実に、南風の頭は逆にすっと冷静になり、視線を前に戻した。
「俺が、サポートしますから」
自分の口から出たと思えない、自信すら感じる言葉に、しかし後悔はなかった。
「俺は幸運だな」
前を見据えたまま、風信が静かに言う。
「いるかわからない神なんかよりも信頼できる副操縦士がここにいて」
二人は無言で正面を見据える。
しばらくすると空港と滑走路が見えてきた。滑走路の脇に待機する消防車両の姿も見え、南風の体が強張る。だが、ゆっくりと息を吐き、目の前の計器と手元に集中する。
神様はいるに違いない。自分の隣に座る、この信頼できる存在を与えてくれたのだから。
南風はぐっと顎を噛みしめた。