部屋で剣の手入れをしていた南風は、手をとめて顔をあげた。
南陽将軍のお戻りだ。
仙京に将軍が戻ってくると、わずかな気の揺れが起きる。もちろん、下界に降りた時のような派手な衝撃には限りなく及ばない。だが、どんなに僅かでも、南風はそれを逃したことはなかった。
将軍の部屋へ向かう。戸を叩くとくぐもった返事が聞こえた。扉を静かに開け、拱手して頭を下げる。
「失礼いたします」
将軍は、壁に腰を預け、項垂れるように手で頭を支えていた。南風の声に顔を上げる。
「ああ、南風か」
その目は疲れ落ちくぼんでいた。
「新年早々、お疲れさまでした。大変でしたか」
南風の心配そうな声に、いやと小さく首を振る。だが、続いた溜息は深い。
将軍は左腕の防具に手を伸ばし、上腕に止めている留め具を外そうとした。だが、なかなか外れない。
「クソっ……」
毒づく声とともに指の動きが荒くなるが逆効果だ。
「将軍、私が」
南風が前に立つと虚をつかれたように将軍の動きが止まった。「ああ、頼む」
南風は、肘を曲げて差し出された将軍の腕にそっと手を添える。
分厚い衣を纏っていても、その腕は威厳と力と法力が漲っており、触れていると思わず南風の喉が上下する。無意識に目が、その腕の先に続く体へ動いてしまう。衣と帯でしっかりと包まれていてもなお、力に溢れ、殿の神官と信徒の信頼を受け止める、その分厚い体を感じてしまう。手早く作業しようという気持ちと、それを拒みたがる欲がせめぎ合う。
腕の下の留め具をぱちんとすべて外すと、弓矢を射る腕を固く護っていたものがするりとその役目を解かれて落ちた。
将軍の口から漏れた溜息が南風の耳を撫でる。南風が横を見上げると、将軍は目を閉じて眉間に皺を寄せていた。その頬には煤か泥のような汚れがついている。
南風は防具を隅に置き、布を懐から取り出した。法力で温かく湿らせる。
「将軍、お顔に汚れが……よろしいですか?」
南風が聞くと、将軍は目を開けて頷いた。そっと手を伸ばし、将軍の頬を布で拭う。数回撫でると汚れは落ちていった。
「すまない、こんなことまでさせて」将軍が眉を落とす。
「いえ、そんな。将軍がこんなにお疲れになるなんて、さぞやっかいな奴だったのですね」
「ああ。凶だと聞いていたが、あれは絶対に近絶の等級だったぞ。だが、ちゃんと始末は、できたから……」
「さすがです、風信将軍」
南風の言葉に将軍の目が南風を見つめる。
次の瞬間、南風は、将軍の腕の中にいた。
将軍の腕が南風の体をがしりと抱いていた。南風もおずおずと腕を将軍の腰にまわす。
将軍の胸が大きく上下を繰り返し、うなじにあたる鼻が大きく息を吸い込むのを感じる。
「南風……」囁き声に、南風も「はい」と小声で返す。
南風の体を抱えていた腕が解ける。将軍の顔が南風を見下ろす。眉尻をさげたその顔には、微笑みが浮かび、もう疲労の影はない。
「お前がいてくれて本当によかった」
南風も微笑み返すと、将軍は何か思い出したように、ああそうだと言った。
「留守中にお前にも苦労をかけたからな。少し土産をもってきたんだった」
「えっ」南風の目が輝くのをみて風信の口元が弧を描く。
「菓子だ。好きだろう?」「はい!」
顔を輝かせる南風の黒髪を、将軍の手が優しく撫でた。