鏡を見なくても、南風はいま自分が青い顔をしているのがわかった。
横目で見た視線の先では、もっと青い顔を引きつらせ冷や汗を流している姿がある。
食事のあとしばらくたってから機長が腹痛を訴えた。痛み止めも一向に効かないどころか酷くなっているようで、すでに左のシートで腹を抱えて体を折っている。操縦席に座っていなければ、床でもんどりうっていただろう。
すでに南風が操縦を代わっていたが、じりじりと着陸体勢に入る時間が近づいている。この様子では着陸も南風がやるしかないだろう。
着陸時にやることは多い。普通は二人がかりで分担してやっと安全に着陸できる。だが、補助は可能か尋ねると、案の定、機長は首を振った。
南風はゴクリと唾を飲み込んだ。
普通なら南風にも着陸はできる。だが、これから到着する空港は、山あいの地形に、難しい侵入経路、おまけに着陸を補助してくれる装置は心もとないと、有難くない要素が揃っていた。普通ならば副操縦士が着陸を任されることなど滅多にない難易度だ。
それを、自分一人で着陸させねばならないというのか。思わず血の気がひく。
「キャビンに連絡する」
苦し気な声で、非番のパイロットが乗っていないか機長がCAに確認するのが聞こえた。
するとすぐに答えが返ってきた。
『ちょうど、風信機長が移動で乗っておられます』
なんという偶然だろう。
機長の顔も一瞬緩む。「よかった……すぐに呼んでくれ」
すぐにコックピットに現れた姿を、南風は救いの神を見るように見上げた。
「風信機長……」
風信機長は南風に目で頷くと、操縦席から這うように出て後ろの補助席に移動する機長を支えた。そして代わって機長席に座る。
「よかった……」南風が大きく息を吐くのを、シートベルトを閉めながら風信機長が横目で見る。「南風」
「はい」「燃料の残量は」
燃料計を確認する。「あと一時間半はいけます」南風が答える。
着陸まではあと三十分ほどだから充分だなと考える南風の耳に風信機長の声が聞こえた。
「南風、着陸はお前がやれ」
「えっ……」思わず目を丸くして横を見ると、真剣な風信機長の眼差しが南風を真っすぐに見つめていた。
「でもあそこの難易度は……」
「知ってる。だが、俺はさっきまで寝ながら映画見てたんだぞ」
「……器用ですね」あきらかに今言うべき事はそれじゃないとわかっているが、脳は事実から目を逸らそうとしているらしい。
「俺は、あの空港は長らく降りていない。この前の改修工事で勝手も変わったはずだ。お前は自分で着陸できるくらいには空港のデータは叩き込んでシュミレーションしているだろう?」と風信機長が言う。
「はい……」南風は頷く。
「燃料はたっぷりある。もし無理そうだと思ったら、その瞬間にすぐにゴーアラウンドして上空に戻れ。そうしたら俺があとは代わる」
その言葉に肩が少し緩み、いままで固く強張らせていたことに気づく。
「できるか?」
前を向いて向かう先を見つめながら小さく頷く。「はい」
南風をじっと見つめた風信機長がさらに首を後ろに回すと、何も言う前に「南風……お前がやれ」と後ろからも苦しそうな声が言った。
風信機長は前に視線を戻し、計器を見つめる。
「大丈夫だ」風信機長の低く落ち着いた声がエンジン音を超えて南風の耳に届く。
「お前なら、できる。それに——」一瞬言い淀み、そして静かな声で続けた。
「俺がついてるから」
その一言が南風の胸に着地したとたん、静かに燃えるような力が瞬く間に体全体へ漲って行った。
大丈夫だ——これまでに感じたことがないほど強く、そう感じた。
風信機長は計器に注意を向けながら、端末を忙しく操作し、そして同時に南風に手短に状況を確認する。口に出させることで整理できるようにという配慮でもあるのだろう。次第に頭も気持ちもしっかりと落ち着いてくる。
送られてきた最新の気象状況を確認した風信機長が、初めて少し表情を緩めた。
「絶好の着陸日和だ。南風、空の神様はちゃんとお前のことを見ているんだな」
南風も確認する。確かに気象条件は申し分なかった。安堵しそうになるが、しかしまだ気を抜くわけにはいかないと気を引き締める。着陸のプランを言うと風信機長は大きく頷いた。
「よし。それでいいだろう」
着陸体勢に入り、少しずつ高度を下げる。夕闇の街の明かりの中に、小さく、到着空港の光が見えてくる。
「ギア・ダウン。フラップ・スリー」
「ギア・ダウン。フラップ・スリー」
南風が出す指示を風信機長が復唱し、頼もしい腕が素早くレバーを操作していく。その一つ一つが南風を安心させる。
自分は一人じゃない。隣で風信機長が、自分の操縦も飛行機の状態も確認してくれている。
それがどれほど心強いことか。その心強さに背中を推してもらうように、操縦桿を握り直し、自動操縦のスイッチを切る。
慎重に機体を旋回させる。
滑走路のライトの一つ一つが見えてくる。
大丈夫だ、いける。
不思議な自信が南風の体を包み込む。このままいこう。「コンティニュー」
南風の声に風信機長が親指を上げる。
300…200…
機体は順調に高度を下げ、滑らかに滑走路へ降りていく。
50…40…30
操縦桿を前後左右に細かく操作する。風もなく機体は安定している。大丈夫だ。
着地の衝撃が体を揺らす。だがそれは一度だけで、そのまま機体は真っ直ぐに滑走路を走りながら素直に減速していく。
「うまいぞ」前を向いたまま言う風信機長の声に口元がわずかに上がる。
そのまま駐機の位置まで行き、飛行機が止まったところで、南風はやっと大きく息をついた。
到着すると、後ろに座っていた機長はすぐに車椅子でクルーに運ばれていった。それを見送ると、コックピットは二人きりになった。
「よくやった」
南風に代わって操作板のスイッチを切っていた風信機長が、放心したままの南風に声をかける。南風は横に顔を向けた。操縦中はよそ見する余裕などはなく、初めて風信機長の顔をじっと見た。その顔には優しい笑みが広がっていた。
「ありがとうございました……」
風信機長がこの場にいなかったら、どうなっていただろう。そう思った途端に、今さら鼓動が早くなる。
「ちゃんと……できた……」そんな情けない言葉を漏らす南風に風信機長が言った。
「俺はお前がちゃんとできるとわかっていた。だから任せたんだ」
そして少し声を落として続けた。「他の副操縦士だったらこんなに安心して座ってられなかっただろうし」
南風は風信機長の目をじっと見た。その目には偽りは微塵もなかった。思わず目頭が熱くなる。風信機長は天井のスイッチを確認し、操縦席から立ち上がった。南風もよろよろと立ち上がる。風信機長がハンガーから外した南風のブレザーを差し出す。
「大丈夫か?」
受け取ったブレザーを腕に抱えたまま立ち尽くしてしまった南風に、風信機長が眉を寄せる。
空の上で押さえ込んでいた恐怖心が、今になって南風に襲いかかり、体が動かない。
自分は泣きたいんだろうか。それともその場に倒れ込みたいんだろうか。いや違う──
その瞬間、南風の心を読んだかのように、力強い腕が南風の体を包んだ。
その力に南風は身を任せた。この信頼できる胸に何度抱きとめられただろう。だが今回は、その腕が、さらにぎゅっと強く南風の体を抱え込んだ──お互いを意識しながらぎこちなくすれ違った日々を一気に埋めようとするかのように。
身動きができないほどの力だった。だが不思議なことに、委ねた南風の体からは強張りが抜けていった。しばらくして、ぱっとその力から解放された。
「すまない」
風信機長の目もうっすらと潤んでいた。機長にとっても重圧だったはずだ。もし南風がミスをすれば、責任を問われるのだから。それでも迷いなく南風を信じてくれた。
疑いの余地などなくお互いを委ね合える。そんな相手は他にはいなかった。
「よく頑張った」
風信機長の声とともに、額に柔らかいものが触れるのを感じた。だがその唇の感触を味わう間もなくそれはすっと離れていった。
薄暗いコックピットの中で、見つめ合う。
薄いようでいて、見ているうちに深みに囚われそうな風信機長の瞳。
二人の目が同時にゆっくり瞬きする。ただひたすらに見つめ返す沈黙に耐えかねて、どちらともなく視線を下げる。おとした視線の先には、薄く開いた唇。
何を待っているんだ? 何を期待している?
まだ腰に添えられたままの手の感触がやけに熱く感じる。流れる静寂。そして──
「Um… Excuse me」
突然声が聞こえ、二人そろってさっと横を見た。空港の現地職員と思われる男性がコックピットの入口から覗き込んでいる。「Can I…」機内の整備に入っていいかということだろう。
「S…Sorry」
二人ともあたふたと荷物をまとめ、彼の横をすり抜けて急いで飛行機から降りた。
通路を歩きながら顔を見合わせる。まるで放課後に学校の先生に見つかった学生のような自分たちに、二人の口からクスクスと笑いが漏れた。
二人はそのまま静かに笑い続けた。なぜか止まらなかった。
緊張から解き放たれて恐怖心が湧き上がるように、今になって照れくささが笑いとなって溢れ出る。
それは隣の風信機長も同じのようだった。操縦席にいる時はあんなに完璧で冷静なのに、こんな時には自分と同じなのか、そう思うと可笑しさが込み上げる。
「さてと」目尻を拭いながら風信機長が言う。
「会社への報告が済んだら、夕食でも食べに行くか」
「はい!」
引いていたフライトバッグを反対に持ち変えて横に並ぶ。腕が触れ合う距離。風信機長の方も避けようとしない。一歩歩くたびに二人の手が触れ合う。だがそれは、揺れる手が触れただけと言うにはいかにも不自然で、そのことに南風の頬は緩んでいった。