「さむっ……!」
ドアから一歩出た瞬間、吹き抜けていった湿った冷たい風に、半袖シャツ一枚の体がぶるりと震えた。
昨日の夜は汗でまとわりつくシーツを蹴るようにして寝たのに、今日のこの寒さはいったいなんだ。空の心変わりの早さはわかっているはずなのに、ここ数日暑い日が続いていたから、上着のブレザーはロッカーにしまいこまれている。
だが寒かろうが、フライト前の飛行機の外部点検を任された以上、中に逃げ戻るわけにはいかない。凍り付いたような体で、抱えた両腕をごしごしとさする。
「南風」
首と耳も凍り付いていたのか、突然後ろから聞こえた声に一瞬遅れて振り返る。
「ブレザー、ないのか?」
驚いたような――いや、呆れたと言ったほうがいいかもしれない――風信機長の顔を見ながら曖昧な音を返す。
「まったく」ふっと持ち上がった口の端は笑みだと思いたい。
南風の前で風信機長はするりと上半身からブレザーを脱いだ。そして次の瞬間、南風の肩に柔らかいものが被さった。
「外部点検中だけ貸してやる。俺はコックピットにいるだけだから」
「あ……あ、りがとうございます」
分厚い布地越しに、南風の両肩にぎゅっと重みがかかる。
「お前に風邪をひいてほしくない」
別に何ひとつ色めいたセリフではないのに、そのドライで低い声が耳元で囁くと、それだけで南風の体はまた固まった――寒さとは違う理由で。
だが両肩を挟む手はあっさりと離れ、後ろで扉が閉まる音がした。
肩にかけられたブレザーにはまだ機長の温もりがしっかりと張り付いている。
――機長のその体が生み出したぬくもり。
さりげなさを超えない範囲で慎重に首を動かし、襟元に鼻先が近づいたところで静かに息を吸い込――
ひと際冷たく鋭い風が殴るように吹き付け、思わずよろめいた。
こんなことをしている場合ではない。狭いタラップを降りて機体のそばへ歩く。
ブレザーを羽織って手で押さえていては機体の点検ができない。迷いながらも、そっとその袖に腕を通す。貸してくれた以上、着てよいということだろう。
少しばかり肩幅がいつもより大きめで、それが自分のものでないことを感じさせる。
寒い風が遮られ、体に温かさが戻る。背中に感じるのは自分の体温かそれとも機長のブレザーに残った体温か。後者だと信じよう。それはまるで機長に後ろから腕を回して抱かれているような――。
おもわず強く首を振る。業務中だ。集中しろ。
前輪のタイヤを軽く押さえ、状態を確認する。異常なし。
機体の腹を撫でるようにくぐりぬけて来た風が前髪を乱す。直そうと顔の横に腕を上げたとき、かすかにその袖口から機長の香りがした。そういえば、香水を手首につけているのか、腕が近づいた時だけ、ほのかに香りを感じることがある。意図をもって纏ったものの香り。
「おう、南風」
作業をしていた整備士に声をかけられて我に返る。年が近く顔見知りの整備士だ。
「なにか気になるところでも?」
「いや」
立ち止まっている南風に向けられた怪訝な顔に首を振る。彼は、そうか、と言ったあとその目線が下におりた。
「お前、それ自分の?」
その目線を追った南風は、彼が袖口の四本線を見ていることに気づいた。
「あ、いや、これは風信機長が貸してくれて」
このところ暑かったから自分のは置いてきちゃったからさ、と笑うと彼は腰に手をやって溜息をついた。
「お前、パイロットのくせに天気予報とか見ないのかよ」
確かに。自分でも呆れているところだ、と言いたかったが、考えてみれば、これまでのところ、自分に呆れるのは二の次になっている。気象チェックで風の強さに気を取られていて気温に意識がいっていなかった、などと言い訳したところで無駄だろうが。
「ま、でも、一瞬でも憧れの四本線が着られてよかったな」と揶揄う調子の彼の声に、南風はもう一度、手首の四本線を見つめた。
憧れの四本線。機長の証。
それを着ているというのに、正直なところ、そのことは今のいままで頭になかったのだ。
風信機長が機長であることを忘れたわけではない。もちろん。
だが、数十分前からの南風にとって、風信機長を示す符号は、その温もりであり、微かだが南風の胸を蠢かせるには充分な残り香であり、耳をくすぐるその優しい声──ただそれだけだった。そこに機長という肩書はなかった。
いつにも増して入念にチェックしてしまったが、それでもぐるりと機体を一周するのにそれほど時間はかからない。
機体の足元を離れるのが惜しいというかのようにのろのろと階段を上がる。実際、惜しいのは愛すべき固い機体ではなく、上半身を包む柔らかい布地なのだが。
だが、人目のある所に出る前に脱ぐほかない。通路に戻る扉の前で、高級なテーラーで試着を脱ぐかのように丁寧に――平たく言えばのろのろと――濃い色のブレザーを脱ぐ。
軽く畳もうとして手が止まった。前の合わせのボタンが一つゆらゆらと揺れている。
ふっと思わず笑みが漏れる。
操縦の緻密さと日常生活でのそれが同一でないところを覗き見てしまったような気がした。
返しながらこう言おう――「ボタンつけるの得意なんですが」
別に飛行機の操縦じゃないのだ。少しくらい能力をかさ上げしたって許されるだろう――そんなことを考えながら、軽い足取りでコックピットへ向かった。