風信機長の手が好きだ。
南風自身にも、なぜかはわからない。
確かに大きくてしっかりした手だが、モデルのように綺麗だとか、長年の積み重ねを感じさせる職人のような手だとかいうわけでもなく、いうなれば普通の大人の男性の手だ。なんなら、扶揺の手のほうがすらっと滑らかで「綺麗」かもしれない。だが、扶揺の手には惹かれたこともなかった。他人の手がやけに気になるような癖もない、と思う。
それなのに、風信機長の手は、どうしようもなく南風の視線と心を惹きつけるのだ。筋肉質な力強い腕から流れる脈動を宿す手首、そして大きな掌から指先まで。
フライトの前後にコックピットの前から上まで並ぶスイッチの小さなつまみを操作するとき、人差し指で流れるように操作していくパイロットも多い。だが、風信機長はいつも、親指と人差し指でその小さなつまみを軽くつかんで、カチカチと切り替えていく。一切無駄のない素早い動きに滲む丁寧さ。その指先はとてつもなくクールだ。
南風が操縦しているとき、ギアダウンのために南風のほうにあるレバーをストンと下ろすその一瞬。簡単な動作なのに、伸ばされたその手には確かな安心感が宿っている。
操縦中はそんなところに気を取られているわけではないが、地上でふとした時に思い出してしまうのだ。
太く血管が浮き出た手の甲。どちらかというと関節の目立つ指。その手の動きを思い出すだけで、南風の胸の奥で水の中の魚のような何かが身をくねらせる。
他の機長たちの手だって同じような動作をしているのに、なぜだろう。
風信機長の手が気になるようになったのがいつか、はっきり覚えている。
それはまだ副操縦士になって間もないころだ。
「南風、こっちはやっておくから、風信の外部点検のほうに行け。あいつがどうやってやってるか見ておくといい」
コックピットでフライト前の機器の設定をしようとしていたら、同乗するもう一人の機長にそう言われ、機外に降りた。
風信機長は、やってきた南風を気にするでもなく黙々と点検を続ける。口数は少ないほうらしい。南風はその一挙手一投足をしっかりと目で追う。
何か気になったのか、機長の手が車輪の表面を確かめる。小さな筋肉の動きに、その手に力が入っているのが見てとれる。整備はしっかりとされているが、それでも自分の肌で確認したいという意思がその手から伝わってくる。
最後に翼のエンジンを目視で確認したあと、風信機長はその大きなエンジンの弧を描く縁を手で撫でた。
上から下へ滑らせ、そしてその白く艶のある表面を優しく叩く。ただそれだけなのに、滑らかで優雅なその手の動きは、まるでダンサーのようだった。
その手は何よりも雄弁に物語っていた。
この人は本当に飛行機を愛しているのだ。そしてその愛する飛行機とともに、なにがあろうとも、すべての人を安全に目的地まで送り届けることを固く誓っているのだと。
その、愛と決意を宿した無骨な手が操縦桿を握り、大きな飛行機を飛ばせている。
だが、風信機長の手が南風を惹きつけるのは、操縦の時だけではない。
ヘッドセットを頭につけてマイクの位置を調整するとき。パソコンのマウスを操作するとき。無造作に髪をかき上げるとき。
そんな何気ない仕草すら、南風の視線を引き付ける。考え事をしながらペンを弄んでいるときだって。見せびらかすようにペンをクルクル回す人には鼻白んでしまうが、ぴんと指を張り、中指の背に乗せたペンを器用に人差し指と薬指で押さえながらペンの後ろを親指で軽く弾いている風信機長の手は、気だるげで蠱惑的ですらあった。
つまりは、どんな動作であれ風信機長の手にかかれば、それは特別なものになるのだ――南風にとっては。
それだけではない。操縦中は常に緊張感と力を漲らせている手も、そうでない時には信じられないほど温かく優しくもなれることを、南風は知っている。
ぽんと肩を叩くとき、髪についたものを取ってくれるとき、そして何気なく南風の口元を拭った時のその指の優しさ。そのほんの一瞬に、南風の心臓は着陸間際に風に煽られた飛行機のように跳ね、急いで操縦桿を握りなおす。
夜に一人ベッドに横になってそんな優しい感触を思い出すと、思わずにはいられない。
その手が、指が、意図をもって自分に触れてくれたら、どんな感じがするのだろうと。南風に触れるためだけのために触れてくれたら――。あの大きくて強くて繊細で優しい手が自分の肌の上を滑っていく感触を想像するだけで、恍惚の海に南風の体が弾ける。
だが朝になれば、我に返り、そんな考えを追い出す。
風信機長のあの手は、飛行機を安全に飛ばすためにある――だから好きなのだ。
たとえ触れられなくても、優しさと厳しさのどちらも秘めたその手がすぐそこにあるのを見るだけで、それだけで幸せであることは疑いようもなかった。
「南風、どうかしたか?」
パソコンの画面を見ていた風信機長が南風の方に目をやる。
「いえ。機長って、考え込むときに指で唇をモニモニしますよね」
「そうか? 気が付かなかったが」
「ええ、よくやってますよ」
「そんなこと言われたの初めてだな」
驚いたようにそう言って、風信機長は少し恥ずかしそうに笑った。