「くそッ……なんでよりによって……!」
唸るように罵る慕情を、扶揺はちらりと見た。
慕情の周りに漂う空気は、殺気などというマイルドな言葉では物足りないほどだ。玄真航空の者なら半径百メートルには近づかないだろう。
「あの、機長、よかったら使ってください」
扶揺が差し出したタオルを慕情は唸りながら受け取った。
運が悪かったとしか言いようがない。
この空港は飛行機から空港の建物まで外を歩かねばならない。それなのに、操縦を終えた二人が降機した途端に、大粒の雨が猛烈な勢いで降り出したのだ。まさに突然のゲリラ攻撃に襲われたかのようだった。傘を出す間もなく駆けぬけた二人が建物に着いた時には、二人とも見事に全身ずぶ濡れになっていた。
扶揺は、タオルでごしごしと拭く慕情を横目で見つめた。
慕情の黒い髪はいつも以上に艶めいていて、真っ白なパイロットシャツも、ぴたりとその肌に貼りついている様は、相当な色気を放っている。――その顔さえ見なければ、だが。
「……あ」
扶揺が顔をしかめた。さらなる不穏な事態が起ころうとしていることに気づいたからだ。
「おう、慕情じゃないか」
能天気な声に、イライラと髪をタオルで拭いていた慕情の手がピタリと止まった。
「こんなとこで会うとは奇遇だな」
慕情の怒り狂った視線の先で、南陽航空の制服に身を包んだ機長が片手を上げている。その隣に立っている黒髪の副操縦士が扶揺の方を見たが、扶揺は無視した。
「風信……お前らこそ、こんなとこで何している」
「何って、これからフライトだ。最近ウチも就航を始めたのでね」風信は肩をすくめた。
「はん、玄真が開拓したのに、美味しい路線だと気づいて便乗か。さすがはハイエナ南陽航空」
慕情が吐き捨てるように言うと、風信は眉を上げ、慕情を上から下まで舐めるように見た。
「それにしても悲惨なカッコだな」と笑う。「水も滴るイイ男を目指してやりすぎたのか?」
慕情は、ニマニマと笑う風信の胸元に掴みかかりかけたが、なんとかこらえた。
「降りた途端に降り出したんだ! まったくこのド田舎空港は、地面を歩かなきゃならん上に、広さだけは阿呆みたいにだだっ広いときている!」
「美味しい路線なんだろ。我慢しろよ」
長身の二人が、角を突き合わすように向かい合う。慕情の髪からぽたりと雫が落ちた。
「お前に我慢を説かれたくなどない! 待てもできない駄犬のくせに」
「なんだと!? 何を根拠に……!」
両社きっての一流パイロットとは思えない言い合いを始めた機長達を見ていた扶揺は、不意に自分を呼ぶ声に気づいた。
「おい扶揺」
「なんだよ、南風」
「なにって……お前もベタベタだろ。これ使えよ」
南風が鞄からタオルを取り出して扶揺に差し出す。自分のは慕情に渡してしまった扶揺はハンカチで拭っていたが、到底追いつかない。
「……どうも」素直に受け取った扶揺は、顔に持っていき、くんくんと匂いを嗅いだ。
「これ、洗ってあるんだろうな」
南風の強い眉が不機嫌そうに寄る。「洗ってあるに決まってるだろ」
扶揺は何も言わず眉を上げた。
「なあ」髪とシャツを拭きながら扶揺が言った。「このタオル、風信機長と同じ匂いするけど」
「え……?」
南風が思わず風信の方を見る。慕情と睨み合っていた風信は、視線を感じ、顔を南風のほうに向けた。
「ふーん」扶揺の口が面白そうに上がる。
「いやべつに……あ、昨日、ホテルのランドリーで洗ったからかな。備え付けの洗剤使って」
「ああ、俺もそれ使ってシャツ洗った」風信も頷く。
「お前、入れすぎただろ。合成香料の匂いがぷんぷんするぞ」慕情が嫌そうな顔で腕を組む。
「悪かったな」顔を顰めた風信は、何かに気づいたように扶揺のほうに軽く身を乗り出した。
「だが、そういうお前たちも――」ひくひくと鼻を動かす。
「なんか、おなじ匂いがするように思うんだが」
慕情が眉根を寄せる。「そりゃ、同じ雨に浸かったからだろ」
「いや、雨の匂いじゃない」風信が考え込む。
慕情はぐるりと目を回して見せ、そして言った。
「じゃ、あれだ。今いっしょに住んでるからだろ」
――静寂が流れた。
そして南陽航空の二人の野太い声が空港の空気を震わせた。
「はああああ!?」「ええええええ!?」
目を剥く二人の前で、慕情はしれっと首を傾げた。「それがどうした?」
「どうしたって……ど、同棲してるのか?!」
風信の目が慕情と扶揺の間を行き来する。
慕情が顔をしかめる。「そんな下衆な言い方をするな。一緒に住んでるだけだ」
「だからそれを同棲と……」
「扶揺の部屋のエアコンが壊れたんだ!」慕情が苛々と言った。
「こう暑いと眠れもしないだろ。だがパイロットにとって寝不足は安全に関わる。だからウチに住まわせてやってるだけだ」
「修理も立て込んでるそうで、直るまでの間」
扶揺が言い添える。
「おい……そんなことなんで隠してたんだよ!」南風が小声で扶揺に詰め寄る。
「べつに隠してない。お前にどう言ってやろうかなあとは考えてたけど」そう言ってから扶揺は、まあいいや、と呟いた。
風信は信じられないという顔で慕情を凝視した。
「え……、でも慕情、それは……」
慕情は、言葉が出てこない様子の風信の肩をぽんと叩くと、その耳元に口を近づけて言った。
「ショックで操縦ミスるんじゃないぞ」
「な……、んなわけあるか!」風信の顔に勢いが戻る。「行くぞ、南風!」
「は、はい!」南風も慌てて鞄を持ち直す。
二人の背中を見送りながら慕情は優雅にタオルを畳み、窓の外をちらりと見た。
「また一雨きそうだな」