舞台を踏む話舞台を踏む話。ひなの
一度は降りた場所だった。もう上がることはない、舞台袖から見るスポットライトを眩しく思うこともないと思っていたのに。
「マイクの音確認するので自分のマイク確認してくださいねえ。充電不足のオレンジのランプついたら教えてくださいよ」
係員に伝言を頼まれた反郷の声が響く。各々に割り振られたマイクを手にしながら、充電ランプと音の入り確認を脊髄反射のように行う。
あの頃は手持ちマイクじゃなかったな。耳から顔に沿うようにつけるマイクを懐かしく思いながら手の中のマイクを握りしめた。
このサイズの箱なら響く声はこれくらい。照明の位置、音響の場所。舞台袖のあれこれと小物が積みあがっている狭さの中に埃っぽさを感じて意味もなく安心した。
舞台に立っていたあのころの違いと、同じものをひとつひとつ比べては見つけてを繰り返す。舞台袖にいても聞こえる、マイク越しの声を聴いて次第にスイッチが入るのがわかる。自然と肩甲骨の位置調整と、骨盤の座りを確認してしまう癖はたった2年弱では抜けてはくれていなかった。
「お? しゅーちゃん珍しく緊張してる?」
手元のマイクを手慰みにくるくると弄んでいた伊佐に顔を覗き込まれた。心配ではなく単純に楽しんでいるような、にんまりと細められた瞳を見て自分が立つのがミュージカルではないことを思い出す。
「違う。――少しだけ懐かしくて、安心していた」
「うん?」
おそらく意味は解らないだろう。ぱちりと瞬いた瞳から逃れるように目をそらす。
「呼ばれるぞ。行こう」
「うん、リハでもぶちかましてきちゃうぞー!」
「音響と立ち回り確認だから通しでは歌わないからな」
「もちもち。それでも威嚇すんにはちょーどいいでしょ」
ぐるぐると腕を回し始めた伊佐を適当に諫めながらステージへ上がる。引け腰で隙あらば猫のように袖に引っ込みかねない柊迫の腰をひっ捕まえた春宮が視界に過った(最近手をつかむ程度ではうまいこと抜けられるらしい)。
「――それでは蓮雀高校のみなさん、ステージへお願いします」
進行係の案内のもと分厚い舞台用カーテンを避けて板張りへ。
咄嗟に養生テープでバミリされたセンターラインを探してしまう。眩しく降り注ぐスポットライトに照らされるのはあの頃と同じ。ステージを踏みしめる靴がトウシューズでもなければ身に着けているものはファンタジーな衣装でもなく学ランなのが、あまりにも日常すぎて少し笑えてくる。
それでも。舞台から見える客席の景色は何も変わらず、小学生の頃もっと背が伸びたら後ろの方まで見えるのかと思っていた客席は実際いやというほどよく見えた。
「それではマイクテストを始めます。一番マイクの方――……」
アナウンスに合わせて順番に声を出し、微調整をして次に回す。特に声質にふり幅のあるベースやパーカス担当のマイクは低音の音量調整を念入りに。
「それでは五番マイクの方」
指示に従って一小節。野外ステージとも違う。思ったように声が飛んで、反響板から返ってくる音に項がぴりぴりする。この広さなら、もう少し飛ばせる。視線は上へ。メインを食わない音域で、届かせるのは客席後方まで。
「秀くん声のびるねー!」
「マイク調整の方じゃなくて自分で合わせに行きました?」
調整が済むのを待ってから、大里が元から大きな目をさらに大きく見開きながら声を弾ませながら寄ってきた。こういうところに気付く反響は耳聡いなと思う。これくらいなら、と頷けば器用なもんですねえとと返ってくる中、春宮の「おい、合わせんぞ」という集合の合図で遮られた。
「んじゃ全体の音バランス確認のために始めの四小節だけ合わせんぞ。伊佐」
「まっかせてー!」
伊佐のカウントから始まり各々の歌声が層になる。
ああ、ちくしょう。
思わず舌打ちをしたくなるのを、腹筋に力を入れてぐっとこらえた。腹の内側に響く音がこんなに気持ちがいい。
全員がわざとブレスを重ねる一瞬の静寂。ビート音とベースから音を始める次のポイントのために一瞬絡めた伊佐の視線が、にんまりと細められた。
――楽しいでしょ、やってよかったでしょ?
口から流れる音は言葉を紡いでいないのに、やつの瞳はこんなにもやかましく物語ってくる。
久しぶりに踏んだ板のひと匙の緊張と、胸を占める充足感。きっと客席が埋まって他校の視線が集まる中でとばす声はきっとこんなものでは済まない。肌を刺すような空気から感じるのはきっと。
どうしたって『帰ってきた』というなつかしさだ。
ただいま。戻ってくるつもりはなかったよ。