黄昏、もしくは暁の「デュース、グリム、聞いてよ。オレら付き合い始めたんだ」
初めて聞いた時、お似合いだと思った。指を絡めて繋がれているのは、エースの右手と監督生の左手。監督生は黙ったまま微笑んでいる。僕とグリムはおめでとう、と伝える。二人が顔を見合わせたときのふっと緩んだ空気から、お互いを大切に思っていることが伝わってきた。
エースは完璧な彼氏だった。何かとトラブルに巻き込まれがちな監督生をよく見ていて、面倒ごとは前もって潰したり、万が一巻き込まれてもスマートに解決したり。エースは男子校に特別入学した女子という立場の監督生を有象無象から守り抜いてみせた。
きっと、その役は僕には務まらなかった。
「アイツのわがまま、何でも聞いてやりたいの」
僕とエースの二人きりの時、エースはそう言った。
少し抜けているところのある監督生と、むかつく野郎だがよく気が付くエース。校内でもお似合いのカップルだった。
「オンボロ寮、行ってくるわ」
そう言ってエースは部屋を出ていった。普段と何も変わらないようなヘラヘラした顔。だがその下に何かを隠しているような気がして、どうにも落ち着かない。
とうとう監督生の元いた世界と、ツイステッドワンダーランドが繋がった。ついに監督生はあるべき場所に戻れるのだ。
今夜は監督生がナイトレイブンカレッジで最後に過ごす晩だった。監督生はその晩、エースと共に二人で過ごすことを選んだ。1年生みんなでゲームでもしながら明かす夜、華やかな送別会、他にいくらでも過ごしようはあったはずだ。でも監督生はエースと二人きりがいいと言い、エースも首肯した。
二人は恋人同士だった。
「ふなあ……。子分がオンボロ寮で過ごす最後の晩だってのに、なんでエースが来てオレ様が追い出されるんだゾ……」
「グリム……。今日は僕のベッドで一緒に寝るか」
エースと入れ違いのようにハーツラビュル寮に来たグリムを出迎える。その瞳は涙をたたえて潤んでいる。
僕は黙ってエースを見送った。僕も行きたい、グリムも一緒がいい、とは言い出せなかった。他でもない監督生の望みなのだ。言い出せるはずがない。
今晩、二人は何を語るのだろう。いつも一緒にいた僕たちさえも入ることの許されない空間。嫌でも気付かされる、恋人という肩書が持つ特別さを。監督生はエースのもので、エースは監督生のものだった。僕のものではなかった。
監督生を見送る日、その場には多くの者が集まった。当然だ、ナイトレイブンカレッジ生のうちで彼女の世話になったり、はたまた彼女の世話をしたりといった縁がなかった者はいない。監督生はナイトレイブンカレッジの全員にとって大切な存在であった。元の世界へと旅立つ彼女に向かい、生徒たちは口々にお別れの言葉を口にする。すすり泣く者もいる。そんな中、エースはいつも通りの笑顔を浮かべてそこにいた。彼女の一番近く、入学以来いつも一緒にいたグリムとデュースと共に。
「監督生くん、名残惜しいですがそろそろ時間ですよ」
時計を確認した学園長が鏡の前へと促す。
「……はい」
監督生が鏡の前に立つと鏡面が変容し、ぐねぐねとした不気味な空間を映し出す。いよいよ別れの時だ。この次はいつ会えるかわからない。もう一生、会えないかもしれない。
最後の一歩を踏み出す前、監督生がこちらに向き直る。
「ナイトレイブンカレッジのみなさん、今まで本当にありがとうございました。ここにいた時間は本当に楽しくて、ずっと醒めたくない夢みたいで……でもそろそろ、帰らなくちゃ」
私が本当にあるべき世界に。くしゃりと顔をゆがめて笑う。
「先輩方、同級生のみんな、先生方」
監督生が一堂に会したひとりひとりの顔を見渡す。
「エース、デュースも」
監督生に求められ、軽いハグを交わす。
「おう、向こうの世界に帰ってもオレらのこと忘れんなよなー」
「僕も、お前に出会えてよかった。元気でな」
「絶対忘れない。忘れられないよ、こんなドタバタコンビのこと」
エース、デュースは心外だとばかりに頬を膨らませる。
「はあ?監督生ってば、オレ達のことそんな風に思ってたわけ?」
「何かと大騒ぎに巻き込まれがちなオンボロ寮の監督生には言われたくないぞ」
「楽しかったよ、すごく」
「ふーん……それならいいけど?」
こんな時でも締まらないいつも通りのやり取りも、もうできなくなってしまう。本当にこれっきりだ。
おもむろに監督生が身を屈める。
「最後に、グリム、私の親分」
監督生がグリムを抱きしめる。ぎゅうううううっと音がしそうなくらいだ。
「ふな~~~~~~~。子分、オレ様のこと、ぜったい、ぜったい忘れるんじゃねえんだゾ~~~~~!!!!!」
グリムは涙で顔をべしょべしょにしている。
「忘れないよ。元の世界で猫ちゃんを見るたびグリムのこと思い出しちゃうかも」
「ふなっ!オレ様は猫じゃねえんだゾ!」
ははっ。神妙な面持ちをしていた者も、べそをかいていた者も、最後まで変わらないオンボロ寮コンビの会話に笑みをこぼす。
「それじゃあ。みんな、お元気で」
鏡に片足をかけた監督生は最後に振り返って満面の笑みを残し、そして混沌の渦の中に消えていってしまった。
監督生を飲み込んだ渦はぐるぐると一層うねりを増した。もう姿は見えない。無事にあちらの世界に帰れたようだ。二度と戻ってくることはないだろう。
鏡面が穏やかになっていく。あちらとの繋がりが途切れてしまったのだ。監督生を見送りに来た生徒たちが三々五々散っていく。
「グリムくん。少しいいですか。監督生くんが元の世界に帰ってしまった以上、オンボロ寮での生活を続けることは難しいでしょう」
この後の身の振り方を話すとかなんとかで、グリムは学園長に連れていかれた。ここまで在学を許してくれたあの人のことだ。これまで通りの生活とはいかないが、この先もなんだかんだグリムが卒業できるまで面倒を見てくれるに違いない。
なんとはなしに動く気になれなくて、エースとデュースは最後までその場に残っていた。すっかり元の姿になってしまった鏡を見ながらエースがつぶやく。
「あーあ。あっという間だったな。なんか寂しさも感じる暇なかったっていうか」
「そうなのか。……昨晩に別れを惜しんだんだと思ってた」
「いやまあ、そうなんだけどさ」
やや歯切れの悪い返答である。
「でも、もう終わったんだもんな。あー、明日からお前とグリムの3人とかマジでないわ」
そう言ったエースの横顔がなんとなく。本当になんとなくだったんだ。無理矢理笑ってるように見えて。自分の気持ちを押し込めているようで。気付いたら、エースの手を引っ張ってマジホイに飛び乗っていた。
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「ったく、なんだよ、こんなとこ連れてきて」
ザザーン。青から赤に変化していく空を背景に、寄せては返す波の音が響く。そばにロイヤルソードアカデミーのある、賢者の島の中でもいっとう景色の良い海辺。いつだったか、デュースとエペルが共に憧れの姿、憧れとは程遠い自分の姿と、それでも今の自分にしかない強みがあることを語り合った場所だ。
マジホイを道端に停めたデュースが浜辺に走り出す。
「昔から、むしゃくしゃすることがあるとマジホイで海に来て叫ぶんだ」
「むしゃくしゃしてんの、お前」
「違う。……なあ。もう、監督生はいない。エース、好きなこと叫んでいいんだぞ」
「好きなこと?なに、お前オレが監督生に好きなこと言えてなかったとでも言いたいの?」
「実際そうだろ。言いたいことたくさんあるのに我慢してた」
「そんなことあるわけないっ!」
「わかった。じゃあ僕が代わりに叫んでやる」
そう言ってデュースは大きく息を吸う。
「エースの馬鹿野郎―――――――!!!!!!!」
「言いたいこといっぱいあるくせに自分の中に押し込めて、カッコつけて、スマートぶってんじゃねえーーーーーーー!!!!!!」
「だいたいな、僕も監督生のこと好きだったんだ!!!!!知ってたくせにいつもいつも隣でいちゃついてんじゃねえよ!!!!!」
「僕がっ!監督生の彼氏ならっ!元の世界になんか絶対帰らせなかった!!!!!」
デュースの勝手な言い分にいてもたってもいられなくなり、エースも肺いっぱいに空気を吸い込む。
「うるっせええええーーーーー!!!!!」
「実際付き合ってたのはオレの方だし!!!!!オレの気持ちわかんないくせに勝手なこと言ってんじゃねえよ!!!!!」
「ああそうだよわかるわけねえだろ!!!!!お前はいつもいつも僕たちには勝手な愛情押し付けてくるくせに、自分のことは全ッ然言わねえからな!!!!!」
「逆にお前は思ったこと言い過ぎ!!!顔に出すぎ!!!のんきで鈍感なデュースなんかに監督生の彼氏が務まるわけねえだろ!!!!!女に飢えた獣どもがうようよしてる男子校なめんな!!!!!」
「喧嘩だったら僕の方が強い!!!!!」
「そういうこと言ってんじゃねえんだよ!!!!!」
「じゃあどういうこと言ってんだ!!!僕でもわかるように説明しろ!!!!!」
海に向かって叫んでいる筈が、だんだんと口論のようになってきた。はあ、はあと大きく肩で息をするデュースの瞳が、今にも綻んでしまいそうなエースの心をぐさぐさと刺す。
うるせえ。うるせえよデュース。
一番言いたかったこと、言えなかったこと。お前が簡単に言ってんじゃねえよ。ってか、あーもうオレら馬鹿すぎ。こんな大声でなに言ってんだろ。涙出てきた。
「オレだって!!!元の世界になんか帰したくなかったに決まってんだろ!!!!!」
その言葉を皮切りに、涙腺が決壊した。知らず知らず、嗚咽が漏れる。
「当たり前だろ、うっ、もっともっと一緒にいたかったっ、オレがいるのになんで帰るんだって、ううっ、監督生が決めてから毎晩毎晩ずっと苦しかったッ」
「てか何で最後の最後に呼ぶ名前がオレじゃなくてグリムなんだよッ!!!付き合ってるの誰だと思ってんの!?誰が一番お前のこと好きだと思ってんの!?まじでありえねえあの女!!!」
「でもオレのわがままで監督生を苦しめたくなかったっ!!監督生が元の世界に帰りたいなら、応援するしかなかったの!!!!!」
ダメだ、涙が次から次から溢れてくる。自分でももう、何を言っているのかわからない。
「お前オレらが付き合うとこから見てただろ!ずっと一緒にいたなら言わなくてもわかれよ!!!この鈍感野郎っ!!!」
「その言葉を聞きたかった」
瞬間、デュースに抱きすくめられていた。
「……は?」
「ずっとエースのことがわからなかったんだ。普段はわがまま野郎のくせして、肝心なこと話さないから。あえて僕たちに掴ませないようにしてた気がして」
トクン、トクン。触れ合った部分から穏やかな心音を感じる。
「でも今、なんとなくわかったような気がする……多分」
身長がほとんど同じおかげでオレの顔の真横にあるデュースの顔を向く。頬にひとすじ、夕日を浴びてキラリと光るものがある。デュースも泣いていた。泣きながら笑っていた。
「わかりたかった。わからないなりにわかってる部分もあった。何よりお前にわかってほしいって望まれたかった」
デュースが背中に回す手の力を強め、オレの視界はどこまでも続く砂浜だけになる。
「僕も本気で監督生のこと好きだったんだ。好きだって言って堂々と手を繋げるお前が、本当に羨ましかった。エースも僕の気持ち、知ってるようで知らなかったろ」
「はっ、今更なんっだよ、テンプレの当て馬みたいなセリフ」
「僕だって監督生はエースの横で笑ってるのが一番楽しそうだってわかってた。一緒にいるお前らを、ずっとそばで応援したかった」
「デュースのくせに強がんなって」
「ああ、強がりだ。でも、本心でもあるんだ」
「エースと監督生がふたりでいる時どんな時間を過ごしたか、僕は知らない。元の世界に戻りたい理由も、最後まで語ってはくれなかったからな。でも、エースに想われた監督生は、幸せだったんだろうな。……いや、今もきっと幸せなんだろうな」
片方の腕をオレの背中に回したまま、デュースが空に手を伸ばす。夕暮れの空になにか別のものでも見えているように。
なんだよ。馬鹿デュースのくせに。お前に何がわかるっていうんだ。
鈍感野郎のくせに。
こんなときばっかり、優しくしやがって。
ほしい言葉をくれて。
デュースがここに連れてきてくれなかったら一生話すことはなかった本音の数々が、星になって空に散らばっていった。
言葉が出尽くしたオレは何も言えなくなって、空がすっかり紺碧になるまでデュースにすがりついてわんわん泣いた。