ある患者の傍白「やあ、来てくれたんだね。調子はどうかな?」
引き戸を開くと、微かに漂うアロマの香りとともに秋めいてきた季節の風がひゅうとこちらに吹いてくる。どうやら窓が開いているようだ。一瞬、首筋に冷気が走り、肌寒さで体が勝手に小さく震え上がってしまう。
部屋の主は誰かが入ってきたのに気付くと、先ほどまで見ていた資料と思わしきものから目を離し、嬉しそうに目を細めた。
「ああごめんね、今ちょうど換気の時間なんだ。診察中もしばらく開けていないとだけど…ブランケットいる?」
”いえ、大丈夫です。”と答えておこう。このくらいの寒さであれば問題はない。
続いて目を遣る。どう見ても医者らしい格好をしていない、見たところは中学生か高校生と見間違う風貌の女性。網目のシースルーとキャミソールが一体になった服とハーフパンツ、厚底のスリッポン。二本だけ逆立った毛と、まるで満月のようにキラキラと輝く金色の瞳が目を引く。白衣は自分の体格よりもひと回り大きいものを羽織っているのか、袖も裾もかなり余っている。パッと見た印象からではとても精神科医とは思えない。しかし彼女が首にかけているカードホルダーが、浮城ゆとりという精神科医の存在を確立させている。
本来なら「医者なら」とか「精神科医だろ」とか。言いたいことは山ほどあるはずなのに。きっとこの言葉は、他の患者たちも考えることだろうし、実際に口に出した人もいるかもしれない。
しかし彼女は、そんなことは全く気にしていない様子だった。
実際今も、大きく余った白衣の裾を引き摺ってご機嫌そうに鼻歌など歌いながらブランケットを取りに行っている。自分の返事を聞けば「そう?」と持っていた物を置き、自分の定位置へと戻っていった。
「さて、そろそろ始めようか。ほら、そんなところに立ってないで座った座った!」
彼女の言葉を聞き、対面においてある椅子に座る。
よっこいしょ、と実際の年齢がわからなくなるような声を出してから姿勢を正すと、パラパラとこれまでの自分のカルテを確認する。短く「ふん」と息が漏れたかと思うと、改めてこちらの方を見る。
「前回よりも喋り方もハキハキしているけど…すこし顔色がよくないね。睡眠はちゃんと取れてる?」
”いえ、ここ最近寝つきが良くなくて。”ここ最近の自分を振り返り、適切な返答をしておこう。
「やっぱり。目の下にうっすら隈が出来てる。なにか思い当たることはあったりする?」
”いえ、特には。頓服も最近は頼る機会もないので、自分としては調子が良い方だと思っていますが”なんて言っておけば、大抵の先生は信じてくれる。
つらつらと流れるように出てくる言葉の羅列。しかし彼女は、まっすぐ自分を見て…正確には自分の目を見て話を聞いている。
しばしの沈黙の後。
「調子が良い方、って言ったところで目線が下がった」
ああ、やはり見透かされた。
彼女はいつも、自分の目の動きを観察しているのだ。毎回こうして面と向かって言われると、そのつもりはなかった自分としては驚きを隠せない。
思わず肩が跳ね上がった。
「調子が悪い時は素直に言って良いんだ。ここは広義で言えば病院なんだし、ボクは先生だ。誤魔化さなくたって大丈夫だよ」
先程までの能天気さとは一転し、おだやかで優しく、自分に寄り添ってくれるような声色で語り掛けてくる。同時にペンを手に取ったかと思うと、今日のカルテにメモを書いている。医者特有の速筆で、何を書いてあるかはさっぱりわからない。大方、前回との比較を簡単に記しているのだろう。
ペンを置いて再度自分に向き直る。
「ボクたち精神科医は、キミの不安を聞いて、その上でどうしたら良いのかを考えるのが仕事だ。お話してくれなかったらボクも仕事がなくなっちゃうよ」
なーんてね、と冗談っぽく笑っている。
”そうですね、すみません”なんとなく返事に困ることを言われたが、これが一番無難だろう。
自分の言葉を聞くと、「あ、そうだ」とおもむろに席を立ち上がる。
向かった先は茶棚と思わしき場所。嬉しそうに茶葉の入った瓶を手に取って、
「最近新しいハーブティーを仕入れたんだ。飲んでみない?」
と、にこやかに問いかけてくる。
”……ええ、良ければいただきたいです”
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「……よし、こんなもんかな」
暫し問答を経て一通りのカウンセリングを終えると、空になったティーカップを片付け始める。淹れてもらったハーブティーはカモミール。最近彼女の中でブームになっているらしい。
カウンセリング前にハーブティーを淹れてもらうことはよくあったが、今回は特にこのフレーバーを飲んでみてほしいと逆にお願いをされてしまった。実際、彼女がオススメするのも納得できるほどのものだった。市販のものではなくちゃんとした専門店で購入したもののようで、冷めても香り豊かで雑味も感じられず、とても飲みやすかった。
部屋に入るまでと、彼女に自分の状態を言い当てられてから湧いた緊張。その全てが解けていくような感覚。きっとこれさえも見越して、このハーブティーを提供したのだろう。
”今日もありがとうございました。ハーブティー、とても美味しかったです”
「でしょー?ボクがお世話になった人が淹れてくれたヤツなんだ。……正確には、味と香りを頼りにようやく見つけたものなんだけど」
”まるで犬みたいな探し方ですね”などと、つい口に出てしまう。
しかしこんな皮肉っぽいことを言っても、彼女は笑って躱してくるのだ。
「人間、匂いと味っていうのは案外しっかり覚えてるもんだからね? 頼りになるんだな〜これが」
腕を組んで背もたれに深く体を預けながら、きいきいと音を立てて椅子を動かしている。
「それじゃ、今日の診察は終わり! 次の予約はどうする?」
”そうですね……”
そうか、今日はもう終わりなのか。
また予約を入れて、数ヶ月も先まで待たなくてはならないのか。
同じように、この浮城ゆとりという人物を頼りにここに来なくてはならないのか。
こんな、自由気ままで、なのに勘が鋭くて。自分は内心ではこんなにも彼女のことを適当に見てかかっているのに、そのばずなのに。
それでも彼女は真摯に自分の話を聞いてくれて。やさしい言葉ばかりを自分にかけて。自分はただただ、人生のレールから気付けば外れてしまっていて、そこで得た苦く重たい感情を彼女にぶつけているだけだというのに。
純粋な疑問。本当なら、彼女はこんな負の感情にまみれた環境にいるべきではないはずなのだ。
なのにこんなにも頼りにしてしまうのはなぜなのか。
どうしてこの人は、自分みたいな人間を見捨てずに、その言葉に耳を傾けてくれるのか。
”浮城先生”
「ん?」と、目をまんまるにさせてこちらを見る。
”浮城先生は、どうしてここで先生をやっているんですか”気が付けば、口が勝手に動いていた。本当はこんなことを聞きたいわけではなかったはずなのだが。どうしても、今。答えが知りたかったから。
問い掛けを受けた彼女は、洗っていたティーカップを水切りかごに置いて、しばらく沈黙した後。
「…忘れないため」
何かを思い出すように零す。
「きっと、ここに来る人はみんな…自分のことを覚えていてほしい人がほとんどだと思うから。自分が苦しかったことを、今すぐにでも吐き出したり、気が狂ってしまうのを止めたかったり。色んなところへ行って、最終的に行き着いた先がボクのところなら。ボクが最後の砦にならないといけないでしょ?
キミたちを守った砦は、キミたちのことを一生覚えている。傷を癒すことが難しくても、広げることを防ぐことや、傷を増やすことから守ってあげられる。
そのためにボクはここにいる。それ以上に理由なんかないさ。」
くるりとこちらに振り向いて、すこしだけ、苦しそうな笑顔を浮かべながら、そう答えた。
”……先生って、生き辛そうですよね”
「そうかもね。生き辛さっていうのは…嫌という程学んできた。
でも、ボクはそれでいい。傷だらけの方が人間らしく生きていける。キミも、キミ以外のボクと関わってきた人たちも。みんな等しく、人間らしく生きてほしいから。
傷を抱えることは悪じゃないんだ。綺麗なままで生きていける方がよっぽどレアだからね。
けど、痛みを分けられる人はいた方がいいでしょ?」
”その役目が先生ってことですか”
「そういうこと!」
先ほどの苦しそうな表情から一転、快活そうにニッと笑っている。
……なるほど。
こうやって、自分を誤魔化して、こうであるという定義を自ら決めつけ、自分で自分の首を締め続けている。しかもこの人は、それを理解した上で痛みに対して目を背け続けている。
いつか己が滅んでも厭わない、典型的な自己犠牲タイプ。
それもきっと、関わってきた人たちに知られることなく、気がつけばこの世界から消えてしまっているような。
なんてやさしくて、自分勝手な人なんだろう。
「さ、ボクの話なんか聞いたところで面白くないでしょ。そろそろ次の子が来る時間だから、お会計も済ませて、おうちでゆっくり休んでね」
”……そうですね、長々とすみませんでした。今日はありがとうございます”
軽い会釈をし、部屋を出て行く。
顔を上げて再度彼女の方を見ると、「またね」と小さく手を振って自分を見送ってくれていた。
自分と彼女を隔てる引き戸が、鉄のレールの上を滑る。
きっとまた数ヶ月後に、またこの引き戸を開いて彼女に会うことになるんだろう。
そして自分はまた、彼女に同じような言葉を掛けられて安心してしまうのだろう。
彼女がずっと、自分や、自分以外の誰かから傷つけられているという事実を理解した上で。
”さようなら、浮城先生”
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浮城ゆとりの本質の話。
ゆとりのイメソンは黒木渚の火の鳥と、DAOKOの背景グッバイさようならです。