怖いもの知らず「ねぇ、藤哉さん」
我慢はやめましょうよ、と目の下に隈が浮き脂汗をたらす頬に指を滑らせる。また少し痩せたようだ。肌がカサついている。
藤哉さんは、小隊長として辣腕を奮っていた姿から変わり果ててしまった。龍脈というのはそれほどまでに苛烈なモノらしい。少しの瑕疵も見当たらない、闊達とした物言い、素晴らしい祕術の腕前、部下や目下への公正な態度、時折見せる…鋭い龍の瞳。俺にとって龍守藤哉ーー藤哉さんは刺激的な存在で、いつか彼の人の指揮下で力を振るうのが夢だった。夢はあっさりと叶い、そして破れた。渡来口の封印が破れ司令部が討ち死にしたあの日、藤哉さんは俺たちに自分が死んだ後のことまで考えて動かなければならん、と言った。結界を解き、原子炉を守るその作戦は、これ以上なく現場に即したものであり、更に責任をも任されると請け負ってくれた。これだから堪らない。身を焼く様な興奮が体を駆け抜けて、だが気取られないよう微笑む。やるべき事を行う為その場から駆け出した俺は、後にどんな未来が自分たちに訪れるのかを考える暇がなかった。天を裂く光が禍獣たちを残さず焼き払う。まるで闇を裂く剣のような一閃、膠着した状況に放たれた清廉な矢の如し一撃だった。龍守術師が龍脈を使用、意識不明の重体。部下からの報を聞いた俺は、高揚していた体が急速に冷えるのを感じた。夢は果てを迎え、そして後には現実だけが残された。
ごっそり居なくなった上司の代わりに現場で采配を振るう日々が続く。一度だけ帯刀術師が俺の元を訪れ、現場の引き継ぎに必要な情報を手渡してくれた。藤哉さんは未だ目覚めぬようだ。憔悴し、だがそんな中でも確実に情報を伝える帯刀術師の目の下にある隈を見詰める。
俺には確信がある。あの人はこんなところで死ぬような、下らない人間じゃない。果たして俺の予感は的中し、藤哉さんが意識を取り戻したと情報が入る。ただ、藤哉さんを庇った部下は未だ昏睡状態でかなり重篤な被害を受けたらしい。また藤哉さん自身もかなり衰弱しており、介助を得ないとまともに生活が出来ないほど難儀していると聞く。ふぅん。部下からの報告に労いを返し、さて、と手を叩く。
「現場は今より私が取り仕切る。何か質問は?」
それから、時が経ち。まことしやかに様々な噂が天傍台閣の内部を飛び交っていた。偽造護符の話、監察院による調査、謎の告発文、製紙会社社長の不可解な死。どれもあやふやで確かな根拠はなく、俺の琴線に触れなかった。藤哉さんは未だ体調を悪くされているらしい。うっそりと微笑む。詐病か、それとも。どうしても自分の目で確かめたくなり、仕事の都合をつけて訪れた療養先で、俺は久しぶりにその人を見た。まばらな無精髭に深く澱んだ隈。変わり果てた藤哉さんの姿に、肚の底がぞくぞくと震え、此方を睨んだその瞳の奥に揺らぐ苛烈な焔に身を焼かれることを、夢の続きを躍ることを許されたように感じて、俺はゆっくりと微笑む。星のようだ。枯れ果て消える刻を待つだけの恒星。つまらない日々を投げ捨て、あなたの足元に跪く権利が、今、どうしても、欲しい。
「帯刀術師が居ないのは珍しい。何か所用ですか」
引継ぎの不備を理由になんとか上がり込む。監視が複数ついているが、これもこの人にはいつもの事なのでやり過ごす。藤哉さんは俺の問いに胡乱な視線をよこし投げやりに答える。
「…雪晴とて所用くらいある。何の用事だ」
掠れた声がまるで老人のようで、可笑しくて笑ってしまう。ああ、堪らない。やはり藤哉さんは藤哉さんだ。龍守の家の男。上に立つべくして生まれた男。ゴホッと頻繁に咳込む姿が苦しそうで、思わず手を伸ばして背をさする。鎧のようにしなやかだった筋肉は見る影もなく落ち、不規則に痙攣する背が、嗜虐心を煽る。身なりも整えず髭もあたれず、あの龍守藤哉が。俺の前で苦しげに脂汗を浮かべ胸を掻き抱いている。
「ねえ、俺に隠していることがありますよね」
耳元でそっと囁くと、藤哉さんの昏い目がぎょろりと此方を注視する。警戒心バリバリだな。かわいくって…浅慮で…とても良い。この人らしくない仕草の全てを丁寧に拾い集める。耳に光るピアス。以前は見かけなかった。ふぅん。
「…君に、言う必要はない。羽澄、仕事に戻れ」
「ありゃ、つれない。泣いてしまいますよ」
君は泣くようなタマじゃないだろうと藤哉さんがふと笑う。俺の好きな、龍の眼が細くすがめられて堪らない気持ちになる。そうやって、誰も彼をも信用せず曖昧なままにして遠ざけておくから、俺みたいなのに付け入る隙を与える。少し意地の悪い心持ちになり、背中をさすっていた手を少しずつ下げて、腰椎から背骨を一つずつなぞっていく。こら、とやんわりと手を遠ざけられる。駄目だよ藤哉さん…それじゃ足りない。藤哉さんはギラギラした目で睨む俺を見つめ、困ったように眉を寄せる。細く息を吐き、ンン、と喉を鳴らす。男らしい喉仏が動くのを見て、アレに噛み付いたらもっと愉快な気分になるんだろうかとぼんやり考える。藤哉さんは俺をじっと見つめた後、羽澄、と一言だけ名を呼んだ。
「……私は、お前に、何も与えてやれない」
そうするつもりもない、と素っ気なく言われる。指先が震えている。体が辛いんだろうか、もっと苦しむこの人が見たくて、視線で先を促す。藤哉さんは苦痛に満ちた目で俺を見詰める。前から感じていたが、この人は変なところで優しすぎる。身内以外は信用もしない癖に、毎度薄らと何かを諦めている癖に、生き方を強要され奪われるばかりでも大人しく頭を垂れて檻の中で美しい目をして此方を見ている。言えばいいのに。
「羽澄、俺は………君に生きていて欲しい」
藤哉さんはぽつぽつと溢す。この人の下らない体裁や優しさ、欺瞞ではない言葉を知る。
「君は、闘いの中での死に不満はないのだろう。だが、今の私が君に齎すものは地獄の道行のみだ」
無意識なのか藤哉さんは耳に手を遣り、そっとピアスを撫でた。ああ、確か藤哉さんを庇い重体になった術師がいたな。名はなんだったか。
「後輩だからと、私に関わる義理はない。君を信用も出来ない。それに…戦えない私に用はないだろう、君は…ゴホッ!」
自嘲気味に咳込む。俺はちょっと鼻白みながら、まぁそうだなと自分を納得させる。今の藤哉さんなら俺は片手で殺せるだろう。そんなことはおくびにも出さず、微笑みを浮かべる。震える背中、止まらぬ咳、藤哉さんが手で口から出た血を隠しているのが見えて、声をあげて笑う。
「はは!お見通しなら話は早い。ねえ、藤哉さん。俺は安穏と生きるより、成すべきことを成すと決めたあなたに首輪を嵌められたい…」
血塗れの手を取り、頬に擦り合わせる。べっとりと俺の頬に生暖かい血が付着し、藤哉さんは顔を顰めた。鉄の匂い。すえた死の気配と暴力の匂い。それに一口噛ませろと喚き立てる俺は、躾のなっていない野良犬と同じだ。なら、あなたの手で俺を縛って欲しい。
「……君は、私に期待しすぎだ。くだらん事を言ってないで帰れ」
「…わん」
潮時か。藤哉さんの手を離し、頬についた血を腕で拭って物分かりのいい犬の振りをする。藤哉さんは呆れたような困ったような顔で笑い、密やかな声で体には気をつけなさい、と俺の頬についた細かな傷をなぞった。擽る指が名残り惜しくて、俺ではこの人をかえられなくて、この優しく恐ろしい人に瑕疵をつけた誰かに想いを馳せる。怖いもの知らずだ。きっとこの人は山河を血で染め、愚か者共の屍の山を築き、王になることも出来るだろうに。堪らなくなり、指に噛み付く。がりり、と血が滲むほど噛み跡をつける俺を、藤哉さんは透明な目で見ていた。あなたに燃やし尽くされたい。この身を焚べて、燃え盛る焔に照らされるあなたの横顔はとても美しいのだろう。
最後に頭を撫でられて、許され、俺は目を閉じる。愚か者では、敵わない。