皇宗SS/怖がりで小さな生き物 今日の仕入れはいつもよりスムーズに終わった。ものもかなり質の良いものが手に入り、新鮮な魚や肉を早いところ冷蔵庫にしまいたかったので、いつもの出勤時間まではかなり間があったがそのままウィズダムに向かうことにした。
裏口から店に入ると、バックヤードの灯りはすでに点いていて、宗雲がソファーで作業をしている後ろ姿が見えた。いやに早い、と意外に思いつつ、早く来てよかった、とも思う。黙って近づいていくさなか、視界に入った宗雲の手は、いつもであればパソコンや書類を忙しく繰っているのに、今は仕事をしているわけではなさそうだった。二つの掌は伏せられたノートパソコンの蓋に置かれて、皇紀でなければわからない程度に小さく震えている。皇紀は訝しみながら、自分に気づく様子のない彼の横顔を覗き込んだ。緑の瞳はノートパソコンの向こう、何もない机上をじっと見つめ、色の希薄な唇はぐっと噛み締められている。皇紀は訝しむよりは胸のざわめきに背を押されるように、彼のすぐ隣までずかずかと近づいた。
「どうした」
びく、とやや大げさに彼の肩が跳ね上がる。緩慢な動きで皇紀の姿を見上げた目が、ようやくいつもの柔らかい光をほんの少しだけ取り戻した。
「……ああ。早いな、皇紀」
「何かあったのか」
どう見ても尋常な様子ではなかった、何かあったに決まってる。そう思っての問いだったが、宗雲はうつむきゆるやかに首を横に振る。
「……すまないな。お前を心配させるようなことではないのだが……」
そうは言っても彼の顔色は未だに白いままだ。心配させることではない、なんてことがあるものか。彼を脅かした何かとその正体を言おうとしない彼に対する苛立ちに舌を打とうとした時、宗雲の片手が皇紀の裾に控えめに触れた。
「本当にすまないのだが、少し……三十分ほど、付き合ってくれないか」
「……わかった。食材をしまってくる」
「あ……ああ」
宗雲は皇紀の下げた保冷ボックスを一瞥する。頷きはするものの、皇紀の裾から手を離そうとしない。皇紀が黙って宗雲の気が済むのを待っていると、彼は迷いの混ざった声で絞り出すように言った。
「厨房前までついて行ってもいいだろうか……」
「……ああ」
皇紀はなんとなく納得しながら頷いた。こうやって彼が孤独を避けるそぶりを見せるのは初めてではない。宗雲の気配を背に厨房へ向かいながら、ノートパソコンの中で起こっていただろうことをなんとなく察するのであった。
二人でソファーに腰掛けパソコンに対峙する。宗雲は心做しか画面から遠ざかるように背筋を伸ばし、半ばほどまでパソコンの蓋を開いたところで動きを止めてしまった。皇紀は彼の代わりに半開きの画面を覗き込む。真っ黒い画面の下方に文字があるだけで、恐怖対象にあたるものは特段見えない。
「大丈夫だ」
「あ、ああ……ありがとう」
宗雲はようやく画面を開き切ると手を離し、深々と息を吐く。
「……お客様が趣味で作ったゲームだそうだ。プレイと感想を求められてな」
そんなところだろう、とは思っていた。宗雲の指名客の中には日々ものづくりに励む者も多い。皇紀は溜息一つ、いつもより白い彼の顔を見やった。
「怖いのか」
「……すまない。いい加減に克服したいとは思っている」
宗雲は目を伏せ眉間をうっすらくぼませる。別に謝らせようとしたわけではない、というのを示すために彼の肩に肩を触れさせた。それで、伝わった宗雲の緊張が少しだけ緩むのがわかる。宗雲はふぅ、と息をすると、何もない画面を薄目で見やり、恨みがましく右手で指し示した。
「先程、ここに不気味な赤ん坊の顔が突然大写しになって……」
「そうか」
「……すまない。言っていても仕方ないな。進めるか……」
彼の右手がようやくエンターキーに触れ、かなり慎重に押下する。皇紀からしたら別にどこも怖くない女の立ち絵が現れて、宗雲の体がびくっと跳ね上がった。彼は何度か不安定な呼吸を繰り返し、ごくりと唾を呑んで低くつぶやく。
「……一本道で、基本的には文を読んでいくだけのゲームらしいのだが」
「ああ」
「自分の意思で話を先に進めなければならないのが、どうも心臓に悪い……」
そんなに怖いならやめればいい、と思うのだが、これも宗雲にとっては客へのサービスの一環で疎かにできるものではないことが、何度もホラー映画鑑賞に付き合わされた皇紀には想像できた。宗雲は心做しか皇紀の側に体を傾けながらエンターキーを慎重に叩き続ける。かなり頑張っているようだが、時たま画面いっぱいに血痕を模した模様が広がったりドアが軋む効果音が大仰に響いたり、とにかく唐突な出来事があるたびに小さな悲鳴と一緒に手を止め、呼吸を整えざるをえないようだ。
驚かせる演出にはあまり脈絡がない──というか、ある程度宗雲が安心したようなタイミングにこそ挟まってくる。ストーリーに全く興味のない皇紀からすると、敢えて作られたのだろう緩急には、ただプレイヤーを怖がらせるための悪意しか感じ取れなかった。皇紀からしたら別に全然怖くはないので、宗雲の過剰な緊張をすぐ隣で見ていなければそうは思わなかっただろうが。
こんなのもうやらなくていいだろ、と喉まで出かけた時、先ほど宗雲が言ったのと同じものだろうか、血まみれの赤ん坊のリアルな画像が大きな音と一緒に大写しになる。宗雲が勢いよくソファーの背もたれに背中を打ち付けた。そしてずるずると脱力して、皇紀の肩に溶けるような体重がかかる。
「……ああ……疲れる……」
「無理するな」
「いや……今終わらせないと、一生プレイできなくなる気がする……」
宗雲はそう言って自分を奮い立たせ姿勢を直すが、エンターキーに触れた手はなかなか動かない。皇紀は少し待っていたが、やがて痺れを切らして彼の体を肩で促した。
「……これじゃ終わらねえだろ」
と、言いつつ、自分で操作するのが怖い、と先ほど宗雲が言っていたのを思い出す。代わりに進めてやればいいか、とエンターキーに手をやろうとすると、宗雲自身の手に阻まれた。
「自分でやらなければ意味がない、と、思って……」
「……言ってる場合か」
「すまない。それでも……」
「…………」
皇紀は溜息を吐いて、エンターキーの上で震えるだけの彼の右手を上から包んだ。宗雲のいつもよりも早い脈動が掌を押し上げ、肩に寄りかかる彼の体がほんの少し重くなる。すまない、と、ほとんど霞のような声がすぐ側で響いた。ちらと目をやると宗雲の緑の瞳は透明な涙をうっすら帯びて何度も瞬きを繰り返している。こうやって気丈を崩し弱味を見せられると、自分自身も今の彼を脅かす存在に変わってしまいそうで、皇紀は色々なものを喉奥に飲み込み黙って頷いた。中指を彼のそれにそっと重ね、エンターキーを押す。
宗雲のすべらかな爪を撫でたくなったが、驚かせそうなのでやめた。彼の手の震えや帯びる冷や汗がじっとりと掌に伝わる。たん。たん。ジャンプスケアが挟まったなら、息を詰める音と一緒に宗雲の手が跳ねて、その拍子に皇紀の手を押しのけようとする。手の中に自分に逆らう小動物が住んでいるみたいだった。皇紀の手は力任せにその命を握り潰そうとして、皇紀の理性はその欲求を抑えるのにかなり苦心する。全力で握ったところで壊れるほど柔ではないのはわかっているが、それが宗雲への加害にあたることに間違いはないし、今の彼に余計な緊張を与えたくはなかった。
宗雲はさっきまでよりは気が楽そうに見えたが、反対に皇紀は己の中に立ち込める湿った懊悩と戦っていた。無心で画面を眺め、無心で彼の中指を押し込める。クリックひとつをとっても宗雲の指の動きが直接指の腹に響きわたる。そのうち、彼の指が完全に脱力し、中指を動かすテンポも力加減も全部が皇紀に委ねられる。皇紀は宗雲の横顔を見ないようにして唾を飲んだ。ごくり、と、思いのほか大きな音が鳴った。
ゲームが終わるのはかなり唐突だった。スタート画面に戻った画面を前に、宗雲はぐったりと脱力し、ノートパソコンを閉じてそのまま項垂れる。額を押さえつけ、感想らしきものを絞り出した。
「疲れた……」
さすがに客にはそんな感想は言えないだろう。しかし一体どの女なんだ、宗雲をこんな目に遭わせたのは。何かするつもりは今のところないが、その顔を一度拝んでおきたいような気もする。皇紀はふん、と息を吐いて、疲れ切った宗雲に話しかける。
「何か喰うか」
「……ああ。頼む……」
皇紀は黙って立ち上がり厨房のほうに歩いていく。このあとうるさい面子と顔を合わせ営業準備に入ることを考えると、自分にも一人で少し落ち着く時間が必要そうだった。
「……?」
音もなく溜息を吐いてから背後を振り返る。宗雲が決まり悪そうに俯いて、刷り込みされた雛のように皇紀の後についてきていた。