ドット・バレットは、何度目になるか分からない寝返りを打った。
眠れない。彼の目はギンギンに冴えきっていた。理由は明白である。とにかく空腹で眠れないのだ。
キッチンに行って何か食べよう、と何度も彼は考えた。同時に、でも消灯時間過ぎてるしなぁ明日もあるし、と何度も彼は考え直した。普段の言動がアレなだけで、根は真面目で繊細なのである。やれ品がないだのやかましいだの能無しだの話してると頭痛がしてくるわだの存在が汚ねんだよなどと、とてもとても酷い罵声を浴びせられるほど普段の言動がアレではあるが、根は真面目で繊細なのである。
……そんな暴言を面と向かって吐き捨ててくる相手など、大体決まっているが。というか、一人しかいないが。悪口なんて思い出したらちょっと傷付いた、何せ根は真面目で繊細なのである。
目を開けているから眠れないのだ、と彼は思い至った。目さえ閉じ続けていれば、いつの間にか夢の方からやって来てくれるものだ……と天啓を得たような心地で、ドットは無理やり瞼を閉じる。ついでにリラックス出来るようにと、深呼吸してみたりもした。そうすれば思惑通りというべきか、彼の意識は次第に現実と夢の間をうとうと彷徨い始める。
――夢とは、脳内の記憶や情報が組み合わせられ、映像化されたものだという。
ドットの直近の記憶……微睡む直前まで脳内を占めていた情報は、『腹減ったメシ食いてぇ』であった。ドットの素直な脳味噌は、素敵な食の夢を彼にもたらしてくれた。
バターが香るチキンライスを卵で包みこんだ料理……ドットの好物、オムライスである。ライスの上のオムレツを切り開くタイプの、半熟卵が溢れるふわとろオムライスもたまらないが、やはりあの、薄焼き卵で包まれたベーシックなオムライスがいい。卵の上を彩るのはもちろん、鮮やかなケチャップだ。やさしい色合いの卵にスプーンを入れればふわりと湯気が立ちのぼり、チキンライスの旨味と香ばしさが口いっぱいに広がって――
カッ!とドットは閉じていた瞼を勢い良く見開いた。彼の目はギンッギンに冴えきっていた。
夜食を、食おう――。
根の真面目さが、荒ぶる食欲に打ち負けた瞬間であった。
そうと決まれば話は早い。
ドットはそそくさとベッドを抜け出すと、パジャマの上からローブを羽織った。起こすと面倒そうなルームメイトの様子をちらりと窺うと、彼は壁の方を向いて……壁、というより、壁にでかでかと飾ってある特製妹ポスターの方を向いている、という表現が正しい気もするがともかく、ドットに背を向けて眠っている。あれでよく寝れるな落ち着かんわ、と改めてその狂気に触れながら、靴音を立てぬよう慎重にベッド横を通り過ぎていく。
何事もなく扉の前まで辿り着き、ドアノブに手をかけたその時だった。
「どこに行くんだ?」
「おわぁああっ!?びっくりしたぁッ!?」
暗闇の中で響いたやけにはっきりした声に、心臓が飛び跳ねる。何なら体もちょっと跳ねた。すっかり暗闇に慣れた目が、声の主の姿を捉える。起こすと面倒そうなルームメイトことランス・クラウンは、ベッドの上で上体を起こしてドットを見つめていた。
こいつ起きてたのか、いやそんな気配はなかった、そういやこいつ起きて秒で臨戦態勢の男だった……なんて考えながら、死ぬほど驚いた心臓を労わるように胸を押さえる。普段ならばそのまま文句の一つ二つくらい浴びせつけていたところだが、あまりに驚き過ぎたためにそんな気も起こせず、ドットは少々ぐったりとしながらランスの問いかけに素直に返事する。
「ちょっとキッチン行って夜食作ってくる……」
「こんな時間にか?」
「寝れねぇんだよ、腹減って……お前は?」
「食わん」
「あっそ……」
なんか急激に疲れたな……と思うドットであったが、騒ぎ立てる腹の虫には逆らえず、今度こそ静かに部屋を抜け出すのであった。
気を取り直して、キッチンである。
共用キッチンは当然冷蔵庫も他の寮生と共用なので、食材の保管は自己責任だ。使うなら名前書いとけ、とのお達しに、ドットはしっかりばっちりと、保存容器に記名している。それらを取り出し、中身を確認していく。
一人分の残ったご飯と、半分の玉ねぎ、鶏肉は無いので、やはり半端に残ってしまっていたハムを代用することにした。必要な調味料も調理台の上に並べて、いざ、玉ねぎを切るべく包丁を手に取る。
「一体何を作る気だ、そんなに食材を出して……」
「どわぁああっ!?いい加減にしろぉッ!!」
背後からかかった声に、心臓が飛び跳ねた。例によって体もちょっと跳ねた。包丁を握り締めたまま、ぐりんっと背後を振り返る。
「何で来てんだよ!」
「水飲むんだよ」
「そうかよ!」
騒ぐとバレるぞ喧しい、と眉根を寄せるランスに、誰のせいだこの野郎……とすぐさま言い返すドットだったが、その声は思った以上に疲れていた。
「それで、何を作る気だ?」
「オムライス……」
「それはもはや夜食じゃないだろう……」
「うっせ、食べ盛りナメんな」
この時間にガッツリ食う気かと言わんばかりのちょっと引いた目は無視して、ドットは改めて包丁を握り直した。
玉ねぎはみじん切りにし、ハムも細かく切ったら、バターを熱したフライパンでそれらを炒めていく。玉ねぎがしんなりとしたらケチャップを加えて具材とよく絡め、ふつふつと少しだけ煮詰めてからご飯を投入。ご飯をほぐすように炒め、塩こしょうで味を調えれば、チキンライスならぬハムライスの出来上がりだ。別皿に移し、フライパンを軽く洗っておく。続けて卵を二個、手に取る。
そこまで順調に調理していたドットであったが、さっきからずっと気になっていた視線にとうとう耐えられなくなり、すぐ隣に顔を向けた。水などとっくに飲み終えただろうに、ランスは部屋に戻ることなくずっとドットの隣に立っている。
「……さっきから何見てやがんだテメェ」
「意外と手際がいいな」
「へっ!?お、おおう……ま、まぁ?好きでよく作ってっし?」
てっきり、「包丁の持ち方がなってない」だの「手際が悪い」だの、お母さんならぬお義母さんよろしく小言を言われるものだとばかり思っていたので、完全に不意打ちである。そりゃどもりもするわ仕方ねえわ、とドットは自分に言い聞かせた。
「……オムライスが好きなのか」
「んだよ、ワリィかよ」
「食の好みが子供っぽいな」
「ほっとけ!」
まったく一言多い男である。ドットはめげずに、卵を溶き始めた。
バターが溶け、フライパンが充分温まったら、塩少々を加えた卵液を一気に流し込む。じゅわあっ、という音がたまらない。中央を軽く混ぜるようにして全体に火を通し、半熟状になったら火を止める。
そのままライスの上にのせるようにしてもいいが、せっかくなら包みたい。オムライス!って感じにしたい。卵の中心にハムライスをのせ、端を被せたらフライパンの奥側で形を整える。あとは思い切りだ。フライパンをひっくり返して皿に盛れば、ようやくオムライスの完成である。……いつもよりもやや形が崩れたのは、未だ続く横からの視線のせいだ。
まさかこのままの状態で食べなければならないのだろうかと思いつつ、スプーンを掴む。気にはなるが、妙な視線にかまけている場合ではない。ケチャップで卵を彩り、いざ実食だ。
やさしい色合いの卵にスプーンを入れればふわりと湯気が立ちのぼり、待ちに待ったオムライスの旨味が口いっぱいに広がって――いくはずだった。
ガッ!と唐突に手首を掴まれ、オムライスはドットの唇にすら到達することは叶わなかった。一瞬の間の後、ゆっくりと犯人の方を向く。
「……この手は何ですかランスさん」
「一口よこせ」
「食わねぇんじゃなかったのかよ!」
ドットの叫びなど完全に無視して、ランスはぱかりと口を開ける。喉奥深くまでスプーンを突っ込んでやろうか、と思って、しかしお返しに本気で喉を潰されかねないな、と思い直して、やめた。
本来ならばドットが食べるはずだったオムライスを、ランスの口元に運ぶ。口ちっちぇな、とか思いながら、咀嚼する様子を見守ってしまった。
「まぁ、悪くない」
「そうかよ……」
告げられた感想に、こっそりと安堵する。ついでにしっかりと嬉しい。にやつきそうになったのをごまかすように咳払いして、さて今度こそ実食である。そうしてスプーンを扱う手は、またしても捕まってしまうのであった。
「……だから食わねぇんじゃなかったのかよ!」
「一口食べたら腹が減った」
「マジ何なのコイツ……」
今度こそ相打ち覚悟で喉を潰してやろうかと思う程の傍若無人ぶりだが、こちらの目を見ながら無防備に口を開ける姿に、結局また従ってしまった。恐ろしい男である。
親鳥の気分だな……なんて呑気なことを考えながら手を動かし続けるドットだったが、気が付いた頃には既に、半分ほどぺろりといかれていた。