「でね。今日は編集部に行ったのだが…そこにチラシがあったのだよ!」
誉は、ペンを握りながらそう話す。片手は、携帯をそっと耳に当てていた。
そろそろ梅雨の訪れも感じる季節。少しだけしっとりとした湿度の高さを肌で感じている。
明かりの灯った夜のバルコニーで、誉は一人、執筆に勤しんでいた。
ただ、執筆だけをしにきたわけでは無い。
電話の向こうにいる、恋人との時間を取りにこうして外に出ていたのだった。
『そういや、各所に送ったって言ってたな』
電話の奥からは、最愛の恋人、丞の声が届く。少しだけ、低さの削がれた電子の声。
それも寂しいながら愛おしく、誉は携帯に耳を寄せた。
劇場近くの美味しい店、会場による反応の違い。そんな話をぽつりぽつりとしていく。落ち着いた声と調子でただ二人だけの時間を楽しむ。
「…凱旋はいよいよ明後日だね?」
『ああ。明日マチネが終わったら移動だ』
今、丞が参加している作品は1ヶ月強のツアー公演。地方へ向かった丞とはここ2週間ほど会えていなかった。
「大千穐楽はワタシも見に行くよ」
『ああ』
「評判がいいから楽しみだね」
『ああ』
ふと、誉は口を閉じる。電話越しに聞こえてくる、小さな呼吸の音。
「丞くん?」
すぅすぅと小さな音がする。
「おや」
『…ん。…ぁ、何か、言ったか…?』
「丞くん、お風呂には入ったと言っていたね」
『あぁ』
誉はペンを置くとゆっくりと立ち上がった。そして、バルコニーの柵に軽く腰掛けた。
「今はベッドかな」
『いや。…近くのソファだ』
「では。ベッドに入りたまえ」
誉は電話越しに衣擦れの音を聞いた。ごそごそと布団に潜るような音がして誉は一息つく。
『なあ、なんで…』
「丞くん。今日はここまでにしよう」
『は?』
少しだけ強い音がする。だが、既に丞は随分と眠たげで、今すぐにでも眠りに落ちそうだった。
「また、キミが帰って来た時に沢山話そう。明日も早いだろう?」
『まだ…』
「疲れてるんだよ。さあ、眠りたまえ」
電話の奥で渋る声が聞こえて、誉はくすりと笑った。どこかから聞こえる虫の声。随分と暗くなった空を見上げて、誉は電話越しに囁いた。
「おやすみ。丞くん。眠れないなら、子守唄代わりにポエムでも…」
『……いい。それでもいい』
「…おや」
いつもなら、断るところも今は違う。落ち着いた丸い声で、丞は強請っている。
「ふふ、丞くん」
『なんだよ』
「眠たいのだろう?」
誉が囁くと、あくびをする声がする。もう随分と眠たそうだった。
『眠たくない』
「そうかね。ふむ…困ったね」
そう言いながら、誉は嬉しそうに笑う。眠らないことに困っているのではない。本当は、愛おしくて堪らない恋人のことに困っていたのだ。
「ワタシも、明日は仕事なのだよ」
『…』
少しだけ響いたのかぐぅと小さく唸る。
『…あと少し』
だが、どうやら今日は本当に眠りたくないらしい。珍しいわがままに、誉の口は堪えきれずに弧を描く。
「…では、ワタシがキミの好きなところを伝えよう。それで、今日は切ることにしようね」
『……』
嫌々ながら納得した沈黙だと、誉は受け取った。
もう一度柵に腰掛け直して誉は小さな咳払いをする。
「丞くんの好きなところはだね…」
誉はゆっくりと、語り聞かせるように話し始めた。ひとつひとつ、頭の先からつま先まで。出会った日から今日の今まで。全てを大切に思い出しながら、誉は謳うように丞に語りかける。
「…ワタシの丞くん」
電話越し。静かな呼吸音が聞こえてくる。誉が口を閉じても、起きる様子はなさそうだった。静かな息と、たまに溢れる声。
誉は、目を閉じてそれを静かに聴いていた。
そして、すっと肺に息を吸い込んだ。満たされる肺といっぱいになった胸が、苦しくて心地良い。
「丞くん」
電話越しではない、今すぐに彼に会いたくて仕方がない。誉は、携帯を優しく握りなおす。そして、小さなリップ音を立てた。
「会いたいよ」
安心しきった寝息が聞こえて、誉はまた笑う。
こんなに無防備なら、今夜夢に出てしまうよ。
そんな冗談を飛ばして、誉は息を吐いた。
そろそろ、電話を切ろう。名残惜しく思いながらも、誉は最後に少しだけ聴いて、電話を切った。通話終了の画面を見て、誉は笑う。
そして柵から踊るように立ち上がると、ポケットに電話をしまった。それから、鼻歌混じりに部屋に戻る準備を始めた。
「モーニングコールは任せたまえよ」