砂塵俺がK-1の訓練を終えて間もなくの頃、神之池基地でK-1の事故が相次いだ。
海に落ちて行方知れずの者、滑空が届かず基地手前の防風林に突っ込み、機体ごと木っ端微塵になって死んだ者。
それらの事故を受け、しばらくの間はK-1での降下訓練が全面的に延期となり、近く順番が回ってくるはずだった鍵谷の訓練も白紙となった。
さらに、桜花搭乗員第一陣の鹿屋への移動が始まり、神雷部隊設立当初からの隊員たちが一斉に姿を消した。
残された俺たち後発組は空いた兵舎へと移動を命じられ、その中で俺は鍵谷と同室になった。
鍵谷は目に見えて元気を失った。
以前のように隊員たちと煙草をくゆらせながら冗談を言い合うこともなくなり、どこかひとりで黙りこくっていることが増えた気がする。
「最近、きーやの元気がないみたいだな」
兵舎裏で薪を割っていると、不意に背後から声がした。振り返っても誰の姿も見えず、下に視線を落とすと、そこには鳴子飛曹長が手を腰に、こちらを見上げていた。
「…きーや?」
聞き慣れない呼び名に首をかしげると、鳴子飛曹長はニッと口元を緩めた。
「鍵谷のことだよ。」
また妙なあだ名を付けたらしい。
「K-1の訓練が延期になってから、あんな感じです」
そう答えると、遠くに人の気配を感じ、俺はそっと兵舎の陰へと身を隠す。
一式の隊員とK-1の隊員は口をきくこと自体が咎められていたためだ。
鳴子飛曹長も俺に続き兵舎の陰へと身を寄せると、顎に手を当ててしばし何かを考えているようだった。
「むぅ…。てっきり、下宿先を離れたから塞いでるのかと思ってたが。そっちだったか」
鳴子飛曹長は吹き荒れる砂嵐に目を細めると額に押し上げていたサングラスをおろす。
「何か…してやれたら、いいんですけどね」
俺がそう呟くと、鳴子飛曹長は口角を下げ、うなずいた。
「きーや、人に見せないだけで、色々背負っているのかもな。ま、あいつのことだから、聞いても笑ってはぐらかそうとするんだろうが」
小さな身体で薪の山に腰を下ろし、鳴子飛曹長は遠くを眺めた。
「マエも無理するなよ。ま、ここで“無理しない“ことなんてそれこそ“無理“か」
鳴子はそう言って、自嘲気味に笑った
***
その数日後だった。
K-1は正式に「桜花」と名を与えられた。
桜の花のように散る運命を背負わされた機体…
そのままの意味に、俺は顔を顰めた。
***
滑走路の端で整備兵たちの怒鳴り声が飛ぶ中、俺は、訓練機を背に風を避けるように立っていた。
砂が地面を這い、時折舞い上がって目の中に入ってくる。視界の端で誰かの軍靴が近づく音がした。
「貴様、鍵谷上飛曹にご高説を垂れているようだな」
呼び止めたのは、坂本少尉だった。
学徒動員から飛行学生を経て、ここ神之池へとやってきた、まだ海軍の匂いもまとっていないような新任の士官だ。
「先に桜花に乗っただけで、いい気になっているのだろう?」
いつも鍵谷の周りにいる取り巻きの一人だ。
最近は、落ち込んだ様子で一人で過ごすことが多い鍵谷に話しかける隙がなく、苛立っているのだろう。
俺の前に、立ちはだかるようにして見下ろしてきた。
「俺は、鍵谷に聞かれたことを答えただけです」
そう答えると、坂本の口の端が歪む。舌打ちが風にかき消されず耳に届いた。
「鍵谷上飛曹は貴様が他の奴らから浮いているから気を利かせて話しかけているだけだ。貴様と同じ予科練出身のやつから聞いているぞ。貴様、男が好きなんだろう?」
…来た
予科練の頃からそういう類の嫌がらせはあった。だが認めたことはない。
かといって否定したところで、この手の連中は勝手に自分に都合のいい答えを脳内で用意している。
俺は無言で睨み返した。目の奥が焼けるように熱い。
「気色の悪い。日本中の男が命をかけて戦っている中、男を求めて海軍に入ったか」
言葉を発しようとした瞬間、風が強まり、口の中に砂が入り込んだ。
舌で奥歯をなぞると、またあのざらつきが舌に引っかかった。
言いかけた言葉が、砂のざらつきに押し戻される。
だが…その時、横から声が飛んだ。
「そこまでにしておけ」
振り返ると、鍵谷がいた。いつものように緩い笑みを浮かべながら、けれど目だけが笑っていなかった。
「お前のほうが上官かもしれねえが、予科練含めりゃ、俺らは七年軍にいる。一年前に学徒で入った大学生のインテリにはわかんねえだろうが、予科練にいたらな、男色なんてよくあることなんだよ」
坂本が何か言いかけたが、鍵谷は続けた。
「俺だって十五の頃、四人がかりで取り押さえられてケツを狙われたことがあったよ。死に物狂いで抵抗して、骨を折られて終わったけどな。掘られずに済んだのが奇跡ってだけで…。少し見目がいいとか、色が白いとか、大人しいとか。そんなだけで勝手に『こいつは掘れる』って言われて、勝手に狙われて、勝手に噂されて。」
風が再び吹き、砂塵が足元を撫でる。
鍵谷は前に出て、俺と坂本の間に立った。
「言いたいことがあるなら俺に直接言え。マエに教えを乞うのは、俺のためでもある。
坂本少尉。あんたはここでは数少ない学徒出身の士官だ。俺みたいなフラフラした奴と話すのは、ちょっとした気晴らしだと思ってた。楽しくやれたら、ってな」
坂本が唇を噛む。その顔に、悔しさか恥か、入り混じったような赤みが差していた。
「悔しくないのか!?」
「マエになら、悔しいなんて全く思わないさ。俺が知らない乗り方や、考えを持ってる。同じ土俵に立てるなんて思ってない。
二度とマエを悪く言わないでくれ」
坂本は返す言葉もなく、その場を離れていった。
砂を巻き上げる風だけが、しばらくその背を追っていた。
静かになった滑走路端。鍵谷がこちらを振り向いた。
「マエ、悪かったな。俺の周り、たまにこういうやつが出てくるんだよな」
笑っているが、少しだけ疲れたような顔をしていた。
「俺も罪な男だよなぁ。こういうことあると、マエみたいに一匹狼やりたくなるよ。…でも、俺は一人で黙ってられない性分なんだよな」
そして彼は、何事もなかったかのように空を見上げた。
茶色く霞んだ空には今日も砂が舞っている。その切れ間から、真っ青な冬の空がひとすじ、覗いていた。
その青さは、ただ眩しくて、どこまでも自分とは違う場所にある気がした。
***
外出日はまるで祭りのような熱気に包まれていた。
「どこの女がいい」とか「地元の娘に会いに行く」とか、そんな言葉があちこちで飛び交いながら、隊員たちは蜘蛛の子を散らすように門扉を抜けていった。
俺はひとり、誰もいなくなった基地の廊下を歩いていた。床に残る湿った足跡が、ついさっきまでの騒ぎを物語っている。
外へ出る気にもなれなかった。まだ馴染まぬこの基地で、特に訪ねたい場所もない。ただ歩きながら、以前の下宿の家にでも顔を出して手伝いでもしようか…そんなことを考え始めたときだった。
「おう! マエ!」
振り向くと、向こうから鍵谷がドタドタと大股で駆けてくる。肩で息をしながら、手には一升瓶を握っていた。
「探してたんだよ! お前、どこにも行かないのか?」
「行きたいところもないから、下宿の手伝いでもしようかと思っとったところやけど…」
そう言いながら、鍵谷の手元に目をやると、瓶が陽にきらきらと光っていた。
「前の下宿のおやっさんから、蛤どっさりもらったんだよ。食いきれないから、みんなで食おうぜ!」
誘われるまま着いて行ったのは、基地の外れ、掩体壕の裏手にある草地だった。人目につかぬその場所では、既に数人の一式陸攻の隊員たちが火を起こし、網に蛤を乗せていた。
「一式のやつらとつるむの、上に見つかるとまた怒られるからな、こんな場所だけれども。」
鍵谷は火のそばにしゃがみ込むと、一升瓶を地面に置きながら笑った。
「きーや、酒保開いてたか? …マエも見つかったみたいで良かったな」
火の向こうにいたのは、鳴子飛曹長だった。相変わらず小柄な体に大きな存在感。傍には大柄な若者が座っている。
「柚子も、もいできたぜ!」
鍵谷が袴のポケットから小ぶりな柚子を転がすように取り出す。鮮やかな黄色が夕暮れの草地に映えた。
「本当はすだちをかけたいんだけどな。地元じゃ、すだちが定番なんだ」
すだち。…そう言えば先日、彼が寝言で呟いていた言葉だ。
「鍵谷は徳島だったな。俺は大分だから、かぼすを使うよ」
鳴子飛曹長がそう言いながら、焼けた蛤に醤油を垂らす。ジュッと音を立て、香ばしい匂いが立ちのぼった。
柚子をひと搾りして、飛曹長は一口でそれを頬張る。すかさず酒をクイッとあおって目を閉じた。
「…うまっ」
思わず声に出たそのひと言が、やけに素直で、鳴子飛曹長の中に見え隠れする少年っぽさを感じた。
隣に座る若い兵は、鳴子が「ソノ」と呼んだ隊員だ。黙って焼けた貝を受け取り、照れたように笑う。
「こいつ、桜花の隊員だったんだけどな。体がでかすぎて機体に収まらなかったんだ。で、お役御免。前いた基地に返される予定だったんだが…ちょうど俺の部隊の副操縦士が肺患って入院したとこで、代わりに引き取ったんだよ」
ソノはその言葉にうなずきながら、焚き火の炎に照らされた鳴子の横顔をちらりと見る。その目は、尊敬にも似た色をたたえていた。
空には薄曇りが広がり、砂がゆっくりと舞いはじめる。風が吹くたび、焚き火の炎がふらふらと揺れた。
***
酒が進んでも、鍵谷はあまり蛤を口にしていなかった。
誰かの冗談に肩を揺らして笑ってはいたが、どこか一歩引いたような笑みだった。
火のそばで、鍵谷は煙草をくわえた。
ぱち、という音とともに火をもらい、煙をゆっくりと吐き出す。
吹き出された白い煙が、砂の舞う空に吸い込まれすぐに消えていく。
「俺はさ、みんなの話を肴に飲むのが好きなんだ」
そう言って、肩をすくめるように笑う。
そしてため息をつくように大きく煙を吐くとこちらに顔を向けた。
「俺の桜花の投下訓練、日程が決まったよ。明後日だ」
表情は変わらない。けれど、煙草をつまむ指先が、ほんの少しだけ震えていた。
「俺、雑なとこあるからさ。マエみたいに綺麗に降りられるか、ちょっと不安なんだよ」
くわえ煙草の先が微かに揺れる。風が吹き抜け、火先に溜まった灰をさらっていった。空中でほどけるように舞った灰は、すぐに砂に紛れて消える。
「本番は突っ込むだけだから、着地の必要はないのにな。訓練じゃ、着地が一番難しい。…おかしな話だな」
灰をさらった風の余韻が残る。鼻先をかすめた柚子の香りは、すぐにかき消された。
「鍵谷は、センスがいいから。風を読めば大丈夫」
鍵谷は、炎の向こうをじっと見つめていた。
煙草の煙が彼の輪郭を曖昧にする。
「…マエにそう言ってもらうと、やれる気がする」
そしてまた、煙草を口に運んだ。
その仕草は、冗談も気安さもまとっていない、どこか孤独をまとったものだった。
いつも陽気な男の中に、誰にも見せていない静かな芯が潜んでいるように見えた。
***
視界が、煙のように舞い上がる砂で霞んでいた。
北からの風が、基地の建物を軋ませるほど吹き荒れている。空は鉛のように重たく、雲の切れ間から時折のぞく冬の陽が、むしろ寒さを際立たせていた。
…こんな日に、飛ぶのか。
胸の奥で小さな警鐘が鳴っていた。
離陸を待つ一式陸攻が、滑走路の端でエンジンをうならせている。胴体の下には桜花が取り付けられていた。これに乗って鍵谷は帰ってくる。
中止命令が出ることを、祈るような気持ちで待っていた。
けれど、エンジン音が高まり、あっけなくそのまま機体は浮かび上がる。
「なんでこんな日に鍵谷の番なんだ…」
唇の裏で呟いた声は、風にかき消された。
それから何十分か、基地には緊張と沈黙が落ちていた。
訓練飛行は通常、発射の無線を一式陸攻から受け取ると、一定の時間で戻ってくるはずだった。が、もう降りてくるはずの時刻をとうに過ぎても、空は空白のままだ。
嫌な予感が形を持ち始める。
冷たい汗が背中をつたう。
風向きは北。強い向かい風の中なら、滑空距離は伸びない。
だとすれば…
落ちたのは、あの砂丘かもしれない。
俺は走った。
基地の南に広がる、あの起伏の激しい砂地へ。
砂が、顔を容赦なく打つ。
靴の中にまで入り込む砂を気にする余裕などない。
心臓の音が、風に勝る勢いで響いていた。
見えた。
地平線の向こうから、低く、這うようにして飛んでくる小さな影。
…桜花だ。
「低すぎる」
高度が、異様に低い。このままでは滑走路までは届かない…
その最中、びゅうと突風が吹いた。
ガクンと機体が沈み、桜花は砂丘の斜面に引き寄せられるように降下する。
そのまま墜ちるかと思った瞬間、鍵谷が機体を持ち直した。
そして、機体底部に取り付けられている橇をそっと、斜面に滑らせるように接地させる。だが…
橇が砂丘の窪みに引っかかり、機体はそのまま前のめりにひっくり返った。
「きーや!!」
呼びかけは、風に巻き上げられた砂で喉を裂かれ、咳に変わる。
それでも声を上げ、俺は機体へ駆け寄った。
桜花は半ば砂に埋もれ、橇は歪み、風防はひしゃげかけていた。
転覆した胴体の脇に膝をつき、素手で砂をかき分ける。冷たく乾いた砂が爪の間に入り込み、冷たさがじんわりと染みてくる。
風防に手をかけ、肩を入れて、全身を使ってこじ開けた。
「きーや!無事か!」
ギィ、と鈍い音を立てて風防が開くと、次の瞬間、顔中に砂を貼りつけた鍵谷が中から這い出てきた。
「やっちまった…」
苦笑とも照れ笑いともつかない顔で、鍵谷は俺を見た。
どこかバツが悪そうに目をそらしながら、ぽつりと呟く。
「…だから言ったろ、俺ぁ雑だって」
胸元から取り出した煙草を唇にくわえ、風を避けるように身をかがめながら燐寸を擦る。何度か風に消されながら、やっと一本に火がついた。
「切り離されてすぐ思ったよ。ああ、こりゃ駄目だなって。風が強すぎた。…でもな」
白い煙を吐き出し、目を細めながら俺を見た。
「訓練で死ぬわけにはいかない。マエならどうするか考えた。そしたらさ…風を読め、って言ってたのお前だったなって思い出したんだ」
砂丘の向こう、砂で霞む基地から何人かがこちらにかけてくる姿が見える。
「結局、滑走路まではもたなかった。でも、お前の言葉がなかったら、俺、もうここにいないよ」
吐く息が、白く尾を引いて消えていく。
「俺、最近ちょっとずつ変わってきてるんだ。訓練も、前より慎重にやるようになった。前は猪突猛進ばっかだったけどさ」
鍵谷はもう一度、火のついた煙草をちらと見てから、ぽつりとつぶやいた。
「…俺、マエと出会えてよかったよ」
冬の陽が、砂煙の向こうから射していた。
その光が、鍵谷の頬を橙色に染めている。
思わず目を細めた。
「俺も─」
そう言いかけて、声が出なかった。
乾ききった喉の奥が、上顎に貼りついている。
唾を飲み込むと、ざらりとした砂の感触が舌の奥にいつまでも残った。
よろめく鍵谷の肩に腕をまわす。
体重を支えながら、二人で基地へ向かって歩き出した。
砂の上に残る、二つの足跡。
この瞬間、はっきりと自覚した。
俺は、鍵谷が好きなんだ。
たとえ結ばれることがないとわかっていても、
その隣で、最後まで背中を支えていこうと決めた。
心が、静かに、しかし確かに前へ進んでいた。