さて、どうしたものか。
洗濯物を干しながら、竜胆は今日の予定を思い描いた。
九時。数件先の深井さん。高齢の彼女は息子夫婦に宅配を出したいのだけれど、集荷の手配がわからないと嘆いていた。だから出向いて手伝いましょうと申し出ている。きっと終わればお茶に誘われ二時間前後は固いだろう。
十一時。通りの向こうにあるベーカリー。食パンが焼き上がるのはその時間だ。ちょうど昨日切らしてしまったので買いに行かねばならない。これを理由に、深井さんとのお茶は切り上げさせてもらおうか。
それから十三時。これもまた約束事なのだが──。
ガチャリ、と。思考を遮るように扉が開いた。
現れたのは一人の男だ。彼はぼさぼさの頭をかき、一度大きく欠伸をしてからこちらを見た。「おはよう、まこと」妙に舌ったらずな挨拶には、竜胆もついほほえんでしまう。
「おはよう、御船。今日は早いじゃないか」
「いいにおいがしたから……」
ふらふらとテーブルに着いた彼──善知鳥御船は、船をこぎながら空のコップに手を伸ばした。洗濯物を脇に置いて竜胆もテーブルに近寄る。「貸してごらん。なんでもいいね?」返事を聞く前に烏龍茶を注ぐ。本当は起きて真っ先に白湯を飲ませたいのだが、曖昧に頷く善知鳥はすでにもそもそと食事をつついていた。
さて、どうしたものか。
再び自身に問いかけたところで、ピン、と竜胆の頭に電球がつく。
「御船。きみ、今日の予定は?」
「何も」
「ちょうどよかった。午後からいっしょに出かけないかい? ついでに昼食も外で済ませてしまおう」
「別にいいけど、どこに?」
「ナポリタンの美味しい、昔ながらの喫茶店だよ」
「はあ」
うろんげな目を寄越して、善知鳥はため息をついた。
「またか、お前」
対して竜胆はきょとりと瞬いた。向かいの席に腰掛けながら「何のことだい」と聞き返してやる。善知鳥は一瞥をくれただけで、味噌汁に口をつけてしまう。
面倒がったな、こいつ。
そう察して、代わりに竜胆が続けた。
「実はね、大学の同期と会う約束をしているんだ。相談があるみたいなんだが、どうも事情が込み入っていて同じ職場の人間には話しづらいらしい。もしよければきみも同席して、何か気づいたら教えてくれないか?」
*
「お前には悪いが、あの男、いまいち信用しきれないな」
喫茶店からの帰り道、善知鳥は淡々と告げた。
あの男、とは今しがた二人が喫茶店で出会った相手だ。竜胆の大学時代の同級生。現在は都内の中病院に勤務している。特に仲がよかったかのかと問われれば「ふつうに仲がいい」と返すべきだろう。いくら世話焼きの竜胆でも、幼馴染の善知鳥以上に深い付き合いをしている相手はいないので、どうしてもそう返さざるを得ないのだ。
「あいつが? どうしてそう思ったんだ」
「……気を悪くしたならやめるけど」
「いいよ、構わない。続けてくれ」
善知鳥は一度目を伏せ、左手、と呟いた。
「左手の薬指にわずかな日焼け跡があった。普段はきっとつけっぱなしなんだろう。にも関わらず今日はしていない。けれどお前に指摘され家でなくしたといっていたが、その瞬間頭をかいたな? 何かを白状できない気まずさがあったに違いない。それから話題に出てきた新人の看護師。今日の相談事は彼女から聞いた話だと言っていたが、実際は二人で現場に立ち会ったんじゃないか? 途中、気づかない程度に自身の所感を混ぜていた。ただ本来であればお互いにその時間、その場にいてはいけない事情があったんだろう。だから職場内では相談ができず、外部のお前に持ちかけて──」
流れるように続いた言葉が止まる。
ぼんやりした黒目がちらりとこちらを伺った。それから「……きたんじゃないかと、俺は思う」なんてもごもご呟くものだから、竜胆はもはや笑うしかなかった。
「さすがよく見てるなあ。教えてくれてありがとう御船。もしそれが本当なら、あいつも相変わらずだ、としか言えないな」
「常習犯か」
「大学の時はな。何度も僕が間を取り持ったさ」
「……ほどほどにしておかないと、お前が刺されるぞ」
「わかってる。だから一度強く灸をすえてやったよ。ただあいつも性分らしくてな、悲しんでいる女性を見るとつい励ましてやりたくなるらしい。その結果、次々と自分の恋人を泣かす羽目になり散々だった」
「本末転倒だな」
「全くもってその通り。正直見ていられなかったよ。だから、心意気はいいが何故そこで手を出すんだ、恋人がいるのに我慢ができないなら初めから声をかけるな。代わりに僕に言え、こちらで相談に乗っておくからと言ってやった」
「ちょっと待て」
「どうした?」
「おかしくないか今の」
「何がだい?」
「……いや、とりあえず続けてくれ」
「ああ。その後も何度かすったもんだしたものだが、彼の努力もあり連鎖は次第に減り、ようやく一人の女性の元に腰を落ち着けたわけだ。彼女も彼の性分をよく理解して、うまく躾けられる人だったからね。これでようやく安心できたと思っていたんだが……十年経って、なあ」
信号が赤になり、二人は立ち止まる。
目の前を車が横切った。かと思えば、横断歩道の向こうに一組の親子が見えた。繋いだ手を、楽しそうにゆらゆらと揺らしている。
「とはいえ、だ」竜胆は、善知鳥を仰ぐ。「あいつが指輪は家でなくしたという以上、僕はその言葉を信じるよ」
「お前がそう思うなら、そうすればいい」
「ああ。だからといって御船、きみの言葉を否定するわけじゃないぞ。どちらもありうる話だ、可能性の一つとして受け取っておこう。どう転んでもいいように、心構えでもしておくさ」
「そうか」
信号が青に変わった。対岸の親子も笑顔で歩き始める。それに倣うように、竜胆も善知鳥の背を軽く押してやった。
「ところで、本当にいいのかい? 仕事でもないのに、きみまで見回りに協力してくれるなんて。彼とは初対面だったろう?」
「あのなあ」言われなくても、とばかりに善知鳥はゆったり歩き始める。「俺が行かなかったら、お前一人で行ってただろ?」
「そりゃあもちろん、彼は僕を頼ってきたんだから。でも本当に助かるよ。僕一人では、数日夜を見張ったところで何もわからなかったかもしれないし。御船が手伝ってくれるなら、きっと一晩で片付くだろうね」
「いい結果になるとは限らないけどな」
「その時はその時さ。何が最善かなんて、やってみないとわからないよ。なんにせよ、あいつにもきみの人の良さが十分伝わったはずだ。僕は誇らしいぞ御船!」
「あ、そう」
善知鳥はため息をついて、背を丸くした。
一体どうしたのだろう。よく分からず背をさすれば、いつものように伏せがちの瞳が竜胆を見下ろした。首を傾げれば、肩をすくめて流されてしまう。
言いたくないなら仕方がない。
代わりとばかりに、竜胆はわかりやすく陽気に笑う。
「それにしてもあいつ、中々驚かせてくれるよな。まさか自分の勤め先に────脱走犯が潜んでいるかも、なんてさあ!」
パッと。
二人の背後で、信号が赤に変わった。
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