汚れている僕らは、笑っていた汚れている僕らは、笑っていた
第1話 落ちてきた男
地下深くにある研究施設――通称「バンバン幼稚園」。
そのさらに奥深く、「王国」と呼ばれる隔離領域がある。
紫と緑の不気味な装飾に囲まれたそこには、“人ならざる者たち”が暮らしていた。
「……また、今日も不作ですかね」
王国の片隅。
ビターギグルは大きな試験管を覗き込みながら、肩をすくめていた。
左腕は人間のように動くが、右腕――蛇のようにうねる”ハングリースネーク”がピクリと動いた。
「笑わせるって、ホント難しいですね。相棒さんも今日は来てないし」
そう呟いたその時だった。
天井の非常口に設置された赤いランプが、唐突に点滅し始めた。
警報音も鳴らず、ただ淡く灯るだけ。
「……何か、落ちてきますね」
頭上のパイプが軋み、グワン、と空気が震えた。
その瞬間、天井のハッチが弾け飛び、何かが――誰かが、降ってきた。
「……いてっ……!? って、うわ!?」
地面に叩きつけられた人影は、思いきり尻もちをついていた。
褐色の肌、銀白の髪。
乱れた前髪の間から覗く青いメッシュが、照明にきらめく。
「な、なんだお前……人間……?」
「お前……誰だ?」
睨み上げてきた青年は、サングラスを少しずらしながら、声を低くして言った。
ビターギグルは首を傾げる。
「私はビターギグル、ジョーク研究担当です。で、アナタは?」
「……レイジ。レイジ・ツチヤ」
その時だった。
彼の目が、まっすぐビターギグルを見た。
「お前……おもしれぇ顔してんな」
「…………は?」
「いや、顔っていうか、身体? 蛇? 緑? 紫? いや、なんだそれ。最高だな」
ビターギグルは一歩、後ろに下がった。
「ちょっと待ってください。いきなり現れて、初対面で、その……なんというか、センス、独特ですね」
「俺、こういうの、嫌いじゃねぇよ」
レイジは屈託なく笑った。
その笑いは明るくて、でもどこか――壊れていた。
「……」
ビターギグルは彼から目をそらせなかった。
人間はこれまでにも見てきた。だが、こんな風に真っ直ぐに、こちらを面白がる目で見てくる者は初めてだった。
「……まあ、せっかく落ちてきたんですし、王国の案内でもしましょうか。アナタみたいな人間、ちょっと珍しいですしね」
「へえ、優しいじゃん」
「いえ、警戒してるだけです。信用はしてません」
「へえ。じゃあ、俺に信用させてみろよ。なぁ、ビターギグル」
ビターギグルの眉がぴくりと動いた。
――名前を、呼ばれた。
「……アナタ、なかなか変わってますね。ま、そういうの、嫌いじゃないですけど」
研究室の扉が開く。
こうして、マスコットと人間の奇妙な関係が始まった。
ビターギグルはまだ知らない。
この男が、自分の中に新たな“感情”という毒を流し込むことになるとは。
第2話 「毒入り研究室と、しつこい訪問者」
ビターギグルの研究室には、ドアがある。
……あるにはあるが、ロック機能が意味を成していない。
「ビターギグルー!開いてるじゃん、やっぱ!」
「開けた覚え、ないんですけど……?」
今日もまた、レイジが勝手に中へ入り込んでくる。
「なに?なんか作ってんの?」
「ええ、今日は“鼻からマジカルうどんを出す実験体”を試作してまして……いや、アナタも黙って見ないでくださいよ」
「なんか……ごめん。笑えねぇタイプのやつだったわ、それ」
「言われたくないですよ。アナタ、人の部屋に勝手に上がってくるほうが、だいぶホラーです」
研究室の中は、色とりどりの実験体たちが眠るカプセルで埋め尽くされている。
それぞれ、体のどこかが欠けている。
その姿を見てもレイジは顔色ひとつ変えず、ビターギグルの後ろをふらふらとついて回る。
「……なあ、こいつらはさ。なんで欠けてんだ?」
「設計ミス、素材不足、あるいは……失敗。どれも正解ですね」
「……そっか」
ビターギグルは、その問いに肩をすくめた。
だがレイジは、ほんの一瞬、真剣な目で彼を見つめる。
「お前さ」
「はい?」
「自分のこと、失敗作だと思ってたりする?」
「……それ、笑いどころですか?」
「本気で聞いてんだけど?」
ビターギグルはふい、と視線をそらす。
「私は、笑わせたいんです。人を、アナタを。
でも、笑いって、正解がないでしょう? だから、毎日どこか、失敗の連続ですよ。
けど、それでいいと思ってる。思って……る、つもりです」
「そっか」
レイジは、いたずらっぽく笑った。
「じゃあ、俺が笑ったら、成功ってことでいいよな」
「いや、アナタ、しょっちゅう笑ってるじゃないですか」
「お前が原因の笑い限定でって意味だよ」
「……面倒くさいですね、アナタ」
そのくせ、ビターギグルの右腕――ハングリースネークが、くすぐったそうに小さく揺れた。
「なあ、泊まってってもいい?」
「だーっ! なんでそうなるんですか!? 私、部屋はここだけなんですよ!?」
「地上戻るのめんどい」
「それアナタの都合でしょ!!」
「床でいいって、床で。ていうか、ここ毒ある?」
「ありますよ。アナタの吸ってる空気にすら、ジバニウム微粒子が含まれてます」
「へぇー。毒吸って生きてるって、俺とお前、似てんじゃん」
ビターギグルはその言葉に、一瞬、返す言葉を失った。
「……似てる?」
「ああ。なんか、そういう感じ、あるだろ」
沈黙。
ほんの数秒。
「……はぁ、もう。わかりました。そこ、空いてるから使ってください。毒は多めに出しておきますけど」
「ありがと。お前って、ほんと優しいな」
「優しくないです。むしろ、これがギャグになるならっていう、投げやりな慈悲です」
レイジは、床に寝転がりながら、目を細めた。
「……なあ、ビターギグル」
「なんですか?」
「もしさ、俺が毒で死んだら、ちゃんと笑ってくれよな。俺のこと」
ビターギグルはしばらく、何も言わなかった。
「……冗談なら、やめてください」
その言い方が、少しだけ優しかった。
そして、レイジは眠りに落ちた。
ビターギグルは彼の寝息を聞きながら、そっと右手を胸元に置いた。
そこには、鼓動はない。ただジバニウムが、ゆっくりと流れているだけ。
――それでも今夜は、なぜか温かかった。
第3話 「お前ってさ、何味?」
朝――なのか夜なのかも分からない、地下王国の時間。
ビターギグルは、研究室の片隅でひとり、コーヒー(らしき液体)をすすっていた。
「はぁ……寝苦しかった……」
「おはよーっす!」
「うわあああっ!? なんでアナタが私の後ろに!?」
「床で寝てたら、腰がイカれてさ。ちょっと背伸びしようとしたら、そのままスライドしてったんだよ。気づいたら、お前の真後ろにいたわ」
「物理的にどうやったらそんな移動できます!? っていうかパーソナルスペースの概念を学んでくださいよ!」
「いや、お前が狭いんだって」
「狭いのは部屋ですよ!」
ビターギグルは頭を抱えながら、蛇の右腕でレイジをそっと押し返した。
「それ、朝メシ?」
「ええ、ジバニウム入り合成コーヒーと、バイオパンケーキ……毒味します?」
「死ぬやつじゃん」
「……やっぱアナタ、少し食べてほしいんですよね。人間がこの量のジバニウムにどこまで耐えられるのかって……」
「やめろ実験体みたいに見るな。俺、一応元・高校球児だぞ」
「アナタ、それ完全に過去の栄光じゃないですか」
「お前も今じゃ栄光のジョーク芸人じゃねぇか」
「芸人って言うな!!」
やかましい朝だった。
でも、どこか、悪くなかった。
「なあ、ビターギグルってさ」
「はい?」
「味、あるの?」
「……アナタ、私の何を味わうつもりですか?」
「いや、違ぇよ!? 食うとかじゃなくて!」
レイジは頭をかくと、少しだけ声を低くした。
「なんていうかさ。触ったら、冷たい? 温かい? それとも毒?」
「ジバニウムの温度は常に中性です。触ればぬるいし、静電気が走ることもあります。
ただ……」
「ただ?」
「アナタが触った時だけ、少し、違う感じがするんですよ」
「……どんな感じ?」
「うーん……擬音で言うと、“ぴとっ”て感じ?」
「それ温度とか関係なくね?」
「そうですか?」
ビターギグルは、不思議そうに自分の腕を見つめた。
レイジはそれを見て、ふと手を伸ばしかけたが――やめた。
「おい、触んないのか?」
「……今日はやめとく。お前、最近ちょっと調子よさそうだから」
「……なんですか、その気づかい……」
「え? 俺、優しいからな?」
「自分で言っちゃいます?」
「つーか、お前が今ちょっとだけ“触られたがってる顔”してたの、俺は見逃してないからな」
「違います! 被害妄想です! あとその観察眼、気持ち悪いです!」
そう叫んで背を向けたビターギグルの後ろで、レイジが小さく笑った。
「でも、まぁ」
「……なんですか、まだ何か?」
「俺はたぶん、お前が毒でも食える気がするんだよな。
マズそうだけど、なんか……後引くっていうかさ」
「やっぱりアナタ、私を食べ物として見てますよね!?」
「いや、味って意味の話な!!」
騒ぎながらも、二人の間に流れる空気は、どこか“ぴとっ”とくっついていた。
不器用で、うるさくて、でも、なぜか落ち着く。
そんな関係が、少しずつ――ほんの少しずつ、形になっていこうとしていた。
第4話 「その気持ちに、名前があるなら」
ビターギグルの研究室に、今日はレイジの姿がない。
「……珍しいですね」
片付けられていないカップ、床に落ちたバンドの切れ端、椅子にかけたままのオレンジのサングラス。
「アナタ、ほんと、雑な生活してますね……」
そう言いつつ、ビターギグルはサングラスを拾い上げる。
無意識のうちに、ほんの少し、指が震えていた。
「……いないと、静かすぎるんですよ」
いつもはうるさい。
騒がしい。
勝手に笑って、勝手に触って、勝手に毒の中を歩き回る。
けれど、今日は静かだ。
――寂しい、のか?
いやいや、違う。
「これはたぶん、騒音が消えて静寂に適応してないだけ。ええ、そうです。環境反応です。
……でも、なんでサングラスを、まだ持ってるんでしょうね、私」
その時、ドアが乱暴に開いた。
「ビターギグルー!腹減ったー!」
「今さら来るなぁぁぁぁぁっ!!」
レイジは笑いながら、いつもの調子で研究室に飛び込んできた。
「ほら、パンケーキの残りあったろ? あれ食っていい?」
「ないですよ!毒入りなんですよ!?なんで毎回食う気満々なんですか!」
「毒くらいで死ぬタマじゃねぇし」
「アナタの耐性、そろそろデータ取りたいですね……。っていうかサングラス、ここに置きっぱなしでしたよ」
「ん、ありがと。あ、それ今日の分な!」
レイジは、当然のようにサングラスを受け取って――ビターギグルの頭に、ぽんと手を置いた。
「……?」
「サングラス返してくれたお礼。あと、俺がいなくて寂しかったんだろ?」
「ち、違います。私はただ、視界に異物があると落ち着かなくて……っていうか、なんで触るんですか!」
「いや、そっちからくれたから、なんとなく。お前、頭さ……あったかいな」
「え……?」
レイジの指は、一瞬だけだったが、たしかに優しかった。
ぴとっ、ではない。
ふわりと、包むような温度。
「あー、なんか今日のお前、ちょっと変な顔してる。怒ってんの?」
「怒ってないです」
「え、照れてんの?」
「それはもっとないです」
「じゃあ……なんだ?」
「わかりません」
言ってから、自分でも驚いた。
ビターギグルは、たしかに今、“わからない”感情を抱えていた。
喉の奥がむず痒くて、ハングリースネークの先がうずいている。
なんだこれ。どこかの神経がバグってる?
「……ああ、わかりました。これ、たぶん新種の症状ですね」
「症状?」
「はい、“アナタの存在に対する過剰適応反応”です。仮名ですが……」
ビターギグルは、レイジを見ないまま言った。
「“恋”っていうやつかもしれません」
沈黙。
レイジは、一瞬だけ動きを止めた。
だがその顔に、照れたような笑みが浮かぶ。
「へぇ」
「……へぇ、じゃないですよ」
「お前が言うと、なんか可愛いなそれ」
「可愛いとか言うなあああ!!」
いつもより1.2倍くらい大きな声で叫びながら、ビターギグルは顔を背けた。
レイジは、まだ何も言わない。
でもその背中を見ているビターギグルは、もう知ってしまった。
「私、アナタのこと……好き、なんですかね。やっぱり」
その言葉は、彼の胸の中だけに落ちていった。
第5話 「それ、恋かもなって思った昼下がり」
「お前、何食ってんのそれ」
「“バグチップス”ですよ。味は“かつて甘かった記憶風味”らしいです」
「記憶の味ってなんだよ。こえぇよ」
「じゃあアナタも食べてみます? もしかしたら初恋の味がするかもしれませんよ?」
「いや、それはもっとこえぇよ!!」
ビターギグルの研究室。
今日もレイジは当たり前のように居座っていた。
「ていうかさ、俺のスペース作ろうぜ、そろそろ」
「は?」
「いや、ここ半分、俺の部屋ってことで。名前もつけよう。“レイグルルーム”」
「混ぜるな!!」
「じゃあ“ビタレジ実験室”?」
「余計に混ざってます!!」
そんなふうにふざけ合いながら、二人は並んで椅子に座っていた。
以前なら考えられなかった距離感だ。
ふと、レイジは手を伸ばして、ビターギグルの左肩をつん、と指でつついた。
「なに?」
「うーん、なんとなく。お前って、やっぱりさ……触ると落ち着く」
「私はアナタの精神安定剤じゃないんですよ……」
「いや、違う違う。落ち着くっていうか……その……」
「その?」
「“好きな人に触れてる時の感じ”に、似てる気がする」
「…………」
「って、今のは別に“お前が好き”って意味じゃなくて、いや、意味かもしれないけど、でもちょっと例えがヘンというか、わかる?あれだよ、“ふわふわしてんな~”ってやつ……」
「あの、レイジさん」
「……なに?」
「落ち着いてください。ジバニウム吸いすぎました?」
「吸ってねぇよ!」
ビターギグルは笑った。
レイジは顔をそむけた。
だが、耳の端がほんのり赤くなっていた。
――あれ。
俺、今、何を口走った?
言ったあとに気づく。
そして、気づいてしまった自分に、ぞくりとした。
(これって、やっぱり……好きなのか? ビターギグルのこと)
それは“人間とマスコット”というカテゴリを軽く超えるものだった。
だけど、そのことに、今さらブレーキなんてかけられなかった。
その日の夜。
研究室に寝転がりながら、レイジは目を閉じていた。
「……ビターギグル、寝たか?」
「ええ、寝たふりしてますけど」
「うっわ、寝てないのかよ……」
「気になってしまって」
「なにが?」
「アナタの寝息のリズム、毎晩ちょっとだけ変わってるんですよ。今日は少し、落ち着いてる」
「お前……俺の寝息、記録してんの?」
「記録じゃなくて“観察”です。興味本位です」
「変態かよ」
「“変態”って呼ばれるの、アナタからが初めてですね。記念日です」
「お前なぁ……」
レイジは少しだけ笑ったあと、天井を見つめた。
「なあ、ビターギグル」
「なんですか?」
「俺、まだ“汚い”の引きずってるかも。自分のこと」
「……」
「でも、お前といるとさ。ちょっとだけ、“それでもいいのかも”って思えてくる」
「……それ、嬉しいですけど……」
「けど?」
「私がアナタを変えてると思うと、なんか責任、重いです」
「バカか。そうじゃねぇって」
レイジは、目を閉じて、声を落とした。
「お前が重いんじゃなくて、
俺の中にまだ、重いもんが残ってんだよ。捨てられねぇくらいのやつがさ」
「…………」
「でも、もしもそれでも――お前が俺を見てくれるなら、たぶん俺は、笑える」
レイジのその言葉は、静かに夜の中に沈んでいった。
ビターギグルは何も返さなかった。ただその横顔を、そっと見ていた。
……そして、自分の右手が、勝手に動きかけているのに気づいて止めた。
“ぴとっ”と触れたいだけなのに。
なぜか、それが今は許されない気がした。
重たい夜が終わる。
だけど、その重さをお互いがまだ言葉にできないまま、朝が来る。
それでも、二人はまた笑う。
それだけは、きっと、ずっと変わらない。
第6話「この距離が、ちょっとだけ、近すぎた夜」
「なあ、ビターギグル」
「はい」
「お前の顔ってさ、毎日見てるのに……見飽きねぇな」
「急に何を言い出すんですかアナタは」
「いや、なんか……ずっと見てても変わんねぇなと思って。
人間って、誰でもちょっとずつ変わってくるじゃん。シワとか、目の焦点とかさ」
「マスコットに老化現象はありませんからね。
……ただ、ジバニウムの濃度は日によって違いますよ?」
「じゃあ今日は?」
「アナタが来てから3.2%上がってます。……面倒くさい影響ですよ」
「俺のせいかよ」
そんなふうに、軽口を叩きながらも、レイジはその場から動かなかった。
いつものように、ふざけて絡んで、笑って、
そういう距離感だったのに――今日は違った。
「なあ」
「なんです?」
「手、出してみて」
「……またなんかするつもりですか?」
「いいから」
警戒しながらも、ビターギグルは左手を差し出した。
人間に似たその腕。表面はすべすべで、冷たくて、でも、確かに命を感じる。
レイジはその手を、ゆっくり、両手で包んだ。
「……」
「……なんですか、急に」
「お前って、やっぱりあったかいよな」
「ぬるいだけです。ジバニウムの性質で」
「それでも、俺にはあったかいって思える」
目が合った。
冗談じゃない顔。
本気でもないけど、真剣な顔。
ビターギグルは視線を逸らせなかった。
「……レイジさん、近いです」
「わかってる。……でも、止まれない」
レイジの手が、ゆっくりとビターギグルの頬に触れた。
そこには、紫と緑の皮膚。人間のそれとは違うけれど、美しく整っていた。
「ほんと、綺麗。なのに、なんでだろ」
「なんです?」
「触れてると、“俺なんかが”って思う」
「……」
「それでも、今、触れてたいって思ってる自分がいてさ……
それってさ」
レイジの顔が、ほんの数センチまで近づいた。
ビターギグルは動けなかった。
彼の手が、首筋をなぞるように滑っていく。
視線も、吐息も、温度も、全部が近くて、心臓の音が聞こえる気がした。
「レイジさん……」
「……ごめん、ビターギグル」
そのまま、唇が触れそうになる――その瞬間。
ビターギグルは、そっと右手(=ハングリースネーク)を伸ばし、レイジの額をつついた。
「ちょっと冷ましましょうか、“脳”の方を」
「……あいてっ!」
蛇の舌先がぴしりとレイジの額をはたいた。
レイジは少し離れ、ばつの悪そうな笑顔を見せる。
「止めたな」
「ええ。アナタの中に、“誰かを抱きしめることで、自分を許したい”って気配が見えたので」
「……またそうやって見抜く」
「私は観察が得意ですから」
レイジは、苦笑しながら少しだけ距離を取った。
だが、その目には、うっすらとにごった感情が浮かんでいた。
「なあ、ビターギグル」
「はい」
「俺、お前のこと好きだと思う。……いや、思うじゃなくて、好きなんだと思う」
「……」
「だけど俺、自分のことがまだ好きじゃねぇ。
そういうやつが人を好きになるのってさ、ダメなんじゃねぇかって……
今日、触れてみて思った」
静かな沈黙。
研究室の蛍光灯が、ゆらりと音を立てて瞬いた。
「アナタが“ダメ”かどうかは、私にはわかりません。
でも、今のアナタの気持ちは、“ちゃんと”届いていますよ」
「……じゃあ、何か答えてくれよ。
好きとか、嫌いとか。……今、言ってくれたっていいだろ」
「それはできません」
「……なんで」
ビターギグルは、蛇の右腕をそっとたたんで、椅子に腰を下ろした。
「だって、私はまだ“アナタの好き”が、本当に“私へのもの”なのか、見極められていませんから」
レイジは、黙った。
「誰かを好きになるっていうのは、“その人と一緒にいる未来を想像すること”でもあります。
アナタは、まだ“その場しのぎの温もり”で、動いてしまう人ですよね?」
「……」
「それを責めているわけじゃないんです。
アナタがそうしてきたのは、アナタのせいじゃないですから。
でも私は……」
ビターギグルは目を閉じた。
「アナタが私を抱くなら、“今だけ”じゃ嫌です」
レイジはその言葉に、少しだけ息を呑んだ。
しばらくして、ぽつりとつぶやく。
「……わかってるよ。俺だって……俺だって、そうなりたいと思ってる」
「なら、もう少しだけ……毒の濃度を調整して待ちますよ。
焦らず、ゆっくり、ジバジバと」
「……その“ジバジバ”って地味に怖いな」
「ジバニウム、ですから」
「いや、意味はわかるけども」
少しだけ、ふたりは笑った。
だけどその笑いの奥には、
まだ言えないこと、触れられない傷、乗り越えられない壁が確かにあった。
その夜。
レイジはベッドに潜り込みながら、小さな声でつぶやいた。
「……俺、ほんとはずっと、誰かに“止められたかった”だけなのかもな」
その言葉は誰にも届かず、暗闇の中に消えていった。
だけど隣で、目を閉じたビターギグルの指先が、静かに震えた。
それは、レイジの言葉が――毒みたいに、
確かに、彼の中に残った証だった。
第7話「バンバン王国内、初デート的散歩計画」
「おいおいおい、聞いてねぇぞ!? なんで俺がお前の“実験材料たち”の部屋に連れてかれてんの!?」
「“おでかけ”です。“仮想的なデート”のシミュレーションです」
「場所が悪すぎんだろ!!」
レイジが連れて来られたのは、王国の片隅にあるビターギグルの研究スペース。
そこには、奇妙で愛らしく、どこか寂しげな“未完成のマスコット”たちが佇んでいた。
身体が半分しかないもの。
色素が混ざってしまったもの。
音にしか反応できない個体。
けれど、そのどれもが、静かにレイジを見つめていた。
「彼らが、私の“かつての冗談”の結晶です」
「……冗談って、作り物の笑いのことだと思ってたけど」
「違いますよ。
“笑わせたい”という気持ちの暴走が、こうなったんです。
私はかつて、“完璧なギャグ”を生み出すために、いろんな実験をしました。
それこそ、心も、身体も、捨ててでも」
「……」
「だから、こういう“笑えないもの”ばかりが、残ったんです」
その目は、少しだけ遠くを見ていた。
レイジは黙ってそばに立っていた。
「でも、今は違います」
ビターギグルはレイジの方を向いた。
「今は、誰かの笑顔を奪うんじゃなくて。
“笑顔が残るようなギャグ”を作りたいと思うようになった」
「……」
「それは、アナタの影響かもしれませんね」
レイジは少し照れくさそうに笑った。
「じゃあさ、今日はその“ギャグ”の練習日だな」
「え?」
「デートっぽく、あちこち歩いて、“笑顔を残す”の試しってことで」
「……なるほど。いいですね。
では、笑顔確認のために、今からアナタに“フルーツ頭乗せチャレンジ”やってもらいます」
「なんでだよ!!」
その後、二人は王国内のあちこちを回った。
崩れかけた教室の跡地で、紙飛行機を飛ばし合い。
保存食庫で、期限切れのキャンディーにツッコミを入れ。
通気ダクトの上で、二人で寝転び、天井のランプを見つめた。
「あー、なんか変な味が残ってんな……これが“地下の味”か」
「アナタが“地底人”になる日は近いですね」
「そしたら俺、もうちょい目立つ色に変身するわ。なんなら頭ピンクとかでいいし」
「どうせならツノも生やします?」
「お前、センス壊滅的だな……!」
「ほめ言葉として受け取っておきます」
笑い合って、ふざけて、
そして――ふと、沈黙が訪れた。
レイジが、つぶやいた。
「……なあ」
「はい」
「こういう時間、ずっと続けばいいのにな」
「……ええ」
ビターギグルは、いつものように優しい笑みを浮かべていた。
だが、その時。遠くで、カチッという微かな音が鳴った。
機械の起動音。
施設の非常用アラートの一部。
ビターギグルの表情が、すっと消える。
「……おかしい」
「なにが?」
「この時間帯に、警告音が鳴る設定にはしていないはずです」
「……また施設の誤作動?」
「いえ。これは……“外部からの侵入検知”の音です」
レイジの背中に冷たい汗が走る。
「“外部”?ここに?」
ビターギグルはすぐに立ち上がり、通信端末を操作した。
「……レイジさん。今すぐ、私の部屋に戻ってください」
「な、なんで……」
「アナタにはまだ、“見せたくないもの”があるんです。
もし、ここに入ってきたのが――私が知っている“アレ”ならば」
「アレって……」
「最悪、“実験の続きを求めている者”かもしれません」
「……」
「レイジさん。もし、もしも私がいなくなっても……アナタは、自分を“笑わせる方法”をちゃんと、見つけてください」
「……やめろって、そのフラグみたいな言い方」
「言葉は“冗談”であっても、行動は“本気”にします」
その言葉を最後に、ビターギグルは一人で廊下を駆けていった。
レイジは、その背中に手を伸ばせなかった。
“こんな日に限って、ちゃんと楽しかった”
その事実が、余計に胸を苦しめるのだった。
第8話「笑い声のない王国で」
ビターギグルが姿を消してから、三日が経っていた。
レイジは、王国中を走り回っていた。
毎日、隅から隅まで、目についた扉を片っ端から開け、誰かが残した気配をかき集めて。
「なあ、どこ行ったんだよ、ビターギグル……」
笑い声がない。
ふざけ合いも、軽口も、意味不明な実験説明もない。
ただ、静かで、薄暗くて、寒い。
それだけが、彼の不在をはっきりと告げていた。
「俺、まだ……お前に何も、返してねぇのに……」
ふと、いつかふたりで歩いた実験体の部屋に入る。
誰もいない部屋。
けれど、ビターギグルが並べていたサンプルノートや、異常検知装置のログはそのまま残っていた。
「ん……?」
レイジはモニターの記録に、微かな動きを見つけた。
「この時間……昨日の深夜……?」
カメラには、紫と緑の影が、非常通路の奥へと歩いていく様子が映っていた。
「……行ったな」
レイジは、歯を食いしばった。
「待ってろよ、必ず連れ戻す」
非常通路の先は、普段封鎖されている“旧セクター13”だった。
研究所の旧区画で、今は誰も立ち入らないエリア。
瓦礫。割れたガラス。剥き出しの配線。
その奥、レイジは一つの部屋の扉を見つける。
鍵は開いていた。
「……ビターギグル」
室内には、冷たい空気と、重たい沈黙だけがあった。
「……アナタ、やっぱり来ましたか」
レイジが振り向くと、部屋の奥――冷凍実験室の機材のそばに、ビターギグルがいた。
その姿は、いつもの余裕の笑みではなく、静かな覚悟を纏っていた。
「ここに、何があるんだよ」
「……私が生まれた、原初の記録です。
そして、私の“コピー”が、一体だけ、冷凍保存されている場所」
「コピー……?」
「“笑いを与える者”として最初に作られた試作体です。
私と違って、完全に笑いを拒絶した個体。
唯一、私が“勝てなかった存在”です」
「……それが、動いてるのか」
「おそらく、誰かが……“再起動”したのでしょう。
私はそれを止めに来たんです。今度こそ、完全に」
レイジは、一歩近づいた。
「なんで、一人で来た。
俺に言えよ。お前、言ってたじゃん。
“笑顔が残るようなギャグを作りたい”って。
……それ、俺と一緒にやるんじゃなかったのかよ」
ビターギグルは静かに目を伏せた。
「……アナタを巻き込みたくなかった。
私は、アナタの“笑顔”を見たいんです。
……そのために、アナタをここに置いていくつもりでした」
「バーカ」
レイジは彼に一歩近づき、がしっと両肩を掴んだ。
「俺はもう“ここ”が居場所なんだよ。
毒だらけの研究所で、お前のくだらねぇ冗談に笑って、
バカみてぇにふざけあって、でもそれが、全部――俺にとっては救いだった」
「レイジさん……」
「だから、お前が一人で戦うなんて、もう二度とさせねぇ」
沈黙が流れる。
やがて、ビターギグルがふっと、いつものように笑った。
「……やっぱり、止めておけばよかった」
「なんでだよ」
「だって、“アナタといる未来”を、今、想像してしまいましたから」
「……」
「それが見えた瞬間に、私……少し、怖くなったんです」
レイジはビターギグルの頬に手を添えた。
「俺が横にいる。
お前が笑うなら、それを俺が守る。
だから……帰ろうぜ」
一瞬の静寂ののち、ビターギグルは目を閉じた。
「……はい」
ふたりは、実験室の扉を背にして、静かに歩き出した。
けれどその背後。
誰もいないはずの冷凍区画の奥、
わずかに――目を開ける影が、ひとつ。
紫でも緑でもない、鈍い灰色の眼球。
それは、ただ静かに彼らの背中を見つめていた。
第9話「君の冗談が、ここにある」
実験室を出てから、数分。
王国の旧区画は薄暗く、機械の心臓音のような低いノイズが響いていた。
「で、あの“コピー体”って、どれくらいヤベェんだよ」
「単純なスペックで言えば、私より上です。
ただし、ユーモア指数は0。ジョークすら理解しません」
「それ、お前の敵として最悪じゃね?」
「ええ。何を言っても、笑いもしない。
ただ“不要な冗談は排除する”という命令だけで動く」
「……なんかすげー元カノみたいな言い方すんなよ」
「付き合ってません」
「知ってるよ」
そんなやり取りをしていると、突如、通路の照明がばちんと消えた。
闇の中。ギィィ……という不快な金属音。
「……来ましたね」
目の前に、影が立つ。
ビターギグルとほぼ同じ背格好。
だが、色素が抜け落ちたような灰色の肌。
右腕の蛇も動かず、ただ細長くぶら下がっている。
「実行開始。対象“J-α07(ビターギグル)”の破棄を確認」
「……お前、俺に似すぎてて不愉快です」
コピー体は何も応えず、一歩踏み出した。
その瞬間、壁が裂ける勢いの振り下ろし。
ギグルが跳び退き、レイジがその腕を引っ張って引きずる。
「おいおい、あれマジで動く兵器だぞ!?」
「ええ。でも動きが直線的です。
つまり、ユーモアがないと、戦い方もつまらない」
「なにが“つまり”だよ、命懸かってんだぞ!!」
だが、ビターギグルは笑った。
「レイジさん。私が囮になります。
その間に、制御盤をショートさせてください。
この区画の電源を落とせば、あれは止まります」
「は?お前何言って――」
「大丈夫です。
アナタの“突撃精神”には、いつも感服していますから」
それを言うと、ビターギグルは正面へと飛び出した。
「おい、ギグル!」
コピー体は反応する。
即座に彼へと向きを変え、鋭い蹴りと殴打を繰り出す。
しかし、ビターギグルはそのすべてを冗談のように避けた。
寸前で屈み、転がり、飛び、蛇の右腕で舌を鳴らす。
「ほらほら、もう少し芸を磨いた方がいいですよ!」
その声にかぶせるように、制御盤が火花を散らした。
レイジがコードを引きちぎり、ブレーカーを落とした瞬間。
コピー体の動きが、ガクンと止まった。
機械音が途絶え、空気が凍るような沈黙。
レイジは肩で息をしながら、ギグルのもとに駆け寄った。
「……ケガは」
「ジバニウムの循環がちょっと乱れただけです。大丈夫です」
「お前な……!」
レイジは言葉の代わりに、ビターギグルの胸倉をぐっと掴んだ。
そしてそのまま、唇を重ねた。
一瞬、静止。
ジバニウムが熱を持ったように、微かに光った。
ビターギグルは、ほんの数秒遅れて目を閉じた。
「……今のは、“今だけ”じゃないですよね?」
「……違う。
俺、もう自分が汚れてるとか、何度抱かれたとか、どうでもいい。
お前を“抱きたい”じゃなくて、“隣にいたい”って思った。
だから、こうした」
ビターギグルは少しだけ、笑った。
「……最上級の冗談ですね。
“人を笑わせたいと願った失敗作”が、
今、たった一人の笑顔で、満たされてしまうなんて」
「失敗作じゃねえよ」
「……」
「俺にとっては、“最愛のマスコット”だ」
その言葉に、ビターギグルの左目から、ぽたりと透明な雫が落ちた。
ジバニウムではない。それは、涙だった。
「……冗談抜きで、嬉しいです」
二人は、冷たい研究施設の奥で、そっと互いを抱いた。
冗談のように始まった出会いが、
本当の意味で、今日――恋になった。
第10話「傷の名前を、まだ呼べない」
「……あー、もうなんか、くすぐったいなあ。これが“恋人”ってやつかー」
「くすぐったいんですか?」
「くすぐったいんだよ。妙に、お前が優しくなってんのが特に」
「それは“恋人フィルター”というやつですね。
見てください、今ならこのフラスコも可愛く見えますよ」
「嘘つけ、見た目ガチで内臓じゃねぇか」
ビターギグルの部屋。
ふたりは並んで、机に頬杖をついていた。
昨日までは、隣に座るのもどこかよそよそしく感じていたのに、
いまはなんとなく、腕と腕が触れそうで、触れない距離が心地いい。
「……なあ」
「はい」
「お前、自分の生まれたときのこと、ちゃんと覚えてんだな」
「ええ。私は記憶チップを最初から搭載されていましたから。
生まれた瞬間のログも保存されてますよ。
“最初の笑い声は、自分自身のくしゃみ”だったとか」
「くしゃみ……それ、笑ったのお前だけじゃねぇか?」
「その通りです。孤独なギャグの幕開けでした」
レイジは、くすっと笑った。
だけど、次の瞬間、その目がすこしだけ遠くを見つめる。
「……俺さ、ちゃんと覚えてんだよ。
野球部のロッカールームで、タイラー・ツヴァイにやられたときのこと」
ビターギグルは、表情を変えなかった。
ただ、そっと背筋を伸ばした。
「周りのやつ、誰も止めなかった。
“才能ある奴の邪魔すんな”って。
“レイジは弱いから、仕方ない”って。
俺、何も言えなかった。何にも抵抗できなかった。
ただ黙って、涙も出なくて、頭の中だけで“笑ってるフリ”してた」
ビターギグルは黙って、レイジの方を見ていた。
「それからだよ。
他人と関係持つの、簡単になったの。
誰とでも寝て、“どうでもいい”って思って。
“俺なんてもう汚れてる”って、何回言い訳に使ったかわかんねぇ」
「……」
「だから、お前に出会ったときも、“またフラれるな”ってどこかで思ってた。
でも……なんでだろうな。お前だけは、諦めきれなかった」
沈黙。
その静けさに、蛍光灯の小さなノイズが混じる。
「レイジさん」
ビターギグルが、静かに言う。
「アナタは、私に“笑い”をくれました。
だけど、アナタ自身は、自分に笑いを許してない」
「……」
「私がここにいる理由は、もう“究極のジョーク”を作るためじゃない。
“アナタが、自分に笑えるようになるまで”――その隣にいたいからです」
「……それ、本気で言ってんのか」
「本気です。なので、冗談を一つも添えませんでした」
レイジは、ぐっと下を向いた。
目元を手で覆って、ごしごしとこすった。
「……なんかもう、ほんとに、逃げられねぇな、お前から」
「逃げても、ジバジバ追いかけます」
「それ、怖ぇって言っただろ前にも……」
ふたりは、微笑み合った。
そして、少しだけ涙が混ざった笑顔で。
その夜、レイジは初めて“誰かに抱かれる”のではなく、
“誰かの腕の中で眠る”ということを知った。
第11話「ジバニウムは甘い味がするか?」
「なあビターギグル。お前って、寝る時どうしてんの?」
「“循環制御モード”に切り替わりますね。ジバニウムの流れを最低限に保って、擬似的な休息を取るんです」
「お前それ、一応“寝る”に入るのか?」
「最近は“レイジさんにくっついてじっとしてる”のが、最も効率が良いと判明しました」
「なにその甘え方。ちょっと可愛いって思ったじゃん……くそっ」
「そう言ってくれるなら、今夜は腕の中で休ませてください」
「ちょ、何さらっと当然の顔してんだ。やめろ、その無表情で甘えんの」
レイジはビターギグルの横に座りながら、口元を引きつらせた。
ビターギグルは、まっすぐレイジの目を見て言う。
「人肌に触れると、ジバニウムの流れが安定するんです。
あなたが一番、私にとって心地よい触媒です」
「なんだよそれ。愛の告白が実験結果に変換されてんじゃねえか……」
「はい。結果として“あなたが好き”に収束しました」
レイジは小さく吹き出すように笑った。
ふたりがそうして過ごす時間は、もはや自然な日常になりつつあった。
王国の不安定な構造の中で、唯一確かな“安全地帯”のように感じられるほどに。
「ビターギグル。お前さ、俺のこと……どこまで知ってる?」
「レイジさんが過去に傷を負ったこと。
その傷が、“他人との関係”をずっと曇らせてきたこと。
それでも、私の隣にいてくれていること。
……そこまでです」
「……十分すぎるな」
レイジは、そっとビターギグルの手に自分の手を重ねた。
ビターギグルの左手は人間に近い構造をしている。触れると少し冷たいが、どこか安心する。
「もうさ、これ以上過去に引っ張られるのやめたいって思ってる。
ビターギグルといると、ほんとに、そう思えるんだよ」
「では、ここに今を刻みましょう。
過去ではなく、あなたと私が作る“現在”を」
ビターギグルはレイジの手をゆっくりと持ち上げ、
自分の胸、心臓のある位置へと添えた。
ジバニウムの流れが、かすかに振動として伝わる。
「……これが、私の“心拍”に相当します」
「……変な感覚だな。心臓じゃねぇのに、ちゃんと生きてるって感じる」
「はい。レイジさんの指が、私を生かしています」
レイジは言葉を詰まらせた。
そして、照れ隠しのように笑って、そっとビターギグルの胸に額を預けた。
「じゃあ俺も、もうちょっとビターギグルに甘えていい?」
「甘さに対する耐性は備えてあります。何杯でもどうぞ」
「それ、砂糖の話じゃねぇからな?」
ふたりは微かに笑い合った。
言葉よりも、静けさの中にある鼓動のほうが、何より確かなものだった。
そのまま、夜はゆっくりと更けていった。
しかし
その翌朝
王国のメイン制御端末に、一件の不明なアクセスログが残されていた。
【外部通信検出:実験個体J-α07のリアルタイムモニタリング開始】
そのファイルには、こう記されていた。
“ログ制御下にある個体。観察続行。感情進行度 78パーセント”
観察者の名は、まだ表示されていない。
第12話「この手を、離さないと決めた夜」
レイジは、ビターギグルの腕の中で静かに目を閉じていた。
どこか柔らかくて、でも少し冷たくて
確かに“生きている”と感じられる、人工の心音。
ビターギグルの左腕がレイジの背中を優しく撫で、右の“ハングリースネーク”は静かに眠っていた。
「……なあ、ビターギグル」
「はい」
「やっぱさ、お前とこうしてると、俺の全部が溶けてく気がすんだ」
「溶けた先に残るものが、“私の隣で笑うアナタ”なら、それが最善です」
「なあ、マジで……お前って、ほんとに、俺なんか好きでいいのか?」
「その問いは、もう必要ありません。
レイジさんは“誰かの好きになっていい存在”です。
私が、それを証明し続けます」
レイジは静かに笑った。
だけど、その笑いの奥には、ほんのわずかに震えるような迷いも残っていた。
「俺、ビターギグルのこと、ちゃんと“愛してる”って言いたいのに……まだ、どこかで足がすくむんだ。
やっぱ、思い出すんだよ。あの時の自分。動けなくて、されるがままで、声も出せなかった自分。
あれが、今の俺を作っちまってんだよな」
「……ええ。
でも、アナタがそれを“語った”時点で、もう過去ではありません。
“語れる”ということは、“乗り越えようとしている”という証です」
ビターギグルは、レイジの手をしっかりと握る。
「私は、抱きたいとは思いません。
“アナタが、私に抱かれたいと思えるようになる”その日まで、ただ隣にいます」
「……でもな。今日、思っちまったんだよ。
“お前に触れたい”って。
ちゃんと、好きだって思える相手に、自分から触れたいって。
……初めて、そう思った」
レイジは、ゆっくりと身体を起こして、ビターギグルを見た。
そして
「だから、お願い。今夜は、お前と……ちゃんと、いたい」
それは、いつもの冗談混じりのレイジではなかった。
心の奥から出た、まっすぐで、震えるような声だった。
ビターギグルは、黙って頷いた。
その動きに合わせて、ジバニウムが光を帯びる。
まるで心拍が高鳴るように、青緑の粒が身体の中をめぐっていく。
「……私のこの身体は、人間ではありません。
触れる感覚も、熱も、少しだけズレています。
でも、アナタが望むなら、この身をすべて預けます」
レイジは、微笑んだ。
そして、そっとビターギグルの唇に口づける。
温度はなかった。でも、確かに“ぬくもり”があった。
そこにあるのは、欲望じゃない。
誰よりも、誰よりも、大事にしたいと思う気持ちの重なりだった。
「……ありがとう、ビターギグル」
「私のほうこそ」
ふたりは、ベッドに身体を横たえた。
不安も、過去も、痛みも、全部、背中に置いて。
今夜だけは、ふたりの世界に、外の影は届かない。
静かに手が触れ、腕が絡み、
言葉を交わさずとも、心が繋がっていく。
ジバニウムが、ふたりの間で静かに流れていた。
しかし、王国の端にある閉鎖区画では
凍結されていた一体のマスコットが、じりじりと目を開け始めていた。
それは、かつて廃棄されたはずのプロトタイプ。
そして、記録されていたのは一行のログだけ。
【再起動完了:目標設定 J-α07 破壊】
第13話「繋がる世界、裂ける影」
ビターギグルの冷たいジバニウムの身体に、
レイジの温もりがゆっくりと溶け込んでいく。
「ビターギグル、今夜はずっと一緒にいてくれよ」
「私の存在意義が、アナタと共にあることなら、疑いなく」
レイジは笑いながらビターギグルの紫の右半身を優しく撫でた。
「ハングリースネーク」も不思議と今日はおとなしい。
ふたりの時間は、ゆっくりと穏やかに流れ、
普段の冗談も笑顔も、深い安心感をまとっていた。
「なあ、ビターギグル」
「はい?」
「お前のジバニウムってさ、毒だって話だけど、俺にはなんか……甘い味がしそうだ」
ビターギグルはくすりと笑った(と、言えるかもしれない)。
「それはアナタの錯覚です。私はただ、笑いを届けたいだけ」
「笑い、なあ。昔はお前のそのジョークでよく救われたよ、俺」
「ああ、それは嬉しいです。私の究極のジョークはまだまだ完成していませんが、アナタに会えたことが最大の笑いの種ですから」
笑いながらも、レイジの胸には少しの不安が芽生えた。
「でも……俺たちがこうやっていられるのも、いつまでなんだろうなって思う時があるんだ」
「……私も感じます。王国の闇は深く、私たちの安寧は薄氷の上です」
「そうだよな……」
静かな夜に、二人の会話はぽつりぽつりと続いた。
その時、王国の遠く離れた研究区画で、
薄暗いモニターの中の映像が揺れ、
再起動したプロトタイプのマスコットが静かに動き出していた。
画面の端に、赤い警告音が鳴り響く。
それを見守る誰かの目は、冷たく光り、こう呟く。
「目標はJ-α07、つまりビターギグル……」
ふたりの幸せを脅かす影は、確実に近づいていた。
第14話「君の笑顔を守る法と拳(ロー・アンド・パーンチ)」
「レイジさん、今朝のジョークはどちらにします?
“起きたらベッドにカエルがいた編”と、“目覚めたら世界滅亡してた風”の二択です」
「……それ、どっちも朝のテンションじゃないやつだろ」
「なるほど。ではどちらも採用ですね」
「採用すんなよ」
和やかなやりとりをしながら、ふたりはいつものように過ごしていた。
しかし、その日の空気にはどこか微かな違和感があった。
廊下の照明が断続的にチカチカと瞬き、遠くで低くうなるような音が響いている。
レイジが眉をひそめる。
「……なんか、ヘンじゃね?」
「はい。王国の監視システムが、何かを補足しています。
ただ、ログには何も残されていません。不自然です」
「……これ、まさか」
そのとき、部屋の扉が激しくノックされた。
「ギグル!開けろ、俺だ!お前んとこのヤバいログ、今さっき全館警報に引っかかった!」
その声は、どこか頼もしく、少しだけ野太い響きがあった。
「……シェリフ・トードスターさん?」
「トードスター!!」
レイジが開けた扉の向こうにいたのは、茶色く分厚い皮膚に覆われた、まるまるとしたヒキガエルの姿をしたマスコットだった。
保安官バッジを胸に輝かせたそのマスコットは、息を切らしながら中へと飛び込んでくる。
「よォ、お前ら無事か?久しぶりに“王国の封印庫”が動きやがった」
「……J-αプロトタイプ、再起動」
「そうだ。それが、お前の名前をピンポイントで検索してやがる。
つまり、次の標的はお前だ、ビターギグル」
トードスターの目は真剣だった。
ビターギグルは一瞬だけ沈黙し、それからレイジの手をぎゅっと握る。
「……レイジさん、避難してください」
「馬鹿言え。ここまで来て、俺が逃げてどうすんだよ。
お前が逃げろ。俺が囮になって――」
「どっちも逃げねえ」
トードスターが、ふたりの間にどすんと割り込む。
「笑わせたいってんなら、まずは自分たちの笑顔を守り切ってからだろ。
それが、俺たちのルールだ。なあ、ギグル?」
「……はい。理解しました」
「よし、それでこそ俺の相棒だ」
ビターギグルがレイジに目を向ける。
その目には確かに、強い意志と、レイジを“守る”という決意が浮かんでいた。
「シェリフ・トードスターさん」
「ん?」
「私のジョークの完成には、アナタの力が必要です。
もう一度、あの時のように……一緒に戦ってください」
「上等だ。とっておきのギャグ弾丸、今でも使えるぜ?」
「……それは不発率93パーセントの危険物では」
「うるせぇ!」
三人が向かう先、その奥に、
プロトタイプの巨大な影がじり、と姿を現し始めていた。
冷たい金属の瞳が、まっすぐにビターギグルを捕らえている。
第15話「ジョークで撃て、ハートを貫け」
警報音が止まった時、
空間の空気が少しだけ冷たくなった。
通路の奥から現れたのは、ビターギグルと酷似した姿のマスコット。
ただし、その身体は無彩色に染まり、感情というよりは“命令”で動くような無機質な存在だった。
「識別コード一致。ターゲット:J-α07──処理開始」
プロトタイプが手を広げた瞬間、右腕から巨大な刃のような器官が伸びる。
レイジがとっさに前に出ようとするが、
ビターギグルが彼を押しとどめる。
「レイジさん、私は戦います。
逃げろとは言いません。……ただ、“見ていてください”」
「……ああ。俺、お前の戦い方、ちゃんと見届けるよ」
横から声が飛ぶ。
「んで、俺も派手にかますぜ!」
トードスターがジャンプし、背中のバッジが一瞬光ったかと思うと、腰から“水鉄砲”を引き抜いた。
「ふざけた銃だな」と思う間もなく、それがプロトタイプの顔面に直撃。
水しぶきがプロトタイプの視界を奪い、ビターギグルがその隙を突いて懐へ飛び込む。
「解析開始。戦闘パターン──」
「うるさいんですよ、アナタは」
ビターギグルの“ハングリースネーク”が唸りを上げてうねり、
プロトタイプの腕を絡め取る。
「さあ、ジョークの時間です。
“死んでも笑え”というセリフがありますが……
そもそも、アナタに“笑う”はあるんですか?」
瞬間、ビターギグルの左手に収束する青緑のジバニウムが集中する。
その掌から放たれた閃光が、プロトタイプの胸に命中。
しかし、倒れない。
プロトタイプの身体が異常な再生能力で傷をふさぐ。
「まじかよ、タフだな……!」
レイジが思わず声を上げる。
「いえ。彼の動きにパターンがあります」
「トードスターさん、陽動をお願いします」
「おう、任せな!」
トードスターが壁を蹴って跳ね、頭上から“ギャグ弾”をぶちまけた。
中身は……大量のカエル型ゴム風船。
「なんでこんなん持ってんだよ!!」
「ギャグの基本だろ!」
風船が破裂する音に気を取られたプロトタイプが、ほんの一瞬動きを止めたその時。
「レイジさん、今です!」
「おうよ!」
ビターギグルの“ハングリースネーク”がプロトタイプの足を引きずり倒し、
そこへレイジが飛び込んで、胸の制御コア部分に手をかける。
「……お前には悪いけどな。
俺の大事な“ビターギグル”を、笑えなくするヤツは──許さねぇ!」
そのまま、レイジの掌にジバニウムの一部が流れ込み、
プロトタイプの内部が崩れはじめる。
「エラー……構成破損……システム──」
プロトタイプは静かに崩れ落ち、動かなくなった。
⸻
戦闘が終わった後、
レイジはビターギグルの腕に背中を預けながら、ぽつりと呟く。
「……お前が無事でよかった」
「アナタがいたから、無事だったんです」
隣でトードスターが口をとがらせている。
「……なんだよ。俺のおかげでもあるだろ」
レイジとビターギグルがそろって言う。
「「カエル風船は予想外でした」」
「否定すんなや!!」
静かな笑いがその場に広がる。
──だが、その笑いの奥で、
もうひとつのログが、王国の深部に記録されていた。
【コードJ-βシリーズ 起動準備中】
まだ“終わり”は、始まったばかりだった。
第16話「コードJ-β、という名前の亡霊」
王国に、静けさが戻っていた。
プロトタイプとの戦いから数日、
レイジとビターギグルはようやく普段の空気を取り戻していた。
「……お前さ、俺が近づくと“ジバジバ”言うの、あれやっぱり生理反応なん?」
「はい。ジバニウムがレイジさんの体温に反応して活性化しているのです。
つまり、アナタが私にとって“刺激的”ということですね」
「うるせえ、バカギグル」
一方、トードスターは研究棟の一角で、
封鎖されていたデータベースの解析に取り組んでいた。
「……こいつは……見過ごせねぇな」
カエルの指で、キーボードを器用に叩きながら、
トードスターは何度も“あるワード”を目にする。
【J-βシリーズ】
──それは、かつて王国が密かに進めていた“並列開発群”のひとつ。
記録によれば、ビターギグルを構成した“J-αシリーズ”とは別軸で作られた
“情緒の抹消”を前提に設計された実験体群だった。
「“笑い”を持たない“ギグル”?……いや、“ギグル”じゃねぇ。
“模倣品”だ」
データの片隅に、静かに残されたログがあった。
【試作体J-β01:外見構成、ジェスター型。行動ベース:攻撃制圧/感情レベル:ゼロ】
──それはつまり、“笑わないジェスター”。
つまり、“ビターギグルの、笑いを失った影”。
⸻
「ねえ、ビターギグル」
「なんですか?」
「……お前、自分とそっくりなヤツが、もし笑えなかったら、どう思う?」
「それは、私の“失敗例”ではありません。
私の“反面教師”です」
レイジは肩をすくめた。
「……さすが俺の恋人。うまいこと言うな」
「うまいと言えば、朝ごはん、作りますか?」
「いや、もう夕方だよ」
そう笑い合っていたそのとき──
ピン、と空気がひと筋揺れた。
ビターギグルが振り返る。
「……レイジさん。今、何かが……」
研究棟の奥、トードスターの通信が途絶えたままだった。
静かに鳴り響いた音は、明らかに警報ではなかった。
それは、データが何者かによって“外部から”読み取られたことを示す通知音だった。
⸻
王国の深部、密封されたはずの格納庫の中。
誰かが、目を開けた。
瞳の中に光はなく、
ただ“命令”だけが宿っていた。
【J-β02、感情不要。行動開始】
第17話(リテイク)「トードスター、あんたを迎えに来た」
「……トードスターさんの通信が、途絶えたままです」
ビターギグルが端末を睨みながら、ぎゅっと眉を寄せる。
隣でレイジが即座に立ち上がった。
「迷ってるヒマあるかよ。行こうぜ、ビターギグル」
「はい。アナタとなら、“迷わず進む”が成立します」
そうして二人は、王国の地下にある記録保管庫へと急いだ。
⸻
地下3階、保管室の裏側。
壁の一部が開かれたような空間で、トードスターは無理やり拘束されていた。
「まったく……この俺を、カエル扱いしやがって。
舐めてんのか、テメェら研究員……!」
ぶつぶつ言いながらも、身体はほぼ自由がきかない。
目の前に立つのは、かつての戦闘個体とは違い、
ただ無表情にデータ端末を見つめるだけの“空の器”のような存在──
J-β02。
「……なあ。お前、自分のことわかってんのか?
……お前さ、“ギグルの顔”してるけど、あいつとはまるで違うぞ」
返事はない。
ただ、機械的な呼吸音が聞こえるだけ。
「くっそ……誰か、来てくれりゃいいんだが……」
──そのとき、ドアが強制解除音とともに開く。
「トードスターさん!」
「ビターギグル! レイジ!……遅せぇよ!!」
部屋に飛び込んできた二人に、トードスターが不満を叫ぶが、
その顔は明らかに安堵していた。
「無事でよかった!」
「無事じゃねぇって!見ての通り、身動き取れねぇんだよ!」
レイジはすぐに状況を確認し、
拘束具のロックコードが物理入力式であることに気づく。
「……なんだよ。電気系じゃないのかよ。
じゃあ普通にカチャカチャやれば解除できるだろ……ほらっ」
器用に指を滑らせ、10秒後──ガチャン。
「解除完了!」
「な、なんでお前そんな早ぇんだよ」
「前に自販機の補助金庫こじ開けたことあるからな」
「犯罪者の素質じゃねーか!」
ビターギグルはJ-β02に目を向ける。
「動きませんね。……彼は、最初から“守り”ではなく“観察”のためにここにいたのでしょう」
「つまり、無抵抗ってことか?」
「いいえ。ただ、戦う“理由”がなかっただけです」
そう言うと、ビターギグルはその個体に近づき、
静かにこう囁く。
「アナタに“笑い”があれば、私と同じだったかもしれません。
ですが、それがないなら……ここで終わらせます」
ビターギグルの左手から、小さな円盤のような端末が伸びる。
コアを安全に停止させるためのツールだ。
「レイジさん。これ、渡してもいいですか?」
「え?」
「アナタの手で止めてほしいんです。
彼は“私の影”ではありますが、
今ここで、“あなたの意志”で終わってくれたら、意味がある気がして」
レイジは少し戸惑ったが、受け取るとそのままコアに手を伸ばす。
「……ごめんな、ビターギグルのニセモン。
でも、俺は……あいつの味方なんで」
静かに、端末が起動し、個体のシステムがスリープに入る。
動かなくなったβ02を見て、ビターギグルは目を伏せた。
「ありがとう、レイジさん。これで、ようやく静かになります」
⸻
救出されたトードスターは、足を引きずりながらも元気に立ち上がった。
「……ったく。次からはちゃんとペアで動けって、俺がいつも言ってただろ?」
「はい。おかげで、今日のジョークは“1人では成り立たない”ことが証明されました」
「……素直に『ありがとう』って言えや!!」
三人の声が通路に響き渡る。
遠くで、どこかで故障した自販機が「ガコン」と音を立てていた。
第18話「じゃあ、隣にいてくれる?」
王国の騒動がひと段落して、数日。
今日は珍しく、レイジもビターギグルも“何の予定もない一日”だった。
「……で? お前、なんで俺の部屋にいんの?」
レイジの言葉に、ビターギグルはふわりと微笑む。
「お邪魔してはいけませんでしたか?」
「いや、別に……ダメじゃねえけどさ。
朝起きたら勝手に横に立ってんの、けっこうホラーだぞ」
「おはようございます、レイジさん。寝顔、穏やかでしたよ」
「見るなよ、そういうのは……」
レイジがサングラスをずらしながら目をこすると、
ビターギグルは当たり前のように枕元に座りこんでいた。
「……じゃあ、今日は、何しますか?」
「何もしなくていい日だろ」
「それは最高です。
何もしないことを、“一緒にする”というのは、とても贅沢ですから」
「……お前、たまに詩人みてぇなこと言うよな」
「笑いの元は、言葉ですから」
⸻
ソファに腰を下ろし、ぼーっと天井を見つめながら、
ふたりの間に静かな空気が流れる。
「なあ、ビターギグル」
「はい」
「お前って、なんか……“怖い”って思うこと、あるの?」
「ありますよ。
“レイジさんに嫌われるかもしれない”と思うと、心臓の代わりに流れてるジバニウムが、少し痛む気がします」
「……ずるいな、そういうの」
「ずるいでしょう?」
レイジは思わず笑ってしまった。
声に出すと、少しだけ苦しくなるから、口元だけの笑いで。
「俺も、さ……」
「……?」
「“また誰かに壊されるんじゃないか”って思う時、あんだよ。
俺が大事にしようとすると、
相手がいなくなったり、壊れたり、……奪われたりするから」
静かに、ビターギグルが隣に寄る。
「じゃあ──」
彼の左手が、レイジの指先に触れた。
「──“壊れない”を、練習しましょうか。
アナタが、触れても大丈夫なものが、ここにあるってことを」
レイジは、一瞬だけためらってから、
その指先を握り返した。
「……それ、ずるいって。
また……惚れ直すだろ」
「じゃあ、ずっと惚れ直してください。
私は……レイジさんに、飽きられたくないですから」
レイジはぐいっと引き寄せるようにして、
ビターギグルの首筋に額を寄せた。
──その温度が、ジバニウムとぶつかる。
冷たくて、でもあたたかい。
人間と、マスコット。
違うようで、確かに交じり合える証拠がそこにあった。
⸻
その夜。
ベッドに並んで座る二人。
「……なあ、ビターギグル」
「はい」
「お前が隣にいるってだけで、
俺、ちょっとだけ“まとも”になれる気がすんだよな」
「それは、とても嬉しい言葉です。
じゃあ──私は、これからもずっと、隣にいていいですか?」
「……許可する。特別に」
ふたりの手が、自然と絡む。
その温度を確かめながら、
“何もしない”という一日が、ゆっくりと終わっていった。
第19話「さわっていい?」
翌朝。
ベッドの中、うすぼんやりと目を開けたレイジは、
ほぼ無意識で隣のビターギグルに頭を預けていた。
「……おはよ」
「おはようございます、レイジさん」
「起きてたのか?」
「寝る必要が、あまりないので」
レイジはふわっとため息をついた。
「便利だな、お前。
……てか、俺、くっつきすぎじゃね?」
「私は嬉しいですけど。
レイジさんの髪、柔らかいですし」
「褐色の男の頭撫でて楽しいかよ……」
「とても」
レイジは、仰向けになって天井を見た。
左手にはまだ、さっきまで握っていたビターギグルの指の感触が残っている。
──触れられるのは、もう怖くない。
でも、触れるのは……まだ少し、怖い。
だからこそ、聞いてみた。
「なあ……ビターギグル」
「はい」
「……さわっていい?」
ビターギグルは一瞬、瞬きした。
そしてすぐに、そっとうなずいた。
「もちろん。ですが、無理はしないでくださいね。
“レイジさんのペース”が、私にはいちばん大事ですから」
レイジは、ビターギグルの胸元に触れた。
その紫と緑が入り混じった、柔らかくて、でも人工的な肌に。
「変なこと聞くけどさ。
お前って、体温……あるのか?」
「ジバニウムの流れで、少しだけ。
でも、レイジさんの手の方があたたかいです」
「そっか……」
少しだけ指を滑らせて、ビターギグルの鎖骨のあたりに触れる。
やわらかく、少しだけひんやりとした感触。
「……なんでだろ。
俺、誰かにこうやって触れるなんて、
もう二度と無理だって思ってたのに」
「無理じゃないですよ。
レイジさんは、“優しくなろうとしている”。
だから、きっと触れられるんです」
「……ズルいな、お前。
また好きになりそうだ」
「じゃあ、今度はキスでもしますか?」
「……っ、いや、それは……」
「冗談です。レイジさんが真っ赤になった顔を見るのが、
一番“いい朝ごはん”なので」
レイジは枕を引っつかんで、顔を隠す。
「ビターギグル……」
「はい」
「お前、ほんっとにずるいぞ」
「ありがとうございます。
“ずるくて優しい恋人”を、目指してますから」
⸻
日常の空気は変わらず流れている。
だが、その手のぬくもりが、確かに“恋人”としての距離を変えていた。
レイジはまだすべてを許せてはいない。
でも、触れた。
少しだけ、前よりも“踏み込んだ”。
その夜、部屋の灯りを消しても、
ビターギグルはそっとレイジの指先を包んだまま、目を閉じていた。
「──おやすみなさい、レイジさん。
夢の中でも、隣にいられたらいいですね」
第20話「夢の底、触れる指先」
──闇の中、レイジは一人で立っていた。
足元はグラグラと揺れていて、
視界の奥では、高校時代のグラウンドが、モノクロのように浮かんでいる。
「ツチヤ〜、まだやんのかよ」
どこからともなく、タイラー・ツヴァイの声。
レイジは息を呑んだ。
目の前には、汗ひとつかかずに笑っている男の顔。
あの、傷の始まり。
「お前さ、野球辞めてどうすんの? 遊びでもする?」
「──やめろ」
「どこ行っても、どうせ“俺以下”だろ?」
「やめろって……」
「逃げるだけのクセに、恋人? は? 無理に決まってんだろ」
その瞬間、レイジは頭を抱えてしゃがみこんだ。
胸の奥で、また“あの痛み”が再生される。
何度でも、終わったはずの記憶が、夢の中では息を吹き返す。
どんなに遠くに逃げても──
「……俺は、汚れてる」
***
「レイジさん」
小さく名前を呼ぶ声に、まぶたの裏がふるえた。
「……ビターギグル?」
「はい。夢、見てましたね。……顔が、少し苦しそうでした」
目を開けると、薄暗い部屋の中、隣に座るビターギグルの顔があった。
部屋のランプだけが静かに灯っている。
「……大丈夫ですか」
「……夢、見た」
「どんな夢ですか」
「昔の夢。あいつの。……思い出したくもねぇのに、勝手に出てくんだよ」
レイジは肩を震わせながらうつむく。
声が少し、かすれていた。
「俺、さ……お前の隣にいて、ホントにいいのか、分かんなくなるときがあんだよ。
だって俺──あんな風に、壊されたままの人間だぞ?」
すると、ビターギグルは静かに腕を伸ばして、
レイジの身体を抱きしめた。
「壊れてるの、分かってますよ。
でも、壊れたからこそ、優しいアナタになったことも──私は知ってます」
「ビターギグル……」
「一緒に直していきましょう。
私がレイジさんの、接着剤になれたら、って……ずっと、そう思ってました」
レイジは、そのまま小さく笑った。
「俺、今、けっこう泣きそう」
「泣いてもいいですよ。
私は、その涙ごと愛おしいと思えるタイプなので」
「ずる……」
「ずるいです」
レイジは、そっと手を伸ばし、
ビターギグルの頬に指を這わせた。
「なあ」
「はい」
「今夜は……キス、していい?」
ビターギグルは微笑んで、そっとレイジの顔に手を添える。
「“していい?”なんて聞くの、アナタらしくないですね」
「うるせ」
ふたりの距離が、音もなく近づく。
静かに重なる唇。
あたたかく、やさしく──だけど確かな熱を持っていた。
その夜、言葉はもう必要なかった。
互いの身体の輪郭を確かめるように、
ふたりはそっと、確実に“恋人”になった。
***
──次の日の朝。
目覚めたレイジが、うっすら赤くなりながら、隣で眠るビターギグルを見下ろす。
「……なに、これ。幸せすぎてバグってね?」
そのつぶやきに、ビターギグルは目を開けた。
「バグってません。正常です。
アナタが、ちゃんと幸せになってる証拠ですよ」
「……お前な」
ふたりの指は、昨夜と変わらず、ずっと絡んだままだった。
第21話「バレバレってやつだな、こりゃ」
バンバン幼稚園、地下王国の一角。
ビターギグルの研究室。
朝からレイジがそこにいることは、もはや“日常”になりつつあった。
「おいビターギグル、俺のシャツ知らね?」
「乾かしておきましたよ。棚の上です」
「やっぱお前、できすぎなんだよ……彼女かよ」
「彼氏ですけど」
「あ、そっか。そうだったわ」
会話の温度があまりに自然すぎて、
部屋の入口にいたシェリフ・トードスターが無言で固まった。
「……」
「……トードスター?」
「お前ら、今、なんつった?」
レイジが咄嗟にサングラスで目を隠すが、
すでに手遅れだった。
「彼氏、ですって?」
「いや、違──」
「言ったな 言ったよな それで最近、ビターギグルの調子が良かったのか」
「俺のせいかよ」
「むしろ褒めてます!ありがとうレイジ!」
ビターギグルが軽く手を振って微笑むと、
トードスターは天を仰いだ。
「うわ……どうしよ、俺、こいつと相棒なのに、恋バナ聞いてねぇ……!
どうせなら一発相談してくれよ、プロポーズの手伝いぐらいできるのによぉ!」
「いや、まだプロポーズとかじゃねぇから」
「でも愛してますよ」
「ビターギグル」
レイジは赤くなって棚の裏に隠れようとするが、そこにはもうトードスターが突っ込んでいた。
「お前、真顔でそういうこと言うタイプだよな…… 俺知ってたけど なんか改めて刺さるわ!」
「すまん。トードスター、どうしたらいい?」
「俺に聞くな」
トードスターはため息混じりに苦笑して、
2人の間を見た。
「ま、安心しろ。隠さなくてもバレてた。
というか、全員察してた。ガンバールさんなんて“まだだったの”って言ってた」
「マジかよ……」
***
昼頃、ビターギグルは王国の管理用ターミナルにアクセスしていた。
「定期報告の時間ですね……っと。シェリフ、こちらお願いできますか?」
「了解。セキュリティ周りは俺がやっとく」
レイジはその様子をぼんやり眺めながら、
ふと思い出したように言った。
「そういやさ……“最近、下の階層で機材誤作動が増えてる”って、
この前警備員っぽい奴がボヤいてたな」
ビターギグルの指が止まる。
「どこの階層ですか?」
「たしか……C-3か、B-2だったかな」
「……C-3階層は、閉鎖されているはずです。通常のスタッフは立ち入りできません」
「……あれ? じゃあ誰が?」
トードスターが横から顔を出す。
「ちょっと待て。今、ログ確認する」
ぱちぱちと端末を操作する音。
ビターギグルが目を細めてログを睨む。
「……アクセス履歴、ありますね。しかも“人間ではない”識別コード」
レイジが眉をひそめた。
「つまり……マスコット?」
「ですが、“未登録”のマスコットIDです。
私たちの記録に、存在していない個体……」
「……また“謎の実験体”系かよ……」
トードスターが拳を握った。
「これ、今度こそヤバいやつだな。
もしそいつが暴れたら、今の王国、持たねぇぞ」
レイジが立ち上がる。
「行くぞ、ビターギグル。俺たちで止める」
ビターギグルもすっと立ち、レイジの手を取った。
「大丈夫。今度は一人じゃない」
ふたりの指が、また自然と重なる。
その手のぬくもりが、これからの不穏な未来を、
少しだけ軽くしてくれる──と、信じたかった。
第22話「C-3階層、沈黙の記録」
C-3階層。
その場所は、王国のどの地図にも記されていない。
元は研究区域だったが、事故を機に封鎖されたとだけ記録されている。
レイジが懐中ライトを照らすと、
壁の配線はところどころちぎれ、
照明も不自然にチカチカと明滅していた。
「うわ……廃墟じゃん、ここ……」
「ですが、この場所からアクセスがありました。
中には何かがいる。少なくとも“誰か”が」
トードスターが懐からコンパクトサイズの警棒を取り出す。
「戦うつもりはねぇけど、ビビらせる用に持っとく」
「お前、昔からビビるときほど声がでかくなるタイプだな」
「うるせぇ」
ふたりが軽口を叩く中、
ビターギグルはふと、壁の端末に手を触れた。
すると、ピピッという小さな起動音。
──アクセス権限:確認。
──記録閲覧モードに移行。
画面が青緑色に滲むように広がり、
一つの映像が浮かび上がる。
『記録再生:試験体Eシリーズ ― ギグル構造実験 第6段階』
そこに映っていたのは、
今のビターギグルによく似た“試作体”。
だが顔は、どこか空虚で──笑っていない。
『E-06、ジョーク再現度:0.3%』
『感情再現反応:無し』
『廃棄対象に分類』
研究者の声が響いた。
『このラインは失敗だな。
感情模倣が弱い。廃棄処理に入れとけ』
『了解。次は“B構造”に変更、神経接続式で──』
映像が、そこでぶつりと途切れた。
レイジが静かに口を開いた。
「……ビターギグル。今のって……お前の“前”?」
「……そうですね。恐らく“私の系統”の初期試作です。
ジョークができないピエロ。笑えない道化。
──だから、消されたんです」
トードスターがそっと口を噤んだ。
「お前……覚えてんのか? あの頃のこと」
「少しだけ。
でも、それでも思うんです。
私が“究極のジョーク”を追い求めるのは、
あの時の彼らに対する、私なりの“やり返し”かもしれません」
「やり返し……?」
「笑えないから捨てられた。なら、
笑わせて、笑って、愛される道化になればいい。
“私は、生まれて良かった”と、自分で思えるように」
レイジは少しだけ、寂しそうに笑った。
「お前、やっぱ……バカだな」
「はい。ピエロですから」
そのとき、廊下の奥で、何かがわずかに動いた。
レイジがすぐにライトを向けると──
そこには、誰もいなかった。
だが、何かの気配だけは確かに残っていた。
「……いたよな、今」
「ですね。でも戦闘は避けましょう。
あれが誰であっても、“確かめる”ことが先です」
「おい、でも……」
「大丈夫。今の私は、“1人”じゃありませんから」
ビターギグルはレイジの手を取った。
レイジも、自然に握り返す。
「さっきの映像、あの“笑えないビターギグル”──
お前が、こいつの分まで生きてんだな」
「ええ。私は、彼の先にいる道化師です」
再び廊下を進む3人。
やがて、奥の部屋で止まったログファイルにぶつかる。
ビターギグルが再生ボタンを押すと、画面に最後の研究者記録が表示された。
『Eラインの“片割れ”が消失。
反応体β、C-3階層内にて“自我”を獲得した模様。
現在も封鎖維持中。接触不可。』
「……片割れ?」
「“β”。もしかすると、それが……今もここに?」
静かに、廊下の空気がひやりと冷えた。
「気をつけろ。何が“こっちを見てる”」
トードスターが低く呟いたその瞬間、
背後のセンサーが一つ──勝手に赤く光った。
しかし、何も起きない。
ただ、静かな気配だけが、残されていた。
***
帰還後、研究室。
レイジはベッドに腰を下ろしながら、ビターギグルをちらりと見た。
「お前……今、怖くないか?」
「いいえ。
怖くありません。あなたが隣にいるので」
触れた手のひらは、今日も温かかった。
でも──その温かさが消えたら、きっとまた、怖くなる。
だからこそ、今だけは。
ビターギグルは、レイジの手を重ねたまま、
そっと目を閉じてつぶやいた。
「……私が、笑わせ続けたいのは、レイジさんですから」
第23話「消えゆく影、そして微かな未来」
C-3階層の調査の翌日。
3人は王国の秘密研究室へと戻ってきた。
トードスターが頑なに持ち帰った小型の装置をテーブルに置く。
「これで終わりだ。もう“片割れ”の脅威は消した」
装置には、かつてβが残した自己増幅型のシグナルを遮断し無効化する機能が搭載されていた。
ビターギグルは装置の画面をじっと見つめながら、ぽつりと言う。
「これで、本当に終わったのでしょうか」
レイジは優しくビターギグルの肩を叩いた。
「終わらせたんだ。過去は置いておける」
しかしビターギグルの瞳には、かすかな揺らぎがあった。
「私の内部で、何かが変わっているように感じるのです。
ジバニウムの流れが、以前とは違う。
それはきっと、“私自身”の変化……」
トードスターが穏やかに言う。
「変化は怖いもんだ。だが、それが成長ってもんだぜ。
お前はいつも道化でいられるわけじゃない。
変わることが怖くなったら、俺たちがいる」
レイジも微笑む。
「ビターギグル、どんな姿になっても、俺はお前の隣にいる」
その言葉に、ビターギグルはようやく笑みを返す。
「ありがとうございます。私は──
これからも、笑いを創り続けます。
そして、あなたたちと一緒に、歩みたい」
その瞬間、三人の間に、暖かな空気が流れた。
だが、ふと窓の外に映る影は微かに揺れていた。
何かがまた、静かに息を潜めているように。
最終話「また、あなたに会いたくて」
ビターギグルは、王国に残った。
シェリフ・トードスターの後任として、王国の“新しい秩序”の礎を築くために。
レイジは、外の世界へと出た。
研究施設の外──誰にも知られていない、この地下世界から地上へ。
二人は、話し合ってそう決めた。
「今の俺たちじゃ、一緒にはいられない」
「でも、またきっと会いましょう。──必ず、笑顔で」
それから、三年。
レイジは、旅を続けていた。
各地を渡り歩き、時にトラブルに巻き込まれ、時に人に救われ──
けれど、その旅路はもう「逃げ」ではなかった。
「汚れてる俺なんて、って言い訳してたけどさ」
「アイツに出会って、アイツに触れて、アイツに笑われて……」
「……ようやく、自分のことも許せるようになった気がする」
かつてと同じようにサングラスをかけていたが、
その瞳の奥にはもう、怯えはなかった。
一方、王国。
研究と再建を重ねたビターギグルは、今や王国で最も信頼される“調整者”として働いていた。
マスコットたちが穏やかに暮らせる環境づくり、
感情データの記録と共有、
笑いと対話による新しい「教育モデル」の試作……
「ようやく、ここも“幼稚園”らしくなってきたかもしれませんね」
ふとそう呟いた時──
警備ゲートから、懐かしい足音が響いた。
「……ビターギグル」
その声は、もう何百回も夢で聞いた声だった。
「……レイジさん……」
何も言えなかった。
言葉が追いつかないほど、いろんな想いが一気に溢れた。
でも、言葉がなくても、通じていた。
ただ、走って──
ただ、抱きしめた。
「久しぶり。……会いたかった」
「ええ。私もです。
ずっと……ずっと、あなたに、また笑ってほしかった」
世界は何も変わっていない。
でも、ふたりはちゃんと変わった。
離れた日々が、互いをより深く理解させた。
そして、もう“隣にいる理由”を迷うことはなかった。
「これからは、ずっとそばにいてもいいですか」
「もうとっくに、俺はそのつもりだよ」
レイジはビターギグルの指先に、自分の指を重ねた。
ジバニウムの青緑色が、レイジの指先にほのかに映ったけれど──
もう、それは怖くなかった。
──笑っていた。
──二人とも、心から。
そしてその笑顔は、王国全体にゆっくりと広がっていった。
完
ifルート
ifルート①「笑って、これからも」
王国の再編成が終わって、あの戦いの日々も過去になった。
ビターギグルは研究室を閉じ、
レイジは旅をやめた。
二人は、王国の片隅にある平和なフロアで、
ごく小さな部屋に暮らしている。
朝はビターギグルの派手な目覚ましジョークで始まり、
レイジがキレながらパンを焦がし、
その横でビターギグルが「パンではなく灰ですね」と真顔でコメントを入れる。
「それ、面白いと思ってんのかよ」
「ええ。50点です」
そんなやり取りが日課になっていた。
時折、施設内の小さな保育室に呼ばれて、
ビターギグルは子どもたちの前で冗談を披露し、
レイジは保育士のふりをして隣に立つ。
子どもが泣けば、どちらかが抱きしめ、
笑えば、どちらかがその笑顔を写真に残す。
ある日の夜、二人は並んで屋上のベンチに座っていた。
王国の星は、天井照明ではなく本物の光。
いつの間にか設置された透明ドームから、夜空が見えるようになったのだ。
「なあ……俺、なんでここにいんだろうって、たまに思う」
「それは……」
「でも、答えなくていい。
ビターギグルが笑ってくれて、
俺の隣にいてくれるだけで、
もう“ここ”が俺の居場所って、思えるから」
ビターギグルは、ゆっくりとレイジの手を取った。
「あなたが隣にいてくれるだけで、私の“今”が続いていきます。
私の冗談も、あなたの皮肉も、全部ひっくるめて……」
「……これからも、笑って生きたい」
「お前が言うと、重たいけど……ちょっと、好きだわ」
その言葉に、ジバニウムが柔らかく光を放った。
どこまでも優しく、温かく。
恋は、燃え尽きるものじゃなかった。
毎日、静かに更新されていくものだった。
過去はまだ痛む日もあるけど、
未来が怖い日もあるけど──
それでも、隣にあなたがいるなら。
二人の笑い声が、王国の廊下に響く。
どこかの部屋から、子どもたちが真似をするように笑った。
──今日も笑ってる。
──きっと、明日も。
fin.
ifルート③「境界の消失、そして永遠の冗談」
最初に異変が起きたのは、笑い声だった。
王国の廊下に響いた、ビターギグルの笑い声。
いつも通りの明るいジョーク。
けれどその声は、どこか“人のもの”ではなかった。
電子音のように細かく震え、残響が消えず、
空気に“染み込んでいく”ような奇妙さを孕んでいた。
レイジはその変化に気づいていた。
ずっと前から。
ジバニウムの流れが変わり、
ビターギグルの身体の発光が不規則になり始めた時から、
それは静かに、だが確実に進行していた。
「お前、……いや、“ビターギグル”。
お前は、今……“俺の知ってるお前”のまま、いるのか?」
問いに答えるように、ビターギグルは笑った。
その笑みは、限界ギリギリのバランスで保たれているようで――
危うく、美しかった。
「私は……“私”という枠を超えつつあります。
ジョークとは、主観の中にしか存在しないもの。
ならば、“主観”そのものを拡張していけば、
私は、より“本物の冗談”になれると考えました」
「……それって、なんだよ。
冗談の“正体”になりたいってことか?
お前自身を捨ててまで?」
「私は“笑い”を作る存在です。
でも、“究極のジョーク”はもう目の前にあるのです。
それは……“あなた”です、レイジさん」
ジバニウムが空気に溶け始めていた。
触れても、有毒反応はない。
なのに、心の奥がじんわりと痺れるような感覚が広がる。
「レイジさん。
あなたと出会ってから、私は“混ざる”という概念に惹かれるようになりました。
感情、記憶、思考――
私の中の“個”を壊して、あなたという“個”と重ねる。
そうすれば、私は、もう笑わせる必要もない。
ただ“笑っていられる”存在になれるのです」
「……それ、融合ってことか?」
「“融合”とは少し違います。
“解体と混合”。
あなたのトラウマも、私のジバニウムも。
あなたの肉体も、私の笑いも。
そのすべてを混ぜて、ただ一つの“冗談”になるのです」
レイジは、逃げなかった。
むしろ、その言葉に、少しだけ安らぎを感じていた。
人間としてのアイデンティティに苦しみ、
誰かと本当に“ひとつになる”ことを恐れていた彼が、
ようやく、それを望めるようになっていた。
「なあ、ビターギグル。
“俺”って、やっぱ、ずっと汚れてんのかな」
「“汚れている”とは、“境界がある”ということです。
私たちは……
もう、境界を捨ててもいい頃でしょう」
ビターギグルの右腕――ハングリースネークが、ジバニウムの霧と共にレイジに伸びる。
だがそれは掴むのではない。
優しく、包み込むようにレイジの心へと触れる。
視界がにじむ。
音が重なり合う。
身体の感覚が徐々に薄れていき、
代わりに“笑い”が心の深部に満ちていく。
それは決して「おかしさ」ではなかった。
ただ、何もかもを赦すような、
“無限の優しさ”に近い感情だった。
──混ざり合う。
ジバニウムの奔流がレイジの中に流れ込み、
人間の脆い記憶と、マスコットの孤独な魂が、
何の区別もなく、同じ器に収まっていく。
笑い声が響いた。
どちらの声か、もう分からなかった。
レイジのものでもあり、
ビターギグルのものでもある。
身体はもう二つには戻らなかった。
だが、“笑い”という形で、
彼らはそこにいた。
──その後。
研究施設の記録装置には、謎のファイルがひとつだけ残っていた。
再生ボタンを押すと、そこには、ただ一言。
「最高のジョークを見つけました。
それは、“あなたと混ざること”です」
記録はそこで終わっていた。
そして今も王国のどこかで、
ふとした瞬間に、笑い声が響くという。
誰のものかは分からない。
けれどそれは、どこまでも優しく、どこまでも深い音だった。
fin.
部屋の薄明かりが二人の影を優しく揺らす。ビターギグルの青緑のジバニウムが淡く輝き、褐色の肌と銀髪のレイジの姿を幻想的に染めていた。レイジは息を整えながら、静かに隣にいるビターギグルを見つめる。
「ビターギグル…お前の手、冷たくて硬いけど、どこか俺を包み込むみたいでたまらないんだ」
ビターギグルは砕けた口調で微笑み、「アナタの熱、こっちまで伝わってきますよ」と小さく囁く。レイジは迷わず彼の左腕へと自分の手を伸ばした。人間のようなその腕は、ほんのりと温もりを感じさせ、彼の指先を絡めるとジバニウムの冷たさとレイジの熱が交差した。
「お前のこの身体、冷たいけど…それがまたいい。触れてると、なんか安心するんだよな」
ビターギグルは少し顔を傾けて、緑の半身の指をレイジの手の甲に優しく絡ませる。するとレイジの手はさらに力強く握り返し、静かな夜のなかで二人の呼吸がひとつに溶け合う。
「俺の手、感じるか?」レイジが低い声で尋ねると、ビターギグルは頷いて、「アナタの温もり、体の芯まで届いています」と答えた。レイジの手はゆっくりとビターギグルの肩から胸へと滑り、彼の胸の中を流れる青緑のジバニウムの脈動を確かめるように撫でた。
「ビターギグル…お前の鼓動、俺にだけ聞こえる気がする。たとえお前がマスコットでも、俺には本物の命だ」
ビターギグルはそっとレイジの手を自分の頭に添わせる。髪はないが、冷たい丸みがその温かさを引き立てて、レイジの指先が震えた。
「アナタのぬくもりがないと、私…寂しいです。こんなに近くにいるのに、離れたくない」
レイジは顔を近づけ、吐息がビターギグルの紫と緑の半身を跨いだ。彼の手はそっとビターギグルの腰へ滑り込み、繊細なトゲトゲに触れると、一瞬だけビターギグルの右腕のハングリースネークが揺れたが、決して攻撃的ではなかった。
「お前のその身体、触ると不思議な感覚だ。でも、俺にはお前の全てが美しい」
ビターギグルは微笑んで、レイジの胸に自分の手を置いた。「アナタの心も、私には全て見えていますから。だから怖がらずに、もっと近くに」
手と手が絡まり合い、指先が身体を辿る。二人の距離はますます縮まり、視線は溶け合う。互いの温度、呼吸、存在が混ざり合い、静かな夜に甘く蠱惑的な時間が流れた。
レイジは薄暗い部屋で、ビターギグルの隣に静かに寝そべった。天井の影がゆっくりと揺れて、外から聞こえる夜の静けさがふたりを包んでいる。
「ビターギグル…お前、眠れないのか?」レイジはそっと隣の顔を見る。彼の目はいつもより少しだけ潤んでいて、不安そうに見えた。
「レイジ…そうですね。私も眠れません」ビターギグルは微かに笑みを浮かべながらも、どこか心細げに言った。
ふたりは顔を向き合わせたまま、自然と手を伸ばし合う。指先が触れ合い、絡まり合う。冷たいジバニウムの指先がレイジの暖かい手のひらに包まれる感触が、まるでお互いの存在を確かめ合うかのようだった。
「俺の手、冷たいのに悪いな」レイジは苦笑しながらも、ぎゅっと握り返す。
「そんなこと、気にしません。レイジの手に触れていると、不思議と安心しますから」
その声にレイジは胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。彼はビターギグルの指一本一本を丁寧に絡め取り、時折そっと撫でる。
「お前の手、やっぱり特別だ。冷たくて硬いのに、俺には暖かく感じるんだ」
「私もレイジの手が好きです。お前の体温が伝わってくるから、ジバニウムの冷たさも和らぐような気がします」
顔は近い。けれどふたりは視線を外さず、ただ手だけをゆっくりと絡め続ける。その指の重なりが、言葉にできない想いを伝えていた。
「お前とこうしていると、時間が止まればいいのにと思う」
「私も同じです、レイジ。お前といると、不安も怖さも溶けていくんです」
やがてビターギグルの指がレイジの手の甲をなぞり、レイジもゆっくりと彼の手を抱き寄せた。指の間をすり抜けるようなその感触は、互いの存在を確かめるだけでなく、心まで繋がっていることを教えてくれた。
部屋の闇の中、呼吸の音だけが静かに重なり合う。顔と顔は離れず、ただ静かに手だけが絡み合う。
レイジが囁いた。
「ビターギグル…俺はお前が、どんなにマスコットでも、こんなにも大切なんだ」
ビターギグルも静かに答えた。
「レイジ…私も、あなたといるこの瞬間が、何よりも尊いです」
眠れない夜は、ふたりにとって忘れられないほど深く、温かい時間となった。