毒慣らしするぞー的な何か■
「あ、」
そう言ったのは小平太だった。彼は一文字だけ喉奥から捻り出し、バシン!と手で口元を勢い良く覆った。他は何も言わない。ただ、耐えるようにジッ……とその格好のまま、イチミリも動かない。そんな小平太の異変にいち早く気が付いたのは保健委員所属の伊作であった。どこからどう見ても吐きそうである小平太の姿を認めて、彼は「小平太!」と鋭い声を発し、隣に座っていた留三郎を押しやって身を乗り出す。だが、小平太は何も喋らなかった。否、喋れなかったのである。
穏やかな時間が流れていたというのに、一気に緊迫した空気に変わってしまった。伊作は押しやった際に床に転がった留三郎にも目もくれず、小平太の傍に駆け寄ってすぐさま湯呑みを手繰り寄せる。何か体に良くない物を体内に入れたのなら、吐き出さねばならない。ダクダクと汗を流す小平太の眼前に湯呑みを掲げ、伊作は「出来るね」と拒否させない声で告げる。
時間にして約三秒程であった。転がったままの留三郎と、まだ状況が分かっていない文次郎や仙蔵、長次は素早くマバタキするのみで、四人の内の誰かが「え?」と発した音だけが妙にリアルだった。
彼らはまだ四年生であるが、もうすぐ進級する時分だった。なので実質五年みたいな扱いを受けていて、今日も朝方に実習を終えて学園に帰ってきたばかりであった。この日はもう実習とかないから、好きに時間を使えよと言われたので、六人は取り敢えず実習の反省会をしようと食堂に集まって、朝ご飯を食べながらチマチマと反省会をしていた。まず、留三郎と文次郎がバカみたいに殴り合うので四人でそれを責め、小平太がイケイケドンドンで言う事を聞かなかったのでソレを咎め、仙蔵の仕掛けた爆薬がド派手に炸裂した事を褒めて、伊作の応急処置の素早さを称え、長次の後方支援の有り難さを力説した。反省会は大いに盛り上がりを見せた。途中で互いを貶し合って喧嘩に発展した犬猿二人を、仙蔵が鈍器で殴り大人しくさせ、ジッと座ってられなくなった小平太を縛り上げて床に転がしたりと騒がしかったが、概ね真面目な反省会が出来ていたと思う。
隣に座らせても、距離を離しても喧嘩を始める留三郎と文次郎には仙蔵が「次に互いを貶してみろ。ケツに火薬を捩じ込んで火をつけるからな。私は本気だぞ」と言ったので、二人は今は疲れた老人みたいな顔をして俯いている。小平太も、途中で食堂に立ち寄った桜木先輩に「ちっとも座っていられないのなら、その手足を斬り落としたらどうなるのだろうな。打ち上げられた魚みたいにビチビチ暴れるのか?」と言われたので、今は地蔵みたいに大人しく座っている。菩薩のようなたおやかな笑みを向けられたせいで、顔は血の気が引きすぎてまっちろであったが。
そうやって年相応に繰り広げていた反省会の途中、桜木先輩から貰った饅頭を食べた小平太が、冒頭の通りになっという訳だ。マァまさか、桜木先輩がこんな事をするとは思ってもいなかったので、周りは勿論、小平太本人は心臓が軋む程に驚いていた。
「留三郎、水ッ」
「桶、桶持ってこい桶!」
「解毒薬か!?」
「新野先生呼んでくるッ」
口元を覆った指の隙間から、ダラッと粘性のある血液が垂れてきたのを見て、少年達は一斉にその場からドタドタと駆けて居なくなった。伊作は白い顔をする小平太を見ながら「毒?」と簡潔に問う。忍びを目指すのであるば、毒薬とも上手く付き合っていかねばならん。この前の座学でやったばかりだ、とその時の事を反芻しながら、頷くように一回マバタキをした小平太に汗を流した。自分に対処出来るのだろうか。漠然とした不安が、真後ろに立ってこちらを見下ろしている。床に丸く垂れる血だけが鮮やかで、伊作は自分の心拍が異常に跳ね上がっているのを自覚した。
「だ、大丈夫。すぐ先生が来るから、取り敢えず吐き出そう」
しかし。
無情にも伊作が持っていた湯呑みは、彼の手から滑り落ちて床に落ちた。
中に入っていた水が広がる様子を、呆けたように眺めていた伊作は「ヱ、」と軽い声をあげる。その声は、落とし穴に落ちる直前の声によく似ていた。急に指先に力が入らなくなった。まるで痺れているかのように、指先がジンジンとしていて、握りしめようとしても、まったく動かない。なんで、という二の句は告げず、そのまま伊作はバッタリと床に崩れ落ちていく。
床板の上に、ブラウンの髪がバラッと広がる。
それは陽光を浴びて、キラキラしく輝いていた。
こんな緊急性のある状況でなければ、きっと小平太は「綺麗だな」と思っていたに違いない。事実、こんな状況であるのにも関わらず、床に倒れ伏せた伊作は白い肌をきらめかせていて綺麗であった。一筋、口の端から流れ出た血液だけが、彼を人間らしくみせている。
床にベタッと頬をつけたままの伊作は、朦朧とする意識の中、胃がひっくり返るような痛みに耐えながら、ア。と思った。
これ、テロじゃん。
なんて思い出したけれど、その声は外に出る事は無かった。
■
四年生の学期末にある実習。通称、上級生によるテロ行為、と呼ばれるソレは、四年に進級した時に既に話は聞かされていた。そう、話には聞いていたので、現在の四年生である伊作は思い出す事が出来たのだ。この実習は文字通りテロ行為であり、室町時代でなければ到底許されない行為であった。忍びを目指すのなら、毒薬にも耐え得る体にしなければいけない。睡眠薬を盛られても平然としていなければいけない、故にそういった薬に耐性のある体を作りましょう。というのがこの実習の実態であった。
所謂、毒慣らしである。
では何故、テロと呼ばれるのかと言えば。
事前告知されないのである。
今の様に、何気ない日常の中で急に盛られるのだ。
この時期の上級生……五年生と六年生には気をつけろよ、と散々先生方に言われていたのをスッカリ忘れた六人は、普通に餌食になった。今頃、食堂から居なくなった四人もブッ倒れているはずだ。唯一、小平太だけが即効性の物を盛られたので最初に症状が出ただけで、伊作を始め他の四人には遅効性の毒が盛られていたのである。彼らが飲んでいた水に。
食堂にヒラリと舞い戻ってきた清右衛門は、気絶した二人を見て「はー、こうも呆気なく上手くいくと笑ってしまうな」とたおやかに微笑んでいた。トロリとした甘やかな笑みは、同性だとしても一瞬は見惚れる程の美しさであったけれど。彼の手の内で転がる饅頭の中に毒薬が練りこまれているのを同級生達は知っているので、外面如菩薩内面如夜叉……、と遠い目をしただけだった。そこに後輩への心配はない。普通に最低である。
後を追ってやってきた勘兵衛も、やれやれと肩を竦めて「これからが大変だな」と憐れんでいた。彼らは去年このテロの餌食になった側なので、今年は加害者側になれるとにこやかに張り切っていたのだ。命に別状が無い範囲なら許可を出されているので、存分に盛れるという訳。
去年は本当に大変だったよな、と言い合いながら、二人は後輩を回収し、保健室へとサッサと運び込んでやった。
このテロ行為(実習)に於いて、重要になってくるというか、気を付けなければいけない先輩が居る。現在六年生の、信濃先輩である。彼は普段は脅威ではないが、この実習に於いてはモノスゴク危険人物になり得る奴であった。なにせ、毒薬の扱いで彼の右に出るものは居ないと言われているので。清右衛門や勘兵衛の代もそれなりに”やばい学年”と言われているが、信濃先輩が居る代の方はもっとヤバい。普段は害なんてありませんって顔で微笑んでいる信濃先輩だって当時、新任としてやってきた土井に対して毒を盛って縄で縛られて木に吊るされているのだ。そんな明らかにヤバいと分かる連中がゴロゴロといるのである。
そんなヤバい先輩による毒慣らしの実習など悲惨なものにならない訳が無いのだが、上級生にとっても良い勉強になる為、中止なんて言葉が出た事はない。上級生にとっては、下級生に気付かれないように盛る練習になるというモノだ。
「お、やっほー。どうよ」
保健室に運ばれた六人が床の上に転がるサマを見て、壮観だなー。と思っていれば。
噂の危険人物が障子の隙間からヌッと顔を出した。
まるで大江山の鬼みたいにニンマリ笑って、音なく障子を開いた信濃先輩は、倒れる六人を見てそれはもう、嬉しそうに笑顔を浮かべる。その顔を見てから「うわ……」と思った清右衛門と勘兵衛は、左右に避けて真ん中を先輩に譲った。この先輩、見た目の割には殺意が高いのである。目が合った瞬間にバトルを仕掛けてくるので、早々に退散したいところだが、それは叶わないだろう。二人の肩に、信濃先輩の手が置かれてしまったので。
陽光に照らされた信濃先輩の赤毛が神秘的に光を放つ。
彼は髪の手入れを自分でやらないが、同級生がやたらと髪の手入れにうるさい奴で毎日コテコテと弄られている。そのお陰もあって彼の髪の毛は常にサラサラで、少し風が吹けばハラハラと美しく靡く。それは見惚れるような美しさなのだが、当の本人が危険人物なので今の所惚れた奴はいない。……いや、町の人間は何人か居るだろうが。兎角、信濃先輩という奴は、毒を盛る事に人生を賭けていると言っても過言ではない危険人物であるが、顔は物凄く耽美で、キラキラしくて、まるで宝石のような美貌を持っていた。
マ死ぬほど口が悪いし性格が終わっているので、台無しであるが。
先輩は、勘兵衛の頭をグリグリと撫でながら倒れ伏した六人を眺めていた。
まるで女を物色するような目で、柔く微笑みながら眺める様子は怖いったらありゃしない。勘兵衛は頭を撫でられたまま、帰りたいな……と本気で思った。
「呆気ないなァ。オイ若王寺、そう思うよな?」
「ハイ、思います……」
「お前も呆気なかったけどな。うふふ」
「ハイ……そうですね……」
女みたいな美貌がグッと近づいてきて、思わず視線を横に滑らせる。先輩の言う事に対して、否を言うなんてとんでもない話なのだ。だから清右衛門も勘兵衛も、何も考えないでイエスと返すしかないのである。
「先輩、解毒薬って……」
清右衛門が、控えめに声を掛ける。
グリ、と首を捻って清右衛門の方を見た信濃先輩は、片眉をヒョイと上げてから、え?っていう顔で「いや、無いけど?だって命に別状ないもん」と平然と言った。
「その内良くなるンじゃないかな。適当に水でも飲ませて吐かせておけば」
ヒラリ。手を振って保健室から先輩は音無く障子の向こうへスルッと体を滑らせていった。
魚の尾びれみたいに毛先が揺らめいて、スルリと姿を消す。
何度も言うが、最悪である。
保健室に置き去りにされた二人は、ドッと詰めていた息をはいて「早く卒業してくれないかな」「無理だよ、まだ春じゃない…」とシワシワの声で言い合った。清右衛門達の一個上の代は、先生達からも”アイツら早く居なくなってくれないかな“と思われているのである。やる事なす事全部が最悪なので、あんなのが世に出て良いのか些か不安ではあるが。まぁ流石に、彼らとて世に放たれたからといって早々に暴れる事はないだろうというのが学園の人間の意見であった。マしかし、この意見は大きく覆されるのだが。それは今は良いだろう。
倒れた六人を見下げて。
清右衛門は、フスーッと鼻で息をしてから。
「まぁ、頑張ってもらうしかないね」
そう言った。
「取り敢えず、起こすか」
勘兵衛もやれやれ、なんて声で続けた。
床にブッ倒れた六人はこれから六年生が卒業し、自分達が五年に進級するまで、ほぼ毎日こうなるのである。清右衛門と勘兵衛も通った道である。伊作達に一目置かれている清右衛門達であったが、信濃先輩達には、まさか逆らおうとなんて思わない。死神や妖怪、鬼なんていう恐ろしいモノが人間のフリをしているような彼らなので。
「なんか、このテロ始まると先輩達ってさ、楽しそうだよな」
「そりゃそうだ。合法的に毒を盛れるからね」
「俺達は実習とか関係なく盛られてるけど」
「それは、まぁ。仕方ないよ。一個下なんてそんなモンだろう」
お手上げとばかりに両手をピロッと上げた清右衛門に、勘兵衛は笑いながら「そういうものか」と疲れた声で言った。本当に、一つ上の先輩方は色々と規格外なのである。
そんなのをこれから、くたばったままの四年生諸君は毎日相手をしていくのだ。御愁傷様、と密かに憐れんでから一人ずつ叩き起こしていった。
これより、伊作達は地獄のような日々を過ごす事になったのである。
進級まであと七ヶ月。彼らはこの間、厄災とまで言われる先輩達に、姑の嫁いびりよりも酷い後輩いびりをされる事になる。マァこれに耐えられれば、毒薬にある程度耐性がつくし、精神的にも強くなるというもの。新年度が楽しみだなーと清右衛門と勘兵衛は思った。
なにせこのテロ行為(実習)で、学年の半分は学園を去っていくので。
■
「悔しい」
そう言ったのは仙蔵だった。
喉奥から絞り出したような声は怨念さえ篭っているような気がした。しゃがれた声のまま、ケンケン咳をして、やはり悔しいと仙蔵は床に向かって吐き捨てた。同意したのは文次郎で、畜生と言ったのは留三郎。伊作は虚ろな目で天井を見るだけで何も言わない。最初に血を吐いて倒れた小平太も、鳴りを潜めていた。長次はそんな小平太を心配そうに見ている。
三者三様に布団の上に転がっている六人は、ようやく体を起こせるようになったのである。
上級生によるテロに巻き込まれて早三日。彼らは少量の毒にも負けて絶賛寝たきりを言い渡されている途中であった。解毒薬を飲んでいたらこうも長引かなかったのだが、信濃先輩が置いていかなかったのでこんなにも尾を引いていた。
開けっ放しにされた入り口から、秋らしい爽やかな風が入ってくる。その風は伊作のフワフワの髪を揺らめかせながら、部屋の中に充満していった。マァそんな爽やかな風でさえ、哀愁漂う空気は掻き消えなかったが。
「というか、そもそも」
咳払いをしてから、難しい顔のまま声を発したのは文次郎だ。
「何故、小平太だけ即効性のものを盛られた?」
「あぁ、あの饅頭か」
天井を見たままの小平太が、苦々しい顔をして思い出す。やけにキラキラしい笑顔で渡されたなぁと思うが、テロ行為だったのなら納得である。上の世代はやけに下級生をいびる事に全力なので。
取り敢えずここまで書いたけど、今後書くか分からんです。