凍える夜には カラカラという乾いた音の中、俺はゆっくりと瞼を開けた。寝起きの動かない頭では、何かが故障した音にも聞こえたそれが、常時回り続ける換気扇の音だと気が付くまで時間を要した。
まだ日は昇っていないようで、部屋は暗闇に包まれていた。
堂路桐子――否、沖野司という男を探し続けて半年、ようやく奴を見つけることができた。俺から逃げ回っていたはずのそいつはどういう風の吹き回しなのか、俺に協力を求め、自分のアジトまで教えてきた。それからというもの、俺は沖野が逃げないように見張りながら、奴に一応協力をしている。
沖野がアジトとしている廃工場には、仮眠室が設置されていた。といっても、あまり立派なものではない。簡易的なベッドが一つだけ。あとは、粗大ゴミとして廃棄される前にどうにかこうにか回収した、ボロのソファーベッドというものが一つあるだけだ。
ソファーの方は大きさが足りず、少女と見間違うくらい小柄な沖野でも、体を伸ばして寝ると爪先が少し出てしまう。当然、奴より大柄な俺が寝ると尚更足りない。
ソファーでは寝にくいだろうから、ベッドで寝るようにと沖野はよく勧めてくるが、俺は断固として固辞している。確かにベッドであれば足を伸ばしてもはみ出すことはない。
しかし、雨風凌げる場所の提供をされた上、食料も奴から渡されている。その上、ベッドまで俺が占領するほど、俺は厚顔無恥ではない。……まあ、未だに沖野がベッドで寝ている姿は一度も見たことはないのだが。
何となく目が覚めてしまったが、どうやらまだ真夜中だ。再び眠ろうと目を閉じようとした時、俺は誰とも目が合うはずもないのに、誰かと目が合ったことに気が付いた。
「……まさか比治山くんに寝込みを襲われるなんてね」
「……!!?」
聞き慣れた澄んだ声が鼻先で聞こえたことに驚いて仰け反ると、強かに壁に背中をぶつけてしまう。俺が痛みに悶えていると、大丈夫かい、なんて涼やかな声が聞こえてくる。
窓から差し込む街頭の光が、部屋の中を僅かに照らし出した。色素の薄い髪がきらきらと光っているようだった。
認めたくない、信じたくないが、俺の隣に沖野が寝ている。
何故だ! ソファーベッドに俺が寝転べば、隣に誰かが寝るような余裕はないはずだ。
「な、な、な、何故沖野が俺の隣で寝ているんだ!?」
「覚えてないのかい? 君が僕のベッドに入り込んだんだよ」
「な……!?」
そんな馬鹿な。そう思いながら、俺は周りを見る。しかし、何度確認しても沖野の言う通り、俺は沖野のベッドに横になっている。訳が分からなくて混乱する。就寝時は確かにソファーベッドの方に寝たはずなのだが。
頭を抱える俺をよそに、沖野はふわあと呑気に欠伸をする。
「寝ぼけながらトイレに立って、戻ってきた時に間違えたんじゃない? まあ、比治山くんが大好きな僕と一緒に寝たかったというのも否定しきれないけどね」
「馬鹿野郎! そんなはずあるか!」
「このまま一緒に寝るかい? あ、ウィッグでもかぶってあげようか?」
「いらん! くそ! こんなところ、すぐに……」
こんなところに寝転がっているから、いつまでもからかわれるんだと、俺は上半身を起こそうとした。その時にたまたま冷たいその指先に触れてしまった。生きているのかと疑うくらいのその冷たい体温に驚いて、とっさに俺は沖野の両手を、自分の手で包み込んでいた。
「おい! 貴様、随分冷えているではないか、大丈夫か!?」
「ああ、まあ、今夜は冷えるからね」
沖野は何でもないことのように言った。
今の季節は春だ。日中であれば過ごしやすい気候だが、朝晩は冷え込むことが多い。
改めて触れても、沖野の手は氷のように冷たい。あちこち体を触るのは憚られるので確かめられないが、おそらく手だけが異様に冷たいということでもないだろう。これだけ凍えていては、寝付くのに時間がかかるに違いない。
今まで寝ているところを見たことない男が、ようやくまともに休息を取ろうとしているというのに、これでは満足に疲れが取れまい。芯まで冷えた沖野の手を俺が短時間温めたところで、俺がその手を離せば再び元に温度に戻っていってしまうだろう。
……しかし、まともな暖房器具がないとはいえ、一つのベッドを共有して俺が沖野を温め続けるというのはどうなんだ。婚前の二人が同じ寝台で夜を明かすというのは……いやいや、沖野は男だろうが!
しかし、今向かい合っている男は、初恋の少女と同じ顔をしている。いや、同一人物なのだから、同じ顔なのは当たり前だが。
闇の中、正面にいる沖野が少しだけ動いたような、そんな気配がした。
「……比治山くんはあったかいな」
真夜中の暗闇の中、沖野の表情はほとんど見えない。しかし、俺は闇の中で確かに、ほっとしたように頬を綻ばせている沖野の表情が見えたような気がした。
……ええい、軍でも男同士で雑魚寝くらいあったではないか! 男同士でやましい気持ちなんか起きるものか!
「そ、それほど冷えていては眠れんだろ、俺を湯たんぽ代わりにでもして寝ろ。……少し狭いがな」
「えっ」
沖野は小さく驚いた声を上げる。
俺と沖野は協力関係なのだから、沖野に十分な休養を取らせることは俺の使命の一つである。それくらいに思っていたというのに、提案をしてしまった後で、心臓がバクバクとうるさく鳴っていることに気付いた。
あのふわふわとしている髪からなのだろうか、沖野からはとてもいい香りが……じゃない! 俺は何を考えているんだ!
「お言葉に甘えて、そうさせてもらおうかな」
普段の沖野であれば、俺の提案などすげなく断って、からかいの材料にしそうなものなのに、沖野は俺の提案を受け入れた。
少女のように見えなくもない沖野と違って、俺は大柄な男だ。大の男と共寝することに対して、沖野は俺を上回る忌避感があるはずだ。それでも提案を受け入れるとは、それほど凍えていて困っているということだろう。煩悩にかき消されそうになっていた庇護欲が再び顔を覗かせる。
握り締めたのは、俺より二周りは小さい、あまりにも頼りない手だ。そんな手で、こいつは世界を救おうとしている。俺は、こいつに何かしてやれることはないのだろうか。
「……ねえ、ウィッグかぶらなくていいのかい?」
「いらん! 寝ろ!」
間近でくすくすと笑い声がする。ちくしょう、こんな奴を助けようと一瞬でも思うなんて間違いだった。後悔の念が押し寄せるが、今更やめるというのも不義理な気がする。
すぐに笑い声は聞こえなくなって、やがて小さな規則正しい寝息が聞こえてくる。未来から来た奴がむさ苦しい男の近くで眠れるのか不安ではあったが、どうやら杞憂だったらしい。
狭いベッドはほんの少し身動ぎするだけで、膝やら肩やらが触れ合いそうになる。こんな呼吸をするだけで起こしてしまいそうな至近距離で、俺は眠ることができるのだろうか。
一人で葛藤している間にも、刻一刻と朝は近付いていく。1分でも多く眠れるように祈りながら、俺も瞼を閉じた。