おしどり問答 休日の昼過ぎ、すっかり遊びに出払ってしまって人気のない長屋で級友が柄になくしんと手の内を見つめていたので気になった――というのがきっかけであった。
普段から騒がしく、また周りに人の多い彼であったが、影の落ちる縁側にひとり腰掛けてやたらと眉をしかめて何か握ったものを眺めている。はて彼を悩ませる何かとはと近づいて覗き込んでみれば、それは美しく存在を主張した。
褐色に広がった先に墨と青が染みたそれは、鉢屋三郎の知るものより変わった形状をしていたがまさしく鳥の羽であった。彼の手の中で遊ばれる度にちゃり、と鳴るのは根付けかなにかに加工されているのだろう。組み紐に編まれた木彫りの飾り同士がぶつかって音を立てていた。
「八左ヱ門、それは?」
後ろから声をかけてやれば――忍者の卵の、それも上級生だというのに――三郎の気配に気付いていなかったらしい彼が肩を揺らしたのがわかった。
あくまで気取らせないようにしたいのか、ゆっくりと振り向いた彼が口を開く。
「三郎」
「それは根付けか? 綺麗だな。君が持つには随分珍しいものに見えるが」
「……そうかもな」
現にこの竹谷八左ヱ門という男は、自分のみなりに気を遣わない男だった。伸びて荒れ放題の髪には櫛も通さず、肌が日に焼けるのを厭わず田畑で生き物たちの食い扶持を稼ぐ。同じ忍びの道を志すものと言えど、化物の術を極めんとし、級友の皮を被って毛先の一本にまで気を張る三郎とは文字通り対極の存在であった。
持ち物だって例の通りで三郎の部屋には化粧道具や簪、それこそ根付けといった小間物が無数に所蔵されているが、八左ヱ門の部屋といえば大量の虫籠や木材、竹細工のための小刀で専ら埋められている。
八左ヱ門が是を示したので、三郎の眉根は寄った。ならばなぜ、と疑問はそのまま質問になる。
「貰い物か?」
八左ヱ門はやはりゆっくりとかぶりを振った。今度は非の意を示す彼に、三郎の眉間はますます影を作る。羽はこの辺りであまり見ることのない色かたちをしていたから、学園や近辺で採取したものではなく行商で手に入れたのだと察しはついたが、生き物好きとはいえ八左ヱ門の興味の対象は命あるものがほとんどで、わざわざ羽細工を買ってまで手にするとは思わなかったのだ。
三郎の声なき疑問は八左ヱ門にも届いたようで、彼は手の中で根付けを弄びながらぽつりと溢すように由来を話した。
「午前に生き物の餌をもらいに町に出てさ……旅商人の売り物のなかにあって、つい」
それだけでは三郎の疑問を解消することにはならず、まだなにかあるのだろうと八左ヱ門の横顔を眺めた。常よりもものを語らない彼の唇は、ややあって鳥の名を告げた。
「おしどりの羽なんだよ」
その名は当然三郎も知るもので、ははあこれがと名と実物を結び付けるに至ったのであったが、三郎はそれよりも突然頭の横を殴られたような心地に足元を揺らさずにいるので精一杯であった。
おしどり。睦まじい夫婦を指すときにも使われる名は、果たしてこの根付けが少年の興味や道楽を満たすためのものではないことを三郎に示した。
「……君、それは」
ごくりと生唾を飲む音が耳に響く。体の内の音など決して聞かれることはないだろうに、平静を装う自分がおかしかった。
「……人に贈るためのものだろう」
「……」
八左ヱ門は答えなかった。沈黙は時として雄弁だと誰が言ったのだったか。日はまだ少しも落ちていないというのに八左ヱ門の目元が夕暮れ時のように染まっているのも三郎の心を騒がせた。
「君にそんな相手がいたとは知らなかった。うまいもんだな、普段あれだけあけすけでいるのに」
「俺だって忍者のたまごだ。本当に隠さなきゃいけないものは必死で隠すさ」
「私に話したのは諦めか?」
「こんなところを見られちゃあな、お前の観察眼の前では俺がどれだけ取り繕ったって無駄だろ」
「で、誰に渡すんだ」
羽をなぞる八左ヱ門の指がぴたりと止まった。
「……渡すつもり、ないんだ。その人には似合わないから」
「それは意味を贈るものだろう、色かたちは別に」
「じゃなくてさ、」
言葉を切って掌を握り込む。木彫りがまたちゃらりと音を立てた。
「もう、綺麗な羽がある」
彼の懸想は叶わないのだと言外に知らされる。羽を握りこんだまま、八左ヱ門は自分の手から視線を逸らした。
「……最初っから諦めてる。少し長く隣にいられればいいんだ。これだって本当に魔が差しただけで、告げたいわけじゃなかった」
八左ヱ門の中途半端に浮いた前髪が額に作る影が次第に濃くなっていく。それを見ながら三郎は自分の胃の腑が釜茹でにされたように熱くなっていくのをなんとか堪えていた。
いつもより落ちた声色も、自分の爪先を眺める眼差しもなにもかもが気に食わなくて、つい苛立ちをそのままに口に出す。
「なんだその顔は。自分で言っておいて、忍者のたまごが三禁で自分を見失うとは情けない。お前をそんな腑抜けにしたのはどこの別嬪だ? 言ってみろ」
八左ヱ門の視線が上がる。逞しい眉をぎり、とつり上げているのを見るにわかりやすく怒らせたらしい。
「なんだよ、別にどこの誰だっていいじゃないか。お前に関係ないだろ」
「いいやあるね。私は君の級長だ。三禁に溺れかけている友人の根性を叩き直さなくてはな」
「なっ……」
「さっさと想いを告げてこっぴどく振られて来ればいいじゃないか。それとも勇気が出ないなら君に化けて代わりにいってきてやろうか?」
「三郎」
「愚にもつかない横恋慕なんぞして引きずっているのが悪いんだ。うだうだと慣れない銭の無駄遣いで後悔するくらいなら、さっさと……」
「いい加減にしてくれ!」
しまった、と冷静になるのは随分遅かった。煮え立った腹の中のものをすっかりぶちまけてしまったところで八左ヱ門の吠えるような声が三郎を制止する。
「……もういい、わかってる」
肩を上下させて拳を握りしめている。あの内に握られた羽飾りはきっと、無惨な姿に変えられているのだろう。
「ごもっともだよ。忍びになろうっていうのに惚れた腫れただの、ほんと浮かれるにもほどがある」
「八左ヱ門、その」
「お前の言う通りだ、三郎」
さっきまで足の位置を崩さぬことすら必死になっていたというのに、反面釘で打たれてしまったように動かない足を三郎にはどうすることもできなかった。だから、八左ヱ門がするりと踵を返すのに一歩たりとて追うことは叶わなかった。
「俺を腑抜けにしたのは誰だって聞いたな」
「は……」
「ひとつだけ教えてやるよ」
本当ならばこのとき、意地など投げ捨てて追い縋り、言葉の続く限り謝ればよかったのだと後になって三郎は思うことになる。しかしその後悔も先にはたたず、むしろ今の三郎は八左ヱ門の口から告げられるであろう想い人の正体を聞き逃すまいと喉を絞っていた。
しかし、八左ヱ門の姿がすっかり見えなくなっても三郎がその名を知ることはなかった。
「……お前が絶対に変装できない人だよ」
八左ヱ門の懸想を知った三郎が腹を煮立たせ、冷静さを失って酷い言葉を浴びせかけたのには、本人なりの理由があった。
つまるところ、三郎自身が八左ヱ門に慕情を抱いていたというただそれだけであり、直球な言い方をすれば嫉妬からくる八つ当たりであった。
八左ヱ門が誰かに焦がれているというのにひとつ欠片も気付いていなかったというのも、三郎を焦らせた原因のひとつである。
日頃変装の名人と呼ばわれ、その観察眼は自他共に認めるほどに鋭い。そのご自慢の眼がどうした、好いた相手が誰かを想う顔色一つさえ、八左ヱ門の気紛れがなければ伺い知ることもなかったというのだ。
この事実は三郎の小高くねじ曲がった自尊心を大いに傷つけた。散々横恋慕だなんだと投げつけた文句は最早自分に向かって言っているのと大差なかったが、燃え上がった嫉妬の火は自分だけでなく八左ヱ門すらも徒に焼くことになった。
叶うなら傷ついた――傷付けたのは自分だが――顔の彼をかき抱き、根付けを奪い取ってどこか遠くに放り投げて私にしろと言いたかった。そんなことが鉢屋三郎という男に出来る筈もなく、押し寄せる後悔に嫉妬の苛立ちと自分を正当化する屁理屈を混ぜながら、三郎は当て所なく広い校庭を歩いているのだった。
「何が私には絶対変装できない、だ。私は学園きっての変装の名手だぞ? その私が化けられぬ相手など」
そこまでを口にして、ふと立ち止まる。三郎には、どんな面相にも化ける自信があった。出来ぬとすれば頭身の誤魔化せない幼子か、あるいは――
「顔の知らぬ者には、化けられないな」
じゃり、と足元の砂粒をにじる。濁った音がまるで自分の心の内を表すようで耳障りが悪かった。
「……なら、この辺りの町のものではないな。あいつの通うような店にはほとんど連れられていったし、顔もわかる」
ぺらぺらと仕込んだ面のおもてを変えればたちどころに町に見かける顔が現れる。
「忍務で行った先で惚れたか、あるいは生まれの村の馴染みか……」
変えられる顔がなくなって手を止める。八左ヱ門に馴染みがいるなど聞かされたこともないが、恋心をひた隠しにしていたとなれば話すこともなかったのだろう。
「はん、裏も表もないような顔をしているくせによくもまあ隠していたものだ。普段の隠し事は下手くそだというのに」
面の一番上を最も長く使っているものに戻し、三郎は鼻を鳴らした。
八左ヱ門はまっすぐな男だった。小さな虫や動物、人さえ躊躇いなく掬い上げ、一度関わったらさいごまでと口癖のように宣う。それを彼が違えたことは今までに一度もないし、きっとこれからもそうなのであろうとは誰しもの思うところだった。
忍のくせに積極的に命に関わり愛情を注ごうなど、とその在り方に三郎が眉根を寄せていたのも今は昔のことである。八左ヱ門の単純とも言うべきまっすぐさに三郎は下級生の頃からすっかり食らってしまっていて、何かにつけては彼が自分を構うのに面の下でひっそり喜んでいたものだった。
その八左ヱ門が自分に隠し事をしていたのである。気取られぬように情報すら与えず、細心の注意を払って。
好いた相手に既に意中の人がいたということにもただ行き場のない悔しさを募らせるばかりだったが、八左ヱ門の振る舞いのすべてが三郎を思考の渦に陥らせる。
これでは親愛なる相方と全く同じになってしまう、と三郎は抱えていた頭を上げた。
気分を変えよう。気付けば日も傾き始めていた。少し遅くなったが雷蔵を誘って食堂に行こう。
そう足を向けた長屋の自室、もうひとりの部屋の主はかつてなく固く握りしめた拳で三郎を向かえたのである。
「いきなりなにするんだ雷蔵!」
部屋に入るなり縁側の下まで吹き飛ばされた三郎は殴られた腹を庇いつつ身を起こした。受け身は取れていたし急所も外されていたから痛みは一時で済むだろうが、鈍痛が混乱を呼び起こす。
「いきなりもなにもないよ! お前八左ヱ門になに言ったの!」
八左ヱ門の名を聞いて、そのままにすると縁側で取っ組み合いでも始めそうな勢いの雷蔵を三郎はなんとか部屋まで引きずり戸を閉める。幸い夕食の頃で他の五年生は皆食堂に向かってしまっているらしく、雷蔵の怒号と三郎の情けない姿をみとめる者はいなかった。
「まて、待ってくれ雷蔵。八左ヱ門がどうしたって?」
「さっき委員会の当番の帰りにすれ違ったんだ、八左ヱ門も生物小屋の帰りで」
あのひどい問答のあと、生物委員会委員長代理様は律儀に自分の管轄へ顔を出していたらしい。面倒見がよく責任感のある八左ヱ門には見るべきものがたくさんあるようで、委員会に顔を出さない日は滅多なことでない限りなかった。
しかしそれだけでは雷蔵の怒気の理由もわからぬままで、三郎は大人しく話の続きを待った。雷蔵は依然わなわなと拳を握りめたままであったが、三郎が変に言い訳をしようとしないのを見るとようやく拳から少し力を抜いた。
「……ひどい顔してた。理由きいても〝自業自得だ〟としか言わないから、たぶんお前が悪いと思って」
「ちょっと待て。君明確な理由もわからないまま私を殴ったのか」
「そうだよ」
鼻を鳴らした雷蔵はしかし悪びれもせず三郎を見据える。
「八左ヱ門がああいう顔しているときにお前のせいじゃなかったことがない」
「なんだよそれ!」
「逆に聞くけど三郎は心当たりないの」
ないわけがなかった。一瞬にして明後日を向いた三郎の襟首を掴み、やっぱり! と声を荒げる。
「君が悪いんじゃないか!」
「待て、雷蔵待て! 違うんだこれには訳があって」
元来心の広い雷蔵は、それだけで話を聞いてくれる気にはなったらしい。緩んだ襟元を直し、居住いを正して先刻二人の間で起きたことを三郎はぽつぽつと話した。
「――というわけでだ、奴がそんなことで柄にもなくしょげ返ったりするから、痛い!」
「顔はやめてあげてるんだから感謝して」
話を結んだ三郎を待っていたのは関節技だった。肩を固められて、三郎は悲鳴と共に床を叩く。ギリギリと三郎を締め上げながら雷蔵は眉を吊り上げた。彼がするには珍しい表情なので是非とも観察をしたいところであったが、悲しいかな三郎の顔は床以外を見ることができなかった。
「お前ね、自分で言ってておかしいと思わないの。その話じゃどうしたって横恋慕してるのは三郎の方だろ」
「……仰る通りで」
自分でも辿り着いた結論ではあったが、他人から突き付けられると尻の据わりが悪い。抵抗する気力を失い、全身から力を抜いたところで雷蔵はようやく三郎を解放した。
「自分の恋路が思うようにいかなかったからって本人に八つ当たりするのは筋違いだよ」
「はい……」
三郎の思慕は、すっかり雷蔵の知るところであった。とはいえ年頃らしく恋愛相談をしていたわけでもなく、五年もの間同じ部屋で寝食を共にしていたのだから自然と共有する話題も多くなり気が付けば雷蔵の知るところとなっていたというより他にない。
三年生の頃に校庭の遠く反対側から、気紛れで勘右衛門の変装をしていた三郎の姿を見つけて「三郎!」と大きく手を振って呼び掛けてきた八左ヱ門の話などをあいつはすごいと興奮気味に聞かせて「ちょっと前まで変装を見破られるのにずいぶん腹を立ててたくせに、いつの間にそんなに八左ヱ門を気に入っちゃったんだい」と何気なく言われて初めて己の恋心に気付くということもあった。
その日の夜は戸惑いが勝ってまるで眠れなくなり半べそで雷蔵の布団に潜り込んだのも、頻繁に思い出したくはないが三郎にとって良い思い出である。
傾いて差し込む夕日を背に受けて、髪を炎のように燃やしながら雷蔵は指を突き付ける。
「八左ヱ門に言ったことだって全部そう。お前がさっさと告白して振られてこればいいんじゃないか。今なら好感度は最低値だよ」
「ぐ……簡単に言うけど、そんなことが出来るならとっくに」
「お前に言われた八左ヱ門だって同じ気持ちだったに違いないね」
普段の雷蔵は決して多くを語るわけではない。だからこうして饒舌になるときといえば、大抵がよくないことをした三郎を正論で諌めるときであった。足を正座に組み、雷蔵が口を開く度に肩を縮こまらせる三郎をみて雷蔵は小さく溜め息をつく。
「僕はね、三郎。お前を大事な友人だと思っているからお前の恋路は応援しているんだよ。でもそれでもうひとりの友人を傷付けるんなら許さないから」
「わ、わかっている! ……今回のことは私も、感情に任せて軽率な発言をした」
「じゃあちゃんと八左ヱ門に謝って。取り返しがつかなくなっても知らないからね」
がくがくと首を縦に振る三郎を眺めながら、それとと雷蔵は前置きをする。
「これはね、かなり長く悩みに悩んで僕のなかでとっくに答えが出てるから今言うんだけど」
「はあ」
だらりと足を伸ばした雷蔵は、あえてのんびりとした口調で続ける。
「僕は心から、どちらの気持ちも実ってほしいと願っているんだ。だから不必要な手出しや口添えはこれ以上しない」
どこか遠くを見て綴られる雷蔵の更科に片眉を上げたのは三郎であった。
「雷蔵、きみ、八左ヱ門の相手を知っているのか」
「教えられた訳じゃないよ。八左ヱ門は確かにうまく隠してたし、知っているのも僕だけだと思う」
「いったいどこの誰なんだ、私は……」
「聞いてどうする気? それに、僕は今口添えをしないと言ったばかりだ」
雷蔵は腕を組み、三郎をはね除けた。迷いに迷った末の雷蔵がそうすると決めたなら梃子でも動かすことは出来ず、三郎は奥歯をぎり、と鳴らす。
「本当に注意深く、八左ヱ門とその人を見ていたから気付いたんだ。僕にしかわからないことだったと思うよ」
これだけは言っておくけど僕ではないから安心して、と雷蔵は結ぶ。
雷蔵も知る人物だというのを聞いて、三郎は動揺を隠せないでいた。注意深く見ていたという距離感なら、なおさら自分の知らぬ者であるはずがない。
様々な顔を脳裏に浮かべ思案に耽り始めてしまった三郎をじとりとねめつけて、雷蔵は小さく溜め息を吐く。
「あのねえ、隣にいるだけの僕が気付けて、八左ヱ門をじっくりねっとり眺めているお前が気付けなかったというなら、それはお前の目が曇ってしまっているからだと思うよ。熱に浮かれて優秀なお前がこうもなってしまうものだから、三禁というのは怖いものだねえ。早めに気付けてよかった」
部屋の外はすっかり日が落ちてしまっていた。食堂ももう閉まっている頃合いで、二人は夕食を食いっぱぐれたことに気付く。
君のせいだからと二人分の自炊の命を仰せつかり、三郎は素直に食堂へと走った。
同室の去ったあとの静かな空気を吸いながら、雷蔵はごろりと床に寝転がる。床板の冷たさに三郎を殴った手の甲を当て、少しひりひりとするのをじっと耐えた。
「おせっかいをしすぎたかなあ。でも、八左ヱ門も遠慮しないでもう少し欲張っても良いと思うんだけど」
話に聞いた友人の慎ましさに苦笑する。夏の日のように明るく暖かいのが魅力だというのに、ふとしたところで生まれた日のような寂しさを見せる男だった。
「比翼之鳥にも北の小鳥にもなれるのが、三郎だと思うから」
ふたりともがんばれー、と両腕をのんびりと挙げ、雷蔵は今頃火を焚いているであろう同じ顔の友人をじっと待つことにした。
結果的に言えば、八左ヱ門と面と向かって会話をすることが出来たのはそれから五日も経ってからだった。
いつもならば授業の終わりや実習のあと、お互い委員会活動に向かうまでの少しの時間を埋めるようにやりとりをすることが多かった。教科の間に八左ヱ門の反応を盗み見て、難しそうにしていた部分をからかいながら教えてやるのが三郎は好きだったし、時折八左ヱ門の方から頼りに来ることもあった。その日常は三郎の思慕を容易に育むものであったが、この数日はそれがない。
話しかけようにも八左ヱ門は足早に生物小屋へと向かってしまうし、ならば夜にと部屋を訪ねれば明日は朝からおつかいがあるからとすでに寝息を立てていた。
自分ひとりの時間をたっぷりと余らせ「八左ヱ門が忙しすぎる」と拗ねている三郎の頭を小突いて、雷蔵が呟く。
「目だけでなくて頭までゆだっちゃったの」
「だってそうだろう。普段あいつあんなにせかせかしてないじゃないか」
「そうかなあ、忙しいのはいつも通りだと思うけど。僕らだって近くに忍務が控えてるだろう。出るとしばらくかかるよ」
「ああ……それまでには何とかして話をしないと」
「ああ、いたいた。雷蔵に三郎」
教室の前で立ち話をしていると声がかかる。見知った豆腐桶を抱えた兵助であった。
「兵助、ろ組の教室になにか用か?」
「八左ヱ門を呼びに来たんだ。今日委員長会議があるから」
「それなら授業が終わってすぐに、そう言って出ていったよ? 今頃もう会議室にいるんじゃない」
「え、そうなの?」
きょろりと、目と長い睫を瞬かせて兵助は存外であったと返事をした。
「そういうもんじゃないのか」
「だって八左ヱ門がいつも言うんだ。出来るだけ教室で勉強を教わりたいから、会議の日は俺の準備ができてから迎えに来てほしいって」
そういえば前回もその前も、教室で夢中になって話していたところを横からかっさらわれていたのだったと思い出す。八左ヱ門も「忘れてた」といって焦って教室を出ていったから、名残惜しく思いながらも六年生にどやされるぞなどと軽口を叩いていたのだったが。
「先に行ってるんならいいや。ありがとう」
桶を揺らさぬようにして礼を言った兵助が足早に廊下の向こうへと去っていく。
「兵助の準備って豆腐? 六年生に食べさせてるなんて勇気あるなあ……三郎?」
「あ、ああ。ごめん、考え事をしていた」
「不破先輩、鉢屋先輩!」
先ほどと同じように後ろから声がかかる。違ったのはその声の幼さだった。二人が振り返れば、先ほど目線を合わせたよりずいぶん下に顔があった。あまり交流のある生徒ではないが、顔も名前も八左ヱ門づてによく知っているものだった。
「たしか生物委員会の……孫次郎と一平か。八左ヱ門ならいないぞ、委員長会議にいった」
「あ、はい。なので不破先輩と鉢屋先輩にご伝言をお願いしたくって」
「鉢屋先輩、不破先輩、お願いしてもいいですかあ……?」
三郎と雷蔵、必ず二人を合わせて呼ぶのはいま会話しているのがどちらか見分けがついていないからだろう。慣れない五年教室でもじもじとしている姿は愛らしいものだった。
断るような理由もなく、三郎は頷く。
「明日の午後なんですけど、一年い組とろ組の合同実習で生物小屋を使うことになったんです。生物委員会顧問の木下先生が立ち会いと片付けまでついてくださることになってるので、竹谷先輩は明日の午後は委員会おやすみです!」
「い組とろ組で、午後の生き物のお世話を一日分やるってことになってます……木下先生が、竹谷先輩がいると全部面倒見ちゃうから来ちゃダメだって」
暗い顔でくすくすと笑う孫次郎は、心当たりがあるのか「ね」と一平と顔を合わせてみせた。
「竹谷先輩が教えてくれたから僕たちだって出来ることたくさんあるのに」
「うん。先輩ったら、実習や会議がない日はご自身が当番じゃなくても欠かさず見に来てくれるんですよ。本当は任せてほしいけど、まだ失敗もあるから竹谷先輩が来てくれるの、ホッとするんです」
「八左ヱ門は面倒見が良いからねえ。生物だけじゃなくて、お前たちのこともかわいがりたいんだよ」
雷蔵がぽんぽんと頭に手を乗せてやれば、面映ゆそうに二人は笑った。
伝えるべきことを伝え、二人の名前をやはり揃えて呼ぶと小さな生物委員たちは礼を述べて去っていった。これから生物小屋に向かうのだろう。
「慕われてるね、八左ヱ門」
「……少しやりすぎだ。多少は任せねば下が育たない」
「なにお前、八左ヱ門の時間が自分のものにならないからって一年生たちに妬いているの?」
「……」
「見苦しいぞ」
全てを知る雷蔵相手に誤魔化したところで意味はない。反論に使う文句もなく黙り込んだ三郎を、雷蔵は苦笑いで嗜めた。
「にしてもだ。兵助の話だと、あいつは会議のことなんて忘れてやいないみたいじゃないか」
「まあ真面目な奴だし、委員長代理は早めに集まって準備が必要だっていうからちゃんと予定は頭に入ってるんじゃないの」
「それに、委員会だって……そんなに毎日足繁く通う必要があるなら日頃からそうすればいいじゃないか。後輩も喜んでいるんだし、私がちょっかいをかけるのに付き合わなくても」
「そうかもしれないね」
のんびりと普段と変わらぬ様子で相槌を打つ雷蔵に、滑り出した口は止まらなかった。
「町に行くのだってそうだ。あいつを慕っているやつらがあんなにじょろじょろいるんだから、貴重な休みに私を誘わずに後輩たちを誘えば良いだろ」
「うんうん」
「私が誘うときもそうだ。二つ返事で頷くくせに、学園に戻ったあと毎度毎度忙しなく生物小屋へ走っていく。そんなに無理して時間を作る必要があるか?」
「ないかもしれないね」
「じゃあなぜ……」
三郎は再び押し黙った。自分で突き付けた問いの答えがわからなかったではない。沈黙は雄弁であった。
「僕だったら、顔を貸してるわけでもないただの級友に誘われても余裕をなくすようにいくつも予定を詰め込まないし、会議があるなら余計に早く教室を出るね。今日の八左ヱ門みたいに」
「……」
「せっかくの休みなら、町へは適当な友人とじゃなくて特別一緒にいたい人といきたいな……三郎? 首赤いよ」
雷蔵が三郎をからかうように笑う。日頃と逆転したような状況において、三郎はそれに返す屁理屈も持ち合わせていなかった。
「……私は自分が変装の名手であることに誇りを持っている」
「うん」
「だからこそ人前に素顔を晒すことは誰であっても決してないし、私が唯一、知った顔で作ったことのない面は……自分の顔だ」
「何度も聞かされてるよ」
少しも熱を持たないかんばせとは裏腹、着物の隙間から覗く肌の全てを赤く染めて三郎は唸るように呟いた。
「……あんなにひどいことをあいつに言っておいて、今さら、馬鹿みたいだ」
「そう思うんなら、もう形振り構っていられないんじゃないの」
雷蔵はにやりと片頬をあげる。その表情はまるで常の人をからかう三郎のようであった。
「八左ヱ門、明日の午後は委員会禁止だって。まだ伝わってないならそれ以外の予定はないんじゃない? 伝えてあげたいけど、僕はこの後きり丸のアルバイトを手伝いにいく予定だし明日は自分の委員会で忙しいなあ」
「……わ、私が伝える!」
雷蔵の言葉尻を食うように三郎が声を上げれば、彼は満足げに笑った。
「頼んだよ」
果たして翌日。
授業が終わるまで、八左ヱ門とは最低限の挨拶しか交わさなかった。それはこの数日ですっかり日常になってしまったものであったが、三郎は時が来るのを待った。
放課を知らせる鐘がなり、八左ヱ門が立ち上がるのを腕をつかんで引き留める。
「待て、話がある」
「あーごめん、三郎。俺委員会に行かなくちゃ……」
「ない! 伝えていなかったんだが今日のお前は休みだ。昨日お前の後輩が言伝てに来てな、生物小屋は今一年生の実習に使われている。お前が来ると実習にならんから来るなと木下先生が仰せだ」
「は」
「今日委員会以外に予定はないな? なら時間もあるはずだろう。来てくれ!」
「ちょ、ちょっと三郎! 離せって……!」
力任せに振りほどこうとする八左ヱ門の腕を押さえ込むように自身の両腕で抱え、三郎は教室を出る。背後で雷蔵が手を振った気配がした。
ずかずかと廊下を歩いていく途中幾人かに不思議な顔で見られたが、気にも留めなかった。後ろで何事か騒いでいた八左ヱ門が徐々に静かになっていく。
引きずられた八左ヱ門がすっかり黙した頃、二人は人気のない敷地の隅にいた。ここでなら誰にも邪魔されずにゆっくりと話ができるだろう。
「……なんだよ三郎、話って。この間のことならもういいよ、お前が言ってることが正しいし、諦めることにしたから」
「は?」
「おかしいだろ、横恋慕なのに想い続けるなんて。だからもういいんだ、俺は……」
「違う!」
目を合わせず話を始める八左ヱ門の肩を勢いよく掴む。驚いたのかようやく三郎の顔を見たその目は、思ったよりも近い距離でまるく見開かれていた。
「……この間はすまなかった。勢いに任せて許されないことを言った。思ってもいないことだった。感情のままに君を傷つけた」
「さ、三郎」
「……だから諦めてくれるな。私のせいで君の気持ちを諦めさせるなど、今後一生の後悔になる」
「一生なんてそんな……お前が気に病むことなんて」
「君が好きなんだ」
ぽかんと口を開けたまま、八左ヱ門は完全に動きを止めた。逃げる素振りも見せないのをいいことに、三郎は捲し立てる。
「君に想い人がいると知ってカッとなった。振られてしまえば君が誰のものにもならないと思って焚き付けた」
やはり日は少しも傾いていないのに八左ヱ門の目元がじわじわと赤く染まっていく。先に見たときはあんなに苛立ったが、今は愛しさが込み上げるばかりだった。
「三禁なんて自分を棚にあげて、都合のいい牽制だ。とっくに私も足を掬われてる。君にだよ、八左ヱ門」
驚きで三郎を見つめていた二つの目は、今やあちらこちらを泳いで視線を合わせることすら出来ずにいる。
「横恋慕じゃないだろう」
ややあってようやく八左ヱ門が口を開いた。
「……だって、お前には雷蔵が」
「私と雷蔵はそんな関係じゃない。そこを勘繰られると困る」
「で、でも」
「私と雷蔵は確かに比翼の鳥、連理の枝。そこを否定する気はないが私は自他共に認める変装の名手だぞ? お前が望むときいつだって、片翼一目の鳥から鮮やかな渡り鳥に姿を変えて見せる」
「……お前、そんな素振り少しだって見せなかった」
「二人してお互いを見る目を曇らせていた、それだけだ」
八左ヱ門の両頬を押さえ、無理矢理に目を合わさせる。八左ヱ門が身を捩った拍子に彼の懐でちゃり、と音が鳴った。有無を言わさず素早く手を突っ込めば、かつて艶があった美しい毛並みを失い、四方八方に開ききってぼろぼろになった羽の根付けが姿を現す。
「……諦めると決めたときに捨てるつもりだったんだけど、なんでかどうしても捨てられなくて」
「私のものになるはずだった。……今そうしてもいいか?」
何を、とはあえて言わなかった。じっと三郎の手の内を見つめた後、ゆっくりと八左ヱ門は頷いた。
「……お前のものだよ、全部」
数日後、三郎は雷蔵と連れ立って忍術学園の正門をくぐった。今日から何日かをかけて実習代わりの忍務にあたる予定だ。出門の手続きを恙無く済ませ、目的地への道を歩き出す。
「まあなんていうの、雨降って地固まったようでよかったよ」
「その節はなんとも……恥ずかしい話だ」
「でもよかった。二人の気持ちが叶うのは僕の本望だったから」
最初から全てお見通しであった比翼の片割れはからからと笑う。頭の上がらない三郎は、行きしなに何か腹ごなし場所があれば財布は出させないようにしようと心に決めた。
「……三郎、それ」
ふと雷蔵が三郎の腰元に目を留める。帯に巻かれた根付けは三郎が歩を進める度に揺れていた。
「なんだか八左ヱ門に似てるね」
割れてあちらこちらに羽の先が飛んだそれは、なるほど言われてみればあの特徴的に跳ねた前髪のようであった。
「ああ、美しいだろ」
指の先で跳ねた毛先を整え、それでもついた癖に負けて元に戻ってしまうのを眺めて三郎は笑った。
「私の番だ」