折々 三郎はうそつきだ。
俺と会話をするとき、いつだってその目は本心を映さない。なんとなくだけれどわかる。目を合わせて話しているはずなのにどこか遠く、もっと深いところに本当の心があって、三郎の口からは上澄みのような言葉が溢れる。
なにか違った情報をつかまされただとか、騙されて大恥をかいたということではない――もちろん、やつの悪戯に目くじらを立てることは何度だってあったが――けれど、三郎に真実を話してもらえないという感覚をずっとぼんやり抱え続けている。
それが一体いつからだったか、思い出せない。
あれは、春だった。生物委員会の敷地で管理している薬草畑の畝に寝そべって、紋白蝶の蛹の羽化を見詰めていたからよく覚えている。萌葱の制服だった。それも、覚えている。
前日に畑の一角で蛹を見つけた俺は、どうしても蝶になる瞬間を見たくて夜も明ける前から同室二人を起こさないように長屋を抜け出していたのだった。
ゆっくりゆっくり、時間をかけて自らを包む固い殻を内から破り、柔らかい羽をおずおずと伸ばしていく様に心を打たれ時間も忘れてただ眺めていた。
とはいえ下級生の時分だ。普段はまだ寝ている時間に起き出して長い時間じっとしていては自然と眠たくなってくるというもので、蛹がすっかり蝶に変わって羽を乾かし羽ばたいて行く頃には集中も切れて地面に突っ伏して寝てしまっていた。
閉じる瞬間の瞼にひらひらと白い薄衣が映ったので、「よかったなあ」と思った瞬間に意識が途切れたのをなんとなく覚えている。
それから次に目に入ってきたのは、柔らかい朝日を逆光にして自分を見下ろす級友……の顔を借りたやはり級友の姿だった。
「ん……さぶろ……?」
「おい、おいバカまた寝るな。ちょっとした騒ぎになってるんだぞ!」
「へ、え?」
肩を揺すられてなんとか意識が覚醒する。
「朝起きたら布団はもぬけの殻、寝巻きは放り出されてそれでも朝飯の時間になったら戻ってくると思ったらいつになっても来やしない! 始業の鐘はまだ鳴っちゃいないが、八左ヱ門がどこにもいないと雷蔵も先生方も大慌てだ!」
「えっ、えっ、そんなことになってんの」
ことの次第を聞かされて焦りが生まれる。
「もしやと思ってここに来てみれば、当の本人は雑草と一緒になって地べたでぐうすかいびきをかいてるんだから信じられない」
どうやら萌葱の制服は、春に緑生い茂る薬草畑の中でうまく迷彩になってしまったらしい。視線の高い教師陣には確かに見付けづらかっただろう。
「うわあ、まずいなあ。怒られるかな、俺」
「怒られるだろうな。蛹を見るならせめて私たちか委員長には伝えておけとこっぴどく叱られるだろう」
遠くないうちに強面の顧問から落とされるだろう拳骨と雷を想像し、首をすくめる。優しい人だと知ってはいるが、あの顔から繰り出されるお説教は迫力があって怖い。
嫌だなあ、でも仕方ないかとほんの少しだけ長屋に戻るのを愚図っていれば、小さな疑問が湧いた。
「三郎、どうして俺がここに蛹を見に来てるってわかったの」
「は」
「俺なんにもお前に言ってなかったよな? どうしてわかったんだ」
「それは……」
三郎は一度口を閉じて、その後すぐに続きを話す。
「昨日食堂でほかのろ組のやつらに大きな声で話してただろう。蝶になりそうな蛹を見つけたって」
「あ、ああ。言ってた」
「だから、八左ヱ門のことだからここに来てるんじゃないかと思った。まさか寝ているとは思わなかったけど」
「ごめんって……でも、よく見付けられたな。この辺は特にいま葉盛りだし背の高いのも多いから、相当探したんじゃないの?」
その言葉に三郎は一度だけ首を振った。
「……朝日が昇ってて、朝露にしては変にきらきらしてるところがあったから」
「きらきら?」
「これ」
ふいに三郎が手を伸ばしたかと思ったら、弱い力で頭が引っ張られた。適当にまとめている髷の先に三郎の指が絡んでいる。
「ああ、俺の髪、黒くないから光が反射してたのか! すごいなあ三郎、さすがの観察眼だ」
「……別に」
褒められたのが恥ずかしいのか照れたようにそっぽを向く三郎は耳を赤く染めていて、いつも自分より一歩大人びて見える彼のその姿は今だけ年相応に見えた。それに気を良くした俺はもうひとつ疑問を滑らせる。
「でもさ、どうして三郎は俺を探しに来てくれたんだ? 先生に任せても、そのうち見つかったんじゃない」
最近なんだかばらつき始めた毛先で遊んでいた手をぴたりと止めて、三郎が髪を解放する。離れていく指をなんだか寂しく思いながら、じっと三郎の顔を見た。
「……学級委員長だから、ろ組の」
一瞬だけ合って外れた目線を追うこともできず、背を向けた三郎の「朝食はないぞ」という言葉に動かされて慌てて走り出す。そういえば始業も近付いていたのだった。きっと昼の鐘の代わりに盛大に鳴り出すだろう腹を押さえて、泣く泣く三郎の後を追って長屋に帰る。
うそをつかれたのだと、その時思ったのかどうかは覚えていない。
夏だったと思う。秋だったかもしれない。二つの季節が混ざり、移り行くその中間だったような気がするからどちらともいえない。気の早い秋茜が一匹、そろりと寂しそうに飛んでいる景色をぼんやりと覚えていた。
日が落ちるのが早くなり始めた空の下に、紫の制服はよく混じる。残暑は制服の下に小さな汗の玉を作るけれど、追って吹く夕風が熱を冷ましていった。
ひとつの輪に三本の分銅鎖。自身の熱が移り始めたそれを握る手にもう一度力を込める。数ある武器のなかでも投げ物は感覚に合っているようだった。それでも逸る気持ちは前線への憧れも抑えることが出来なくて、ならばと先輩や先生達から薦められたのはひとつの暗器。ほかに得意と感じていた戦輪とも投擲の基礎が近く、持ち変えれば近距離、中距離にも対応できる。
当たれば木っ端微塵、と名が表すように鍛練にも一瞬の気の緩みさえ許さない武器だった。何度青あざを作り、時に血を流したことか。それでも習得を諦めなかったのは俺自身の性格もあるのかもしれない。
関わったら最後まで。
薦められたからというのもあるけれどどうにも愛着の湧いた現相棒をおいそれと手離す気にもなれず、放課後は裏々山の片隅でひとり微塵を振っていた。人目につかない場所を選んだのは学園のなかで練習するには少し危険すぎたというのもあるが、その理由のほとんどが焦りと見栄のせいだ。
成績優秀な友人に囲まれて、それに比べれば見劣りのする自分自身が恥ずかしくて悔しかった。上級生にもなれば授業も課題も格段に難易度が上がる。やっとの思いでついていくのも努力する姿を見られるのもその時はなんだか癪で、誰にも見られないよう鍛練の際は人を避けていたのだった。
今日も二回ほど、振り損じた微塵の先が吊り下げた丸太ではなく自身の背中を強かに打って地面に踞る時間があった。授業が終わってすぐに山に出てきたけれど、もう日は傾いている。随分長くここにいたような気もするし、集中も落ちかけているのを背中の痛みが知らしめる。
あと一度打ち損じたらそれをキリにして終わろう。
そう心に決めた最初の一打、足は増え始めた枯れ葉溜まりを強く踏み込んだ。ずるり、と爪先が滑り大きくからだが崩れる。
瞬間手から離れていった鉄の塊が自分の上に落ちてくるのをやたらにゆっくりと眺めがら、あーあ、これは額だな、とぼんやり思った。
果たして覚悟していた衝撃は予想していた場所には訪れず、背中を強かに打ち付けた俺は息を詰まらせながら何がなんだかと目を白黒させていた。
ごいんと鈍く金属の鳴る音がしたのは一瞬前まで自分の頭があったはずの場所で、思わず痛む背中がぞわりと毛羽立つ。
「なにをやってるんだ、間抜け!」
そういえば何かに強く襟を引かれた気がした、と後ろを振り向けば見知った顔が焦った様子でそこにいた。
「さぶろ、なんで」
「一歩間違えれば額を割っていたぞ! こんな人のいないところで、こんな武器で血を流して気絶してみろ、運が悪ければ最悪……」
そこまで一息で叫んで三郎は顔を思いきり歪めた。柔和な印象のはずの雷蔵の顔が台無しだった。
助けられたと理解したのはそれから何度か呼吸の間があってからで、じわりと視界がぼやけたのは覚えている。あまりにも悔しくて恥ずかしくて、こんな思いをするならいっそ三郎が続きを言わなかったその先ですら別に構いやしなかったのにとその時は思った。
「なんでいるんだよ」
震える声でようやく絞り出したのはそれだけで、滲んだ瞳ではもう目の前の男がどんな面相をしているのかすらわからなかった。それでも三郎が俺の声を聞いて息を詰めたのは音でわかって、やっぱりそれが惨めだった。
「なんっ、で、お前、こんなとこにいんだよ……なんであんなの助けられるんだよ! ……はは、学園きっての天才だもんな」
「はちざ」
「ひとりに、してくれ」
惨めで仕方がない。一度漏らせば嗚咽が背繰りあげるのを止められなくて言葉の節々が引き攣る呼吸で切れる。全部八つ当たりだった。本当は礼を言わなくちゃいけなかった。助けてくれてありがとうと伝えるべきだった。失敗も失態も全部自分のせいなのに、込み上げる羞恥と自己嫌悪は三郎をただ拒否した。
「……すまない、鍛練の邪魔をしたな。……たまたまお使いを頼まれて、この先に用があって通りかかっただけなんだ」
もういくから、と落ち葉を踏みしめる音がする。
こんな道外れたところにたまたまで来るはずがない。大方別の――三郎個人に与えられた課題や任務を誤魔化したといったところだろう。うそつき、うそつきとその背中に向かって叫ぶのだけは必死で抑えた。その代わり抑えきれなかった涙は足音が遠ざかるにつれて勢いを増して、終いには地面に転がったままわあわあと声を上げて泣いた。生き物がその一生を終えたときに悲しくて泣くことはあったけれど、自分のみすぼらしさに泣くのは初めてだった。
日がいつの間に落ちきっていたのかは、覚えていない。
まだ冬の寒さが去りきっていない頃、春の先触れ。名残雪は未だに山に冠を被せ、川の水は冷たい。それでも俺たちはひとつ学年を進め、群青の制服に袖を通した。
裏々山での一件から、俺はがむしゃらになるのをやめた。場所を学園にまだ近く人の通りも多い裏山に変え、鍛練に行く時は誰かに声をかけるようにした。
見栄を張るのをやめて素直になってみれば、やはりどうやらそちらの方が性に合っていたらしい。焦っていた気持ちは鳴りを潜め、徐々に刺は丸くなっていった。その頃には優秀な同級への僻みともとれる羨望も落ち着き、一転ただ自慢の友人として誇れるようにすらなった。
人との関係は俺にとって良い結果をもたらした。あれだけ手を焼いていた微塵もなんとかコツをつかみ、余計な怪我も減って今では得意武器と胸を張って言える。
三郎とは直後の期間にすこしだけぎくしゃくしたが、なんとか一言だけ「あん時はありがとうな」と礼を言うことができた。すぐに合点がいったのか「ああ」とだけ応える三郎は俺にその時の表情もなにも見せなくて、俺は仕方なく肩を竦めることしかできなかった。理不尽な八つ当たりだったから、その反応も仕方ないものだと思っていたのだ。
それも束の間、結局部屋に戻れば顔を付き合わせることになる。いつしかぎこちなかった会話もなめらかになり、気付けばまた雷蔵を含めて元のように冗談を言い合うようになっていた。時折感じる違和感を残して。
群青を身に付けることにもまだ新鮮な気持ちで、休みも明ければすぐにでも新しい一年生が学園の門を叩くというのを心待ちにしているその頃だった。
「八左ヱ門、お前は明日からひとり部屋だ。今日の夜には荷物をまとめろ」
自室に戻ってすぐ級長直々に伝えられたそれに、俺は愕然とするしかなかった。
「どういうことだよ三郎。俺、そんな話……」
「今日先生から決定を伝えられた。この部屋のすぐとなりが空きだろう。明日からお前の部屋はそこだ」
「そんな、急に言われても……雷蔵もなんか言ってくれよ!」
「ええと、ううん……でも、決まっちゃったらしいから、ね」
困ったように三郎の言を補強する歯切れの悪い雷蔵に、俺はなにも言えなくなってしまった。梯子を外されたような気分だったのだ。
4年同じ部屋で過ごしてきて、彼らは反対すらしてくれなかったのか。それとも、なお同室を望んでいるのが自分だけなのか。
「い、いままでそんなのなかっただろ。急に長屋の部屋を変えるなんて……」
「五年になって三人部屋は手狭だからな。私もお前も雷蔵も持ち物は多いし、大方先生が見かねたのだろう。喜べ、虫も飼い放題だぞ」
「そんなに言うなら、三郎がひとり部屋に行けば……」
「は?」
ぐう、と喉が詰まった。三郎と雷蔵と、俺。この三人の中から二人を選び、一人を除くのであれば後者は常に俺。誰から見たって、きっとそうだった。
「……寂しいよ」
「……別に遠くに行く訳じゃないだろ。朝起きれば会えるし教室では嫌でも一緒だ」
ああ、また。
「八左ヱ門、ごめんね。僕たち、その」
「雷蔵」
「……ごめん」
三郎に窘められた雷蔵が何を言おうとして、なぜ謝っているのかはわからなかった。眉を八の字にした雷蔵と、いつもと変わらない表情の三郎。同じ顔なのに違う顔をしている二人を見ていれば、寂しくて切なくてたまらなくなった。
無理やり笑顔を作って、だけど上手くできている気がしなくて押し入れに向かって二人に背を向ける。
「……いや、いいんだ。五年になるのにこんなことで駄々こねて、ガキっぽいよな! ごめん、雷蔵。困らせた。もう決まっちゃったんだもんな」
「八左ヱ門……」
「三郎も。教えてくれてありがとう! ……俺、やっぱもう今から引っ越しするよ。寂しいけど、早く慣れなくちゃな」
「……別に、私は先生に頼まれただけだから」
――うそつき。明確にそう思ったのを覚えている。
この頃には、三郎がすっかり俺に本心を見せなくなっているのがわかっていた。告げる言葉は本音の一切絡まない、表面だけの出任せばかり。上澄みを掬いとった適当な文言を並べて俺との会話をやり過ごそうとする。どうやら三郎が俺に言ってしまいたいことはその薄っぺらな会話よりもほかにあるはずで、それだけはわかるのにそれ以外はなにもわからなかった。
がちゃがちゃと一度で運べるだけの荷物を適当にまとめて扉を開く。
「後でまた残りの荷物、取りに来るから! あ、手伝いとか大丈夫だぞ。もう五年生だし、俺も委員長代理になる。これくらいひとりでやらなきゃな!」
そう言ってなにか返事が聞こえてくる前に逃げるように隣の部屋へ身体を滑らせる。気持ち強めに閉めてしまった戸は、ひどい音を立てなかっただろうか。
誰もいない、なにもない広くて寒い部屋のなか、ずるずると腰を下ろせば隣の部屋の話し声がうっすらと耳に入ってきた。声は聞こえるのに会話の内容が聞き取れないそれは、壁一枚が二人との距離を何町も先に隔てたような気がしてまた寂しくなった。
「三郎……」
友情に小さなひびをいれたのがどちらかという話ならば、間違いなく俺が原因なのだろう。夏とも秋とも言い難いあの夕暮れに、何もかもが思い通りにならない青い苛立ちをそのままぶつけた。そうでなくとも普段から世話を焼かせて呆れさせていた。いくら三郎が面倒見の良いやつだとしても、俺のことがいい加減嫌になるのもおかしい話ではない。思えば下級生の頃からずっと三郎に手間をかけさせていたと思う。
本当は俺じゃなくてもっと、もっと心を尽くしたい人がいるはずなのに、俺がその時間を奪っている自覚はあった。更に言うのであれば同級同室である限りその時間は永遠に続くものだろうと思っていて、俺はその関係性にしがみついて胡座をかいていた。
慢心は欲を生む。決して手の届かない鉢屋三郎という男に、もうずっと前から俺はすっかり憧れていたのだった。
思いの外優しい男なのだと知った。天賦の才はあるのだろうが、自身に宿るそれを理解し、絶えず努力を行う男なのだと知った。忍の道を極めんとし、情に流されず淡々とことを進める冷静さをも今目の当たりにした。
本当の顔を誰も知らない。一歩先にいて導いてくれるような、それとも一歩退いて俺たちを見守ってくれるような、そのどちらでもある同級の男に、ずっと憧れていた。
際立つ特技も羨ましかった。文武両道も煌めいて見えた。自分にないものをたくさん持っている三郎が誇らしくて好きだった。
雷蔵と一緒に隣に立っても見劣りしないようにと無茶をして、焦って背伸びをした結果、助けられて子どものような癇癪を起こした。そして今、ともに過ごす空間が別たれた。
三郎がずっと俺と上っ面だけで話をするのも、もはやその信頼すらもないのだと思うとやっぱり自業自得で惨めだった。
足を冷やす床の上に荷物を広げて片付けながら、小さく洟をすする。隣の部屋の話し声が聞こえなくなっていたのがいつの間にだったか、覚えていない。
群青の色にもだいぶ見慣れて、学園に浅葱色の制服が再び現れた。春のあたたかさも肌に馴染み生き物たちも活発に動き出す、初夏の匂いが風に乗り出した頃である。
委員長代理の肩書きを手に入れた俺の身の回りは格段に忙しくなって、あれやこれやと目まぐるしく日常が過ぎる。あれも、これもと必死で追い縋っていたが限界が来たらしい。まだ気持ちが慣れないひとり部屋のなか、俺はついに目を回して盛大に倒れるに至ったのである。
学園唯一の白い忍装束が出した診断は「風邪だね。だけど疲労も相まって熱が相当高くなってます。絶対安静で授業も委員会も出ずにしばらく部屋で療養に専念すること、いいですね?」とのことだった。
気持ちは焦る一方だった。何日も休んでは授業についていけなくなってしまう。せっかく委員長代理を任せてもらえたのに俺が後輩たちに迷惑をかけている。鍛練も怠ればせっかくついてきた筋肉だってすぐに衰える。
なんとか餌だけはやった虫籠に囲まれた部屋の中央で渋々布団にくるまっていれば、熱のせいか勝手に涙が出てきた。からだの丈夫さには自信があったのに、情けない。同じ代理の兵助はもっと上手くやっている。また、皆と離れてしまう。
目の回りが熱くなるのを感じながらずびずびと時間が経つのを待っていると布団にあたためられた身体が睡眠を求め、そのうち意識がぼやけていく。
たぶん春と、夏と秋の間と、冬の終わりの夢を見たような気がする。
「八左ヱ門、入るぞ」
聞き慣れた声で意識が浮上する。こんなこと前にもあったなと思いながら入室の許可を出そうとして上手く声が出なかった。
喉が痛むわけではなかったけど、思ったよりも高いらしい熱があらゆる動きを抑制しているようだ。
声の主は特段許可を求めているわけでもなかったのか、俺の返事が聞こえないのを確認して勝手に部屋の戸を開けた。目線だけでそちらを見れば「起きていたのか」と逆光になった三郎の影が滲んで見えた。
「粥だ、食堂からもらってきた。薬は新野先生に渡されてるんだろう? 食べて飲め」
かたりと置かれた盆からはふんわりと湯気が漂ってきた。匂いが鼻を擽り、くうと腹が鳴る。
「授業の内容は治ったら写させてやる。しばらく座学が詰まっていてよかったな。それも今度教えてやるから――」
話ながら勝手に俺の布団をめくり、背を起こさせて匙を渡される。粥が三分目まで入った椀を持たされれば、否応なしに中身を口に運ぶしかなかった。程よい温さと塩気が乾いた口のなかを湿らせていく。
「みんな心配していたぞ。元気が取り柄のあの八左ヱ門が風邪ごときで倒れるとは、とな」
「さぶろ、は」
「ん?」
「三郎は俺のこと心配した?」
声は自分でもびっくりするくらい小さかった。それでも三郎はきちんと聞き取ったようで目を何度か瞬かせて口を開く。
「そりゃ多少はな。普段あれだけうるさい君がこんなにしおらしくなってはつまらない」
――また、嘘だ。いまの科白も建前にすぎないのだろう。三郎が俺に話す言葉はいつだって真意が別にある。当たり障りのない言葉で塗り固められた空っぽを、三郎は俺にだけ寄越す。
ふいに手に力が入らなくなって、持っていた匙がころりと落ちた。椀は溢す前に三郎が素早く受け止めた。
「おい、危ないだろ」
「いい奴だよな、三郎は」
熱が上がってきたのだろうか。浮かされた頭で、もう自分が何を言っているのかわからなかった。ただ、もう全部終わりにしてやりたいとだけ思った。
「わざわざこうやって世話焼きに来てさ……なあ、なんで来てくれたんだ?」
「……私はろ組の学級委員長だから」
思わず、フ、と笑みが溢れる。この5年足らずで何度聞いた理由だったか。全部建前のくせに、頑な奴だ。
「俺はさ、三郎のことが好きだよ」
三郎に嘘を言ったことなど一度もない。どうせ俺程度の嘘では見透かされるだろうし、そもそも何か誤魔化すようなことがひとつもなかった。だからこれも本心だ。
「三郎は?」
「……当然、私も同じだ。君は大事な友人で――」
「いいよ、もう」
やはり薄っぺらな三郎の言葉を遮る。溢れ出した自棄は止められなかった。
「お前、そんなんじゃないだろ。全部わかってるから」
投げやりな気持ちで雑に身体を後ろに倒せば三郎が慌てたように俺の背を支える。それを求めていた訳じゃなかったのに、まめな奴。
「わかってるって、何が」
「言いたいこと言っていいって、言ってるんだ。お前が俺に伝えようとしないことがあるのはわかってる。でももう建前で話さなくっていいよ」
全部聞くから、好きにしてくれ。そう締め括って目を閉じる。身体は脱力して、ただ三郎が話し出すのを待っていた。
嫌い、でも、どうでもいい、でも……もっと別のなにかでもいい。本心を少しでも打ち明けてさえくれれば、届かない雲を追い続けるような心地にはならなくて済むのだと思う。
「……そうか、君は……もっと鈍ちんだと思っていたけれど、気付いていたんだな」
思った通りに静かな声が頭の上から降ってくる。三郎は訥々と喋り続けた。
「もうずいぶんうまく隠していたつもりだったが……侮るなかれというのに、雷蔵の迷い癖を笑えないな」
「俺に人の考えてることなんかわかんねえよ。言ってもらわなきゃ……でもお前の言葉は全部上っ面だ」
「……どれだけ繕っていても、そこまで見透かされているなら……いや、はは……存外恥ずかしいものだ」
三郎の手が匙を放って空になった俺の手を握った。熱い。――熱を出している俺よりも?
多少の違和感を捨て置かずにいてしまうのは忍者として育てられた者の気質だろうか。閉じていた目を開いてみれば、やはり顔色ひとつ変わらない三郎がそこにいた。首から下を真っ赤に染めて。
「三郎」
「……取り繕うのはやめる」
背を抱く腕に力がこもって、もともと重い身体が更に身動ぎひとつ出来なくなる。まずい、かもしれない。頭の奥で警鐘が鳴った。
「君の言う通りだ。友人として大事に思ってる? まさか、そんなはずがない」
熱い俺の手を、もっと熱い三郎の手が痛いくらいに握り締める。
「友人なんかに収まりたくない。君の一番でいたい」
背を抱かれているから三郎の腕が震えているのがわかる。何度も何度も肩を掴み直して少しでも距離を埋めようとしていた。
「心配したなんて、そんな程度で済むものか。今朝倒れている君を見付けたときは本当に肝が冷えた。取り乱しすぎて雷蔵に黙れと怒られてしまったよ。君は気を失っていたから覚えていないだろうけど」
自分の心臓の音も、背中から伝わる三郎の心臓の音も声を遮ってしまいそうなくらいうるさい。むしろ三郎の言葉を今なにかが邪魔してくれるならいっそ楽なのかもしれなかったけど、そんなに都合のいいことが起こるはずもなく、自分で遮ることもできなかった。
「……四年の頃を思い出した。君、ずいぶん無茶をして鍛練していた時があっただろう。微塵を使い始めた頃だったと思う。着替えや風呂で君の肌を見るたび大きな青あざに埋め尽くされていくものだから、毎日心配で仕方がなかった。あんまり不安になったから鍛練場所を探り当ててついていったんだ。ようやく見付けたら君、大怪我しそうになっていて……無我夢中で襟首つかんだと思ったらぼろぼろ泣き出すから」
三郎は一度言葉を切ると、俺の頬を撫でた。今そこに涙は一滴も流れていやしないのに、拭うように丁寧に触れる。
「本当はあの時こうしてやりたかった。……逆効果だと思ったから離れたけど、山の奥から君の声が幽かに聴こえて心の臓が張り裂けそうだった。……私になにも出来ないのが、悔しくて仕方なかったよ」
頬を降りていく三郎の手が、やがてうるさいままの俺の胸元へと辿り着く。その手をはね除けることができない。
「あの後暫くは話しかけるのも躊躇われて……君から話しかけてくれたときすごくほっとしたんだ」
でも、と三郎は続ける。
「私の気持ちは君が向けてくれるものほど真っ直ぐじゃなかったから、だから隠した」
三郎の顔が首もとに埋められる。こんなに近い距離で話をしたのなんか初めてだと思う。
「大事にしたい、私を見てほしい、誰よりも先に見付けたい、話したい、声を聞きたい、触れたい、もっと……言えるわけないだろう」
自嘲気味に笑った三郎の吐息が耳にかかってどきりとした。
「ぐずぐずになった感情を気取られるくらいならと、澄ました顔で取り繕ってそれらしい言葉を本音に立て替えた。でも、当の君にすっかりバレてしまっているんならもうそれも意味がない……全部聞いてくれるんだろう? 私も、我慢をせずに済むわけだ」
気が付いたらすっかり二つの身体の間に隙間がなくなっていた。自分と三郎の熱が混ざって境界線も曖昧で、頭がくらくらする。
いつもあんなに薄っぺらだった三郎の言葉が途端にすべて質量を持ち初めて、受け止めるのに時間がかかっているのだ。
全部嘘みたいな科白なのにひとつも嘘に聞こえない。信じられないのに、そこに真実しかない。
「好きだ、八左ヱ門」
君は?
ついさっき俺が言ったことをそっくりそのまま、三郎が繰り返す。顔以外を赤くして、震えながら俺を抱き締めて、期待のこもった眼で俺を見つめながら。
なにか返さなくちゃいけないと思うけれど、熱が思考をぼかしてなにも考えられなかった。夢か現かもはや曖昧で、それでもどうにか口を開いて、ひとつも聞き逃すまいと近付いてくる三郎の顔に心臓を跳ねさせながらようやく「眠い」とだけ呟き、俺はまた意識を飛ばした。
起きたらだいぶ日が傾いていた。たっぷり寝たお陰か身体の熱はずいぶん引いている。この分なら明日には下がりきるだろう。絶対安静を言いつけた新野先生から復帰の許しが貰えるかはわからないが。
三郎の姿はなかったけれど、寝巻きも布団も汗で湿っていることはなかったし――なんなら寝巻きは新しいものにされていた――枕元にはまだぬるい湯冷ましの茶碗と薬包紙がちょこんと置かれているから、俺が目を覚ます直前くらいまではこの部屋にいたのだと思う。
苦い薬を顔をしかめながら飲み下せば、ふと盆の下に差し込まれた紙に目が行った。開いてみれば三郎の書き置きだった。
薬はきちんと飲むように。自分の夕食と風呂を済ませたあとに粥と湯を持ってくるから安静にしているように。――起きて、先ほどの会話を覚えていたら答えを聞かせてほしい。
最後だけ指示の文体ではないそれは、簡単に俺の心拍数を上げる。
三郎が建前で隠していたものは結局俺の予想とはだいぶ、かなり、様子の違うものだった。三郎の腕の力強さを反芻しては耳の奥がどくどくとする感覚にかぶりを振る。
そう長くない時間のうちに三郎はこの部屋に戻ってくる。それまでに、最後聞かれたことにどう返すかを決めておかなくちゃならない。
眠る前に聞いた三郎の声と言葉、まっすぐにぶつけられた本心の重さと胸中に広がる嵐にも似た痺れを、全部覚えていた。