小説練習カタン、コトンと、心地の良い音がリズムよく響く。
先ほどまでは気にも留めていなかったその音が、なぜか妙に耳につく。ふと、顔を上げてみた。
窓から見える、清々しいほど青い空と、アクリル絵の具で塗ったように不透明で白い雲。
まだ実っていない緑の稲穂と、相対するように色が抜け落ちている住宅街。
ひと席分ずつ空いているのに、吊り革に手を添えている人。
俯いてただひたすらに、文明の利器を見ている人たち。
これが現代人だ、そう思った。
前髪をきっちりキメたJKも、自分をキャンバスのようにしている大学生も、社会の波に揉まれた会社員も、
みんな窓の外の景色なんて興味がないようだ。
毎日は消耗品だ、なんて、いつから思い始めたかな。
ただ当たり前のように学校に行って、七面倒くさい人間関係を築いて、ただ何となく教師の話を聞いて、理由も見つけられないまま睡眠を削って、それだけで1日が終わる。
楽しく思える余裕がない時が一番楽しい、なんて、誰が言ったんだろう。
多分それは思い出補正が強烈に入っているだけだと思う。あの時はよかった、って。現在から目を背ける理由のために過去を過剰に華々しく、いかにもあの時は楽しいと思えていたと、そう自分を錯覚させるため。現在の自分が作り出した虚像なのではないか。
本当にあの時は、素晴らしく、楽しく、世界が美しく見えていたのか?
おそらく、ほとんどは「否」であると思う。
過去を見ながら、今を乗り越えている。
当たり前であるが、「過去」は元々は「今」であって。「今」の自分が回想しているあの「華々しい過去」も、当時は目を向けたくないほど辛い「今」だった。
「昔は良かった」「今はこんなにも辛い」って、ある意味我々が自分を守るために作り出しているものなのではないかって、思った。
今も昔もずっと辛い、苦しい、汚泥のように負の感情がまとわりついて離れないのであれば、「このまま生きていても、これから先も何もない」って、思ってしまうから。だから、過去を美化することで「昔はこんなに良かったって思えるんだから、今も頑張って乗り越えて、過去の出来事にしてしまおう」って、そう思ってるんじゃないかな。
ああ、まずい。深夜だからか下校中にコーヒーをキメてしまったからか、変なことしか思いつかない。
じゃあ、自らの記憶の中の過去は改変されてしまっている、ってことなら、本当に、ありのままの過去を伝えられるものはないのかな。
人って、みんな主観っていうフィルターを通して物事を見ているから、主観がないものにしか本当の出来事はわからない。
事実は本当の出来事ではない。だって、事実は人の数ほど存在するから。主観によって、事実は常に都合の良いように捻じ曲げられる。意図的にだけではなく、無意識にも。
こうした個人の認識に齟齬があるからこそ、軋轢が生じる。
戦争の体験も、悲惨な事故も、家族の思い出も、「現在」のことも、全ては各々の主観によって語られる。だから、本当の出来事は誰によっても語られることはない。できない。
じゃあ、どうすればいいんだ?
ああ、ダメだ。
私の名前は錦唯葉。こっちにいるのは伊藤一葉。私たちは、今から「現実」とさよならをします。
「こんにちは」
びっくりして、振り返った。今は授業中で、こんなところにいる人はいないはず。一葉がぎゅっと、手汗が滲むくらい強く、私の手を握っている。
「彼女」は手すりの上に腰掛けていた。ああ、なんて爽やかな表情。「今」が輝いている、清々しいほど憎たらしい顔。
「ここは、危ないですよ。」
ここは、私たちの屋上。彼女は外向きに腰掛けている。ちょっとでもバランスを崩したら、そのまま真っ逆さま。
警告のつもりは毛ほどもなかった。むしろ、こいつもここから落ちればいいのに、なんて思っていた。
「ふは、どの口が言っているんだい?」
ああ、腹が立つな。どこが私の気に触ったのかはわからないけれども、どうしようもなくイライラする。
隣に立っている一葉は何も言わないが、手からは恐怖が伝わってくる。
「…チッ」
「君たち、これからお楽しみのところすまないね。私は冬木穂乃香。少しだけ時間、いいかな?」
正直、こんな見知らぬ奴の話なんて聞きたくもなかった。今すぐにでも楽になりたかった。だけど、隣に立つ一葉が、それを許さぬように左手で私の袖を掴んできたので、仕方なくこの女の戯言に耳を貸すことにした。
「さて、まずは君たちにとって残念なお知らせから入ろうか。」
そう言うと彼女は私たちと同じく、柵の外の縁に立った。髪が靡く様は映画のワンシーンのようで、思わず「写真に収めて絵にしてみたい」なんて考えてしまった。
「この校舎の高さからじゃ、即死は無理だよ。」
生き殺しにされるような発言だった。じゃあ、私たちは何のために決心して、嘘をついて、ここまできたのだろう。その全てが無駄で、愚かで、紙が真ん中くらいまで破れたような気持ちになった。
「この程度の高さじゃ、せいぜい瀕死か、大怪我くらいだ。死ぬなんてとんでもない。救急車呼ばれて、親から罵声なり安堵の声なり何なり浴びるハメになる。」
彼女はこちらを一瞥もせずに続ける。
「私は君たちの死を止めることはできないけれど、別の死に方くらいは提供できるよ。」
正直、信用できなかった。得体の知れないこの女を、簡単に信用するなんて到底無理な話だ。しかし、ずっと一言も発さなかった一葉が
「…それは?」
返事をした。私は驚いて一葉を見た。一葉は、何かを決心したような顔をしていた。
「私の手を取って。」
彼女は柔らかとは到底言えない笑みを浮かべて、
縁から外に踏み出した。
「君たちは、妖怪や精霊、神や魔法なんかを信じるかい?」
目の前から声が聞こえる。自分の目と耳がおかしくなったかと思った。つい先ほど彼女は縁の外に踏み出したはずだ。
正常に重力が働いているのならば、彼女は地に向かって真っ逆さまになるはずだ。だが彼女は目の前の空中にいる。
わけがわからない。
「…どう言うこと?」
目の前に起こっているすべての事象が理解できない。彼女が落ちていないのも、言っている言葉も、何もかも。
でも、隣の一葉は目を輝かせていた。
「そう聞くってことは、それらはオカルトとかじゃないってこと?」
「ええ。もちろん」
彼女は両腕をこちらに向けた。
「現実が嫌ならば、思い切って非現実に行くのはどう?」
今はもう非現実の領域にいるのかも知れない。この女が現れてから、私たちは明らかにあの汚くて、窮屈で、煩わしい現実から離れている。
ならば、どうせここで死ねないのならば、このまま身を任せてもいいのかもしれない。
チラリと一葉を見る。彼女もまた、私を見る。言葉なんて要らなかった。
二人で、彼女の手を取る。互いの手はしっかりと握りしめたまま。
「じゃあ、二人とも、目を瞑って10数えて。しっかりね。」
彼女の声が、若干弾んだように聞こえた。
再び一葉と目を合わせ、強く瞼を閉じる。
ーー懐かしいなぁ。
隣からカズハの声が聞こえる。向かい側に座っている菊さんが絶句しているのをよそに、私とカズハは笑い合う。
「ほんっと、あの頃は最悪だったよねー」
そうだねー、と私は返事をする。逆隣に座っている墨ちゃんが引き攣った笑いを浮かべているが、見なかったことにしよう。
ここは魔界、カズハが経営する食事処。今日は外界に縁を持つ人たちの会を開いている。
酒が飲めない年齢の人ばかりだけど、飲み会みたいな雰囲気だ。
あのあと私たちは魔界にやってきた。「彼女」は私たちを新天地に放り込んでそのまま去っていってしまった。おかげで苦労した。
「ね。あのあと穂乃香が『じゃ、あとは頑張ってね!』って言って、なーーーーんにも言わずに、なーーーんにも説明せずに行っちゃったの。ひどくない!?」
「うわ…ひでぇな…今度会ったら殴っていいと思うぜ」
「事後よ。もう殴ったわ。」
なんて言うと、みんながどっと笑う。
ああ、楽しいな。こんな日を渇望していた。友人たちとの輝かしい毎日。気軽に愚痴を言えて、みんなで馬鹿みたいに笑えるような日々。何より、
今が一番楽しいと思えるような日々。
手元の炭酸を喉に押し込む。昔は喉が焼けるような痛みが嫌いだったが、今は体が浄化されるような清々しさを感じる。
「あ、そうそう、それでね——」
私の名前はユイハ。隣にいるのは私の一番の親友のカズハ。私たちは、「現実」から逃げおおせて、「非現実」へと進んでいます。