神様の言う通り父は学者をしている。その土地と水質の関係から雨の歴史を紐解き云々、何の研究をしているのかは未だにわかっていないが相当な権威らしく勤めている大学での講義や自身の研究に多忙に過ごしているのだ。そこに突如子育てなんてものが入って、きっと父はあの涼しい顔の下で大変な疲労を抱えているのだろうとアルジュナは考えている。
アルジュナは複雑な事情があり母がインドラに協力を求めて生まれた子供なのだという。十五歳の春に父が亡くなり、兄弟は散り散りに引き取られていく事になった。その時に知らされたのだが、どうにも自分達兄妹は父親違いばかりだそうで、アルジュナもその血を引く父にこれからは育てられるとの事で。何が何だかと思っている内に生活が変わると思いきや、中学を卒業してから引っ越して来いとの事で、アルジュナがその父に出会ったのは中学の卒業式の翌日だった。
「初めましてアルジュナ。この方はインドラ・マガヴァーン。あなたのお父上ですよ。職業は大学教授で環境学の研究をしておられます。私は父様の飼い猫のアルジュナ・オルタです。どうぞオルタとお呼びください」
「……!?」
父――インドラは大量の汗をかいていて、にこにこと笑う幼い自分にそっくりな、耳(角?)と尾のついた少年に紹介をされていた。アルジュナは差し出された小さな手と握手をして、家の中に足を踏み入れたのだった。
あれから二年。高校生になったアルジュナは、インドラと、飼い猫のオルタと、自分の三人で暮らしている。
***
「オルタ、父上は何処に?」
「妙な結界がありますがお任せを。磁場の狂いも電波妨害も空間断絶もアルジュナ・オルタには通じません」
「頼もしい……」
オルタはインドラの飼い猫だ、それは何も間違いでは無い。オルタはインドラが拾って来た飼い猫だ。フィールドワーク先の奇妙な村で傷ついて弱っていた所を拾って来た飼い猫だ。ついでに言うと遠く離れて暮らす会った事も無い息子の名前をつけて飼っていた飼い猫で、気が付いたら幼子の姿になっていたので真剣に戸籍の取得を考えている飼い猫である。なお戸籍についてはオルタ自身が必要ないと断っている。人の手で私を癒す事も管理する事も不可能です、との事だ。
さて高校二年生の夏休み。先日インドラは一週間で戻ると言い残しフィールドワークに出て行った。帰ってきたら科学館でプラネタリウムを見る約束をして、インドラはそういう約束を決して違えないので星の本をインドラの書棚から借りて来てオルタと眺めたりして過ごしていた。
一週間、過ぎて、翌日、慣れた仕草でアルジュナとオルタは家を出発した。インドラが連絡無くフィールドワークから帰らない確率は大体半々。二回に一回はアルジュナが、というか、オルタが迎えに行っているのである。
「アルジュナ、大切な事をお話しします。ここ数年は当たっていなかったのですが、父様は決して頭のおかしな人間に気に入られやすくてかつちょろいだけでは無いのです。本当の神というものにも見初められる方だ」
「……妥当な見解です」
「そうですか?流石の慧眼ですね。検討もつくでしょうが今回はその類かと思われますので、いつもと作戦が変わります」
「私に対応できますか」
「勿論。いつもと逆になるだけです。貴方が壊して、私が連れ出す。出来ますね」
頷いて進む。村の入り口には社のような何かがあったがインドラは屈まなければ通れなかっただろうというような高さだった。藁で出来たそれには幾つかの黒い突起があり、通り抜ける際にそれが釘である事を察した。
「あまり見ないでください。足元が悪いから地面を見ているといいですよ、手は私が引きますからご安心を」
柔らかい手に導かれてアルジュナは進む。小動物の骨がてんてんと落ちていたので道しるべに丁度良かった。臭うなと思ったら今度は生魚が大量に落ちていて進めなかったのでそこはオルタに抱えて貰い浮いて進んだ。オルタは大概浮いているし、人型でもサイズ調整が可能なので、人外に気に入られると言われても今更な情報でしかないのだ。
「アルジュナ、顔を上げて。前方の建物が見えますか?あ、屋根はそんなに見ないで。大丈夫です全部人形ですから」
「今回の注意点はありますか」
「貴方なら大丈夫ですよ、それに最終的には全部私が食べて帰るので。アルジュナはただただ全てを壊してください」
「変な物を食べてお腹を壊したりしないように……?」
「その時は父様にいたいのいたいのとんでいけをして貰います。さ、始めましょうか」
オルタの体が成長し、丁度アルジュナと同じような体格になる。浮いているし尻尾もあるし頭からは何か生えているし周囲に何か浮いている。しかしアルジュナは気にしない。こんなのを気にしていたらインドラを連れ帰りプラネタリウムに行けないのである。チケットだって買ったのに。
アルジュナは一歩一歩を確りと進み、人や獣の藁人形を貫く矢で覆われた屋根の家に辿り着く。中からはお経のような声が絶えず聞こえていて、それは何人もの人間が繰り返し同じ節を一人ずつ唱え続けているものだった。沢山の人がいるのか、そう思って壁を破壊した。土壁だったので楽に壊せた。拳を払って、穴を目掛けてもう一発。崩れた壁から室内に侵入すると、何故かぽつんと父が一人で座っていた。
「うわっ父上なにを呑気に」
肩を揺すっても父は何も言わなかった。いつもの流れだとぴんぴんしているか寝ているかの二択なので寝ているのかとも思ったが、すうすう言っていないし胸も上下していない――それ以前に呼吸をしていない。咄嗟に腕を掴んでも脈は無く、胸に耳をあてても何の音も聞こえなかった。
「何故」
震えた声を零したアルジュナを、何かが嘲笑するようだった。何か達は、確かに大勢の声をしていた。沢山いる筈なのに、そこには一つしか存在しなかった。
形容しがたいそれは山の形をしていた。黄土色の爛れた山には夥しい量の口がついていて、その口が、一斉に
「メ、ヲ、カ、エ、セ、」
と囁いた。アルジュナは咄嗟に父の顔を自分の体で隠し、はずみで床に諸共倒れ込む。何かが近づいて来る感覚が迫り、力いっぱいに父を抱きしめても何の反応も返っては来なかった。
絶対に連れ帰る。決意の元にアルジュナがその頭を抱くと、するりと家の匂いがした。
「私にはあの穴は小さすぎますよ」
水の匂い――雨の匂い。あの家はいつも潤っている。嵐の真ん中にいる匂いだ。雨と、そして、雷の光がある。
「我が父の何一つくれてやれるもの等存在しない」
オルタの周りが光る。それは明るくなった訳では無く、髪色が白く染まりそれが伸び、周りに浮いていた何か達が動き出し始めたからそう感じただけだった。光に目が慣れる頃にはアルジュナは黒髪の青年の姿に戻っていて、あの山のような何かも消えていた。
「不遜も悪。ここに粛清します。事後通告で失礼」
侍だったらここで格好良く刀を納めているななんて考えている内に腕の中の父は生命力を取り戻したらしい。むぐむぐ言っていたので力を弱めると、咳き込みながらきょろきょろと周囲を見渡し始めた。
「父上?どうしましたか。いやどうしてたんですかこれは。いつもの宗教は何処に行ったんです、今日も今日とて私はステゴロをする気でいたのですが」
「アルジュナ?危ない事はやめろと言っているだろう、怪我したらどうする」
心臓止まってた人に言われたくない。思っていたのに、溜息を吐くには挙動がおかしかった。もう以前とは違い目を見て話す事も出来ているのに、一向に視線が合わない。どういう事かとオルタを見れば、ふむ、とオルタは頷いた。察したのでアルジュナは後ろを向き目を閉じて顔を手で覆って蹲る。どうぞと促せば背後で父の声にならない悲鳴が聞こえた。
「オルタ!父と呼ぶならキスは止めろと言ってるだろうが!」
「息子として可愛がって頂きたい前提でいずれ私のものにしたいのです。わかってくださいますね、死後まで待ちますから」
「こっちは妻子持ちだぞ!」
「存じてますよ?もう目は見えますね、さて帰りましょう。明日はプラネタリウムですよ、父様、アルジュナ」
アルジュナは立ち上がり、オルタが肩に担いだインドラを慰めながら帰路を進んだ。帰り道には魚も骨も何も無く、社は焼け焦げていた。社を出ればインドラも歩くようになってオルタも縮み、三人で駅弁を買って電車のボックス席に座り持って来たトランプもして家に帰ったのだった。