人のためにすることは、巡り巡って自分のために。
記憶を失ってしまった時に取り戻したきっかけがこの言葉だ。
大切なものを失って取り戻してくれた。
『彼』は恩人だ。
拾って掬いあげてくれた。そして昨日みたいに鮮やかと蘇る。
里の少年の救いもあったけれど、切っ掛けのお陰で上弦の鬼に勝てた訳だし。
嬉しくなった。空いた胸の中が埋められていく感覚。
熱くなって脈打ち、止まっていた時間が動いていくのを。
刀鍛冶の里の一件で仲は深められたと明らかに解る。
好きになった。でも同時に怖くなった。
好きになのどうして怖くなるんだって不安に思うほど。
知らないうちに自分が別の自分を作り出していくような。
満たされた心の中なのに何故か小さな穴が空いた気分になった。
この気持ちを『彼』に言ってしまったら、どうなってしまうのかな。
「……くん……時透君!」
薄い膜を針に突かれ弾けたような感覚に無一郎は我に返った。
目の前に広がるのは見慣れた風景である。そう、自分の邸宅だ。
我に返った後の意識が覚醒し瞬時に状況は飲み込めた。
鬼の始祖、鬼舞辻無惨を倒すため柱が計画した稽古の最中。
無一郎が隊士達に稽古をつけ、少しでも迫りくる鬼に対抗出来るようにと。
無一郎に声を呼びかけたのは炭治郎だ。何故目の前にいるのかと思ったがすぐ思い出した。
以前の無一郎ならば何故ここに?と言うだろう。
朝食で自分の邸宅に招いたのは無一郎自身なのに。
「たん、じろ…?」
無一郎は目を向けると眉を下げて覗き込んでいる炭治郎がいる。明らかに心配という表情だ。
次に目線を落とすと箸と白米の入った茶碗をそれぞれに握った手。食事中にいつの間にか意識を彼方に追いやっていたのだろう。
炭治郎も食事に手を止めて呼びかけていてくれたのだろう。そして食卓に並べられる料理の減り具合から始まってしばらく意識を飛ばしたのだと理解した。
ああ、いけない。大切な”お客様”と楽しいひとときを過ごしている筈なのに。
「大丈夫?時透君、具合悪い?」
表情は一向に変わることなく優しい彼は自分に視線を向けてくる。
申し訳ない気持ちにはなるのだが、何故か嬉しいと思ってしまった。
「ううん、大丈夫。少し考え事をしていただけだから」
心配かけさせまいと微笑んで返す。
「そうなんだ。隊士達に稽古をつけてるから疲れちゃった?」
「本当に気にしないで。ごめんね、ぼーっとしてる場合じゃないのに」
おどけて笑う無一郎に炭治郎は「そっか…」と呟く。
心配そうな表情を変え、炭治郎はいつものように笑った。
「俺に大した力になれるかどうか解らないけど、何かあれば言って欲しい。仲間だから」
「うん、有難う炭治郎。冷めないうちに食べようか」
炭治郎は大きく頷き、二人は食事を再開した。
何気ない食事風景。ひとりで食べることが多いが、ふたりで食べる食事がこんなに楽しいなんて知らなかった。
いや、正しくは懐かしく感じてしまっただろう。父と母、そして兄が生前の時食事は共にしていた。当時はあの光景がいつも当たり前だと思っていたから。
父母もいなくなり兄とのふたりっきりの食事は息の詰まる思いだったが、今際の際の兄の気持ちを知れば楽しい食卓になっていたかもしれない。
兄を思い寂寥がそよ風が吹き込まれたかのように過ったが、自分のために身を挺してくれたためにも鬼を滅ぼさねば。
仲間と一緒に。出来ることなら誰ひとり欠けることもなく。
特に隊士達は痣を発現していない。刀鍛冶の里の後の柱合会議で痣の代償を無一郎は知った。
長く生きられないこと。そうでなくてもこれから無惨を倒すという決戦へ身を投じるのだ。
死ぬことは覚悟の上。稽古も大事だが何気ない時間も大事にしたい。
でもどうしてなんだろう。炭治郎のことで頭がいっぱいになってしまうのは。
柱でない隊士だから?同じ痣者だから?
微かに胸が痛むのを覚えたが、すぐ消えいくのを感じ無一郎は留めることはなかった。
稽古に明け暮れる日々は過ぎ去り無一郎は蝶屋敷で診察を受けていた。
刀鍛冶の里での負傷は疾うに治まっていたが、無一郎は記憶障害を患っていた既往があり定期的な経過観察を同じ柱である胡蝶しのぶに言われていた。
医学や薬学に精通しており、戦いだけではなく隊士達の怪我の治療は勿論健康管理も行っている。
検査は診察と問診だけだった。記憶が戻ったとしても万が一のことを見越してのことだ。
しのぶは紙に書いてあることを丁寧に記帳し、無一郎の言葉を一言一句書き留めていた。
「もう少し様子を見ますが、今度は長く間を開けて診察してもいいかもしれませんね」
いつもの笑顔を向けてくるしのぶに無一郎はつられるかのように微笑む。
「胡蝶さん、有難う」
しのぶは一瞬だけ面を食らったような表情をしたが、すぐに微笑んだ。
「表情が良くなりましたね。時透君」
「そ、そう…かな?」
しのぶの言葉に今度は面を食らい、無一郎は瞠目した。
周りからそのような言葉をかけられなかったから予想外。
「刀鍛冶の里で時透君に変化があるような出来事があったんですね」
変化。それを聞いて何故か心臓が跳ねた。
一瞬だけ彼の姿が脳裏に浮かんだが霞のように消える。
こんな時に、なんで?
しのぶの言葉に答えることは無かった。少し体が熱いのを感じた。
どうしたことだろう。病な筈ないのに。
「時透君?」
「あ、すみません。胡蝶さん…」
しのぶが無一郎に不快なことを言った訳がない。かと言って無一郎がしのぶに何か言った訳でもない。
二人の間に気まずい空気が流れた。無一郎は俯きがちであったが、暫くして居住まいを正す。
「胡蝶さんに聞きたいことがあるんです」
抑揚のない声量でしのぶに尋ねた。
「何でしょうか?」
しのぶは目を細め優し気な眼差しを向けていた。
「記憶が戻ったんですけど、僕には仲間も友人も得ることは…出来たんだと思います。あの里で。だけど、最近少し変というか…」
「変、ですか?」
「少し胸がざわざわするというか…頭に思い浮かべると、顔が熱いというか」
頭の中で浮かべたことを形容するにもそれ以上言葉するのは困難だった。
顔が少し熱くなる。頭の中で思い浮かべる人物は解っているのに敢えてしのぶには言わなかった。
なんでか言ってはいけない気がするから。
「顔が熱い状態ってずっと続くのですか?」
「…いえ、一時的なものです」
沈黙が訪れる。
手記のための筆を置き、しのぶは考え込むように顎を撫でる。
もしかしたら隠れた病気なのかもしれないと頭を過った瞬間、困ったように笑っていた。
「すみません、私にその状態は治せないようです」
無一郎が何か言いかけた途端しのぶは続けた。
「確かに病かもしれませんが、それは重症であって重症ではない、と思うんです」
「重症であって、重症ではない…?」
「はい。私はその病に患ったことはありませんが、ひとつだけ言えることがあります」
しのぶはふふ、と可憐な笑みを浮かべた。
「決して悪いものではありませんよ」
しのぶの診察が終わり蝶屋敷の廊下を無一郎は歩く。
しのぶでは治せないこと。重症であって重症でないこと。
決して悪いものではないこと。
この言葉を理解しようとして頭の中で反芻しても釈然としない。
治せないけど悪いものでないものというのにある種救われた気持ちになったが、でも何処か不安になる。
はっきり言っていた。これは病だと。薬もない治せない病だとも悟った。
その目で見えないものが、不可解な部分が、胸に燻らせる。
どうしたらいいか解らなくなる。
無一郎は立ち止まった。
「あれ、時透君?」
蝶屋敷の人達は病人の看病のためあちこちと忙しない。しかし無一郎のいた場所は屋敷の住人の声が聞こえない程静かだった。
幻聴なのかと無一郎は思った。でも幻聴というにはあまりにも鮮やかな声音。
「たんじろう……?」
雫が滴るように無一郎は聞き覚えのある声の主を呼ぶ。
声の主は無一郎の様子に気を留まることなく近付く。
向けてくれる優しい笑顔が近くにある。
「時透君もしのぶさんのところに来てたんだ」
「あ、う、うん。診察で…」
声をかけられて慌てたように答える。
今の状態で炭治郎の顔を見るのは少し照れくさい。体温も上がる。
何故だか照れてしまって。でも安心してしまって。
本当にどうなってしまったんだろうか。
「炭治郎は、どうしてここに?」
「善逸が足をくじいたから俺は付き添いで今帰るところなんだ」
「そうなんだ」
「こんなところで時透君に会えるなんて思わなかったから嬉しいな」
「昨日だって僕のところで稽古したでしょ」
「そうだけども」
「朝だって…」
柱稽古は鬼殺隊の盟主である産屋敷輝哉が設えた柱の邸宅にてそれぞれ行われる。
稽古だけじゃなく隊士達はそこで生活を送っているのだ。
勿論炭治郎も例外ではない。
今日は柱合会議と隊士達の労いもかねて全体的に稽古は休みだったが。
「朝は食事の時それきりだっただろう?最近は時透君のところでお世話になってるからちょっと落ち着かなかったんだ」
屈託なく笑う横顔に無一郎の胸はざわざわする。
「…炭治郎、よくそんなこと恥ずかし気もなく言えるよね」
「どうしたの?」
「何でもない」
炭治郎の横顔から逃げるように目を逸らす。
会えて嬉しい。それは同じ気持ち。
けれども言うのも恥ずかしくて、炭治郎みたいに言えない。
この違いは何なのだろう。
「ねぇ、時透君。折角だし一緒に戻ろうか」
炭治郎の提案に無一郎は断る理由もなかった。
蝶屋敷を出てから時透邸までの距離。
道のりは迷いなく何気ない道なのに無一郎に取って長く感じた。
道すがら炭治郎は話しかけてくる。
無一郎の診察のことや炭治郎が今日はどんな風に過ごしていたこと。
また明日の稽古も頑張ろうねとお互い奮励し合うこと。
刀鍛冶の里で弱いなどと酷いことを言ってしまったけど、上弦との戦闘を経て炭治郎は確実に強くなっていく。
宇随さんとの稽古は互角に渡り合ったのだという。
ますます頼もしくなっていく。
もしかしたら柱と遜色もない強さだろう。
無一郎のところが終わってもまだ他の柱の稽古は残っている。
去っていくを考えていくと少し名残惜しくもなる。
「時透君、大丈夫?」
急に炭治郎の声色が変わる。先日と心配された時の同じ声。
また物思いに耽ってしまったらしい。
「やっぱり具合悪いんじゃないか?」
「もう、炭治郎心配しすぎ」
何でもないよって振舞って。
感情を嗅ぎ取らないでと願って。
自然と二人の足は止まった。
でも見慣れた道は確実に目的地まで近付いて行ってる。
「悩んでるのなら話して欲しいんだ。勿論無理になんて言えないけど」
単純に心配としているのは炭治郎が優しいから。
その優しさが、とても嬉しいけど複雑な気持ちにもある。
晴れ間に差す雲という感じ。
「…炭治郎、手を貸して」
少しして、無一郎は咄嗟に零した。
その優しさは少しだけ利用してもいいよね?
なんて狡い自分が浮かぶ。
「いいよ」
はい、と差し出された手は無一郎の少し大きい。
炭治郎の掌に無一郎のを重ねると少しざらざらした手触り。
よく鍛錬した証拠だ。豆が出来て潰れた手。
強い手だと思った。
無一郎はその手を持ち、そっと自分の頬に添えた。
「時透君…?」
「ごめん、少しだけ」
とても温かい手だ。思わず泣いてしまうくらい。
炭治郎は手を引くどころか何も言わず無一郎の頬を少し擦った。
擽ったくて心地いい。
無一郎は笑った。心がざわざわしたが、不愉快ではなかった。
雲間から光が差したかのように。
心の奥底で薄暗い感情が燻っているのを知らずに、無一郎はこの瞬間をひとつひとつ嚙み締めたのであった。