ヨタヨタと壁伝いに基地内を歩く。
まだ空に橙が残る早い時間に起きるのは、何も散歩が趣味というわけではなくて、単純に間に合わないからだ。
ヘビ、と呼ばれる自分達の宿舎から、機体の倉庫までは少し距離がある。…少し、とは体が満足なシャケの物言いで。自分の様に尾鰭を半分無くした者には十分に遠いと言える距離だった。
訓練で怪我をする、自分のような間抜けなシャケにはいいペナルティだ、と自嘲する。
いつも通りにまだ誰もいない倉庫を開けて。
灯りをつけて、ハッチを開ける様スイッチを入れる。
そうすると倉庫の前面の大きなハッチが巻き上がっていって、機体を走らせる訓練場と満点の星空が視界いっぱいに広がる。
ヘビに移動して、何よりも役得を感じたのは、この光景を独り占めできる事と言っても過言じゃないな、なんて思いながら不自由な体と工具を引きずって自分の機体を整備しに行くとどこか不満げな顔をして見えて。
「ごめん、そうだな。1番はお前との出会いだよ。」
機体の鼻づらを撫でてやれば満足した様に見えたので自分でおかしくなってくすくすと笑ってしまって。
「なぁ?ヘビの整備ってそんな楽しいの?」
「なっ?!ぉわぁっ!?」
誰もいないはずの倉庫で話しかけられて、思わずびっくりして勢いよく振り向いたものだからバランスの悪い体は工具箱につまづいてひっくり返った。
「ぃ、てて…」
「わ!ごめん!驚かすつもりなんてなかったんだ!」
声の主が駆け寄って起き上がるのに鰭を貸そうと差し出すから、ちょっと悩んでからその鰭を取る。
いつもなら自力で起き上がるけど、今回転んだのはこのシャケのせいだし、使わせてもらおう。
「ほんとにごめんな?怪我してない?」
「大丈夫、だけど、君、は…」
鰭を取って顔を上げたところでやっと気がついた。やはり自分はつくづく間抜けらしい。
この世で1番関わり合いたくない、テッパン部隊のシャケだった。
「…みんなの憧れのテッパン部隊がなんの用です?しかもこんな早い時間に。」
距離を取りたくて放った言葉を自身でもう一度咀嚼して、本当にそうだと疑問が湧く。
こんな早い時間に、他部隊の倉庫に何をしに来たんだこのシャケは?
そういうと、いや、その…と少し口ごもったあと、こちらを伺う様な顔をして。
「アンタに、会いにきたんだ。夕方早くに来れば絶対会えるって知り合いのヘビに聞いて…。」
「…自分に、ですか?」
テッパンにわざわざ会いに来られる覚えなんかない。そう伝えようとしたところで目の前のシャケが口をもう一度開く。
「テッパン部隊からヘビに移籍したシャケが、いるって聞いて。その、仲良くなれたらなって、思ったんだ。」
「っ…それ、は、わざわざ、どうも…。」
まだ何も入れていない腹から、酸っぱくて苦いものが這い上る味がする。
挨拶はもう済んだだろうと、踵を返して逃げ出したかったが、さっき支えにした鰭にガッチリと掴まれて動けない。
「アンタ、訓練中の事故で尾鰭を無くして、それでも軍属を辞めずにヘビになったんだろ?オレ、それ聞いてすっげえカッコいいっておもってさ。」
へへ、とはにかんで笑うテッパンは、普通のシャケからすればとても可愛げがあるだろうなと思う。
…自分にとっては何かうすら寒い、怖気のするナニカにしか見えないが。
とにかくコイツから離れたくて言葉を紡ぐ。
「そ、そんなに良く言ってもらえるなんて、光栄ですね…。ご挨拶を、ありがとうございました。」
ではまた、ともう用は済んだだろう、帰ってくれという意味で別れの挨拶をする前に「あの!」と一歩にじり寄られて呼吸が止まる。
真っ直ぐで、この先の未来を信じていて、戦場に焦がれる瞳はかつて自分にあったもので。
今の地を這いずる様な毎日の落差に三半規管が振り回されて、気持ち悪くて、何も聞こえなくて。
「…たいんですけど、いいですか?!」
「ぅ、…ぇ、え?ぁあ、も、もちろん良いですよ。」
しまった、何も聞いていないのに了承してしまったと内心で焦る。いったい何を言ったのか、もう一度聞こうとしたところで、何匹かのヘビの同僚が倉庫に入ってくる。
もうそんな時間だったんだ。
「あれ!テッパンさんじゃあないですか!」
「どうしたんですか、こんなところまで!」
「嬉しいっすね!整備見にきたんですか?」
さすがみんなの憧れのテッパンだ、あっという間にみんな集まってきた。
これに乗じてこの場は退散しようかとジリジリと後ろに下がる。
「いや、実はそこのヘビさんに会いに来たんだ。彼、テッパンからの移籍って聞いてさ。それで」
センパイって呼ばせて下さいって頼みに来たんだ。
そう言ってまたあの笑顔を見せて。
待て。まてまてまずい、それは、マズい!
「いや、それは…!」
「えー!良かったじゃあないですかー!」
「前部隊の後輩から慕われるなんて、センパイ妙理につきますね!」
「テッパンの後輩なんて最高じゃないですか!かっこいい!!」
周りがきゃあきゃあと喜んでいるから、何も言えなくなってしまって。
「あの、えっと…」
「あ!オレのが後輩なんで、先輩は敬語とかいらないですからね!」
えへへ、と懐っこく笑ってもう一度鰭をぎゅ、と握られる。
「これからよろしくお願いします!先輩!」
じゃあ、オレこの後自分のとこの演習あるんで失礼します!と走っていく背中に小さくある、その番号は。
本来なら、自分が乗るはずだった、機体の、番号で。
周りのヘビ達が自分のことの様に優秀な後輩が出来た事を喜んでくれるから。
今にも吐きそうで、への字に曲げた口がなんとかマスクの中に収まっていて欲しくて、そっと両端を鰭で押さえる。
唯一の相棒である機体に縋る様に目を移したけれど、今度はなんの表情も窺い知ることはできず、ただただ冷たい金属の表面が月明かりを跳ね返してくるだけだった。