目の前の卓上で、温かな湯気を立てる数品の料理。
ホワイトシチューをメインに、僕の好物ばかりが並べられたその光景に思わず唾を飲み込んだ。
「どうぞ、お召し上がりください」
料理を運んできた給仕係と思われる女性は機械的に促す。
「あの……でも僕、いまお金持ってないんですけど……」
「お代は必要ありません」
何かありましたらお呼びください、と女性は奥に引っ込んでしまった。
(こんな周りに何も無い場所で、どうやって食材とか調達したんだろう……)
残された僕は、温かな湯気を立てる料理をしばらくボンヤリと眺めていた。
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ハッと気づいたら見知らぬ道に立っていた。
「………あれ?」
ここは一体……?
確か僕は図書室…で何か調べ物をしていて……、それから確かどこかへ向かおうとしていたんじゃなかったか。
「う~~ん……」
記憶の糸を必死で手繰ってみても何も思い出せない。
(そんなに前のことじゃなかったような気がするんだけど……)
ていうか、聖堂機関の図書室からどこをどう歩いてこんな場所に辿り着いたんだろう。いや、それ以前にどうしてこんなにも思い出せないんだろうか。まさかキャスティさんのように記憶喪失になったかと一瞬思ったけど、それにしちゃオルトや聖堂機関のみんな、テメノスさんのことも覚えてるし……。
そこまで考えて「あ」と声が出た。
「そうだ……。僕、テメノスさんの力になりたくて何かを調べてたんだっけ……」
そこで何かが解って、それから……どうしたんだっけ。
……………ダメだ、そこから思い出せない。
「調べ物をしてる時、頭に分厚い辞書でも直撃したのかな」
とにかく、ここでジッとしてても始まらない。
とりあえず誰かに道を聞かないと。
「な……何でこんなに何も無いんだ……」
歩き始めてずいぶん経つが、行けども行けども何もない。町や村どころか、人っ子一人見つからなかった。
体力には自信があったが、さすがに疲れてきた。とりあえず一旦休憩しようかと思った時。
「あ」
道の先にこじんまりとした家みたいな建物が見えてきた。
「や、やった……。民家だ……」
とにかく此処がどこなのか聞かないと、と歩き疲れた足に鞭打ってドアを開けたら。
「お待ちしておりました」
黒い給仕服を着た女性が出迎えてくれた。
「え?」
「こちらへどうぞ」
まるで最初から僕が来ることをわかっていたように、テーブルに案内される。
「いえ、あの、ちょっと道をお尋ねしたいんですけど……」
給仕の女性は此方を一瞥しただけで、話すことなど何も無いと言わんばかりに無言で椅子を引く。
とりあえず言われた通りにした方が良さそうだなと早々に悟った僕は、促されるように椅子に座った。
(ずいぶん変わった格好だな……。どこの国の人だろう)
よく見ると彼女の服だけじゃなく、この建物の内装や調度品も僕にはあまり馴染みの無い意匠だ。
(強いて探すなら、ク国とかいう国のデザインに似てるかな)
……なんてどうでもいいことを考えている内に、さっきの女性が料理を運んできた。
(あれ?そう言えば注文とかしてないよな?)
こっちの不審感など知らずに、僕の好物である料理の数々が所狭しとテーブルに並べられた。
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そうして現在に至るワケだが。
(……やっぱり幾らなんでも怪しすぎるよなぁ)
まわりに何も無い場所で、こんなたくさんの料理、しかもピンポイントで僕の好物ばかり出してきて、おまけに代金は要らないって。
(まさか毒とか入ってるわけじゃないよな)
諦めずにもう一度さっきの女性から話を聞こうとしたが、あの硝子玉のような空虚な目を思い出すとこちらの話なんてまるで通じないような予感がする。
(まぁ……、せっかく用意してくれたんだし……)
料理に罪はない。うんうん。
とりあえずシチューを一口啜ろうと、スプーンを手に取ると。
「それを一口でも食べたら戻れなくなるよ」
「……え?」
突然、背後から声をかけられ、スプーンを持つ手が止まる。
慌てて振り返ると、そこには顔も見えないほどフードを目深に被っている男(声からして多分)が立っていた。
「こんにちは。このご馳走は君のかい?美味しそうだね」
「は、はぁ……」
「良ければ僕もご相判に預かってもいいかな?」
「あ、あの……?」
返事も聞かずにそのまま男は僕の向かいに座る。
「…突然だけど、君は『黄泉竈食(よもつへぐい)』の話を知ってるかい?」
「よ、よも……?」
突然現れてなんなんだ一体。さっきの女の人といい、この人といい、脈絡が無さすぎる。
「黄泉竈食というのは、黄泉の国のかまどで煮炊きした物を食べることだよ。生者がそれを口にしたらもう戻ることは出来なくなると言われている」
「えぇっ!?」
「極東にこんな神話がある。昔々あるところに一組の夫婦がいた。しかしある日、妻が火傷を負い、その火傷が原因で命を落としてしまう。残された夫は妻のことが忘れられず、黄泉の国へ行って妻を連れ戻そうするんだ。でも妻はすでに黄泉の国の食べ物を口にしてるから帰れないと断られてしまうんだよ」
「……あの、なんで今それを僕に話すんですか?」
「そうだね……。君はその妻と同じ道を辿るにはまだ早い…ってことかな」
「え?それってどういう……」
「ところで……、君は本当にその料理を食べられるのかい?」
「……?」
ほら、と男が指を指すテーブルに目を向けると。
「うわあぁっ!!」
運ばれた料理は全て腐っていた。
驚いてガタッと立ち上がると同時に、脳裏にある光景が断片的にフラッシュバックする。
教皇殺害から始まった一連の殺人事件。
禁忌の聖堂で対面したカルディナ機関長。
異形の者と化した機関長と戦って、でも適わなくて……。
致命傷を負った身体を引きずって、テメノスさんに真相を伝えようとして、それで……。
そうだ……、思い出した。
「僕は……、死んだんですね」
そうでなければ、あんな状態でこんなに動き回れるわけないじゃないか。
「いや、君はまだ死なせないよ」
さっきと違い優しい声音で男が建物の外へ出るように促す。
「来た道を振り返らずに、そのまま戻るんだ。そうしたらいずれ戻れるから」
「あの、戻れるって……?」
「いいから早く。…アイツが待ってる」
「あ、あの……、どこの誰か存じませんが……ありがとうございました!」
男は何も言わずに、ただ手を振って見送ってくれた。
みんなの、テメノスさんのところへ帰らなきゃ。
その思いだけを胸に抱いて。
+++
「……………」
クリックの姿が完全に見えなくなった時、男はフードを外した。
隠れていた艶やかな黒髪が風に靡く。
「……アイツにはまだ君が必要だ。テメノスを頼んだよ、クリック君」
+++
「ん……」
ゆっくりと目を開けると、見知らぬ天井が映った。
ずっと眠っていたせいか、最初はボヤけていた視界もだんだんクリアになってくる。
はて、ここは何処だろうか。聖堂機関本部の宿舎でも救護室でもないし……。
痛みをこらえてゆっくり起き上がる。なんか誰かの家みたいだけど……。
途端に何処からかガチャンと何かを落としたような音が響いた。
「クリ、ック君……?」
部屋の入口に目を向けると、そこには……。