ぐだ男は天草四郎のために世界を救いたい 昼も夜もないような閉塞的空間なれど、正真正銘生身の人間であるマスターの起床時間と就寝時間は何となく決まっていた。
サーヴァントは原則的に休息を必要としないうえ、Dr.ロマン含めた技術者達は少人数で入れ替わり立ち替わりという体制をとっているので本当に俺に限っての話ではあるが。
「貴方がこの時間に起きているのは珍しいですね」
サーヴァント達の間でも時間の認識はされているようで、食堂で偶々顔を合わせた天草四郎はこちらを物珍しげな目で見ている。
「昼寝しちゃったから眠くないんだ。天草も、食堂に用があるなんて珍しいね」
そう指摘すると彼は少し恥ずかしそうに微笑んだ。
「最近コーヒーの淹れ方を覚えまして。とは言っても機械を操作するだけなのですが」
そそくさと目の前を通りすぎる天草の背に少し長い白髪の襟足が誘うように跳ねている。
俺は机に伏していた身体を起こし、その白髪につられて厨房へと入っていく彼の後を付いていった。どうせ特に目的があって食堂に来たわけではなく、つまりは暇だったので。
「マスター?寝る前にカフェインを摂取するのは良くありませんから、付いてきても駄目ですよ」
聖杯が与えた知識か、こちらを振り向いた天草がそんな忠告をしてくる。けれどこんな貴重な機会をふいにするのも勿体ない。
「牛乳入れても?」
試しに強請ってみれば、天草は俺の顔をじっと見てから周りを伺うように少し視線を巡らせて、悪戯っぽく目を細めた。
「少しだけなら」
天草に言われて電気ケトルに水を注ぐ。
背後の彼を盗み見れば、食器棚からガラス製のコーヒーサーバーを、戸棚からドリッパーとぺーパーフィルターを取り出し組み立てている。既に挽いてあるコーヒー豆を入れる姿はなるほど随分と慣れた手つきだ。
「誰に教わったの?エミヤ?」
何故かの弓兵を候補に挙げたかというと、食堂に来ると高確率で彼と遭遇するからだ。何でも彼は料理が趣味だそうで時にはカルデア職員の食事も作ってくれるし、主にアルトリア顏の女性陣を中心にお菓子も振舞ってくれる。
既に俺とてその恩恵に預かった回数は数え切れなくなっているけれど、いつだって絶品だ。
「いえ、アンデルセンです」
「アンデルセン」
思いがけない名前に鸚鵡返しに聞き返してしまう。確かにコーヒーだってブラックで飲んでそうだけれど。
「偶々食堂の前を通りかかった時に呼び止められたんです。何でも、身長の関係で戸棚まで手が届かないそうで」
その光景を思い浮かべて少し微笑ましい気持ちになる。否、実際顔が緩んでいたのだろう。こちらを振り返った天草がため息を吐く。
「それが笑い事じゃないんですよ。最近ではシェイクスピアまで私を給仕か何かだと思っているようで、見つかるとコーヒーを淹れるよう頼まれるんです。おかげですっかり扱いに慣れてしまいました」
それは余程天草の淹れるコーヒーが美味しいのか、それともシェイクスピアに弱みでも握られているのか。
ルーラー、天草四郎時貞。
彼についてはまだ分からないことの方が多い。日本人だということは分かるがその半生も謎が多く、第一今ここにいる彼が何故褐色の肌に白髪という姿なのかも分からない。天草の乱で民を先導し齢十七でその生は終えたというが、それにしては物腰も思考もいやに老成しているように見える。
まあこっちだって英霊を推し量るような器量は持ち合わせていないので、これが的確な評価とは言えないけれど。俺以外の評価といえば、かの復讐鬼は天草を強欲の権化だと言った。俺と同じく世界を救おうとしていると。
出生国、年齢、境遇、願望。要素としては重なる部分が多いからだろうか、ろくに知りもしないのに何故か親近感が湧いてしまう。
動きを止めた背中をぼんやりと見やっていると、彼がこちらを振り向く。戦場で頼りにはなるが戦闘に不向きと自らを称する彼は、こうして日常のなかで見るとよりいっそう幼く見える。
分からないことばかりだと、首を傾げる。
席に向かい合って座り、誰とでもするような他愛のない話をする。当たり障りのない話題、どちらとも生真面目で面白みのない返答。
「さてマスター。一体何があったんです」
「何って、なに?」
何の前触れもなくそう聞かれ、口元まで運びかけていたマグを机の上に戻す。天草からの問いかけは今日はこれが初めてだった。機を伺っていることは何となく察していたけれど。
「寝られないのではなくて、寝ていたのに起きてきたのでしょう。寝跡が顔にくっきりついていますよ」
「嘘」
思わず頬を触って確認する。特に際立った凹凸は無く、まさかと思って手を止めた。
「嘘ですとも」
「天草?」
「悪い夢でも見ましたか?」
あくまでもいつもの笑顔を絶やさず穏やかに問うてくる。
天草が冗談を言うだなんて。まんまと騙されたというのに、そんな感心の方が大きくて何も言い返せない。返事をする代わりに頬から離した手でくるりとマグカップに突っ込んだスプーンを回す。落とした視線の先では黒いコーヒーと白い牛乳が混ざり合っていて、ちょうど天草の肌の色と同じになっていた。そっと彼の方を伺えば、先程と同様にじっとこちらを見ている。
天草の予想は間違っているし、間違っていない。別段悪い夢を見たわけではなく、最近調子が良くないだけだ。
そういう時は得てして、意味もなくどうしようもない考えばかりが頭を巡って寝付けなくなってしまう。
「そんなに、顔に出てるかな」
それでも自分ではあまり表に出さないよう頑張っていたつもりだったから、あっさりとばれてしまって少し恥ずかしい。彼は答える代わりに曖昧に笑って、少し首を傾げる。
「最近は貴方と居る時間も多いので、なんとなく分かります。悩んでいることがあるのなら私がお聞きしますよ」
秘密は守りますと甘い声で誘ってくる彼に一つ、ため息を返す。バレているのなら隠していても仕方がない。それにあまり口に出したいことではなかったけれど、聖杯にかける望みを持っているという天草なら正しい答えを示してくれるかもしれないと思った。
「もし俺が聖杯を諦めるといったら、君達やマシュやロマ二は裏切られたって思うのかな」
唐突な質問にも天草がいつもの微笑を崩すことはなかった。俺の言うことを予想していたかように悠々と言葉を紡ぐ。
「分かりきったことですね。そのようなことは思わないでしょう」
天草の口元に運ばれるカップを目で追いながら、座り居心地の悪い椅子の上にもぞもぞと座り直す。
自分で聞いたことだが、答えは知っていた。彼らは俺を誹ることも非難することもない。するとしても心配だ。そして俺が道を外そうとしているのならばそれを正し、止まってしまったのならもう一度立ち上がるのを支えてくれるのだろう。そういう優しい人たちで、そのおかげで何とかここまで来れたのだから。
ただその優しさを時折、緩やかに首を絞め付ける真綿のようだと感じてしまうのも事実であって。
「少なくとも彼らは。それでは不服ですか」
「まさか、不服だなんてあり得ない。こんな未熟なマスターにとっては有難いことだよ」
"彼ら"は。その言葉に含められた意味を汲み取ろうとするよりも、頭の中を見透かしたかのような問いかけに否定の言葉が突いて出た。
真意を確かめるよりも先に彼が口を開く。
「未熟ではあるかもしれませんが、貴方は立派なマスターです。我々サーヴァントにとってそれぞれの剣を預けるのに申し分ない、芯の強さを持っています。そも何故そのようなことが気に掛かりますか。今はまだ聖杯を諦めようとすらしていないでしょう」
珍しく褒められた気はするけれど、それはあくまでも質問のための前振りに過ぎない借り物の言葉で、本当にそう思っているわけでないのは何となく分かった。
当然、聖杯を集めるのが嫌になってこんなことを聞いたんじゃない。
「えっ、と。多分、ちょっと疲れたんだと思う」
「何にです?」
あくまで口調は穏やかに、けれど間髪入れずに追求される。耐えきれずに天草の視線から逃れるため天井を仰ぎ見た。
「天草、聞かなくても分かってるんじゃない?」
不満を隠そうともしない声音にしかし、天草は何も返しはしない。この聖人さまは全て察していて、俺自身の口から言わせたいのだろう。だとすればこれは相談なんかじゃなくて、懺悔室だ。素直に答えれば、天草は有難いお言葉とお赦しでもくれるのだろうか。
「ここで止めても構いませんよ」
貴方次第だと言外に告げる。視線を戻すと曖昧な笑みを浮かべた天草がいて、きっと本人にその気はないのだろうが煽られているみたいだと思う。ここまで来て止めるも何もないじゃないか。いつの間にか痛い程渇いた喉にカフェオレを流し込む気にもなれず唾を飲み込む。
だってこんなこと、マシュにだって話したことはないのに。
「信頼されること。期待されること……に、疲れたんだと思う。だからどうしようもないことばかり頭にチラついて」
そうして溜息と一緒に、ついぞ誰にも言えなかった心中を吐き出した。
伸ばした指先がマグカップに触れる。それを弄びながら、今までに何度も反芻してきた不安を、理由と言い訳を思い出す。
そもそも自分の指示に従ってくれるサーヴァントやバックアップをしてくれるロマ二たちに、選択の余地がないことはよく分かっている。たまたま世界最後のマスターなのが俺だったというだけで、マスターという役割を背負ったのが俺だったというだけであって、彼らに落ち度はない。悪いのはそれを背負いきれない自分で、その重さに潰れそうな自分唯一人だ。
「情けない話だけど、」
特異点を走り回っている時にはそんなことを気にしている余裕もない。けれどカルデアで、サーヴァントやロマンやマシュと話していると、時々目が眩みそうになる。
そこにマスターとしては俺を信頼するしかないという現実、俺が信頼されるしかないという事実を見てしまうから。
「こうして落ち着いていると、堪らなく嫌になる。いっそ全て捨てて裸足で逃げ出したいくらいに」
言葉が喉につっかえるような気持ち悪さは下を向いているからじゃなくて、こんなことを口にするべきでは無いと分かっているからだ。普通のサーヴァントになら反逆をおこされたって文句は言えないようなことだと自覚はしている。
食堂に沈黙が下りた。中身のほとんど減っていないマグカップを意味もなく弾いて水面を揺らす。恥ずかしいやら気まずいやらで天草の顔も見れなかった。もうここに用はない。というよりも居たくない。
「マスター」
天草も満足しただろうし、別に赦しも有難いお言葉もいらないと席を立とうとしたところで、それを制止するかのように名前を呼ばれる。
「あなたは自分が恐れているものを正しく認識しているのでしょうか」
「え?」
質問の意図が掴めずに聞き返す。
俺の怖いもの。
「質問を変えましょう。私を選んだ理由は何ですか」
「選んだ?」
天草を選んだという意識は全くない。むしろこの話のきっかけは天草だと思っていた。答えあぐねている俺に例えば、と天草が言う。
「今日ここで会ったのがマシュ・キリエライトだったとして、彼女に大丈夫かと問われていたならあなたはどうしたでしょう」
それはもちろん、大丈夫だと笑って返す。
だってこんなことを言えば心配させてしまう。普段から支えてくれている彼女に、これ以上余計な負担はかけたくない。いや、それ以上に失望されるのが怖いのかもしれない。少なくとも"先輩"としての面子を保ちたいという思いはある。そもそも彼女が俺のことをセンパイ、と呼ぶ意味も未だに掴みかねているのだけれど。
では、天草は?
「天草は、俺のことを心配なんてしない」
それどころか彼が俺をマスターと判断する最低条件は『世界を正しく救おうとする』こと、だ。協力してくれるのだって、あくまでも目的が一致しているからに過ぎない。そしてそこには失望なんて情が入り込む余地もない。
今の俺を天草はどう裁定するだろう。元より、世界を救うために俺の意思が必要ないというのならば、むしろ邪魔にしかならないというのであれば彼はきっと俺を切り捨てることが出来る。それをしないのはきっと今のままがまだマシだと判断しているからだけだろう。
「マスター」
呼ばれた名前に顔を上げて、机越しの彼の表情に一瞬息が詰まる。
おもむろに席を立った天草を目で追ってしまう。一歩、一歩と近づいてくる彼の顔に浮かぶのは救いの手を差し伸べる慈悲深い笑みでも、かつて復讐者の救済を誓った顔とも違った。
横まで来た彼が片膝をつくと、硬質な白い床の上に赤いマントが半円状に広がった。
「天草……?」
天草は大きな飴色の目を細めて、何か耐えるように口を固く結んでいる。それは憐れみでも同情でもない。痛ましいと思っているでもない。むしろ憎悪とか悲痛とか、そういった主観的な感情に近いがする。天草のそんな顔を初めて見て、動揺のまま思わず伸ばしてしまった手は意外にもすんなりと受け入れられた。
恐らく初めて彼の体温を直に感じ取ったのも束の間、逆にその手を強い力で引かれる。
「───ッ」
何の抵抗も出来ずに、座っていた椅子から天草の元へ引き摺り落とされた。咄嗟に逃げるように机の上に泳がせたもう片方の手がマグカップを引っ掛けて、倒れる鈍い音を聞いた気がする。
「私を選んだのは無意識でしょうが、良い判断です」
首元からぞわぞわと這い上がって来る声。見えない手に心臓を撫でられているような息苦しさ。ろくに舌を動かすことも出来ず、喉の奥に空気を詰まらせる。
「あなたが一番恐れているのは、挫折でも道を外すことでもない」
身体と同様頭の中もろくに動かない。なす術もなく彼の言葉だけが脳内にどろどろと流れ込んでくる。
「期待されることでも縋れらることでもなく、ましてや裏切りでもない」
その先は聞きたくない。それは俺が、ずっと目を逸らしていたものだ。けれど拒めば拒むほどその声は甘く、濃く、深く入り込んでくる。
混乱する頭の中で聞こえた天草の呼吸の一拍を嫌に長く感じた。
「自分が自分でなくなる未来だ」
「───、」
僅かに開いた口から空気が逃げる。声を発することも出来ない俺に、尚も言葉が重ねられる。
「空っぽの体にただ他人の願いを乗せて、自分の意思を捻じ曲げて、立たなければいけない日がくるのを恐れている」
そんなことはないと、叫ぶことが出来たならどれだけ良かっただろう。けれど唇を噛むことしか出来なかった。
「あなたは間違いなく優秀なマスターだ。数多のサーヴァントと契約を結び信頼を得ている。ですがその信頼は、貴方とは違う"マスター"という人間を作り上げていく」
召喚サークルの前に立つ度胸に刻む。どんな英霊だろうと関係ない。誰からの期待も信頼も受け入れる。不満も叱咤も裏切りも受け入れよう。
マシュやロマ二、ダヴィンチちゃんだってバックアップしてくれているからひとりきりではないはずだった。はずだったのに、しまいには彼らにさえマスターとしての体裁を取り繕うようになっていた。
だって俺はマスターとして望まれている。マスターとして生かされている。
このまま続けていけばいつかは決壊する。きっと人類を救いたいなんて思いよりも逃げ出したいという気持ちの方が勝ってしまう。だけど、今は全てを受け入れるから。格好だけでもつけてみせるから。その結果動けなくなってしまったなら捨て置いて欲しい。自分たちの検討違いで、見込み違いで、愚かな選択であったと諦めて欲しい。
否、それが無理な話なのは最初から分かっている。だからぎりぎりまで踏ん張って、そのあとは?
「自分を裏切るのは辛いでしょう。感情を置き去りにするのは難しいでしょう」
腕を掴んでいた手が背中に回される。引き寄せられるままに、赤いマントに顔を埋めた。
「本当に逃げ出してしまってもいいんです。その時は私があなたを望み通りに殺してあげます。何も考えなくてもいいように令呪を宿した体だけを残して、あなたを殺します」
あまりにも穏やかに、子供をあやすように言ってくれるもので、本当に、本当は俺のために明確な終わりを用意してくれているのかも知れないと思ってしまった。
その言葉は優しさ、だろうか。けれど。おれは。
「大丈夫、私がついています」
「……、ぁ」
何故だかその一言で停止しかけた思考が急速に回り始める。この言葉を聞いたのは二回目。
最初は、そうだ。信頼とまでは行かないでもやっと天草を絆すことが、もとい少しはマスターとして認めてもらえたのではという頃にマイルームで彼がそう言ったのだ。
あれは"マスター"に向けられた言葉だった。なら今の言葉は何だ?
「──嫌だ」
殴られたような衝撃にじわりじわりと蝕まれ、転がり出たのは拒絶の言葉だった。その衝動のまま思い切り天草の体を突き放す。そしてはっきりと理解する。殺してやるという言葉は優しさなんかじゃない。俺のことをマスターとして期待などしていないというだけ。
それが何故か、堪らなく嫌だった。
天草が目を見開く。
「ハ、は」
天草のにたりと開いた口から乾いた笑い声が落ちる。瞬間、視界が大きくブレた。思わず目を瞑り暗くなった視界の中、がつんと鈍い衝撃が頭の後ろに炸裂する。
目を開けないと、と思うより先に口が開いた。だって何かが首を圧迫、して
「ク、っ……!ッ……!?」
声が出ない。息が出来ない。なんとかこじ開けた目に映ったのはこちらに手を伸ばす天草だ。首を絞められている。両手で。顔は、駄目だ、涙で視界がボヤけてきた。苦しい。何をすればいい。喉が痛い。
「ゃ、っめ……!」
考えろ、何故?違う。今俺がすべきなのは。時間が、ない。止めるな、だってここで死ぬわけには、死ぬ?駄目だ。死ねない。こんな所でくたばるなんて、死ねない、死ねない──!!
「っ、れ、……い、じゅ、を」
渾身の力で声を絞り出す。ふ、と首にかかる圧力が弱くなった気がした。
「もって、命ずる」
理由は直ぐに分かった。力を弱めたわけじゃない。首にかけていた両手の片方が口元に迫る。口を塞ぐ気だと理解した瞬間、最後の力で駄々を捏ねるようにがむしゃらに首を振る。
「は、ッなせあまくさ……!!!」
声は擦れていたが令呪は正常に作動した。首を鷲掴んでいた片手が離れ、気道に空気が通る。
「ゲホ、ェ、う"、ぐ、ッげほ、げほ、ハ……ァ、う」
盛大に咽せるものの、馬乗りになった天草が退かないので同じ場所に押さえつけられたまま無様にのたうち回る。咳き込む度に、溢れた涙がまなじりを伝っていく。
それを拭う手が、ついさっきまで俺を殺そうとしていたそれだというのは分かっているのに逃げられない。
「どのサーヴァントにも等しく寄り添おうとするところが、貴方の長所でもあり短所でもある」
天草がこちらにぐいと顔を寄せて囁く。焦点が合わないほど近づいた顔が、三日月型に細められた目が視界の中で滲む。彼は一体どんな顔をしているのだろう。
「ですが私と貴方は違います。同じ願いを持っていても必ず同じ道を歩むとは限らないのです。それでも貴方が本当に、私と共に行きたいと望むのであれば」
天草の鼻が頬を掠めて、唇が耳元に寄せられた。
「今の続きをしましょう?」
ぞくぞくと背中に悪寒が走る。現に今殺されかけて、その言葉に偽りなどないと分かっているからだろうか。しかし勝手に緩む顔が事実を突きつける。嬉しいのだろうか。怖すぎて笑うしかないだけかもしれない。些細な違いに過ぎないけれど。
目を閉じる。きっと今夜は夢を見るだろう。
夢を見た。
誰も彼もが死んでいる。老若男女関係のない虐殺の果て。きっと地獄という言葉が適切だ。放たれた火は轟々と燃え盛り肌を焦がす。嘲るように屍を舐る炎は辺りに肉の焼ける臭いを充満させる。
目も鼻も耳も塞ぎたくなるような光景のなか、彼はただ一人で立っていた。奇跡と讃えられた両手をだらりと下ろし、されどその双眸は爛々と灯りを反射している。
「これは俺の罪だ」
呟く声が耳に届く。
救いを求めて立ち上がった人々を、奇跡を成すはずの手は誰一人として救うことが出来なかった。それは自身の首さえも同じことだと、俺は知っている。
地面に伏した屍体が最早ないはずの声帯を震わせて口をきく。
「ワタシたちの仇を」
「奴らの首を晒してください」
「蹂躙者に罰を!」
「復讐を……!」
そこら中に溢れかえる怨嗟の声は彼の足に纏わりつき、袖を引き、髪を引く。けれど立ち止まることはない。その声に、自分の中に渦巻いていた憎悪に従えば普通の人間として死ぬことも出来ただろうに。
彼はその感情を、自分ごと裏切った。天草四郎という人間を捻じ曲げて、置き去りにした。そのために悲哀も憤怒も愛すらも捨てて、使命だけで願望機まで行き着いた。
その生き方を貶すことなど出来はしない。むしろ称賛にすら値するのだろう。けれど俺にはどうしようもなく悲しかった。
もっと率直に言ってしまえば、嫌だった。
「天草見なかった!?」
起きてから着替えもせずにカルデア中を探し回った。ついさっきまで見ていた夢は、目を閉じれば瞼の裏に鮮明に映し出される。
目が覚めた時には跡形もいなくなっていたけれど、恐らく昨日食堂であのまま寝入ってしまった俺をマイルームまで運んでくれたのは、夢の中一人きりで立っていた彼のはずだ。
行く先々で会う英霊に彼の所在を尋ねるが、誰もが首を横に振る。ついでに俺の首を指差して一体どうしたのかと尋ねる。
「えっと、これは色々あって。だから天草を探してるんだけど」
そうかと頷くだけだったり、心配そうな顔をしてくれたりそれ以外だったりと皆の反応は様々だった。もし見かけたら俺が探していたことを伝えておいてくれと言って別れる。
それを三十分程繰り返したが見つからず、一旦諦めて食堂で朝ご飯を食べているところへ、天草がジャンヌ・ダルクに引き摺られてやってきた。因みに彼女は怒ったような喜んでいるような不思議な顔だった。
「お二人には十分な話し合いが必要かと存じます!」
そう高らかに宣言する聖女に、否が応でも視線が集まる。対する天草は何時もの笑みを貼り付ける気すらないのか、死んだ魚のような目でされるがままになっている。
箸を放り出して天草の手を取る。後ろでアーチャーのエミヤが行儀が悪いぞ、と小言を言っているのが聞こえた。
「ごめんエミヤ、すぐ戻るから。ジャンヌ、ありがとう」
「えぇ、お安い御用です」
今度こそ花が綻ぶような笑顔を見せた彼女に別れを告げて、人目の無い場所に天草を連れて移動する。
「皆に聞かれちゃった。その首の跡はどうしたのって」
抱え込んだこの感情を一体何処から話せばいいのかわからなくて、歩きながら誤魔化すように口を開いた。
「それは牽制です。分からないほど愚かでもないでしょう」
背後でいつになく冷たい口調で天草が答える。
「俺は分かってるよ。けど、そんなことはどうでもいい」
牽制にしては強すぎるんじゃないかなんて軽口を叩こうとしたのに、はやる気持ちがそれを押し退ける。廊下の途中で立ち止まると、天草の手が離れていった。
「私の夢を見たのでしょう」
振り返ると橙色の両目が突き刺さる。俺は頷いて、真っ直ぐにそれを見返す。
「うん。全てを理解はできないけど、天草のことを知った。その上で俺は」
第三魔法による人類の救済。恒久的な平和。停滞する未来。俺にその願いを否定することは出来ない。それが世界の理によって阻止されるものだとしても、間違いなく天草が天草四郎時貞という人間を捻じ曲げてまで辿り着いた一つの答えだから。
けれどもし。もしも天草四郎の在り方に、俺が何か少しでも影響を与えることが出来たなら。人類が彼の望む世界へ辿り着くまでにまだ数え切れぬ犠牲を出すとしても、いつかは到達するという希望を示すことが出来るなら。
「信じて欲しい。天草四郎という人間に、生者である俺たち……いや。俺の生き方を、どうか認めて欲しい」
一人では立てないほどに未熟であれど、少しは前に進んでいるはずの俺を許して欲しいと思う。それは同時に、彼の背負う三万人の命と、これから先蹂躙されるであろう無数の命と引き換えに、人間が愚かなで未完成なまま生きていくのを認めて欲しいと言っているのと同じだ。
「正直怖い。そこまで自信もない。他の誰でもない自分がマスターである意味とか、今ここでマスターでない自分に価値があるのかとか、英霊との接し方とか、分からないことだらけなのは昨日とちっとも変わらない。でも、俺は最後まで足掻くから。どんな道を辿ることになっても、絶対に未来を取り戻すから」
その暁には、少しでもいい。今生きる人間たちを信じて欲しい。どうしようもなく愚かだけれど、未完成であるが故に迷走もするしみっともなく足掻く人間を置き去りにしないで欲しい。
そして最後には。
「天草四郎という人間にだって、救われて欲しい」
自分を裏切るのは辛いことだと言ったのは彼自身だ。自分も少しだけ、同じ怖さと辛さを知っている。その苦しさを含めて今の天草が成り立っていることも分かっている。だからこそ彼が裏切った天草四郎という人間に、今生きている天草四郎という英霊に幸せになって欲しかった。
天草は沈黙している。自分の言いたいことは言ったので、あとは彼に拒否されようが鼻で笑われようが構わなかった。それでもやってやると、もう決めてしまったから。
「いいでしょう」
しばらくして、今まで見たことのないほどに苦り切った顔をした天草が呟いた。
「貴方は貴方のまま、その全てをもって示してみせなさい。何も変わらないかもしれないし、変わる可能性もないわけではありませんから」
その顔と言い草はまさに拗ねた子供そのもので、俺は夢から醒めて初めて思いっきり笑った。
かつて、同じ理由で立ち塞がった聖女がいた。
不意に懐かしい記憶が蘇る。正しくは懐かしいと錯覚しているだけの記録に過ぎないわけだが、きっとどれだけ時間が経ってもあの外伝が自分の中で風化することはないだろう。
そしてやはり、付随して思い出す中のは彼女と同じ側に立ったホムンクルスだ。自分はあれを取るに足らない存在だと思っていたし、何なら今だってそう思う。けれどあれこそが彼女と自分の間の大きな分岐だったのは理解している。
自分の六十年がたった数十年生きただけの小僧に覆されるなど想像も出来ない。けれどあのホムンクルスなぞたかが数ヶ月。その短い生の中で、かのジャンヌ・ダルクの第二の生において最後の支えとなった。
であれば、この少年が六十年の執念を超える何かを見せてくれることだって不可能ではないかもしれないなどと。
苦い夢を持ちそうになってしまった。
「いいでしょう」
いや、既に持ってしまったのだ。己の夢を覗く彼を拒否しなかった時から、もしくは彼の声に応じた瞬間から、私はどうしようもなく愚かで醜い夢を抱いてしまっていた。歪む顔を両手で覆い隠したくなる衝動を抑えて、少しの嫌味を込めて返答してやる。
マスターである少年が笑う。その笑いにつられるほどの若さはとっくになくなってしまったが、ため息をつけるほどの感情はまだ確かにあった。