邂逅喧騒が、耳につく。
日常の中で世間話をする人々のざわめき。男、女。若者に、老人。
雑多に紡がれるそれらはぼやけた十座の意識をさらに薄く伸ばし、不思議とあたたかな空気の中に溶かそうとしていた。
——何か映画でも観ていたんだったか。
微睡みの中でそう考え、何をしていたのか思い出そうとするのにどうにも頭が働かない。まあいいかと上体を伏せたまま浮かばせていた意識を手放そうとした瞬間、その声は確かな質量を持って耳に飛び込んできた。
「起きろ、ヒョウドウジュウザ」
「…?」
それはどこかで聴いた音で十座の名を呼び、覚醒を促す。
声の主を自分は知っているはずなのに、誰だか思い当たらない。しかし呼ばれたなら返事をしなければ。反射的に顔を上げた十座は目の前の人物を認識すると同時に身体を大きく震わせた。
黒いシャツに黒いベスト。パープルストライプのタイには獣を模したタイピンが添えられている。
金色の視線がひたりと合ったその時、黒いハットを手袋から覗く指先でくいと持ち上げて、男はにやりと笑ってみせた。
「はじめまして、俺の『アクター』」
「…あ………?」
あまりにも非現実な出来事に、十座はまず鏡を疑った。目の前の男は間違いなくランスキーで、それはつまり自分であるはずだったから。
確かめようと円形のテーブル(気がついてみるとそこはどうやらカフェのようだった)に投げ出していた右手を上げてみる。しかし男はただ目線を楽しげに動かしただけで、同じように手を上げることはなかった。
「……ラン、スキー」
胸の内に広がる動揺のままぽつりと呟くと、男——ランスキーはくつりと唇を歪めた。きっと自分には意識しなければできないだろうとその笑い方から目が離せないでいれば、ふと横を見たランスキーが「カプチーノと…そうだな、チョコラータを」と言った。「かしこまりました」と去って行く店員の姿を目で追っていると「注文は済んだぞ」と笑い混じりの言葉が投げられる。
十座はそこで自分が手を上げたままだったことに気付いた。先ほどの店員はこれに呼びつけられてしまったようだ。どれだけ呆けていたのだと思いながらやっと手を下ろした。
「……」
「……」
無言でじっと自分を見やるランスキーからなんとなく目を逸らすことができない。
頬をつねるまでもなく夢であることは確かなのに、目の前の男はあまりにもリアルだった。
そのまま時間は過ぎていく。己から切り出さなければならないのだと、飲み物が運ばれてきて十座はようやく気付いた。
「その、アクター、って」
「その通りだろう」
Actor。役者。ランスキーを演じた男。
「あんたは、俺なのか」
「違うのか?」
「いや、」
その通りだった。
MANKAIカンパニー新生秋組旗揚げ公演である『なんて素敵にピカレスク』でランスキーを演じたのは自分だけだ。しかし自分はここにいる。では目の前にいるのは?
十座は再び混乱して、落ち着こうとチョコラータを一口啜った。口の中に広がる甘みと温かさにほっとする。
その様子を見たランスキーは薄く笑って口を開いた。
「そのチョコラータは俺からの礼だ」
「礼?」
「お前は俺の人生を生きてくれた。お前のおかげで俺は生きている」
目の前の男から告げられたその言葉を十座は咄嗟に受け止めることができなかった。
「そんな、大それたもんじゃねえ……」
確かに必死で、無我夢中で芝居をした。
しかし周りなんて見えていなかった。拙い、下手くそな芝居だっただろう。ランスキーからそんなふうに言われるようなものではない、そう思った。
そうして俯いた十座にランスキーは柔らかく告げる。
「大それたものかどうかは知らねえが。俺は確かにここにいる。他の誰でもない、お前が俺を生かしたからだ」
「俺が……」
ランスキーの言葉に十座はゆっくりと顔を上げた。
ここが夢の世界だとして。自分の願望が生み出した幻なのだとして。
「それとも俺が居るのは間違いか?」
「そんなことはねぇ!」
ランスキーが「生きて」いることは、胸が震えるほど嬉しかった。
秋組の仲間たちと必死になって作り上げた舞台。たくさんのことがあった。足りないものがあっても必死に補って、板の上に立ち続けた。
ランスキーを演じることを、決して諦めたくはなかったから。
「なあ、ランスキー」
「ん?」
「俺は……あんたに、"なれた"のか?」
「ああ。間違いなく、あの世界でお前は俺だったよ」
「そうか……」
自分のことが嫌いで、違う誰かになるために演劇の道を選んだ。
夢の中で、自分の願望が形になっただけだとしても。
ランスキーから与えられた言葉は、十座の心に火を灯した。それは十座自身も気付かないような、ほんの小さな灯りだった。
「礼を言うのは俺の方だ。あんたになれて良かった。ありがとう」
そうランスキーの目を見て告げると、ランスキーはどこかおかしそうに目を細めて笑った。
「どういたしまして。……ということは、ここの支払いは任せていいのか?」
「勘弁してくれ」
冗談だ、と告げるランスキーの輪郭が少しずつぼやけ始める。
ああ目が覚めるんだなと思う。また会えるだろうかと聞こうとしたが口が動かない。
もう影にしか見えないランスキーが片手を振っている。振り返そうとしたところで、意識は眠りに飲まれていった。